第三話 召集令状
魔王討伐から数年後。
王都から遠く離れた、緑豊かな辺境の村。
かつて世界を救った剣聖レオンハルトと大聖女フィオナが新居に選んだその場所は、喧騒とは無縁の、小鳥のさえずりと風の音だけが響く静かな世界だった。
「見て、レオン様。裏の畑に、小さな芽が出てきたわ」
麻の素朴なエプロンを身にまとったフィオナが、泥のついた小さな両手を掲げて嬉しそうに振り返る。
その顔には、かつて戦場で死線をくぐり抜けていた聖女の険しさなど微塵もなく、ただの愛らしい一人の若妻の笑顔があった。
薪割りをしていたレオンハルトは、そのまばゆい笑顔に胸を突かれ、慌てて視線を逸らした。
「あぁ……綺麗だな。その、土がついているぞ」
「ふふ、本当?」
フィオナが自分の頬を拭おうとして、かえって黒い土の汚れを広げてしまう。
見かねて笑ったレオンハルトが歩み寄り、自分の首に掛けた手拭いで優しくその頬を拭う。
―これでいい。これが自分たちの望んだ日常なのだと、レオンハルトは心の底から思っていた。
温かな家で、隣には愛する妻がいる。彼女も「幸せ」だと言ってくれる。
(俺は、この日常を守るために戦ってきたんだ)
だが、その平穏な幸福の裏側で、彼の胸の奥底には、小さな澱のような焦燥感が沈殿していた。
彼女はいつも優しく微笑んでくれる。しかしその瞳の奥に、ふと孤独な影や、自分の手の届かない領域があるような気がしてならなかった。
自分は彼女に見合う男でいられているだろうか。大聖女と呼ばれる彼女の隣に立つには、あまりにも自分が無力ではないか――。
もし、彼女がいつかこの平穏に退屈し、自分の元を離れていってしまったら。
ふと背筋に冷たいものが走り、レオンハルトはぶんぶんと首を振ってその思考を追い払った。
「どうかしたの? レオン様」
「なんでもない。……そろそろお昼にしようか」
微笑む妻の手を取り、家の中へ戻ろうとしたその時だった。
青空の広がる平穏な村の空気を切り裂くように、一羽の白い鳥――教会の公印を携えた使役鳥が、まっすぐに彼らの家へと舞い降りてきた。
不吉な予感にレオンハルトの足が止まる。
フィオナが不思議そうに見上げる中、舞い降りた鳥の足元から、厳重な「紫紺の封蝋」が施された羊皮紙の書簡が抜き取られた。
――それは、教会本部からの「緊急召集令状」だった。
『大聖女フィオナ殿。至急、王都教会本部へ出頭されよ。近時、辺境における聖職者の不心得と、教義解釈の乱れに関する重大な疑惑が浮上している。聖女としての身の潔白と、信仰の真意を示すべし』
書簡に目を通したフィオナが、わずかに眉をひそめた。言葉は濁してあるが、明らかに異端審問を匂わす文面である。
「……私が、教義の解釈に乱れを? 身に覚えのないことだけど……」
「待て、これはおかしい」
レオンハルトの顔色が変わった。政治や組織の裏表に疎い彼であっても、このあからさまに言いがかりじみた文面が「罠」であることくらいは本能で理解できた。
あの祝賀式典の日、貴族たちが吐き捨てていた毒舌と、教会上層部が浮かべていた冷ややかな笑みが、一気に脳裏によみがえる。
「行くな、フィー。これは罠だ! あいつらは、お前を連れ戻して、自分たちの政治の道具にしようとしているんだ」
レオンハルトの腕が、妻の肩を強く引き寄せる。彼女を失うことへの恐怖が、彼の心に強い焦燥を生み出していた。
しかし、フィオナは夫の胸にそっと手を当て、困ったように、だが揺るぎのない聖女としての慈愛に満ちた瞳で首を横に振った。
「ううん、行かなくちゃ。私に、後ろめたいところなんて何もないもの。それに……もし教会の上の人たちが、何か勘違いしているなら…私が直接お話しして、誤解を解いてくるわ。すぐに戻ってこれるから、心配しないで、レオン様」
その清らかすぎる「善意」と「無自覚な強さ」こそが、権力者たちにとって最も都合が良く、そして最も牙を剥きやすい危険な毒であることに、彼女自身は少しも気づいていなかった。
妻の純粋な優しさに押され、レオンハルトはそれ以上を引き止めることができなかった。
自分の無力さに奥歯を噛み締めながら、彼は大聖女と共に王都へ出立することになる。
―それが、かつての英雄たちを巻き込み、王国全土を揺るがす「政争」へと向かう歯車を回す、最初の引き金になるとも知らずに。




