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第9話「好きじゃないなら、なんでこんなに腹が立つ」

大人のラブコメ、始まります!




恋愛経験はある。


結婚だって経験した。


仕事も、それなりにできる。




なのに、好きな人の前では驚くほど不器用。




45歳のバツイチ医師・小鳥遊優と、婚活に疲れた42歳・東海林喜咲。




二人を引き合わせたのは、運命でも理想の条件でもありません。




「夜の相性も大切です」




プロフィールに残ってしまった、たった一行の誤記でした。




名前を読み間違えて減点され、余計なひと言で怒られ、いい大人二人が恋愛だけは初心者のように右往左往。




それでもなぜか、また会いたくなる。




「条件の合う人」と「好きな人」は、本当に同じなのでしょうか。




笑って、すれ違って、ときどき胸がきゅっとする。


そんな二人の面倒で楽しい大人の恋を、ぜひ見届けてください。




第1部「婚活アプリは恋を保証しない」

『正式に付き合ってほしいって』


その一行を、小鳥遊優は三回読んだ。


四回目も意味は変わらなかった。


「……正式って何だ」


病院の職員用廊下。午後七時過ぎ。


幸い、周囲に人はいない。


高橋大輔。四十八歳。


仕事ができる。収入も安定している。落ち着いていて、喜咲自身が「いい人」と認めている。


客観的に見れば、かなり条件のいい男だ。


なのに。


腹が立つ。


高橋は何も悪くない。


喜咲も独身。優と喜咲は、まだ付き合っていない。


誰にも何の違反もない。


それでも腹が立つ。


「……理不尽だな。俺が」


スマホが震えた。


『優さん?』


返信を待たせている。


優は文字を打った。


『高橋さん、いい人なんでしょう?』


指が止まる。


違う。


言いたいことは、それじゃない。


削除する。


『俺は嫌です』


また止まる。


昨日は送れた。


『会ってほしくないです』


『俺が嫌です』


だが今日は、その先を求められている。


なぜ嫌なのか。


答えは、もう分かっている。


たぶん。


かなり。


ほぼ確実に。


医者なら、とっくに診断名をつけている。


自分のことになると、急に検査結果を紛失したくなるだけだ。


それでも優は、また打った。


『高橋さん、いい人なんでしょう?』


送信。


「あ」


送る前から分かっていた。


また逃げた。


既読。


『うん』


たった二文字が怖い。


『条件もいいんですよね』


『そうだね』


優は壁に背中を預けた。


美和の言葉が蘇る。


正しいことだけ言っていれば、自分の本音を言わなくて済む。


分かっている。


今日は、分かっている。


それなのに。


『一度、ちゃんと考えてみてもいいんじゃないですか』


送信。


返事はすぐには来なかった。


三分後。


『今から会える?』


優は一瞬で返した。


『会えます』


【正解を答える男】


駅近くの小さなワインバー。


喜咲は先に来ていた。


「待ちました?」


「七分」


「正確ですね」


「優さんに言われたくない」


声は普通だった。


それが、妙に怖い。


優は隣に座った。


「高橋さんの件ですよね」


「そう」


「正式に交際を申し込まれた」


「うん」


「それで」


喜咲がこちらを見る。


「優さんは、どう思う?」


来た。


昨日より逃げ道がない問いだった。


「高橋さんは、いい人なんでしょう?」


喜咲の眉がわずかに動く。


「それ、さっきも聞いた」


「はい」


「答えたよね」


「はい」


「じゃあ、なんでまた聞くの?」


「確認です」


「何の?」


「人物評価の」


「面接官?」


「違います」


「婚活コンサル?」


「違います」


「じゃあ何?」


「……小鳥遊優です」


「知ってる」


一瞬だけ、いつもの会話に戻った。


優は少し安心した。


その安心が間違いだった。


「私は、高橋さんの評価を聞いてるんじゃないの」


「はい」


「優さんが、どう思うか聞いてる」


優は慎重に答えた。


「条件だけで考えれば、いい話だと思います」


喜咲の笑みが消えた。


「仕事も安定している。人柄もいい。喜咲さんも一緒にいて不快ではないと言っていた」


「うん」


「だったら、検討する価値は」


「やめて」


優は止まった。


「私、高橋さんとの結婚相談をしてるんじゃない」


「分かってます」


「分かってないから、こうなってるの」


喜咲はまっすぐ優を見る。


「私が高橋さんと付き合っても平気?」


嫌だ。


答えは一瞬で出た。


なのに口から出たのは。


「喜咲さんが幸せなら」


喜咲の目が冷えた。


優は、その顔を知っていた。


五年前、美和が見せていた顔。


怒っているのに、その奥で諦め始めている顔。


「……そう」


喜咲がグラスを置く。


「じゃあ、高橋さんと付き合おうかな」


胸が跳ねた。


「条件いいし」


「……そうですね」


「優さんも、おすすめなんでしょ?」


「おすすめというか、客観的には」


「客観的」


喜咲が小さく笑った。


全然、楽しそうではなかった。


「便利だね、その言葉」


【そういうところ、嫌い】


「じゃあさ」


喜咲が言った。


「私が明日、高橋さんに『よろしくお願いします』って返事しても、優さんは祝ってくれる?」


優は答えられない。


「『おめでとうございます』って言える?」


言えない。


想像しただけで嫌だった。


高橋が喜咲を名前で呼ぶ。


喜咲が笑う。


二人で食事をする。


その先まで考えたくない。


「……言えません」


「じゃあ、なんで」


「でも、俺が止める権利はないでしょう」


喜咲が黙った。


「まだ付き合ってない。誰と会うか、誰と付き合うかは喜咲さんの自由です」


「またそれ?」


「大事なことです」


「そう」


「俺の感情で、喜咲さんの可能性を狭めるのは違うと思います」


数秒。


「そういうところ、嫌い」


優は瞬きをした。


「……え?」


「そういうところ、嫌い」


聞き間違いではなかった。


「俺は、喜咲さんのことを考えて」


「考えてない」


「考えてます」


「考えてない!」


近くの客が一瞬こちらを見る。


喜咲は声を落とした。


怒りは落ちなかった。


「優さんが考えてるのは、『私のために何を言うのが正しいか』でしょ」


「それは大事でしょう」


「私の気持ちは?」


優は止まった。


「私が何を思ってるか、一回でも聞いた?」


「高橋さんをいい人だと」


「それは人物評価!」


即答だった。


「私は高橋さんの履歴書を採点してほしいんじゃない!」


「履歴書は見てません」


「そこ突っ込むところ!?」


「すみません」


いつもなら、ここで喜咲は笑う。


今日は笑わなかった。


「私が誰と付き合いたいと思ってるのか」


喜咲の声が低くなる。


「誰に『行ってほしくない』って言われたら嬉しいのか」


優の心臓が強く鳴った。


「そこ、考えた?」


考えた。


ずっと考えている。


なのに。


「俺が決めることでは」


「私の幸せを勝手に決めないで!」


優は言葉を失った。


喜咲の目が潤んでいた。


怒っているだけではない。


傷ついている。


その瞬間、五年前と今が重なった。


【五年前と同じ失敗】


美和が寂しいと言った時、優は早く帰った。


旅行へ行った。


花も買った。


正解を並べた。


でも、一度も聞かなかった。


どうしたら寂しくなくなる?


今も同じだ。


喜咲に幸せになってほしい。


だから条件のいい高橋を勧める。


それなら、自分が選ばれなくても言い訳できる。


自分から手放しただけだ、と。


傷つけたくないのではない。


自分が傷つくのが怖い。


「……俺は」


優が口を開く。


「喜咲さんに幸せになってほしい」


喜咲が目を閉じた。


「また、それ」


「……」


「私、そんな立派な言葉を聞きたいんじゃない」


「じゃあ、何を」


言った瞬間。


喜咲の顔が変わった。


「それを私に聞くの?」


優は息を止めた。


「答えまで私が教えなきゃいけない?」


「そういう意味じゃ」


「優さん」


喜咲は静かに言った。


「昨日、『会ってほしくない』って言ったよね」


「はい」


「嬉しかった」


優は顔を上げた。


「すごく嬉しかった」


「……」


「だから今日、聞いたの。なんで嫌なのって」


喜咲は一度、息を吸う。


「もしかしたら、私と同じなのかなって思ったから」


優の鼓動が跳ねた。


「同じ?」


喜咲は泣きそうな顔で笑った。


「そこまで言わせる?」


「……すみません」


「謝らないで」


「はい」


「その返事も腹立つ」


もう何をしても怒られる。


でも今日は、それでいいと思った。


怒ってくれたほうがいい。


諦められるより、ずっといい。


「怖いんです」


気づけば、言っていた。


喜咲が止まる。


「何が?」


「もし、自分だけだったら」


言葉が喉につかえる。


「もう一度、結婚に失敗するのも怖い。誰かを傷つけるのも怖い」


優は少し間を置いた。


「自分が傷つくのも」


初めて認めた。


相手を自由にしておけば、自分が選ばれなくても『相手のためだった』と思える。


それを優しさだと思っていた。


喜咲が静かに聞く。


「じゃあ、なんで」


声が震えていた。


「私が傷つかないと思ったの?」


優は顔を上げた。


「高橋さんのほうへ行けばいいって言われて、私が何も感じないと思った?」


言葉が出ない。


「優さんが私をどう思ってるか知りたくて聞いたのに」


喜咲の目から、一滴だけ涙が落ちた。


胸が痛んだ。


まただ。


傷つけたくないから、本音を言わなかった。


そのせいで、一番傷つけたくない人を傷つけた。


「喜咲さん」


「今日は帰る」


喜咲が立ち上がる。


優も立った。


「待ってください」


「今は聞きたくない」


「でも」


喜咲は振り返った。


「追いかけるなら」


優は息を止める。


「自分の言葉で追いかけて」


そう言って、喜咲は店を出た。


追わなければ。


足が動かない。


喜咲さんが好きです。


たったそれだけなのに。


優は、追えなかった。


【診断名は、とっくに出ていた】


帰宅したのは十時過ぎだった。


部屋は静かだった。


いつもと同じ一人暮らしの部屋なのに、今日は異様に広く感じる。


スマホを見る。


喜咲からのメッセージはない。


『今日はすみませんでした』


違う。


『傷つけるつもりはありませんでした』


違う。


『落ち着いたら話しましょう』


最悪だ。


医療事故後の報告文みたいだ。


全部消した。


そして、なぜか婚活アプリを開いた。


東海林喜咲。


写真は最初に見た時と同じ。


少し気が強そうで。


実際かなり気が強くて。


プロフィールには、もう例の誤記はない。


『生活リズムの相性も大切にしたいです』


最初は、ここに。


『夜の相性も大切です』


と書いてあった。


それがきっかけだった。


名字を間違えた。


名前も間違えた。


減点された。


なのに、また会いたくなった。


名前で呼ぶだけで嬉しかった。


メッセージが来ると安心した。


来ないと気になった。


くだらない話をしたかった。


笑わせたかった。


高橋と会ったと知って眠れなかった。


正式交際を申し込まれたと知って、腹が立った。


嫌だった。


本当に、嫌だった。


高橋の条件なんて、もうどうでもいい。


俺よりいい男かもしれない。


それでも。


喜咲に、高橋のところへ行ってほしくない。


身勝手で。


格好悪くて。


四十五歳にもなって、まるで初恋みたいだった。


優は画面の中の喜咲を見つめた。


そして、ようやく逃げるのをやめた。


「俺は、この人が好きだ」


言ってしまえば、驚くほど単純だった。


診断名は、とっくに出ていた。


認めていなかったのは、医者のほうだった。


スマホが震える。


喜咲。


『明日、話せる?』


優の心臓が跳ねた。


昨日までなら。


『もちろんです』


と返していた。


無難で、正しくて、何も伝わらない答え。


今度は違う。


『話したいです』


一度止める。


さらに打つ。


『俺から、話したいことがあります』


送信。


数秒後。


『分かった』


優はその四文字を見つめた。


明日は、正解を言うのではない。


自分の答えを言う。


たとえ、選ばれなくても。


今度こそ。


自分から。


好きになる。


第9話 完


次回 第10話


「結婚相手を探してたはずなんだけどな」


高橋への返事を決めた喜咲。


そして優は、ついに逃げずに彼女の前へ立つ。


「条件とか」


「年齢とか」


「離婚歴とか」


「もう、どうでもいいです」


結婚相手を探していたはずの二人が、初めて「条件」ではなく、一人の人間を選ぶ。


第1部、クライマックス。


続きはnoteで公開しています。https://note.com/momokun1

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