第26話 教会からの伝喚状
決戦から三日目、砦はようやく、生き物のように呼吸を取り戻しはじめた。
刺客団に焼け落とされた西楼は、まだ煙を上げている。明るい炎ではない。木材が芯まで焼け、苦い焦げの匂いを孕んだ、くすぶり続ける青い煙だ。三日経っても消えきらず、初秋の朝の澄んだ空気に混じって、吸い込むと喉がひりつく。職人はもう足場の上に登っていた。縄が風に揺れ、石を穿つ槌の音が夜明け前から響いている。一打ち、また一打ち。まるで一度死にかけたこの砦に、新しい鼓動を打ち込んでいるようだった。
ゴドウィンは朝から夜更けまで動き回り、髭を整える暇もなく、顎の下の白い房は枯れ草のように乱れていた。領主の俺より、よほど家の主らしく見える。職人の手際が遅いと毒づきながら、自分も袖をまくって石材を運ぶ。あの老いた骨は、誰よりも荒く使われていた。俺は正庁の窓辺に座り、とうに冷めきった茶を手のなかで持て余しながら、庭で石を運ぶ領民の行き来を眺めている。「何ひとつ俺が自ら殺さなくていい」という安寧が、珍しく贅沢に思えた。
二十年あまり、この目は人の頭上に浮かぶ数字を見続けてきた。好感、嘘、殺意。赤いの青いの、びっしりと、誰かが一人一人の額に勘定の札を打ち込んだみたいに。俺の加護、天秤眼――通称数値視とは、そういう、人の心を量る代物だ。ただ、安寧という二文字にだけは、数値がない。それは形を取らないし、警告もしてくれない。まだそこにあるうちに、こっそり何口か貪るしかない。
だから貪った。冷めた茶の立てる湯気を半刻ばかり見つめて、こう思った。せっかくの暇だ、この天秤眼にも休ませてやろう、と。
贅沢というやつは、昔から命が短い。
その日の午後、黒甲の伝令騎士が一騎、まだ乾ききらない血泥を踏んで、砦の門をくぐった。馬蹄が西楼の前の、火に焼かれて黒くなった石畳を踏み、細かい灰を跳ね上げる。
俺は遠くから、その男の頭上の数字を見た。
好感――十二。俺のような「廃物伯爵」相手にしては、まだ礼儀のある数字だ。王都の連中が用意した俺の札は「暗殺者の女を娶った辺境の廃物」だ。十二もくれたなら、噂を真に受けていないだけ上等だろう。だが、その十二の隣に、もっと厄介なものが浮かんでいた。
『嘘 88』
嘘の値が、ほとんど満杯だ。その数字の列が、男の整った眉間の上で冷たく光って、磨き上げた甲冑よりも目立っていた。
天秤眼の一つ目の限界は、「その嘘が誰のための嘘か」を見分けられないことだ。数字は「偽り」だとは教えても、「誰の偽り」かは教えない。保身のための嘘も、主のために背負った嘘も、俺の目には同じ八十八だ。だが、見分ける必要のないこともある。今、この騎士が片膝をつき、口から吐き出そうとしている長ったらしい「恭しい口上」は、八割八分、こいつ自身の言葉じゃない――誰かが先に口に詰め込んで、そのまま運ばせた台詞だ。それさえ分かればいい。
こいつはただの飛脚だ。飛脚は手紙の中身を知らない。だが封蝋は、俺の目をごまかせない。
「レーンフェルト辺境伯にあらせられますか」
男は片膝をつく。姿勢は非の打ちどころがない。だが声は暗誦のようで、一字一句、生硬なほど整いすぎていた。
「聖塔都市アルバ・トレスよりの、正式なる伝喚状にございます」
蝋で封じた巻物を、両手で捧げてくる。封蝋には教会の紋章が押されていた――両翼を広げ、天秤を咥えた鷹。
俺はすぐには受け取らなかった。先に、男を読む。
口では「教会」と称しているが、甲冑の裏地の縫い目は二重の縢り縫い、佩剣の柄に巻いた革のすり減りは右下に偏っている――どれもアルバ・トレスの聖塔衛隊の様式じゃない。聖塔衛隊が佩くのは直剣で、握りに作法があり、鍔の摩耗は中央に出るはずだ。この男の手首の力の癖も、その黒甲の仕立ても、中央貴族の私兵のやり口だった。教会の殻を借りているが、中身は貴族家の犬だ。
そしてその頭上の、「命じられて動いている」好感十二の下には、ごく淡い、本人すら言葉にできないだろう――怯えが潜んでいた。それは数値には現れない。張りつめすぎた背筋、噛みしめすぎた頬から透けて見える。公務で使い走りに来ただけの騎士が、噂のなかでは手も足も出ない廃物伯爵を怖がるいわれはない。
こいつが怖がっているのは、俺じゃない。
命を下した者だ。俺に跪くその所作までもが寸分の隙もないのは、背後に失礼を数える眼があるとでも思っているからだ。
巻物を受け取るとき、俺はあの「命のまま」という偽りの好感の裏に、見えない一本の手を読み取れそうな気がした。あの手なら、よく知っている。一月前まで、それは俺の婚約者のうなじにあり、あの服従の聖痕を押さえつけていた。
公爵だ。
この教会の印を捺した伝喚状の根は、ヴァイス公爵にある。教会はただ、貸し出された口にすぎない。
「読め」と俺は後ろに言った。
シャルロッテはずっと、影のなかに立って声を出さずにいた。窓の光が斜めに正庁を切り、彼女はちょうど、その光の届かない梁の影の下に立っている――偶然じゃない。彼女はもう、このレーンフェルト砦という牙城の、れっきとした客卿だ。俺の「本物」の婚約者で、名分は白紙に黒い字で印まで捺されている。だが二十年かけて染みついた本能は、身分の紙を取り替えたくらいで変わるものじゃない。彼女はやはり、どんな部屋に入っても、まず半秒で場全体のいちばん視界が広く、退路の多い立ち位置を選び、音もなくそこへ移る――そういう暗殺者だった。
言い換えれば、辺境に嫁いだあとも、彼女の立ち位置の理屈は「どこが人を殺しやすく、人を守りやすく、逃げやすいか」であって、「どこが婚約者に近いか」じゃない。そこは、変えてくれと望んだこともない。変えてほしいとも思わない。
彼女は歩み寄ってきた。足音はほとんど聞こえない。俺の手から巻物を取り、親指で鷹の紋の封蝋を弾き開けた。
指先は落ち着いている。ありふれた家書を解くように落ち着いている。だが俺の目には、彼女の頭上の数字が、ゆっくり、一格ずつ、気づかれぬほど、上へ這い上がっていくのが見えた。
決戦のあと、彼女の表示殺意はずっと四十五前後で凪いでいた。これが常態だ――九十九の強制からもがき出たばかりの人間が、張りつめた弦を一晩で緩められるわけがない。そしてその数字のさらに奥、数値視がしばしば見落とす、けれど俺が刻みつけた本心は、三十二で止まっていた。
三十二。もう十分に低い。低すぎて、こいつはもう「殺意」と呼ぶべきじゃないんじゃないか、と時々思うほどに。
彼女は、ひどくゆっくり読んだ。地形図を一瞥して砦の全配置を覚えるこの女が、手のひらほどの伝喚状を、一行ずつ下へ這うように読む。まるで一字一字を、まず舌先で重さを量ってから先へ進むみたいに。最後の一行に行き着いたとき、巻物を握る指の節が、一瞬だけ、白くなった。
怖がっているんじゃない。彼女が怖がるときの様子なら、嫌というほど知っている――怖いときの彼女は、むしろ冷たく、静かになる。この一瞬の蒼白は、別のものだ。あの一行が、彼女の身の内のどこか、とうに瘡蓋になったのに、いまだ治りきっていない古傷を、突いたのだ。
「読み上げろ」と俺は言った。
彼女は目を上げて俺を見た。いつも冷えているその目に、俺には読み取れない何かがよぎる――恐れじゃない。古傷を突かれた、ごく速い痛みだ。それから目を伏せ、平板な声で、一字ずつ唱えた。
「『魔眼の主と、白百合の刃。その結合は、神の格付けを乱す異端なり』」
――魔眼の主と、白百合の刃。二つの結合は、神の格序を乱す異端なり。
正庁が、一瞬、静まった。窓の外の石を運ぶ掛け声、石を穿つ槌、職人の悪態が、急に遠くなる。すぐ近くに残ったのは、シャルロッテの平板な呼吸と、羊皮紙が握りしめられて軽くきしむ音だけだった。
大した「神の格序」だ。生きた人間二人の命を、見えない天秤に載せて、「死ぬべし」と量り出す。こういう言葉は、書くときはさぞ筆が滑るんだろう。だが人の頭上に落ちてくれば、命取りになる。
ゴドウィンがいつの間にか正庁に入ってきていて、この一句を聞いて、老いた顔が水を滴らせそうなほど沈んだ。「言語道断。教会が何の権利で……魔眼は加護、白百合は教会自前の聖痕。加護と聖痕の結合が、なぜ異端などと。これはまさしく言いがかり――」
「何の権利で、か」俺はシャルロッテの手から巻物を取り戻し、巻き直して、軽く手のひらを叩いた。「彼らがそう決めたからだ。ゴドウィン、その歳になって、罪名というものが理屈で成り立つと、まだ信じているのか。先に罪があって後から名がついた罪名なんて、見たことがあるか。みんな、まず誰の命が欲しいかを決めて、それから経巻をめくって都合のいい一句を探すんだ。経巻はあれだけ分厚い、合う一句くらい必ず出てくる。出てこなければ、一句書き足せばいい――どうせ経を解く筆も、彼らが握っているんだからな」
ゴドウィンは俺に言い詰められて髭を震わせ、口を開きかけたが、結局言い返さなかった。中央にいたことのあるこの男は、俺の言葉が嘘でないと、誰より分かっている。
シャルロッテは、なおも俺の手のなかの巻物を、今にも咬みつくものでも見るように睨んでいた。彼女の頭上の数字は、また二格上がって、四十七で止まった。
「これは公爵の筆よ」と彼女は不意に口を開いた。声はごく低く、だが確信に満ちていた。「教会自身に、魔眼に触れる度胸はない。誰かが、刃を彼らの手に渡したのよ」
「分かってる」と俺は言った。
俺は窓の外を見た。庭にまだ跪いて、返事を待っている伝令騎士。その頭上の『嘘 88』は、いまだに一格も落ちていない。こいつは、自分が誰のために命を売っているのかすら、知らない。
「抗命すれば、どうなる」とゴドウィンが、声を落として尋ねた。視線がちらりと、窓の外の跪く騎士へ流れる。
「抗命すれば」と俺は巻物でもう一度手のひらを叩いた。「辺境は叛逆だ。教会の印を捺された伝喚状を、お前が破く度胸があったとしても、破くのは紙一枚じゃない、『神の格序』だ。中央には即座に、大義名分のある、王師を動かして俺たちを踏み潰す理由ができる――しかも『天に代わって裁く』たぐいのな。そのとき、辺境が冤罪かどうかなんて誰も問わん。ただこう言うだけだ。見ろ、廃物伯爵はやはり後ろ暗いところがあったんだ、とな」
俺は一拍置いた。
「公爵が欲しいのは、最初から最後まで、俺たちに抗命させることだ。どの段階で俺たちが死のうが気にもしていない――抗命すれば辺境を踏み潰し、出頭すれば王都で始末する。あいつが俺たちに残したのは、どちらも墓へ通じる二本の道だ。そうして、にこやかに、俺たちが自分で一本選ぶのを待っている」
だからこの盤の第一手は、そもそも行くか行かないかの問題じゃない。行く、だけが、その場で詰まされない唯一の選択肢だ。
本当の題は――行ったうえで、あの、いたるところに彼らの手の者がいる王都で、どうやって生きて帰るか、だ。
俺は巻物をシャルロッテに返した。彼女は受け取らず、ただ俺を見た。
「王都へ行く」と俺は言った。
彼女の頭上の四十七は、微動だにしなかった。表示殺意は殻を張った氷のようで、外から見れば、この暗殺者は伝喚一つで殺気立った、としか映らない。だがその数字の下、誰にも見えず、俺が一月見つめてようやく馴染んだ本心――あの三十二が、ごく軽く、ほとんど分からぬほど、一格沈んだ。
表示は上がり、本心は沈む。この二本の線は、決して同じ方向へは進まない。上がっていくのは、世界に見せるための鎧だ。沈んでいくのが、彼女自身だ。
彼女は怖がっている。だが彼女が怖いのは審判じゃない、異端の二文字でもない、まして死でもない。命を刀の鞘に差して二十年生きてきた人間が、死を怖がるはずもない。
彼女が怖いのは、もう一度、どうあがいてもほどけない刻印で、うなじからあやつり人形のように扱われること――俺に刃を向けさせられることだ。その瞬間、彼女自身の手すら、彼女の言うことを聞かなくなることだ。
「あなたが行くなら」彼女はとうとう巻物を受け取り直した。指先は俺の手を避け、顔をそむけて、青い煙の匂いを通す窓のほうを見た。声は今日の天気でも語るように淡い。「わたしも行く。任務だもの」
任務。また、この言葉だ。彼女がまとう柔らかいものは、すべて「任務」という上着をまず着せてからでないと、人前に出せない。「あなた一人で行かせるのは心配なの」と言えばいいのに、わざわざ「職責ゆえ」へ回り道する。俺はその言葉を耳に入れ、暴かなかった。
暴いても無駄だ。次はまた別の言葉に替えるだろう――護衛、警戒、職業意識。彼女のあの辞書は、ずいぶん分厚い。
俺はただ立ち上がり、窓の外の、天秤を咥えた鷹の紋章を眺めた。そして思った――天秤というやつは、ひとたび人の心を量りたがる者の手に握られたら、量るのは、決して公道なんかじゃない。
教会はいったい何の権利で、「魔眼に暗殺者を配する」というこの一行を、異端と定められる。
その問いは、俺が自分で王都へ行って、奴らの顔に突きつけてやる。




