第8話「元妻に恋愛相談するな」
大人のラブコメ、始まります!
恋愛経験はある。
結婚だって経験した。
仕事も、それなりにできる。
なのに、好きな人の前では驚くほど不器用。
45歳のバツイチ医師・小鳥遊優と、婚活に疲れた42歳・東海林喜咲。
二人を引き合わせたのは、運命でも理想の条件でもありません。
「夜の相性も大切です」
プロフィールに残ってしまった、たった一行の誤記でした。
名前を読み間違えて減点され、余計なひと言で怒られ、いい大人二人が恋愛だけは初心者のように右往左往。
それでもなぜか、また会いたくなる。
「条件の合う人」と「好きな人」は、本当に同じなのでしょうか。
笑って、すれ違って、ときどき胸がきゅっとする。
そんな二人の面倒で楽しい大人の恋を、ぜひ見届けてください。
第1部「婚活アプリは恋を保証しない」
『会ってほしくないです』
送信してから、小鳥遊優は後悔した。
正確には、送信ボタンを押した〇・五秒後から後悔していた。
「……何を送ってるんだ、俺は」
しかも、そのあと。
『俺が嫌です』
追撃までした。
なぜ二発撃った。
一発目なら、まだ誤送信という逃げ道があった。二発目で本人確認まで完了している。
そして最後には、喜咲から。
『名前』
とだけ返ってきた。
『喜咲さん』
そう送ってから、返事がない。
スマホを伏せる。
十秒後、見る。
通知なし。
伏せる。
十五秒後、見る。
通知なし。
「俺、こんな人間だったか……?」
離婚して五年。誰かの返信をこんなふうに待った記憶はない。
元妻の美和と付き合っていた頃はどうだっただろう。
考えて、やめた。
今、元妻を思い出すのは何かが間違っている。
その判断だけは正しかった。
翌日。
本人に会うまでは。
【元妻は、元夫の顔を知っている】
翌日の昼。
病院近くのカフェでコーヒーを受け取った優は、背後から名前を呼ばれた。
「優?」
振り返る。
肩までの髪。薄いベージュのコート。
「……美和」
小鳥遊美和。四十三歳。
元妻。
離婚して五年。憎み合って別れたわけではない。
だからこそ、偶然会うと困る。
「久しぶり」
「久しぶり」
「元気?」
「元気」
「仕事は?」
「普通」
「相変わらず会話が問診ね」
開始十五秒で刺された。
美和は笑う。
「時間ある?」
「二十五分」
「そういうところも変わってない」
「午後の外来があるから」
「知ってる。元妻なので」
二人は窓際の席に座った。
他人より近く、家族より遠い。
元夫婦という関係には、ちょうどいい単位がない。
「再婚した?」
「してない」
「彼女は?」
「いない」
美和が目を細めた。
「今、〇・七秒くらい迷った」
「測ったの?」
「あなたと結婚してた女を甘く見ないで」
怖い。
「好きな人はいるの?」
優の手が止まる。
「いるんだ」
「まだ、そういう段階では」
「どういう段階?」
「婚活アプリで知り合って、何度か会って」
「婚活してるの?」
「してる」
美和は数秒黙り、それから吹き出した。
「そんなに面白い?」
「だって、あなたが婚活アプリ!」
「俺が使ったら駄目なの?」
「プロフィール何て書いたの?」
「普通だよ」
「趣味は?」
「読書」
「休日は?」
「家でゆっくり」
「性格は?」
「穏やか」
「つまらなっ」
「プロフィールに娯楽性は必要なの?」
「婚活プロフィールを診療情報提供書みたいに書く男、初めて見た」
「見てないだろ」
「見なくても分かる」
元妻は強かった。
【元妻に現在進行形の恋愛を話すな】
「で、どんな人?」
「四十二歳。食品メーカー勤務。仕事ができて、頭の回転が速い」
「美人?」
「……まあ」
「今、目そらした」
「関係ないだろ」
「美人なんだ」
美和は楽しそうだ。
「東海林喜咲さん」
「しょうじ?」
「読めるの?」
「普通に」
「……そう」
「何、その敗北した顔」
「最初、とうかいりんって読んだ」
美和が吹き出す。
「あなた、本当に人の名前弱いよね」
「患者さんは間違えない」
「婚活相手は間違えていいの?」
「下の名前も間違えた」
「喜咲で?」
「きしょう」
美和は額を押さえた。
「よく二回目があったね」
「俺もそう思う」
「で、その喜咲さんと何かあった?」
相談する相手として元妻は正しいのか。
かなり間違っている。
だが、自分の恋愛上の欠陥をこの人以上に知っている人間もいない。
「別の男性からもアプローチされてる」
「いい人?」
「条件がいい。収入も安定してる。本人も、すごくいい人だって」
「それで?」
「会ってみたらいいって言った」
「馬鹿なの?」
診断まで〇・二秒だった。
「まだ付き合ってないんだから、俺が止める権利はないだろ」
「権利の話してない」
「相手の自由は尊重すべきだと思う」
「法律相談?」
「そうじゃなくて」
「好きなの?」
優は黙った。
美和も黙った。
三秒。
「……そこから?」
「何が」
「そこから説明しないといけないの?」
美和が額を押さえる。
「その人が別の男と付き合ったら?」
「本人が幸せなら」
「優」
「何」
「医者やめて政治家になったの?」
「なんで」
「聞かれたことに答えない才能がある」
【いい夫だった。でも、寂しかった】
美和の笑みが少しだけ消えた。
「今度は、ちゃんと話しなよ」
「話してたよ」
「今日何食べる、とかはね」
優は黙る。
「仕事の話もした」
「したね」
「旅行も行った」
「行った」
「家事だって」
「してくれた。体調が悪い時も助けてくれた」
美和はまっすぐ優を見た。
「あなたは、いい夫だったよ」
五年前にも聞いた言葉だった。
「でも、一緒にいると、ずっと寂しかった」
胸の奥に、古い痛みが戻る。
「……俺は、美和を傷つけたくなかった」
「知ってる」
「喧嘩したくなかった」
「知ってる」
「俺が我慢すればいいと思ってた」
「それも知ってる」
「じゃあ」
「私、あなたが何を我慢してるのか知らなかった」
言葉が止まった。
「言わないから」
美和の声は責めていなかった。
それが一番、逃げにくい。
「仕事で嫌なことがあっても『大丈夫』。疲れてても『平気』。私に腹が立っても『怒ってない』」
「本当に怒ってない時も」
「そこを訂正する?」
「事実だから」
「そういうところ」
美和は少し笑った。
「私が『寂しい』って言った時、覚えてる?」
覚えている。
優は仕事を早く切り上げた。夕食を一緒に食べた。旅行へ行った。記念日に花も買った。
「俺なりに、何とかしようとした」
「うん。全部してくれた」
「じゃあ何が足りなかった?」
美和は一拍置いた。
「『どうしたら寂しくなくなる?』って、一度も聞かなかった」
優は息を止めた。
「あなたは答えを出してくれた。早く帰る。旅行する。花を買う」
「駄目だった?」
「嬉しかったよ。でも私が欲しかったのは、正解じゃなかった」
喜咲の顔が浮かぶ。
正解を探す。相手にとって一番いい答えを出そうとする。
それは、優がずっとやってきたことだった。
「私も悪かった」
美和が言う。
「もっと言えばよかった。あなたなら察してくれると思って、途中で諦めた」
「俺は察しない」
「知ってる。五年かかった」
「結婚してる間に気づいて」
「あなたもね」
二人で笑った。
昔は笑えなかったことを、今なら少しだけ笑えた。
そして美和は、静かに言った。
「優。あなたは優しいよ」
優は顔を上げる。
「でも、自分が傷つかない距離から優しくするの」
笑えなかった。
【優しさという逃げ道】
『いい人なら会ってみたらいいと思います』
喜咲に送った言葉を思い出す。
本当に、そう思っていたのか。
違う。
嫌だった。
高橋という男の名前を見るだけで、胃のあたりが重くなった。
なのに優は「相手の自由だから」と言った。
「……俺、逃げてたのか」
「たぶんね」
「尊重してるつもりだった」
「尊重もしてる。だから面倒なの」
「面倒?」
「全部正しいのよ。相手の自由を尊重する。傷つけない。束縛しない」
美和は指を折る。
「正しいことだけ言ってれば、自分の本音を言わなくて済むでしょ」
優は黙った。
「『行ってほしくない』って言って拒まれるのが怖い」
「……」
「『好きだ』って言って選ばれないのが怖い」
「……」
「だから先に、相手に選択権を渡す」
「俺は、美和を縛りたくなかった」
「『行かないで』って言うことと、鎖でつなぐことは違うよ」
優は言葉を失った。
「嫌だって言っていい。寂しいって言っていい。そばにいてほしいって言っていい」
美和は笑った。
「相手には断る権利がある。でも、あなたには言う権利がある」
患者には何度も言ってきた。
希望を教えてください。
何を大切にしたいのか教えてください。
なのに、自分の希望だけは言わなかった。
【診断名は、たぶんもう出ている】
「で」
美和が腕時計を見る。
「喜咲さんのこと、好きなの?」
また来た。
「……分からない」
「まだ?」
「でも、高橋さんと会うのは嫌だった」
「うん」
「メッセージが来ると嬉しい」
「うん」
「来ないと気になる」
「うん」
「名前で呼ばれると……かなり嬉しい」
美和が笑う。
「それを世間では何て言うんでしょうね」
「診断はまだ早い」
「恋愛に血液検査はないよ」
「分かってる」
「画像診断もない」
「分かってる」
「経過観察?」
「帰る」
「逃げた」
優が立ち上がると、美和が笑った。
「優」
「何」
「よかった」
「何が?」
「ちゃんと、誰かを好きになれそうで」
その顔は、からかう元妻のものではなかった。
「離婚したあと、ちょっと心配だったの。このまま誰にも本音を言わずに、一人で生きるんじゃないかって」
「余計なお世話だ」
「元妻なので」
優は笑った。
「美和は?」
「何が?」
「幸せ?」
一瞬、美和が驚く。
それから。
「うん」
と答えた。
その顔を見ても、胸は痛まなかった。
取り戻したいとも思わない。
ただ、よかったと思った。
その瞬間、優は初めて、自分の結婚が本当に終わったのだと思った。
「そっか」
「うん」
「よかった」
美和は少し目を細める。
「そういうところは好きだったよ」
「過去形?」
「元妻なので」
便利な言葉だった。
【今度は、自分から好きになれ】
店を出る前、美和が言った。
「一個だけ忠告」
「何」
「今後、恋愛相談するなら私以外にして」
「俺から相談したわけじゃない」
「喜咲さんに言える? 『今日、元妻と二人でカフェに行って、君との恋愛について話しました』」
優は想像した。
喜咲はたぶん笑う。
目だけ笑わずに。
「……言わない」
「正解。墓まで持っていきなさい」
「そんな重大事項?」
「女には知らなくていい情報もあるの」
美和は手を振り、数歩進んでから振り返った。
「優」
「何?」
「今度はちゃんと、自分から好きになりなよ」
優は黙る。
「選ばれるのを待つんじゃなくて」
そう言って、美和は人混みへ消えた。
【好きじゃないなら、なんで】
午後の外来を終えたのは七時過ぎだった。
スマホに喜咲からメッセージが来ていた。
『今日忙しい?』
たった一行で、疲労が少し軽くなる。
『今終わりました』
すぐ既読。
『お疲れさま』
『ありがとうございます』
送ってから、優は止まった。
違う。
今日は、それで終わらせたくない。
『昨日のことなんですけど』
『何』
『高橋さんのことです』
『うん』
優は指を止めた。
嫌だと言っていい。
自分には、言う権利がある。
『俺は、喜咲さんが高橋さんと付き合うのは嫌です』
送信。
心拍数が上がる。
もう一通。
『たぶん、かなり嫌です』
返信が来た。
『昨日より進歩したね』
思わず笑う。
『努力しています』
『恋愛って努力目標なの?』
『少なくとも俺には』
少し間が空く。
『じゃあ質問』
『はい』
『なんで嫌なの?』
優の指が止まった。
答えは、たぶんもう分かっている。
高橋より自分を選んでほしい。
メッセージが来ると嬉しい。
会いたい。
笑ってほしい。
喜咲と呼びたい。
優さんと呼ばれると嬉しい。
他の男のところへ行ってほしくない。
これを世間では何と呼ぶのか。
分かっている。
『考え中?』
『はい』
『国家試験より難しい?』
『比較になりません』
『そんなに?』
『国家試験には正解がありました』
すぐ返ってきた。
『じゃあ、これは正解じゃなくて、優さんの答えが聞きたい』
胸を突かれた。
正解ではなく。
自分の答え。
『分かりました』
優は次の言葉を打とうとした。
その時。
喜咲から、もう一通届いた。
『そういえば今日、高橋さんから連絡きた』
指が止まる。
『正式に付き合ってほしいって』
頭の中から、用意していた言葉が全部消えた。
嫌だ。
昨日より、はっきり分かる。
高橋はいい人だ。
条件もいい。
喜咲を大切にするかもしれない。
そんなことは分かっている。
それなのに。
腹が立つ。
高橋に。
喜咲にではない。
一番腹が立つのは。
ここまで来ても「好きだ」と言えない、自分自身だった。
スマホが震える。
『優さん?』
優は画面を見つめた。
好きじゃないなら。
なんで。
こんなに腹が立つ。
第8話 完
次回 第9話
「好きじゃないなら、なんでこんなに腹が立つ」
高橋から喜咲への正式交際の申し込み。
ようやく本音を言おうとした優の口から出たのは、
「高橋さん、いい人なんでしょう?」
だった。
喜咲の表情が変わる。
「そういうところ、嫌い」
初めて正面からぶつかる二人。
優の「優しさ」は、今度こそ好きな人を傷つける。
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