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第27話 辺境の見送り

 決戦から四日目の早朝、俺たちは王都へ発つことになっていた。


 辺境の秋は来るのが早い。空はまだ明け切らず、大地一面が乳白色の薄霧に浸かっている。草の先には今年初めての霜が降り、踏むとさくさく鳴った。遠くの老いた樫の木は、葉がもう半分赤い。暗く赤い、燃えかすのような赤だ。空気は喉を裂くほど冷たく、一息吸えば、肺の奥まで草木が枯れていく清く苦い匂いが届く。


 出発は静かなものになると、俺は思っていた。馬車が一台、供が数人。空の明けきらぬうちに発って、誰も騒がせず、こういう感傷的な場で、二十年表情のないこの顔に無理やり笑みを貼りつけるところを、誰にも見られずに済むように――と。


 ところが、砦の重い樫の門を押し開けて、軸が呻きながら一筋開いた途端、俺は立ち尽くした。


 領地じゅうが、来ていた。


 城門の外、まだ凸凹で、戦火に轍を何本も刻まれた土の道の両側に、人がびっしりと立っている。野菜売り、鍛冶屋、機織り、羊飼い――決戦の夜、地下蔵に隠れて子を抱き、口をふさいで声も出せず、爪を手のひらに食い込ませて震えていた人々が、今朝はみな朝霧のなかにひしめき、吐く白い息が一面につながっていた。誰もが、手それぞれに、差し出せるかぎりのものを捧げている。湿った泥のついた、葉に霜の残る大根の籠。縁が焦げるほど焼けた、夜明け前に起きて焼いたであろう麦餅。どこの荒れ斜面から摘んできたのか、夜露に半分しおれながら、麻紐で根を丁寧にそろえて束ねた野の花。


 俺はこの領地に二十年あまりいた。背中越しに「廃物伯爵」と指をさされて、それも二十年あまりだ。実りが悪ければ罵られ、匪賊が来れば罵られ、旱魃さえ俺のせいにされた。こいつらが俺のために、こんなふうにそろって集まるのを、見たことがない。


 いや、全員が俺のためじゃない。そこまで自惚れてはいない。


 いくつもの目が、領主の俺を越えて、まっすぐ、後ろのあの人に注がれているのが見えた。その目には、暗殺者への恐れも、「中央から来た女」への疑いもない――ただ、不器用で、どう表していいか分からない感謝だけがあった。


 シャルロッテは馬車のかたわらに立っていた。きびきびした濃色の旅装に、風を防ぐ短い外套を羽織り、腰には例によって、俺が数えきれないほどの刃を隠している――あの一対の白百合の棘と、目立たない暗器をひと揃い、すべて身に密着させて。彼女の頭上の表示殺意は、今朝は四十二で凪いでいた――昨日よりまた幾分か低い。俺のこの天秤眼には、朝霧の上に浮かぶ冷色の数字が、彼女が人混みを見渡し、脅威を見分けるたびに、わずかに上下し、また落ち着く様が見えていた。


 見知らぬ群衆に取り囲まれ、全員から見つめられる――こんな場面は、自分を壁の隙間や軒の影に押し込んで、一生「見られない」ことに徹してきた暗殺者にとって、本来いちばん居心地が悪く、いちばん踵を返したくなる状況のはずだ。彼女の指先は、確かに張りつめて、車の轅に添えられ、いつでも跳ね上がれる構えだった。


 だが彼女の頭上の、俺がとりわけ気に留めているあの本心――俺にだけ形を見せる、より深い線は、三十で止まっていた。


 三十。これだけの目の下で、釘で打ちつけられたように動かない。鎧は震えても、鎧のなかの人間は乱れていなかった。


 ぼろを着た、綿入れの袖口から綿のはみ出した小さな男の子が、母親に背中をそっと押されて、おずおずと、一歩ずつ、シャルロッテの前へにじり寄った。背丈は彼女の腰ほどしかない。寒さで真っ赤になった顔を仰向け、野の花の束を頭の上高く、腕をまっすぐ伸ばし、手が震えるほど高く掲げた。


「奥方様……」その声は細く震えて、何かを驚かせまいとするようだった。「ありがとう。あの日、おかあちゃんを助けてくれて」


 あの夜、西楼が燃え、火の舌が崩れかけた軒を舐め、濃煙のなかは何も見えなかった。その火のなかへ一身に飛び込み、焼け抜けた梁の下から、この母子を前後に引きずり出したのが、シャルロッテだった。俺ははっきり覚えている。あのとき彼女の頭上の数字はぐっと高く上がっていた。傍目には人を殺すのかと思うほど高く――だがその矛先は、腰を抜かした母子へは一格も向かわず、すべて、追ってきた刺客へ向いていた。


 彼女が人を助けるとき、殺意は、助けるのを邪魔しようとするものへ向く。こういうことは、数字は嘘をつかない。だが数字は、決して彼女の代わりに弁解してもくれない。


 シャルロッテは顔を伏せ、夜露にしおれながらも、きちんと束ねられた野の花を見て、一瞬黙った。朝霧が、彼女の睫毛にごく細い水滴を結ぶ。


 それから彼女は身をかがめ、その子と目線を合わせた。花は受け取らなかった。彼女は、俺ですら予想しなかったことをした。


 長靴の筒から、ごく速く短刀を一本抜いた――刃渡りは手のひらほど、身につけたひと揃いのなかでいちばん目立たない一本だ――それを逆手に子の胸へ押し込み、自分の小さな手で、子の両手を柄に押し当てた。


「持っていなさい」声はごく低く、その子と、近くに立つ俺にだけ届くほどだった。「今度また悪い奴が来たら、誰かが助けに来るのを待たないで。まず逃げなさい。逃げられなかったら、わたしが教えたとおり――ここを刺すの」


 彼女は、その子自身の、心臓のやや左を指で示した。


 子はぼんやりとうなずき、まだ彼女の体温の残る短刀を、野の花と一緒に、胸にきつく抱えた。「ここを刺すの」という一言がどれほど重いか、たぶんまだ分からない。ただ、この奥方様が自分の手で何かを渡してくれた、それだけが分かっていた。シャルロッテは立ち上がり、膝の、ありもしない埃を払い、さっと顔をそむけた。さっき身をかがめ、子と目線を合わせ、声を落として一字ずつ命の守り方を教えていたのが、まるで自分ではなかったかのように。


 俺は何も言わなかった。ただ、彼女の頭上のあの三十が、微動だにしないのを見ていた。


 ちっ。口では「王都へ任務に戻るだけ、公私混同はしない」と一点張りのくせに、振り返れば、身を守るための刀を、命を守る法と一緒に、見ず知らずの子に押しつける。しかもわざわざいちばん目立たない一本を選んだ――目立たないからこそ取り上げられにくく、本当に人を守れる。そういうところは、抜け目なく計算している。


 この人ってのは、顔を遠くへそむけて、自分には関わりないという冷淡を装うほど、ぼろが大きく出る。うまく隠せていると思っている。彼女は知らない。頭上のあの揺るがぬ三十が、自分をすっかり売り渡していることを。


 ちょうどそのとき、群衆のなかでざわめきが起きた。


 酔っぱらった男が一人、寝足りないのか宿酔いか、見送りの人だかりからよろよろと飛び出して、俺のほうへ頭から突っ込んできた。「ど……どけ! 邪魔だ、邪魔だってんだよ――」


 俺との距離はまだ三歩。酒気が朝霧に混じって押し寄せ、足取りは定まらず、次にどちらへ突っ込むか誰にも読めない。


 俺はその男を読んだ――頭上に漂うのは混沌としたひと塊で、好感ともいえず、敵意もなく、純粋に酒で脳がふやけ、自分がどこへ歩くかも分からない酔いどれだ。俺には何の脅威もない。俺はそしらぬ顔で半身ずらし、この御仁を空振りさせてやろうとした。


 その一瞬、俺の視界の端で、シャルロッテの頭上の数字が――


 「パッ」と。


 四十二から、七十へ跳ね上がった。


 七十。


 その数字は、急に、鋭く、誰かが秤の竿を一気に底まで押し下げたみたいに、きれいさっぱり跳ね上がった。そして矛先は、半分の迷いもなく、まっすぐ、冷たく、よろめく酔いどれを指していた。


 彼女はもう、俺の前半歩へ横ざまに割り込み、右手を腰側に当てていた――それは、彼女が抜刀する前の最後の動作だ。よく知っている。あと半息で、あの酔いどれは、白百合流の一刺しというものを見ることになる。


「シャルロッテ」俺は手を上げ、そっと彼女の手首を押さえた。


 彼女の手は、俺の手のひらの下で、鉄のように張りつめていた。


「ただ酔ってるだけだ」と俺は言った。


 彼女がぴたりと止まる。あの七十の数字が、俺の目のなかで、ゆらりと揺れた。


 そしてその下の本心は――まだ三十だ。


 動いていない。


 彼女は本当に誰かを殺そうとしているんじゃない。酔いどれ一人なんて、彼女には準備運動にもならない。頭上のあの七十に跳ねた数字は、殺意に見えて、本質は殺意じゃない。「そばのこの人を守る」を骨に、反射神経にまで刻み込んだ人間が、無防備で、考える間もない一瞬に、本能で、はるかに過剰に――俺と脅威のあいだに割って入るために、全身の棘を一気に逆立てたものだ。


 たとえその脅威が、足取りもおぼつかない酔いどれにすぎなくとも。


 守るための殺意。俺の、「殺意=避けろ」「数字が高いほど危険だ」と書き込まれた二十年分の人生の教科書には、ついぞ載っていなかった一語だ。それは、この一月、シャルロッテが何度も跳ね上がっては落ちる数字で、一寸ずつ、しぶしぶ、それでも確かに、俺に教えてくれた新しい項目だった。


 シャルロッテは、腰側に当てた手を、ゆっくり緩めた。あの七十は、じわじわと落ち、四十二へ戻っていく。


「……職業病よ」彼女は腰側の手を引き戻し、指の節を一つずつほどきながら、淡々と言った。口ぶりは非の打ちどころなく平静だ。なのに、横顔の耳の付け根、その小さな一片が、こっそり赤くなっていた。さっきの野の花を束ねた麻紐と、同じ色に。「暗殺者は、いきなり突っ込んでくる相手に、辛抱がきかないの。条件反射よ」


「ふうん」俺は彼女の言葉に合わせて、大真面目にうなずいた。「条件反射、な。分かるよ。じゃあ次に突っ込んでくるのが鶏だったら、お前はその腰の一手で、捌いて鍋に入れるのか?」


「……」彼女は顔をそむけ、俺を睨んだ。その目つきは十割が殺気で、対応する本心は微動だにしていなかった。結局それ以上は乗らず、ただ外套を上へきつく引き上げた。そうすれば、熱を持った耳の付け根まで隠せるとでもいうように。


 酔いどれは、とっくに周りの者に寄ってたかって担ぎ出され、自分がたった今、地獄の門の前で一回りしてきたとは、夢にも知らずにいた。


 ゴドウィンが、十数年使って握りも磨り光った杖をつき、一歩ずつ、馬車の前まで送りに来た。この老人はレーンフェルトで一生執事を務め、一生顔を強張らせ、俺の父の葬りの日でさえ涙一滴こぼさなかった。なのに今朝は、その濁った目縁が、怪しく赤らんでいた。


「行ってらっしゃいませ、旦那様」彼は杖にすがり、俺へ深々と一礼した。腰は普段よりさらに低い。それから振り返り、馬車のなかのシャルロッテへ、また一礼した――この一礼は、俺へのものより、なお丁重だった。彼は声を緩め、一字ずつ重さを量るように、ゆっくりと言った。「……奥方様も、必ず」


 ――どうか奥方も、必ず、無事にお帰りを。


 馬車の帳を下ろそうとしていたシャルロッテの手が、宙で止まった。


 王都じゅうから「いつ夫を殺すか分からない兵器」と見なされ、一通の伝喚状で「神の格序を乱す異端」と定められた暗殺者が、平素は厳しい老執事に、わざわざ、領地じゅうの前で、「奥方様」と呼ばれ、「必ず」――必ず無事に帰れと言い含められる。まるで彼女が客卿でも任務執行者でもなく、この家の、当たり前に帰ってくるべき人であるかのように。


 彼女は振り返らなかった。だが、すぐ脇に座る俺には、はっきり見えた。帳に添えたあの手が、たっぷり二息――息を二つぶん、止まったのを。瞬きの間に生き死にを計る彼女にとって、二息は、異様なほど長い停止だ。彼女の耳の付け根は、さっきのほんのり赤から、すっかり赤く染め上がり、首筋まで燃えていた。


「……行きましょう」彼女は最後に、歯の隙間からその二語だけを絞り出した。あと一語でも口に出せば化けの皮が剥がれるとでもいうように、さっと、帳を下ろした。


 馬車がごろごろと動き出し、領民が自ずと空けた、二筋の沈黙の人垣を轢いていく。帳が閉じ切らぬうちに、野の花、麦餅、泥のついた大根が、窓の外の、荒れて皹の切れた手から争うように差し込まれ、押し込まれ、車中に半分積み上がった。麦餅にはまだ竈の余温が残り、野の花の清苦が泥の匂いに混じって、ぎっしりと満ちていた。


 俺は揺れる車壁にもたれ、向かいで顔を窓の外へ固く向け、荒野の秋色を真剣に愛でるふりをして、その実まだ耳の付け根の赤の引かない人を見ながら、胸の内で算段していた――この王都への一程、教会の尖塔と公爵の眼線だらけのあの城で、俺たちを待つのは、いったい何だろう、と。


 審判、罠、慈悲面の刃。おおかた、ろくなものじゃない。


 ともかく、それが何であろうと、足もとに積まれた、まだ温もりの残る半車分の大根ほど、暖かくはないだろう。


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