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第6話「他の男と会うのは規約違反ではありません」

大人のラブコメ、始まります!




恋愛経験はある。


結婚だって経験した。


仕事も、それなりにできる。




なのに、好きな人の前では驚くほど不器用。




45歳のバツイチ医師・小鳥遊優と、婚活に疲れた42歳・東海林喜咲。




二人を引き合わせたのは、運命でも理想の条件でもありません。




「夜の相性も大切です」




プロフィールに残ってしまった、たった一行の誤記でした。




名前を読み間違えて減点され、余計なひと言で怒られ、いい大人二人が恋愛だけは初心者のように右往左往。




それでもなぜか、また会いたくなる。




「条件の合う人」と「好きな人」は、本当に同じなのでしょうか。




笑って、すれ違って、ときどき胸がきゅっとする。


そんな二人の面倒で楽しい大人の恋を、ぜひ見届けてください。




第1部「婚活アプリは恋を保証しない」

「今度の日曜日、別の人と会うことになった」


火曜、午後九時十二分。


東海林喜咲から届いたメッセージを、小鳥遊優は三回読んだ。


文章は短い。

意味も難しくない。


なのに、理解だけが妙に遅かった。


『前に話してた高橋さん』


追撃が来た。


優はソファに座ったまま、スマホを見つめる。


高橋大輔。四十八歳。

収入は安定。話し方は穏やか。聞き上手。


喜咲いわく、


「条件だけならかなり優良」


そこまで思い出したところで、胸の奥がざらついた。


『そうなんですね』


打つ。


消す。


『会うんですか?』


書いてある。


消す。


『どうして?』


恋人か。


消す。


五分後、喜咲から届いた。


『生きてる?』


『生きてます』


『返信遅いから死んだかと思った』


『通常、人は五分では死にません』


すぐ既読。


『医者の返事じゃなくて、男の返事をしろ』


優は止まった。


男の返事。


医学部では習っていない。


国家試験にも出なかった。


恋人ではない、という事実


翌日の昼休み。


「それ嫉妬」


職員食堂で、神崎隆之は焼き魚をほぐしながら言った。


「違います」


「嫉妬」


「違います」


「じゃあ何」


「違和感です」


神崎の箸が止まる。


「嫉妬を違和感って診断する医者、初めて見た」


「診断ではありません」


「昨日寝た?」


優は黙った。


「何時間」


「四時間くらい」


「普段は?」


「六時間半」


神崎は優のほとんど減っていない昼食を見る。


「食欲低下。不眠。特定の男の存在が気になる」


「勝手に症状を並べないでください」


「はい、嫉妬」


「医学的根拠は?」


「今のお前の顔」


「顔で診断しないでください」


神崎は味噌汁をすすった。


「で、お前と喜咲さん、付き合ってる?」


「いえ」


「告白した?」


「してません」


「手は?」


優が黙る。


「つないでないの?」


「タイミングが」


「キスは?」


「してません」


「何したんだよ」


少し考えて、優は答えた。


「名前で呼びました」


神崎は目を閉じた。


「四十五歳だよな」


「はい」


「高校生でも、もう少し進むぞ」


「年齢は関係ないでしょう」


「その四十五歳が名前呼んだだけで四時間しか寝てないんだろ」


返せなかった。


神崎が言う。


「つまり、止める権利はない」


「分かってます」


そこだけは即答できた。


喜咲は恋人ではない。


婚約者でもない。


妻でもない。


婚活アプリで知り合い、何度か食事をして、名前で呼ぶようになった女性。


ただ、それだけ。


だから喜咲が誰と会おうと自由だ。


理屈は完璧だった。


完璧すぎて、腹が立った。


規約は、恋愛を守ってくれない


その夜。


喜咲から電話が来た。


『昨日の話なんだけど』


「高橋さんですか」


『そう。日曜に会う』


「はい」


『悪い人じゃないの』


「そうなんですね」


『仕事もちゃんとしてる』


「大事ですね」


『収入も安定してる』


「いいですね」


『話も落ち着いてる』


「素晴らしいですね」


沈黙。


『ずいぶん褒めるね』


「聞いている限りでは」


『私に勧めてる?』


「勧めてはいません」


『じゃあ、会ってきてもいい?』


優の喉が止まった。


本来、許可を求められる筋合いではない。


喜咲には聞く義務すらない。


それでも。


なぜ、自分に聞く。


「他の男性と会うことは、婚活アプリの規約違反ではありません」


数秒、完全な無音。


『バカじゃないの?』


「え」


『私、利用規約の話した?』


「してません」


『じゃあ何で規約が出てくるの』


「客観的事実として」


『私は消費者センターに電話してるんじゃないの!』


怒鳴られた。


優はスマホを少し耳から離した。


『普通、ちょっとくらい何かないの?』


「何か、とは」


『例えば』


喜咲の声が少しだけ小さくなる。


『行ってほしくない、とか』


心臓が一度、強く鳴った。


言えばいい。


行ってほしくない。


たったそれだけだ。


患者には、手術も合併症も予後も説明できる。


難しい言葉を噛み砕いて、何十分でも話せる。


なのに、その一言だけが出ない。


言えば責任が生まれる。


行ってほしくない。


なら、自分は喜咲とどうなりたいのか。


付き合いたいのか。


結婚まで考えているのか。


また失敗するかもしれないのに。


優は逃げた。


「いい人なら、会ってみたらいいと思います」


電話の向こうの空気が変わった。


『そっか』


「喜咲さん」


『うん』


「その……」


言葉を探す。


見つからない。


「楽しんできてください」


最悪の追加処方だった。


『ありがとう』


喜咲は笑った。


ただし、いつもの笑いではなかった。


『じゃあね』


通話が切れる。


優は画面を見つめた。


「楽しんできてくださいって何だ」


自分で自分を殴りたくなった。


その優しさ、誰のため?


同じ頃。


「感じ悪っ」


喜咲はベッドの上で枕を叩いた。


「何が『楽しんできてください』よ」


もう一回。


「誰が楽しむか!」


枕に罪はない。


水野奈緒へ電話する。


『どうだった?』


「最悪」


『何が?』


「小鳥遊」


『優さんじゃなかった?』


「今日から小鳥遊」


『喧嘩した?』


「してない」


『なのに名字へ戻るんだ』


「腹立つから」


奈緒が笑った。


『恋愛メーター、分かりやすいね』


「うるさい」


喜咲は一連の会話を説明した。


『本人は気を遣ったつもりなんじゃない?』


「分かってる」


『じゃあ何で怒ってるの』


「分かってるからよ」


優は優しい。


相手の自由を奪わない。


自分の考えを押しつけない。


喜咲が望むことを尊重する。


たぶん、本気で。


だから腹が立つ。


「正解なんて聞いてないの」


『うん』


「ちょっとくらい、困ってほしかった」


口にした瞬間、恥ずかしくなった。


四十二歳。


婚活歴五年。


何人もの男を見てきた。


なのに好きになりかけた相手には、


他の男と会うと言ったら、困ってほしい。


我ながら面倒だ。


奈緒が静かに言う。


『それ、もう答え出てない?』


「何が」


『高橋さんと会うかどうかじゃなくて』


喜咲は黙る。


『小鳥遊さんに止めてほしかったんでしょ』


「切るよ」


『図星か』


通話を切った。


枕へ顔を埋める。


「……バカ」


それが優への言葉か、自分への言葉か。


喜咲にも分からなかった。


選ぶ自由と、選んでほしい気持ち


金曜。


「お前、恋愛を法律相談だと思ってるだろ」


神崎に言われ、優は眉を寄せた。


「思ってません」


「権利とか規約とか、そういう話ばっかりじゃん」


「まだ付き合ってないんです。喜咲さんには選ぶ自由があります」


「あるよ」


「なら」


「お前にも『選んでほしい』って言う自由がある」


優は顔を上げた。


神崎は珍しく笑っていなかった。


「相手の自由を尊重するのと、自分の気持ちを隠すのは別だぞ」


胸の奥を突かれた。


似た言葉を、以前にも聞いたことがある。


元妻、美和。


『あなたはいい夫だった。でも一緒にいると、ずっと寂しかった』


優はその先を考えないようにしてきた。


「高橋さんは条件がいいみたいです」


「急に何」


「仕事も安定していて、収入も高い。落ち着いていて、聞き上手で」


「お前、高橋と結婚するの?」


「しません」


「じゃあ何で俺にプレゼンしてんの」


「喜咲さんに合うかもしれない」


神崎がため息をついた。


「またそれだ」


「何がですか」


「喜咲さんが誰と合うか、何でお前が決めるんだよ」


優は黙った。


「条件なら高橋のほうがいいかもしれない。でも、好きになる相手って履歴書で決まるのか?」


神崎は立ち上がる。


「婚活は条件を見る。でも恋愛は、条件表からはみ出したところで始まるんだよ」


一人残された優は、考えた。


年齢。


職業。


収入。


離婚歴。


生活習慣。


婚活では全部大切だ。


でも喜咲といる時、自分はそんなものを考えていただろうか。


焼き鳥を選ぶだけで笑った。


名字を読み間違えて怒られた。


名前で呼んだだけで眠れなかった。


どれも条件表には書けない。


日曜日、知らない男の昼飯が気になる


日曜日。


午前十一時。


優は医学雑誌を開いた。


十分後。


一ページも進んでいなかった。


午後一時。


「そろそろ昼食かな」


自分で口にして止まる。


何を考えている。


午後一時十五分。


「店に入った頃か」


知らない。


午後一時三十分。


「高橋さん、何食べるんだろう」


どうでもいい。


高橋が蕎麦でも寿司でもパンケーキでも、何の関係もない。


午後一時四十五分。


「……パンケーキは嫌だな」


何が嫌なのか、自分でも分からない。


スマホを見る。


通知なし。


置く。


三十秒後、また見る。


通知なし。


患者にはスマホ依存を注意するのに、自分が一番ひどい。


午後二時十七分。


ようやく震えた。


喜咲。


『今日、高橋さんと会ってる』


実況しなくていい。


心臓が速くなる。


『そうなんですね』


消す。


『楽しんでますか』


誰だお前。


消す。


『どうですか』


面接官か。


消す。


結局、


『はい』


と送った。


送った瞬間、頭を抱える。


「何の『はい』だ」


二分後。


『何が「はい」なの?』


『自分でも分かりません』


『怖い』


そのあと。


『じゃ、またね』


終わった。


優はソファへ倒れた。


高橋は今、喜咲の目の前にいる。


笑わせているかもしれない。


名前で呼んでいるかもしれない。


その想像だけで胸がざわつく。


「喜咲さん」


誰もいない部屋で呼んだ。


そして、ようやく認めた。


嫌だ。


他の男が喜咲の隣にいる。


それが、どうしようもなく嫌だ。


診断名、嫉妬


午後七時。


神崎から電話が来た。


『どう?』


「何がですか」


『症状』


「患者扱いしないでください」


『眠れない。食欲が落ちる。スマホを何度も見る。知らない男の昼飯が気になる』


「最後は言ってません」


『声に書いてある』


「無茶苦茶ですね」


『で、診断は?』


優はしばらく黙った。


「……嫉妬ですかね」


電話の向こうも一瞬、静かになった。


『遅い!』


「声が大きい」


『四十五歳で初診まで何日かかってるんだ!』


「診断が難しかったので」


『症例報告にするぞ』


「やめてください」


神崎の笑い声を聞きながら、優は少しだけ息を吐いた。


認めてしまえば単純だった。


喜咲が他の男と会うのが嫌だ。


なぜなら。


「……好きなんですかね」


『誰が』


「俺が」


『誰を』


「分かってるでしょう」


『本人に言え』


「それはまだ」


『はい、逃げた』


「逃げてません」


『じゃあ何してる』


答えられない。


失敗したくない。


傷つけたくない。


傷つきたくない。


だから喜咲の幸せを願っているふりをして、自分は安全な場所にいる。


その時。


メッセージが届いた。


喜咲。


『終わった』


優はすぐ開く。


『高橋さん、やっぱりいい人だった』


胸が沈む。


続けて届く。


『条件なら、小鳥遊さんよりいいかも』


小鳥遊さん。


名字。


昨日までの「優さん」ではない。


たった呼び方一つで、こんなにも遠い。


神崎が電話の向こうで聞く。


『どうした?』


「……名字に戻りました」


『何の話?』


「喜咲さんが」


『お前ら本当に中学生だな』


「かなり深刻です」


『名字が?』


「はい」


優はメッセージを打った。


『楽しかったですか?』


返事はすぐ来た。


『うん。楽しかったよ』


胸が痛んだ。


診断するまでもない。


人生初の、本格的な嫉妬。


そして、さらに一通。


『また会ってみようかな』


優は画面を見たまま動けなかった。


相手の自由を尊重する。


それは正しい。


けれど。


正しいだけでは、好きな人は振り向かない。


小鳥遊優はその夜、初めて思った。


「行ってほしくない」と言えばよかった。


遅すぎる自覚だった。


でも。


もう、知らないふりはできなかった。


第6話 完

次回 第7話

「条件なら、あの人のほうが上」


高橋大輔は、本当にいい男だった。


仕事も、収入も、話し方も、価値観も悪くない。


「この人と結婚したら、たぶん楽なんだろうな」


喜咲はそう思う。


なのに帰り道、優から届いたのは、たった一行。


『東海林って、一発変換できるようになりました』


完璧なデートより、そのくだらない一行のほうが嬉しい。


喜咲は、いよいよ自分の気持ちから逃げられなくなる。

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