第四話 影で蠢めく者達
同じ頃。
王都の絢爛たる執務室では、第一王女ヴィクトリアが冷徹な笑みを浮かべながら、手元の報告書に目を通していた。
「あら、教会が動き出したわね。
…馬鹿ね、あの人たち。彼女の本当の恐ろしさを何も分かっていないわ」
その背後で、勇者アルスが腕を組んで窓の外を見据えている。
「……彼女を狙うなら、門閥貴族の連中か。
…動くか?」
「ええ、もちろんよ。
でも、慌てて手を出す必要はないわ。
彼女たちが泥沼にハマればハマるほど、私たち(王家)の優位は揺るがなくなるもの。それに……」
ヴィクトリアはふと振り返ると、夫であるアルスに意味深な笑みを向け、その引き締まった胸元にすっと歩み寄った。
「―たまには、あの『大聖女』がすべてを失って、私の手のひらの上で泣き叫ぶところも……見てみたいわ…。ね?あなた……」
政治の謀略と、個人が隠し持つドロドロとした欲望の糸が、静かに、しかし確実に、大聖女と剣聖の首を絞め始めていた。
ヴィクトリアが冷徹なまでの冷静さを保っていられるのは、夫であるアルスの本質を誰よりも深く見抜いているからだった。
(この人は、優しいけれど――何よりも、残酷なほどに責任感の強い人だ)
彼女は知っていた。アルスの瞳の奥に、かつての仲間である大聖女フィオナへの淡い想いや、複雑な未練がまだかすかに残っていることを。
魔王討伐という長い旅の果て、二人で生きる道もあったはずだ。
彼が本気で押し切れば、あの大聖女だって、きっと断りきれなかっただろう。
だが彼は、剣聖への友情、大聖女の気持ち……そして何より、世界の安定と、国を背負うという自らの選択を優先した。
自分の欲望のために私情へ走るような、そんな無責任な真似のできない男なのだと、彼女は夫の骨の髄まで理解していた。
だからこそ、嫉妬に狂って夫を責め立てるような愚行は犯さない。そんなことをすれば、夫の心はかえって離れていくばかり。
むしろ、その手の届かない切なさを抱えながらも、国のために己を縛り付けている彼の姿に、彼女の胸は激しい愛着で震えていた。
そもそも、彼女がアルスに向ける感情は、最初期の純粋な尊敬や憧れなどからはとっくに形を変えていた。
圧倒的な力を持つ英雄でありながら、私欲を捨てて自分に寄り添い、夜の寝室では理性を焼き払うかのような熱量で抱きしめてくれる。
その絶対的な強さと温もりの前に、誇り高い王女であるはずの自分自身が、心も体も完全に屈服させられ、彼なしでは生きられないほどに狂おしく溺れさせられている現実――。
その抗えない快感と絶対的な支配を知ってからというもの、彼女の中の憧憬は、この男を絶対に自分のものとして繋ぎ止めるという、底知れない執着へと変貌を遂げていた。
(いいのよ。あなたがどれだけ遠くを見ていようと、あなたの帰る場所は、いつでも私の胸の中なのだから)
頭のてっぺんから足の先まで夫の熱に染め上げられながらも、ヴィクトリアは王族として叩き込まれた冷静さを微塵も失っていなかった。
むしろ、その知略と謀略の才こそが、彼女の最強の武器である。
教会の浅はかな企みも、門閥貴族達の陰謀も、すべては手のひらの上のチェス盤の駒にすぎない。
夫の背負う重荷を軽くするため、そして王家の盤石な支配を築くため、彼女は裏で静かに、しかし容赦なく毒牙を研ぎ澄ませていた。
「この国をどう動かすかは私次第。……さあ、どう転ぶかしらね、大聖女様」
枢機卿達によって全てを奪われてしまう程度なら、今後の駒としては力不足……助ける価値もない。だが――。
闇夜に溶ける不敵な笑みを隠し、ヴィクトリアは夫の背中にそっと腕を回す。
彼女の完璧な計算と、心の底で渦巻く歪んだ愛欲が、運命の歯車をさらに加速させていく。
王位の継承権を持つ者たちの構図は、この国の平穏を揺るがす最大の火種となっていた。
第一王子――すなわち王太子は、すでに国内最大派閥の有力貴族の娘を正妻に迎え、盤石な基盤の上で立太子を済ませていた。
彼は極めて善良な男だった。
歴史に名を残すような天才的な名君にはなれなくとも、民を労わり、法を遵守する「良君」として、穏やかな治世をもたらしたはずの人物である。
ヴィクトリアにとっても、実の兄である彼は自慢の家族であり、敬愛の対象だった。
将来、兄が王位に就いた暁には、自分はその優れた知略と政治手腕を裏から振るい、善良ながらも不器用な兄を支え続けるつもりでいた。
それが、彼女の思い描いていた理想の未来図だった。
だが、現実はその青写真を許さなかった。
ヴィクトリア自身のあまりにも突出した能力、そして彼女の周りに集まる権威と注目度が、すべての歯車を狂わせていく。
なかでも決定打となったのは、世界を救った最強の「勇者」との婚姻だった。
ただでさえ優秀で強い発言力を持つ王女が、英雄中の英雄である勇者を夫にしたという事実。
それは、王子を盛り立てる立場にある王子派の門閥貴族たちにとって、耐えがたい脅威と恐怖に映った。
(あの王女が、夫である勇者の武力と自身の知略を背景に、そのまま王位を乗っ取ろうとしているのではないか……?)
そんな王子派貴族たちの抱く疑心暗鬼と被害妄想は、日を追うごとに膨れ上がっていった。
そして、その宮廷内の歪みや権力闘争の匂いは、城の壁を越えて外部の悪意を引き寄せるのに十分すぎる磁力を放ち始めていた。
国内の主導権を握ろうと暗躍する者たち、王家の失脚を目論む隣国の謀略、そして人間同士の内部崩壊を狙う魔王軍の残党――。
それぞれの思惑が、王子派の焦燥感と結びつき、静かに国を内側から蝕む毒となって回り出し始めていた。
教会本部が「大聖女の信仰心と教義解釈の乱れ」を理由に、彼女を正式な査問会議へ召喚するという噂は、燎原の火のごとく瞬く間に王都全域を駆け巡った。
この知らせに、最も敏感に、そして狂喜をもって反応したのは、他ならぬ第一王子派の貴族たちだった。
(好機だ……!)
彼らは、長年抱き続けていた恐怖と疑念を晴らす絶好のチャンスが訪れたと確信した。
第一王女の圧倒的な存在感、そして世界を救った最強の英雄である勇者の婿入り。
その巨大すぎる影響力に怯えていた彼らにとって、大聖女の失脚は、王家内における勢力図をひっくり返すまたとない手札に見えたのだ。
「見ろ、やはり平民上がりの英雄崩れどもが油断ならぬ連中だったということだ!」
「教会が異端の嫌疑をかけるほどの不穏子……。それを庇うような動きを見せれば、勇者とて同罪だ」
「もしや、あの英雄たちは魔王を倒した勢いそのままに、この国の王座すら乗っ取るつもりなのではないか……?」
王子派の貴族たちは、裏で結託し、意図的な悪意ある噂を王都のサロンや酒場へと流布し始めた。
『勇者パーティは、世界を救った英雄面をしながら、その実、その強大な武力でこの国を簒奪しようとしている野心家集団なのだ』と。
『その手先として、民衆からの人気を利用しているのが、あの偽りの聖女フィオナである』と。
善良な第一王子本人は、こうした派閥の動きに気づいていないのか、「まさか、世界を救った英雄たちがそんな不穏なことを企むはずがない。穏便に話し合うべきだ」と周囲をなだめようとしていた。
しかし、肥大化した貴族たちの猜疑心と恐怖心は、すでに一人の王子の善良さでコントロールできる域を遥かに超えていた。
教会の政治的謀略、貴族派の保身と権力欲、そして根拠のないデマの拡散。
静かに暮らすはずだった一人の聖女へのいわれなき弾劾は、いまや国家の転覆をも懸けた、巨大な権力闘争の導火線に火をつけようとしていた。




