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第5話「名前で呼んだだけなのに」

人のラブコメ、始まります!




恋愛経験はある。


結婚だって経験した。


仕事も、それなりにできる。




なのに、好きな人の前では驚くほど不器用。




45歳のバツイチ医師・小鳥遊優と、婚活に疲れた42歳・東海林喜咲。




二人を引き合わせたのは、運命でも理想の条件でもありません。




「夜の相性も大切です」




プロフィールに残ってしまった、たった一行の誤記でした。




名前を読み間違えて減点され、余計なひと言で怒られ、いい大人二人が恋愛だけは初心者のように右往左往。




それでもなぜか、また会いたくなる。




「条件の合う人」と「好きな人」は、本当に同じなのでしょうか。




笑って、すれ違って、ときどき胸がきゅっとする。


そんな二人の面倒で楽しい大人の恋を、ぜひ見届けてください。




第1部「婚活アプリは恋を保証しない」

「東海林さんって、よそよそしくない?」


言った瞬間、東海林喜咲は後悔した。


まだビールは一杯目だった。


酒のせいには、少し早い。


名字は安全距離


金曜、午後七時半。


駅裏の小さな居酒屋で、小鳥遊優と喜咲はカウンターに並んでいた。


「東海林さん、まだ決まりません?」


「人生には慎重な選択が必要なの」


「焼き鳥ですよ」


「焼き鳥を軽く見る男は結婚生活で失敗するよ」


優が真顔になる。


「俺の離婚原因、そこだったのかな」


「前回の話を焼き鳥で回収するな」


笑った。


こういう、何の役にも立たない会話が妙に楽しい。


「ねぎま、つくね、皮、レバー。全部二本」


「俺の意見は?」


「何食べたい?」


「ねぎま」


「採用済み」


「つくね」


「採用済み」


「皮」


「採用済み」


「……俺、必要ですか?」


「あなた、私と結婚したら食事で困らないね」


二人とも止まった。


まだ付き合っていない。


告白もしていない。


なのに、結婚後の食卓だけが一瞬、頭に浮かんだ。


「……今のなし」


「はい」


「忘れて」


「努力します」


「消去して」


「脳はパソコンじゃないので」


「医者なら何とかして」


「現代医学を万能扱いしないでください」


笑いに変わって助かった。


料理が来る。


喜咲は皮を一本取った。


「小鳥遊さんって、ずっと敬語だよね」


「東海林さんもですよ」


「私はいいの」


「どういう理屈ですか」


「女性側にだけ適用される婚活特例」


「また存在しない制度を作ってる」


前回の帰り道から、喜咲の頭には一つの疑問が居座っていた。


この人を名字ではなく、名前で呼んだら。


どんな顔をするんだろう。


小鳥遊優。


優。


たった二文字なのに、近すぎる。


喜咲はビールを一口飲み、勢いを酒へ丸投げした。


「東海林さんって、よそよそしくない?」


優が瞬きをする。


「……東海林さんが?」


「そう」


「東海林さんは東海林さんですよね」


「名字の本人確認から入るな」


「じゃあ、何て呼べば……」


そこで優も気づいた。


「あ」


「気づいた?」


「……喜咲さん?」


心臓が一回、余計に働いた。


「……何」


「いや、そう呼べって話ですよね?」


「呼べとは言ってない」


「ほぼ言ったでしょう」


「察してほしいだけ」


「難易度高いなあ」


優は困ったように笑った。


「じゃあ、これから喜咲さんって呼べばいいですか?」


「好きにすれば」


「どっちでもいい?」


「どっちでも」


「じゃあ東海林さんで」


「なんでよ!」


即答してしまった。


優が吹き出す。


「どっちでもよくないじゃないですか」


「今のは違う」


「何が?」


「そういう問題じゃない」


「どういう問題です?」


説明できない。


前回、自分はこの男に「気持ちを説明するのが下手」と言った。


見事なブーメランだった。


「……喜咲さん」


「何」


「顔、赤いですよ」


「酒です」


「まだ一杯目ですけど」


「今日のビール、強いの」


優がメニューを見る。


「五パーセントですね」


「確認するな!」


「事実確認は重要なので」


「そういうところがモテないの!」


「急に致命傷!」


喜咲は笑った。


そして、決めた。


やられっぱなしは性に合わない。


「じゃあ、私も呼ぶ」


「何を?」


「名前」


優の表情が固まった。


効いてる。


「優さん」


「……はい」


「何、その返事」


「普通です」


「耳、赤いよ」


「店が暑いので」


「空調、二十二度」


「確認しないでください」


「事実確認は重要なので」


「それ俺の!」


勝った。


四十二歳と四十五歳。


名前を呼んだだけで、この騒ぎである。


二人合わせて八十七歳


まだ帰りたくない、という理由をどちらも口にしないまま、二軒目へ入った。


小さなワインバーだった。


「優さん」


「またですか」


「慣れる練習」


「俺を教材にしないでください」


「あなたも呼べば?」


優は一拍置いた。


「……喜咲さん」


「うん」


目が合う。


二人とも、ほぼ同時にそらした。


喜咲は耐えきれず笑った。


「何です?」


「二人合わせて八十七歳だなって」


「足さないでください」


「八十七歳が名前で呼び合って照れてる」


「客観視すると急に痛いな」


「やめる?」


優が黙った。


「……いや」


その一言だけ、笑いに逃げなかった。


「やめなくていいんじゃないですか」


「名前呼び?」


「はい」


「なんで?」


優はグラスへ目を落とした。


以前なら、たぶん適当な理屈へ逃げた。


「少し、近くなった感じがするので」


喜咲は返事を忘れた。


この男は普段、欲しい言葉をほとんどくれない。


なのに油断した時だけ、ど真ん中へ投げてくる。


「……それ、他の女に言わないほうがいいよ」


「なぜ?」


「勘違いするから」


「何を?」


「もういい」


本当に分かっていない顔だった。


「じゃあ問題です」


優が言う。


「俺の名字は?」


「たかなし」


「正解」


「なめんな」


「じゃあ名前は?」


喜咲は答えようとして、ほんの少し止まった。


「……優」


『さん』が落ちた。


優が黙る。


喜咲も黙る。


「今」


「何」


「さん、なかったですよね」


「聞き間違い」


「聞きました」


「酒のせい」


「便利だな、酒」


喜咲が顔をそむけた、その時だった。


「喜咲」


今度は優が呼んだ。


「……」


「仕返しです」


「……ずるい」


「何が?」


「分からないならいい」


笑おうとしたのに、うまく笑えなかった。


東海林さん。


小鳥遊さん。


それは、いつでも一歩引ける呼び方だった。


婚活相手。


まだ他人。


合わなければ戻れる距離。


でも。


喜咲。


優。


名前は、少し怖い。


近づいたぶんだけ、失った時に痛そうだった。


手をつながない帰り道


午後十時過ぎ。


駅までの道を並んで歩いた。


前を若いカップルが歩いている。


手をつないでいた。


喜咲は見なかったことにした。


隣を見ると、優も妙にまっすぐ前を見ていた。


「何笑ってるんです?」


「別に」


信号が赤になる。


二人で止まる。


肩と肩の距離は近い。


手なら、もっと近い。


触れようと思えば届く。


優の左手がわずかに動いた気がした。


喜咲の右手も、行き場をなくしていた。


けれど。


信号が青になった。


二人は何もせず歩き出した。


喜咲は少しだけ残念だった。


その『残念』に、自分で驚いた。


駅に着く。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ」


「楽しかったです」


「うん」


「また……誘ってもいいですか」


喜咲は吹き出した。


「まだ聞くの?」


「確認は大事なので」


「何回会えば確認しなくなるの」


「何回くらいですか?」


「私に聞くな」


最後までこの人らしい。


喜咲は改札へ向かい、振り返った。


いつもなら。


『じゃあね、小鳥遊さん』だ。


今日は違った。


「じゃあね、優さん」


優の顔が、ほんの少しだけ緩んだ。


「また、喜咲さん」


それだけだった。


キスもない。


手もつないでいない。


好きとも言っていない。


なのに。


改札を抜けても、喜咲の顔は熱いままだった。


名前のせいで眠れない


午前零時十二分。


喜咲はベッドの上で枕を抱えていた。


「……最悪」


眠れない。


優さん。


喜咲さん。


そして、一度だけ呼ばれた『喜咲』。


脳内で勝手に再生される。


「四十二歳だぞ、私……」


スマホを見る。


通知なし。


置く。


十秒後、また見る。


「何を期待してんの」


その瞬間、震えた。


優からだった。


『今日はありがとうございました』


普通すぎる。


続けて届く。


『名前で呼ぶの、思ったより緊張しますね』


喜咲は笑った。


『四十五歳なのに?』


すぐ既読になる。


『四十二歳も赤くなってましたよ』


『酒です』


『一杯目でした』


『しつこい』


『すみません』


そこで少し間が空いた。


『でも、嬉しかったです』


喜咲の指が止まる。


何が、とは書いていない。


でも分かる。


名前で呼んだこと。


名前で呼ばれたこと。


喜咲は何度か文章を打って、全部消した。


最後に残ったのは二文字だった。


『私も』


送信。


「中学生か!」


枕へ顔を埋めたところで、またスマホが震えた。


『おやすみなさい、喜咲さん』


とどめだった。


同じ頃。


小鳥遊優も眠れていなかった。


画面には、喜咲から届いた『私も』。


人の心拍数なら冷静に評価できる。


血圧も、心電図も読める。


自分のことになると、何ひとつ役に立たない。


「……喜咲さん」


誰もいない部屋で、小さく呼んだ。


それだけで、また心拍数が上がった。


診断するまでもない。


ただし。


この時の優は、まだ知らなかった。


名前で呼べる距離まで近づいたからこそ。


次に喜咲が『別の男と会う』と知った時、自分がどれほど平静でいられなくなるのかを。


第5話 完

次回 第6話

「他の男と会うのは規約違反ではありません」


まだ恋人ではない。


だから、喜咲が別の男性と会っても何の問題もない。


「いい人なら、会ってみたらいいと思います」


優はそう言った。


物分かりのいい大人の顔で。


その夜、まったく眠れなかった。

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