第二話 紫紺の封蝋
魔王討伐という人類史上の大偉業が成し遂げられてから、まだ数ヶ月。
王都には戦勝を祝う歓声の余韻が残っており、英雄たちの帰還を祝う式典の会場は、眩いばかりの灯火と華美に着飾った貴族たちの喧騒に満ち満ちていた。
中央の純白の祭壇の上では、世界を救った4人の英雄にそれぞれの称号を授与する儀式が執り行われた。
その後壇上に残った2組の男女、第一王女ヴィクトリアと勇者アレス、第二王子ジュリアスと大賢者ヴァレリアの婚姻の発表で、会場は異様な程の興奮に包まれた。
王家と英雄との強い結びつきは、この先の国家の安寧と平和を保障する吉事である、と国民に喜びとともに受け入れられていた。
その華やかな主役たちの少し離れた場所で、まったく異なる空気をまとっている一組の男女がいた。
剣聖レオンハルトと、大聖女フィオナである。
先日、彼女に押し切られるようにして婚約指輪を渡し、ようやく「夫婦」としての第一歩を踏み出したばかりのレオンハルトは、どこか落ち着かない様子で腰の剣の柄に手をかけていた。
一方のフィオナは、純白のドレスの裾を少し揺らしながら、満足げに微笑んでいる。
「これからは二人で田舎に引っ込んで、一緒にささやかな幸せを作っていく……それが私たちの選んだ道なんですものね、レオン様」
「あぁ、そうだな。俺が、一生かけて君を守るから」
華やかな王宮の権力争いや、貴族たちの思惑など、心底どうでもよかった。
二人はただ、お互いの温もりがあればそれでよかったのだ。この穏やかな日常が、ずっと続くのだと信じて疑わなかった。
――しかし、その幸せの余韻は、すぐ近くから聞こえてきた冷ややかな話し声によって、無残に引き裂かれた。
「――まったく。あれだけの莫大な功績を上げながら、領地も爵位も辞退して、田舎に引っ込むつもりだそうだ」
「これだから平民の出は視野が狭くて困る。英雄の権威をどう利用すべきか、微塵も分かっていない証拠だ」
「賤しい身分の者が…!政治というものが分からんのだから困っだものだ!」
回廊の曲がり角の向こう、貴族たちの嘲笑うような陰口が、風に乗ってはっきりと二人の耳に届いた。
レオンハルトの眉がピクリと跳ね上がり、拳が無意識に握り締められる。
だが、フィオナは彼の大きな手をそっと包み込むように握り返し、何でもないように首を横に振ってみせた。
「気にしないで、レオン様。私たちは、私たちの望む道を生きましょう」
彼女の穏やかな微笑みに、レオンハルトは歯噛みしながらも頷くしかなかった。
だが、問題は貴族の陰口だけではなかった。
同じ頃、祝賀式典の貴賓席では、教会の上層部の者たちが苦々しい顔で聖女の方を睨みつけていた。
「厄介なことだ……。本来であれば、あの聖女の圧倒的な奇跡の力をもって、我が教会の権威を国中に知らしめ、組織の基盤を絶対的なものにしなければならなかったというのに」
「大聖堂で行う貴族達への癒しの祈りも断ったと言うじゃないか。貴族からの莫大な寄付が、教会を支えていると言うのに!」
「本人は組織の利権には一切興味を示さず、勝手に貧民街を訪れては無償で癒しの奇跡を施している。おかげで民衆からの支持は狂信的と言っていいほど高まっているが……我々の言うことは全く聞きやしない」
「危険すぎる。あのような巨大な影響力を持つ異端児が野に放たれれば、いずれ教会の頭を押さえかねん。表立った処断は世論の反発を招くが、その『信仰心』を利用して、うまく雁字搦めにするための布石を打っておくべきだな」
大聖女への、国民からの絶大なる支持という名の「光」は、権力者や組織の人間にとっては、自分たちの足元を焦がしかねない「脅威」にほかならなかった。
そんな不穏な悪意が水面下で渦巻いていることなど露知らず寄り添う二人に、もう一人の人物が忍び寄る。
「あら、こんなところでイチャイチャして。すっかり新婚気分?」
艶やかな笑みを浮かべながら現れたのは、壇上から降りてきた大賢者ヴァレリアだった。
彼女はドレスの下のすらりとした足を優雅に滑らせて近づいてくるやいなや、親しげな態度でフィオナの肩にふわりと手を回し、耳元に顔を寄せる。
「ちょっと、ヴァレリア……近いわよ」
「いいじゃない、親友の門出を祝ってるのよ。……ねえ、フィー。そんな頼りない男にもたれかかってないで、いざとなったら私のところにいらっしゃい? 王家御用達の美味しいお茶で、あなたを癒す特等席を用意してあげるから」
からかうような、しかしどこか底の知れない熱を孕んだ大賢者のボディタッチに、フィオナは困ったように頬を染め、レオンハルトはなぜか胸の奥にモヤッとした小さな苛立ちと気まずさを覚えた。
その仲間の様子を、壇上から優しい目で、それでいてどこか切なそうな表情で見つめる勇者アレス。
その隣で第一王女ヴィクトリアが、夫になる男の優しい目線の先に大聖女の姿があるのを認めると、その聖女に冷ややかな目線を送っていた。
式典の裏で交わされる、枢機卿や門閥貴族達の傲慢かつ強欲な会話。それぞれの胸に巣食う、歪んだ欲望や思惑…
それらは、英雄によって取り戻された平和な日常の裏で、静かに、しかし確実に陰謀の歯車を回し続けていた。
長い戦いの後に、やっと手に入れた小さな幸せ。なにごともない、平穏な田舎での日常。
ずっと続くと信じていた。
わずか数年後、「紫紺の封蝋」が押された教会本部からの召喚状が、そのすべてを鮮やかに切り裂くことになるとも知らずに。




