第10話「結婚相手を探してたはずなんだけどな」
大人のラブコメ、始まります!
恋愛経験はある。
結婚だって経験した。
仕事も、それなりにできる。
なのに、好きな人の前では驚くほど不器用。
45歳のバツイチ医師・小鳥遊優と、婚活に疲れた42歳・東海林喜咲。
二人を引き合わせたのは、運命でも理想の条件でもありません。
「夜の相性も大切です」
プロフィールに残ってしまった、たった一行の誤記でした。
名前を読み間違えて減点され、余計なひと言で怒られ、いい大人二人が恋愛だけは初心者のように右往左往。
それでもなぜか、また会いたくなる。
「条件の合う人」と「好きな人」は、本当に同じなのでしょうか。
笑って、すれ違って、ときどき胸がきゅっとする。
そんな二人の面倒で楽しい大人の恋を、ぜひ見届けてください。
第1部「婚活アプリは恋を保証しない」
『申し訳ありません。正式なお付き合いはできません』
送信するまでに、二十三分かかった。
土曜日の午前十一時。
東海林喜咲は、自宅のリビングでスマホを見つめていた。
相手は高橋大輔。
仕事も収入も安定していて、落ち着いていて、話も聞いてくれる。
東海林も読める。喜咲も読める。
条件だけなら、文句のつけようがない。
それでも、送った。
『申し訳ありません。正式なお付き合いはできません』
既読はすぐについた。
『分かりました。一つだけ聞いてもいいですか?』
『はい』
『小鳥遊さんですか?』
「なんで分かるのよ」
思わず声が出た。
喜咲は迷ってから、『たぶん』と返す。
『たぶん?』
「そこ拾う?」
『まだ付き合っていないので』
少しして、高橋から返信が来た。
『条件なら、僕のほうがいいと思いますよ』
嫌味ではなかった。
実際、その通りだった。
高橋と結婚すれば、たぶん安心できる。
大きな失敗もしない気がする。
『じゃあ、なぜですか?』
喜咲の指が止まった。
なぜ。
高橋と食事をした帰り、思い出したのは優だった。
高橋に交際を申し込まれて、最初に伝えたかったのも優だった。
昨日、泣くほど腹が立ったのも優だった。
どうでもいい男なら、あんなに怒らない。
『私にも、よく分かりません』
少し考えて、もう一行。
『でも、あの人じゃないと、あんなに腹が立たないんです』
数秒後。
『それは、かなり重症ですね』
喜咲は吹き出した。
さらに届く。
『お幸せに』
最後まで、いい男だった。
だからこそ分かった。
いい人だから好きになるわけじゃない。
条件が合うから、一緒にいたくなるわけでもない。
五年間。
年収、職業、年齢、家族構成、離婚歴、住む場所。
「失敗しなさそうな人」を探してきた。
なのに最後に気になって仕方なくなったのは、
初対面で自分の名前を「きしょう」と読んだ男だった。
「……婚活って、何だったのよ」
冷めたコーヒーは、ひどくまずかった。
正解を捨てた男
同じころ。
小鳥遊優は、人生で初めて告白の練習をしていた。
「喜咲さんが好きです」
普通すぎる。
「東海林喜咲さんのことを、異性として好意的に」
「論文か」
自分で突っ込んだ。
土曜日の医局。
幸い、誰もいない。
「喜咲さんと一緒にいると、心拍数が」
「何してんの?」
優の肩が跳ねた。
神崎隆之が立っていた。
「……いつからいました?」
「『異性として好意的に』あたり」
「かなり前ですね」
「四十五歳の医者が一人で告白練習してる現場、なかなか離れられないだろ」
優は顔を覆った。
昨日、喜咲に言われた。
『私の幸せを勝手に決めないで』
その通りだった。
喜咲の幸せを考えているふりをして、
自分が選ばれないのが怖かった。
だから先に手放そうとした。
「神崎。告白って、何を言えばいい?」
神崎は珍しく真面目な顔になった。
「うまく言おうとするな」
「でも」
「今日は医者じゃない。格好悪くていいから、小鳥遊優としてしゃべれ」
優は黙った。
「……それが難しいんですが」
「知ってる。だから頑張れ」
神崎は立ち上がる。
「あと、心拍数の話はやめとけ」
「やっぱり駄目ですか」
「絶対に診断が始まる」
「してません」
「する顔してる」
神崎が出ていく。
待ち合わせまで、あと三時間。
専門医試験より緊張していた。
婚活相手ではなく
午後三時。
二人が会ったのは、最初に会ったカフェだった。
「こんにちは」
「こんにちは」
敬語。
名字でも、名前でもない。
昨日より遠い。
優が座ると、喜咲が先に口を開いた。
「高橋さん、断った」
優の心臓が大きく跳ねた。
「……そうですか」
「理由、聞かないの?」
「聞いていいなら」
「条件なら、高橋さんのほうがいい」
「そうですね」
「そこは否定しなさいよ」
「あ」
「本当にそういうところ!」
「すみま……ごめん」
喜咲が目を丸くした。
「今、敬語やめた?」
「努力中です」
「戻ってる」
「難しい」
喜咲の口元が緩んだ。
少しだけ、いつもの二人に戻る。
「高橋さんは、いい人だった。落ち着いてるし、話も聞いてくれる」
「うん」
「東海林も読める」
「そこは俺より明確に上ですね」
「喜咲も読める」
「完敗です」
「認めるな」
喜咲は笑ってから、静かに続けた。
「この人と結婚したら、たぶん楽だと思った。安心できるとも思った」
優の胸が痛む。
それでも逃げない。
「うん」
「なのに、高橋さんと会ってるのに優さんのこと考えた。告白されて、優さんに言いたくなった」
「うん」
「昨日、あんなに腹が立ったのも」
喜咲がまっすぐ見る。
「優さんだったから」
今までなら、ここで正しい言葉を探した。
今日は、いらない。
「俺も、高橋さんと会うの嫌だった」
喜咲が黙って聞いている。
「付き合うかもしれないと思ったら、もっと嫌だった。でも、止める資格がないと思った」
「うん」
「違った。資格じゃなかった」
優は手を握る。
「俺が怖かっただけです」
敬語に戻った。
もう直さなかった。
「また結婚に失敗したら。喜咲さんを傷つけたら。俺も傷ついたら。怖かった」
喜咲は笑わない。
「それで、傷つかないように逃げたら」
優は彼女を見る。
「好きな人を、一番傷つけた」
喜咲の目が揺れた。
「だから今日は、正しいことを言うのをやめます」
「それ、医者として大丈夫?」
「今日は医者じゃないので」
「じゃあ何?」
優は息を吸った。
「喜咲さんを好きな男です」
喜咲が止まった。
俺は、喜咲さんがいい
「……今、なんて言った?」
「聞こえませんでした?」
「聞こえたけど。もう一回」
「かなり勇気を使ったんですが」
「在庫切れ?」
「ほぼ」
「補充して」
昨日、彼女にどれだけ言わせたか。
優はもう一度、息を吸った。
「喜咲さん。好きです」
今度は、まっすぐ言った。
「条件とか」
「うん」
「年齢とか」
「うん」
「離婚歴とか」
「うん」
「もう、どうでもいいです」
喜咲が眉を上げた。
「……それ、婚活してる人が言っていい台詞?」
「たぶん駄目です」
「五年間、私が何してきたと思ってるの」
「婚活」
「そうよ」
優は少し笑った。
「高橋さんのほうが条件はいいと思います」
「まだ言う?」
「でも」
優は初めて、条件を捨てた。
「俺は、喜咲さんがいい」
喜咲の目が少し潤む。
「そこは『好きです』じゃないの?」
「さっき言いました」
「もう一回」
「……好きです」
「遅い」
「昨日から考えてました」
「もっと遅い」
二人とも笑った。
最初に会った日もそうだった。
名字を間違えて、名前を間違えて、減点されて。
それでも会話だけは続いた。
あの日から、ずいぶん遠くまで来た。
結婚相手を探してたはずなんだけどな
「で」
喜咲が姿勢を正した。
「私たち、どうするの?」
「付き合う、ということでいいんでしょうか」
「なんで契約確認みたいなの?」
「認識の齟齬があると困るので」
「仕事を持ち込むな」
喜咲は一度息を吸う。
「小鳥遊優さん」
「はい」
「私と付き合いたいですか」
「はい」
即答だった。
「そこは迷わないんだ」
「迷うところではないので」
喜咲は少し照れて目をそらした。
「……私も。優さんと付き合いたい」
その瞬間。
優は自分でも驚くほど安心した。
店を出る。
夕方の駅へ向かって歩く。
恋人になったはずなのに、二人の間にはいつもと同じ二十センチほどの隙間があった。
優は喜咲の左手を見る。
手をつなぐ?
恋人なら普通?
普通って何だ?
「優さん」
「はい!」
声が裏返った。
「手、さっきから見すぎ」
「……すみません」
「つなぎたいの?」
「はい」
「そこは即答するんだ」
「認めたほうがいいかと」
喜咲が左手を少し差し出した。
「じゃあ、早く」
優はその手を取った。
柔らかくて、温かい。
たったそれだけなのに、胸の奥が落ち着かない。
「私さ」
「はい」
「結婚相手を探してたはずなんだけどな」
「俺もです」
「条件見て、失敗しなさそうな人探して。五年も婚活して」
喜咲が、つないだ手を少し強く握る。
「いつから、あなたじゃなきゃ嫌になったんだろ」
優は考えた。
「夜の相性から?」
握る力が一気に強くなった。
「ぶっ飛ばすよ」
「痛いです」
「離す?」
「嫌です」
今度は迷わなかった。
喜咲が止まる。
「……そういうの、最初から言えばよかったのに」
「今後努力します」
「減点十」
「まだ減点制度あるんですか?」
「一生ある」
「持ち点は?」
「今、三点」
「少ない」
「でも、昨日より増えた」
二人はまた歩き出した。
四十二歳と四十五歳。
恋愛経験はある。
結婚経験もある。
失敗も、傷つく怖さも知っている。
それでも、もう一度誰かを好きになった。
優は隣の喜咲を見る。
「何?」
昨日までなら誤魔化した。
今日は言う。
「好きだなと思って」
喜咲が固まった。
「……急に言うな」
「言えと言ったので」
「タイミングってものがあるでしょ」
「難しいですね」
「ほんと恋愛能力低い」
「自覚しました」
喜咲は、つないだ手を離さなかった。
「まあ、いいか」
婚活は終わった。
そして恋愛が始まった。
たぶん。
婚活より、ずっと面倒なやつが。
第10話 完
次回 第11話
「付き合った初日に敬語をやめられません」
恋人になった翌日。
「喜咲さん、おはようございます」
「……おはようございます」
昨日までより、なぜか他人行儀。
「私たち、付き合ってるんだよね?」
「その認識です」
「なんで昨日より距離あるの?」
四十二歳と四十五歳。
交際初日の最大の敵は、敬語だった。
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