第7話「条件なら、あの人のほうが上」
大人のラブコメ、始まります!
恋愛経験はある。
結婚だって経験した。
仕事も、それなりにできる。
なのに、好きな人の前では驚くほど不器用。
45歳のバツイチ医師・小鳥遊優と、婚活に疲れた42歳・東海林喜咲。
二人を引き合わせたのは、運命でも理想の条件でもありません。
「夜の相性も大切です」
プロフィールに残ってしまった、たった一行の誤記でした。
名前を読み間違えて減点され、余計なひと言で怒られ、いい大人二人が恋愛だけは初心者のように右往左往。
それでもなぜか、また会いたくなる。
「条件の合う人」と「好きな人」は、本当に同じなのでしょうか。
笑って、すれ違って、ときどき胸がきゅっとする。
そんな二人の面倒で楽しい大人の恋を、ぜひ見届けてください。
第1部「婚活アプリは恋を保証しない」
「条件なら、小鳥遊さんよりいいかも」
送信したあと、東海林喜咲はスマホを伏せた。
三秒後、また手に取る。
既読。
「……早いのよ」
取り消しは、もう間に合わない。
小鳥遊優から返ってきた。
『楽しかったですか?』
喜咲は眉を寄せた。
「そこ?」
条件ならあなたより上。
そう言われた男の返事が、それなのか。
嫉妬するとか。
腹を立てるとか。
せめて少し冷たくなるとか。
何かあるでしょう。
『うん。楽しかったよ』
少し意地悪に返した。
既読。
返信が来ない。
一分。
二分。
「……遅い」
昨日まで気にしていなかった返信速度が、今日は腹立たしい。
ようやく届く。
『そうですか』
「それだけ!?」
スマホへ突っ込む四十二歳。
我ながら末期だ。
けれど、日曜日の高橋大輔とのデートは、本当に楽しかった。
正確に言えば。
何一つ、問題がなかった。
それが一番の問題だった。
【欠点のない男】
高橋は、待ち合わせの五分前に来た。
早すぎず、遅すぎず。
清潔なジャケット。
磨かれた靴。
強すぎない香水。
「東海林さん、お待たせしました」
しかも名字を一発で読んだ。
喜咲は感動した。
「……読めるんですね」
「え?」
「こちらの事情です」
初対面で「とうかいりん」と読んだ男がいた。
ついでに下の名前まで「きしょう」と読まれた。
あれに比べれば、高橋は開始十秒で二十点リードである。
店もいい。
落ち着いたイタリアン。
高すぎず、安すぎず。
隣の席も近すぎない。
「苦手なもの、あります?」
「特にないです」
「僕、パクチーだけは駄目で」
「あ、それは私も」
「本当ですか」
二人で笑う。
会話も続く。
仕事。
旅行。
親。
住む場所。
婚活。
高橋は人の話を遮らない。
自慢話もしない。
元恋人の悪口も言わない。
店員にも丁寧だ。
会計でも妙な駆け引きをしなかった。
「今日は僕に出させてください」
「でも」
「次があれば、その時考えましょう」
次。
さらりと言う。
うまい。
婚活五年。
いろんな男を見てきた。
初対面で資産運用を勧める男。
母親の写真を三十枚見せる男。
「四十代女性には柔軟性が必要」と説教しながら、自分は十七歳下を希望していた男。
その中で、高橋は間違いなく上位だった。
仕事。
収入。
性格。
会話。
全部いい。
この人と結婚したら、たぶん穏やかだ。
揉めない。
安心できる。
それは、喜咲がずっと探していたはずのものだった。
「東海林さん」
「はい」
「今日は前よりよく笑いますね」
「そうですか?」
「はい。少し安心しました」
「私、そんなに怖かったですか」
「少し」
「失礼ですね」
「ほら、そういうところです」
また笑う。
悪くない。
本当に悪くない。
なのに。
胸の奥に、小さな空白が残った。
【いい人なのに】
食後、二人はカフェへ移った。
「婚活って疲れません?」
高橋が言った。
「疲れます」
即答した。
「プロフィール見て、条件見て、メッセージして」
「会ったらまた一から説明して」
「趣味は何ですか」
「休日は」
「結婚後は仕事を」
「何人に同じこと聞かれたか分からない」
二人で笑う。
高橋も婚活に疲れている。
「若い頃みたいに、勢いだけでは決められませんよね」
「そうですね」
「仕事とか、親とか、住む場所とか」
「健康も」
「……健康?」
喜咲は止まった。
しまった。
今のは。
何かにつけて体調、睡眠、食生活を気にする医者の影響だ。
「知り合いに医者がいて」
「なるほど」
高橋は気にせず話を続ける。
けれど、頭の隅に小鳥遊優が居座った。
高橋が正しいことを言うたび。
優なら何て言うだろう。
高橋がきれいに話をつなぐたび。
優なら今ごろ、黙って困った顔をしていそうだ。
比較している。
高橋と優を。
しかも。
優を基準にしている。
「東海林さん」
「はい?」
「今、別の人のこと考えてました?」
心臓が跳ねた。
「顔に出てました?」
「少しだけ」
「最悪」
「婚活中なら普通ですよ」
その言い方も大人だった。
優なら。
『他の男性と比較することは規約違反ではありません』
とか言いそうだ。
想像した瞬間。
「ふっ」
笑ってしまった。
高橋が目を丸くする。
「僕、何か面白いこと言いました?」
「すみません。違うんです」
「じゃあ、誰が面白かったんです?」
答えられない。
ここにいない男だ。
しかも本人は何もしていない。
想像だけで笑わせてくる。
ずるい。
【条件表に「好き」はない】
その夜。
『で?』
水野奈緒から電話が来た。
「何が」
『高橋さん』
「すごくいい人だった」
『じゃあ決まり』
「何が」
『付き合いなよ』
喜咲は黙った。
『その間は何』
「別に」
『小鳥遊さん?』
「なんで出てくるの」
『今の沈黙から』
「超能力者?」
『婚活七年なめんな』
「七年やって結婚してないじゃない」
『切るよ』
「ごめん」
喜咲はソファへ沈んだ。
「高橋さん、本当にいいの。仕事もちゃんとしてるし、収入もいいし、話も合うし」
『最高じゃん』
「名前も読める」
『そこ基準に入れるのやめな』
「大事でしょ」
『それ、小鳥遊基準だから』
黙る。
奈緒は逃がしてくれない。
『で、小鳥遊さんは?』
「条件なら、高橋さんより下」
『具体的には』
「バツイチ」
『はい』
「恋愛能力が低い」
『はい』
「空気を読まない」
『はい』
「会話がときどき国家試験」
『何それ』
「質問すると正解を答えようとするの」
『医者だから?』
「性格」
『なるほど』
「人の気持ちを尊重しすぎて、自分の気持ちは言わない」
そこだけ、声が小さくなった。
『それが嫌なんだ』
喜咲は答えなかった。
奈緒が言う。
『高橋さんは、喜咲が欲しかった条件をほとんど持ってる』
「うん」
『小鳥遊さんは?』
「持ってない」
『じゃあ高橋さんでいいじゃん』
「……そうなんだけど」
『その「だけど」が答えじゃない?』
喜咲はクッションへ顔を埋めた。
「知らない」
『条件って悪くないよ。結婚は生活だから、年収も仕事も親も大事』
「分かってる」
『でもさ』
奈緒の声が少しだけ優しくなる。
『「好き」って、条件表のどこに書くの?』
喜咲は黙った。
年齢。
年収。
職業。
居住地。
結婚歴。
子どもの希望。
喫煙。
飲酒。
婚活アプリなら、いくらでも絞り込める。
でも。
その人からメッセージが来るだけで嬉しい。
そんな検索項目はない。
【一発変換】
翌日の午後八時十三分。
スマホが震えた。
小鳥遊優。
喜咲は反射的に開きそうになり、止めた。
すぐ開くのは負けた気がする。
三秒。
五秒。
「もういい」
開いた。
一行だった。
『東海林って、一発変換できるようになりました』
「…………」
何それ。
もう一度読む。
完璧なデート。
いい店。
いい料理。
いい会話。
いい条件。
それら全部を押しのけて。
この、どうでもいい一行が。
胸の真ん中へ入ってきた。
「ぷっ」
吹き出した。
『今さら?』
送る。
すぐ既読。
『単語辞書に登録しました』
『そこまでしなくていい』
『毎回検索するより効率的なので』
『ロマンがない』
『すみません』
『謝るところじゃない』
『難しいですね』
『何が』
少し間があった。
『喜咲さんとの会話』
指が止まった。
喜咲さん。
名字ではない。
それだけで、昨日からの苛立ちが少しほどける。
『なんで急に東海林を登録したの?』
返事は遅かった。
『昨日、何度か入力したので』
『何に?』
『特に意味はありません』
絶対ある。
『言え』
『怖いです』
『言え』
しばらくして。
『高橋さんのことを考えていたら、東海林さんの名前を何度も入力していました』
胸が鳴った。
『なんで?』
今度は長い。
一分。
二分。
ようやく届く。
『自分でも、まだ整理できていません』
「またそれ」
逃げる。
本当にこの男は。
だが、次の一通で。
呼吸が止まった。
『ただ、高橋さんとまた会うと言われるのは嫌でした』
喜咲は画面を見つめた。
『何それ』
『すみません』
『謝るな』
『はい』
『そこは「はい」なの?』
『難しいですね』
また笑った。
そして。
少しだけ泣きそうになった。
【条件なら、あの人のほうが上】
高橋はいい人だった。
本当にいい。
条件なら。
たぶん、優より上だ。
それでも。
高橋とのデートの帰りに、もう少し話したいとは思わなかった。
メッセージを待って眠れなくなることもなかった。
優とは。
名字を間違えられた。
名前まで間違えられた。
腹が立った。
呆れた。
何度も突っ込んだ。
重要なところでは逃げる。
恋愛能力は壊滅的だ。
それなのに。
一緒にいると笑う。
会っていない時も思い出す。
連絡が来なければ気になる。
来れば嬉しい。
他の男と会うと言ったら。
困ってほしかった。
止めてほしかった。
『一つ聞いていいですか』
優から届く。
『何』
『高橋さんと、また会うんですか』
喜咲は少し考えた。
『まだ決めてない』
『そうですか』
「またそれ」
笑いながら、打つ。
『優さんは?』
送ってから、自分で気づいた。
小鳥遊さんではない。
優さん。
戻してしまった。
『何がですか』
『私に高橋さんと会ってほしい?』
長い沈黙。
また逃げるのか。
そう思った時。
届いた。
『会ってほしくないです』
喜咲は動けなかった。
続けて。
『規約とか、自由とか、そういう話ではなく』
そして。
『俺が嫌です』
胸の奥が熱くなる。
遅い。
本当に遅い。
昨日言え。
第6話で言え。
もっと早く言え。
でも。
嬉しい。
どうしようもなく。
四十二歳。
婚活歴五年。
仕事では後輩を指導する立場。
なのに。
好きになりかけた男から、
「他の男と会ってほしくない」
と言われただけで。
顔が熱い。
「中学生か、私は」
優も今ごろ、同じようにスマホを握っている気がした。
喜咲は打つ。
『検討します』
すぐ既読。
『何をですか』
『高橋さんとまた会うか』
少し間。
『そうですか』
「もう!」
笑ってしまう。
そして追加した。
『あと』
『はい』
『一発変換できるようになったなら、ちゃんと使って』
『東海林、をですか?』
違う。
この人は、本当に。
喜咲はため息をついて打った。
『喜咲』
既読。
返事が来ない。
十秒。
二十秒。
ようやく。
『喜咲さん』
たった四文字。
なのに。
喜咲はスマホを胸へ抱いた。
条件なら。
高橋のほうが上。
それは、たぶん事実だ。
でも。
好きになる理由は。
条件表には載っていない。
喜咲は、ようやく認めた。
小鳥遊優が好きだ。
かなり。
面倒なくらいに。
そこで、新しい問題に気づいた。
「あれ?」
優は。
自分を好きだとは。
まだ一度も言っていない。
喜咲はスマホを見た。
「……そこ、まだなの?」
大人の恋は。
条件が揃ってからのほうが、ややこしい。
第7話 完
次回 第8話
「元妻に恋愛相談するな」
小鳥遊優は、偶然、元妻・美和と再会する。
婚活中だと知った美和は言った。
「今度はちゃんと話しなよ」
「話してたよ」
「今日何食べる、とかはね」
そして、優がずっと見ないふりをしてきた欠点を突く。
「あなたは優しい。でも、自分が傷つかない距離から優しくするの」
喜咲にも、同じことをしていないか。
優は初めて、自分の「優しさ」を疑い始める。
『婚活アプリのプロフィールに「夜の相性も大切です」と書いた女とマッチしました』連載中。
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