第12話/通算第62話 「出生前検査、受けても受けなくても怖いんです」
第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』
前書き
「私、決めた。大型プロジェクトに参加する」
妻がそう宣言した翌日。
俺との時間が、妻の予定表から消え始めた。
会議、打ち合わせ、資料確認。
共有カレンダーは仕事の予定で埋め尽くされ、夫婦の時間は次の日曜日の《デート》だけになっていた。
しかも、その約束さえ仕事に奪われるかもしれない。
「……日曜日以外、俺との予定がありません」
「私、仕事を選んじゃいけなかったのかなって……」
45歳のバツイチ医師・小鳥遊優。
42歳の食品メーカー企画部長・小鳥遊喜咲。
婚活アプリで出会い、恋をして、再婚した二人。
第5部で喜咲は、悩み抜いた末に、自分の人生を生きるため仕事を続ける決断をした。
優も、その挑戦を応援すると約束した。
けれど、現実は甘くなかった。
妻の夢を応援するほど、夫婦の時間が失われていく。
寂しいと言えば、妻の決断を否定してしまうかもしれない。
何も言わなければ、自分だけが我慢し続けることになる。
そんな二人に、やがて想像もしていなかった人生の転機が訪れる。
それは、仕事の予定や夫婦の約束だけでは答えを出せない出来事だった。
結婚したのに、どうしてこんなに難しいんだろう。
仕事を選ぶこと。
愛する人を選ぶこと。
そして、予想もしなかった未来と向き合うこと。
どちらか一方が我慢するだけでは、夫婦は続かない。
では、二人は何を選べばいいのか。
笑って、喧嘩して、悩んで、それでも互いの手を離さない。
大人の婚活・結婚ラブコメ。
第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』開幕。
夫婦でいることは、同じ予定表を共有することではない。
予定どおりにいかない人生を、それでも二人で選び直すことなのかもしれない。
「どんな子が生まれても受け入れたいのに、出生前検査を受けなかったら、無責任な母親なの?」
喜咲の問いに、俺は一瞬、医師としての答えを探した。
妻の膝には、出生前検査の案内が載っている。昨日までの俺なら、分かることと分からないことを順番に説明しただろう。
だが、喜咲は紙から目を上げて言った。
「ねえ、優。今は医者の説明じゃなくて、夫の考えを聞きたい」
俺が答えられなかったのは、知識が足りないからではなかった。
その答えを、妻の代わりに決められないからだ。
空白のままの一行
あの夜の臨時夫婦会議では、共有ノートに六つの項目を並べた。
妊娠の経過、出生前検査、仕事、産科受診、家族への報告、二人の時間。
『今日、全部決めなくていい』と書いた喜咲は、最後に一つだけ問いを残した。
『出生前検査は、どうする?』
あれから数日。俺たちは、改めて出生前検査の説明を聞くことにした。
受けるとも、受けないとも決めていない。今は、何を知れば判断できるのかを確かめたい。
病院へ向かう途中、喜咲が俺の袖を引いた。
「今日の目標、決めていい?」
「はい」
「分かったふりをしないこと」
「……医師には厳しい目標ですね」
「夫にもね。分からなかったら、分からないって言って」
「分かりました」
「今、分かりましたって言ったよね?」
「……そこは分かりました」
喜咲が笑う。あの会議以来、妻の笑い声を聞くたびに、俺の肩から少しだけ力が抜ける。
数字で決められないこと
説明担当者は、前回渡された資料を開いた。
「今日は結論を急ぐのではなく、疑問を一緒に整理しましょう」
まず確認したのは、NIPTだった。母体の血液を用い、胎児の特定の染色体の数の違いについて、その可能性を調べる検査だ。
「血液で分かるなら、それで安心できるのかと思っていました」
喜咲が言う。
「結果だけで確定診断にはなりません。陰性でも、すべての染色体異常や体のつくりの異常を否定できるわけではありません」
「陽性なら、異常があるって決まるんですか?」
「いいえ。陽性であっても、実際に対象の染色体異常があるとは限りません」
喜咲は資料の角を指で押さえた。紙が小さく反る。
「じゃあ、確かめるには?」
「羊水穿刺による羊水検査など、確定診断のための検査を検討することがあります。ただ、羊水穿刺そのものに流産のリスクがあります」
「……確定できるなら、受けたほうがいいんじゃないですか」
説明担当者はすぐには頷かなかった。
「必ずしもそうではありません。NIPTで陽性となった場合に、実際に対象の染色体異常が存在する推定確率と、羊水穿刺によって追加的に生じる流産リスクの両方を考える必要があります」
「二つの確率を、比べるんですね」
「比較は判断材料の一つです。状況によっては、推定される異常の確率より穿刺による流産リスクのほうが高いことも考えられ、その場合に穿刺を行わない選択もあり得ます。ただ、数字の大小だけで全員が同じ結論になるわけではありません」
喜咲は顔を上げた。
「何を知るために検査するのか、ということですか」
「そうです。結果を知って何を考えたいのか、どのような準備をしたいのかも大切です」
俺は医師として確率の意味を理解できる。けれど、ひとつの数字を見て妻の人生の答えまで決めることはできない。
喜咲の指は、まだ資料の角から離れなかった。
「調べたら怖いんです」
彼女が、ぽつりと言った。
「でも、調べなかったら、それも怖い。どっちを選んでも、怖いんです」
説明担当者は結論を押しつけず、何を知りたいのか、結果について何を心配しているのかを尋ねた。
喜咲は長く息を吐いた。
「赤ちゃんのことを知りたい。でも、何かが分かったら、私たちが次の決断をしなくちゃいけない気がして」
「優さんはいかがですか」と尋ねられ、俺は妻の横顔を見た。
「……俺も怖いです。結果を知ることも、知らないままでいることも」
「優も?」
「はい。それに、喜咲が一人で抱え込むことが怖い」
妻の目が、わずかに見開かれた。
「それ、最初から言ってよ」
「すみません」
「医者らしい説明より、今のほうが聞きたかった」
今日は診察室で、何かを決定したわけではない。
でも、俺たちは初めて、互いの怖さを同じ机の上に置くことができた。
どんな子どもでも、私たちの子
病院を出て、駅へ向かう途中の公園で足を止めた。
「少し座っていい?」
「もちろんです」
ベンチに腰を下ろすと、喜咲は資料を膝に伏せた。さっきまで埋め尽くされていた文字が隠れ、ようやく妻の顔が見えた。
「ねえ、優。もし、どんな子が生まれても私たちの子として受け入れるって決めていたら、そもそも何のために調べるんだろう」
俺は答えを急がなかった。
「生まれる前から必要な医療や支援を準備できる場合はあります」
「うん。それは分かる。でも、染色体に違いがあっても、病気があっても、私たちの子であることは変わらないよね」
「……はい」
「もし結果がどうでも産んで育てようと思うなら、検査を受けない選択だってあるんじゃない?」
「あります。妊娠を続けるかどうかの判断のために、必ず受けなければならない検査ではありません」
喜咲は自分のお腹に手を置いた。まだ、外から妊娠が分かる時期ではない。
「私、検査を受けないのは無責任なのかと思ってた」
「そうではありません」
「でも受けたからって、それだけで責任を果たしたことにもならないよね」
「……そうですね」
「病気があったら、医療の助けを借りたい。育てるのに困ったら、周りにも頼りたい。簡単じゃないだろうけど、この子を大事に思いたい」
言葉の最後が、少し揺れた。
「ただ……実際に何か分かったとき、私がどんな気持ちになるかは、まだ分からない。今こう言ってても、怖くて迷うかもしれない」
俺も未来の自分に保証などできない。
だから、その代わりに今できる約束を探した。
「喜咲一人に、その責任を背負わせません」
妻は振り向いた。
「……そういうこと、もっと早く言ってよ」
「俺も、うまく言葉にできませんでした」
「医者なのに?」
「夫なので」
喜咲は泣きそうな顔のまま笑った。
「じゃあ今日は、その答えで合格」
何かを調べることと、子どもをどう受け止めるかは、同じ問いではない。
その違いを、ようやく二人で言葉にできた。
今日、決めなくても
帰宅すると、喜咲は共有ノートを開いた。
『出生前検査は、どうする?』
まだ答えのない一行の下へ、妻はゆっくり書き足していく。
『何が分かり、何が分からないか』
『結果を知るのも、知らないのも怖い』
『検査そのもののリスクも考える』
『どんな子どもでも、二人で向き合いたい』
「……最後は決定事項ですか」
「今の気持ち。これから揺れたら、ちゃんと話す」
「はい」
「ねえ、優。正しい親なら受けるの? 正しい親なら受けないの?」
「どちらかの選択で、人としての点数は決まりません」
「そっか」
喜咲は、ペンを置いた。
「妊娠が分かったとき、本当にうれしかった。でも最近、怖い話ばっかりで。うれしいって言っちゃいけない気がしてた」
「俺もうれしいです。怖いですけど」
「両方でいいのかな」
「……両方でいいと思います」
「それ、何も解決してなくない?」
「否定できません」
笑ったあと、喜咲はもう一行書いた。
『今日は決めない。でも、考えることから逃げない』
受検できる時期と、次に相談する目安は確認した。今夜ここで受検を決めなくても、考える時間を忘れていいわけではない。
「じゃあ、相談の日程だけ共有カレンダーに入れますね」
「勝手に検査を予約しないでよ」
「……しません」
「よろしい。夫くん、少し成長したね」
「また評価面談ですか」
「うちは毎日査定があります」
今度の笑いは、俺にもすぐ移った。
夫婦の時間は、余りものじゃない
喜咲がノートを閉じた。
「さて。検査の話は今日は終わり」
「はい」
「次は、二人で休む日はいつ?」
俺は共有カレンダーを開いた。妻の仕事、俺の診療、産科受診。予定の隙間を探そうとして、指が止まる。
あの夜、夫婦の時間を余ったところに押し込まないと約束したばかりだ。
「……先に、二人の時間を決めませんか」
「優がそれ言う?」
「自分でも驚いています」
「でも、その日は仕事や病院の話ばかりしないでね」
「努力します」
「努力目標?」
「……夕飯に何を食べるか、とか」
「うん」
「十年後も、こうして話せているか、とか」
「それ、普通の話じゃない気がする」
喜咲は俺の肩に頭を預けた。
確かな未来など、どこにも書かれていない。
だからこそ今日、二人で話せたことを、俺は忘れたくなかった。
「ねえ、優」
「はい」
「私、部長も妻も続けたいって言ったよね」
「……はい」
「これから先、親にもなるかもしれない」
さっきまで笑っていた妻の声が、静かになった。
「仕事も、結婚も、この子のことも。全部大事にしたいって思う私を……」
喜咲はまっすぐ俺を見た。
「優は、本当に選んでくれる?」
第12話/通算第62話 完
次回予告
第13話/通算第63話「部長で妻で親かもしれない私を、選んでくれる?」
仕事を手放したくない妻と、妻を支えたい夫。変わり始めた未来のなかで、優は喜咲の問いに何と答えるのか。
この作品を第1話から読む
『婚活アプリのプロフィールに「夜の相性も大切です」と書いた女とマッチしました』第1話
https://note.com/momokun1/n/n91436e4030cb?magazine_key=mfe06874c3331
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この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524
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