第11話/通算第61話「一年に一度の夫婦会議、妊娠で早くも臨時開催」
第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』
前書き
「私、決めた。大型プロジェクトに参加する」
妻がそう宣言した翌日。
俺との時間が、妻の予定表から消え始めた。
会議、打ち合わせ、資料確認。
共有カレンダーは仕事の予定で埋め尽くされ、夫婦の時間は次の日曜日の《デート》だけになっていた。
しかも、その約束さえ仕事に奪われるかもしれない。
「……日曜日以外、俺との予定がありません」
「私、仕事を選んじゃいけなかったのかなって……」
45歳のバツイチ医師・小鳥遊優。
42歳の食品メーカー企画部長・小鳥遊喜咲。
婚活アプリで出会い、恋をして、再婚した二人。
第5部で喜咲は、悩み抜いた末に、自分の人生を生きるため仕事を続ける決断をした。
優も、その挑戦を応援すると約束した。
けれど、現実は甘くなかった。
妻の夢を応援するほど、夫婦の時間が失われていく。
寂しいと言えば、妻の決断を否定してしまうかもしれない。
何も言わなければ、自分だけが我慢し続けることになる。
そんな二人に、やがて想像もしていなかった人生の転機が訪れる。
それは、仕事の予定や夫婦の約束だけでは答えを出せない出来事だった。
結婚したのに、どうしてこんなに難しいんだろう。
仕事を選ぶこと。
愛する人を選ぶこと。
そして、予想もしなかった未来と向き合うこと。
どちらか一方が我慢するだけでは、夫婦は続かない。
では、二人は何を選べばいいのか。
笑って、喧嘩して、悩んで、それでも互いの手を離さない。
大人の婚活・結婚ラブコメ。
第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』開幕。
夫婦でいることは、同じ予定表を共有することではない。
予定どおりにいかない人生を、それでも二人で選び直すことなのかもしれない。
「ねえ、優。一年に一度の夫婦会議、妊娠したから臨時開催していい?」
帰宅したばかりの妻が、出生前検査の案内をテーブルに置いて言った。
ついさっきまで、俺たちは診察室で聞いた話をどう受け止めればいいのか、答えを探していた。
42歳という年齢。これからの妊娠の経過。検査で分かることと、分からないこと。
説明を聞けば不安が減ると思っていたのに、二人で持ち帰った質問は、むしろ増えていた。
「……臨時開催、ですか」
「そう。今夜」
「回数券なら利用規約を確認します」
「夫婦の人生会議を回数券にするな」
「……有効期限の規定が見当たりません」
「規約そのものが存在しないから!」
喜咲が吹き出した。
病院から帰って初めて聞く、いつもの笑い方だった。
年に一度、二人の人生について話す。
仕事、暮らし、家族、十年後の自分たち。以前そんな話をした日、俺たちは未来の予定を一度に決めないことにした。
その代わり、一年に一回、向き合って話そうと約束した。
まだ一年も経っていない。
それなのに、話さなければならないことは、もう一年分を超えていた。
話し合うための六つの項目
喜咲が共有ノートを開く。
前回の受診で質問を書き込んだページの隣には、何も書かれていない紙が残っていた。
「今日は、ここに書く」
「議事録ですね」
「違う。気持ちの整理」
「……記録する内容に違いは?」
「議事録だったら、優が勝手に結論を書きそうだから」
否定できない。
俺は以前、相談する前に予定を動かしかけたことがある。妻のためだと思って、妻の返事を待てなかった。
喜咲は六つの言葉を縦に並べた。
『妊娠の経過』
『出生前検査』
『仕事』
『産科受診』
『家族への報告』
『二人の時間』
「……六つですか」
「多いよね」
「順番に結論を出すなら、かなり時間が必要です」
「だから、全部決めようとしないの」
喜咲は一番上に、少し大きく書き足した。
『今日、全部決めなくていい』
「これが最初の決定事項」
「……結論を出さないことを決定するんですね」
「そう。優にとっては難題でしょ?」
俺はペンを持ち上げ、何も書かずに戻した。
妊娠の経過には、俺たちの予定や努力だけでは決められない部分がある。今日の診察でも、年齢だけでこの妊娠の先が決まるわけではないと聞いた。
分からないものを、分かったふりで埋めない。
それは俺にとって、思いのほか難しい。
「……では、何が起きたら相談し直すかを決めませんか」
「それならいい。未来を決めるんじゃなくて、困ったときの話し方を決めよう」
妻はノートの端を指で押さえた。
その爪の先が、紙を少しだけ曲げていた。
妻に休んでほしい夫
「仕事は、続けたい」
三番目の項目を見ながら、喜咲が言った。
迷いのない声だった。けれど、ペンは動かない。
「食品メーカーの企画部長って肩書だけの話じゃないの。私が考えて、形にして、責任を持ってきた仕事だから」
「……知っています」
「でも、妊娠前と全く同じように動けるって、今から約束するのも違うと思う」
喜咲はようやく一行書いた。
『仕事は続けたい。ただし、変える余地は残す』
「受診もあるし、体調が変わることもある。必要なら働き方を相談したい。でも、それは辞めるって意味じゃない」
俺の喉まで、いつもの言葉が上がってきた。
『喜咲が決めてください』。
間違ってはいない。だが、それだけで終われば、俺は自分の心配を妻に預けてしまう。
以前、『応援してる』の一言で寂しさを隠したときと同じだ。
「……俺は、休んでほしいと思っています」
喜咲のペンが止まった。
「今すぐ仕事を辞めてほしい、ということ?」
「……いいえ。そうではありません」
慌てて否定しかけ、俺は一度口を閉じた。
言い直すなら、きちんと言わなければならない。
「心配なんです。体調が悪い日にまで、部長だからと無理をするんじゃないかと。俺は医師ですが、産婦人科の専門家ではありません。休めば妊娠の経過が必ず良くなるとも言えません」
「うん」
「医学的な判断は担当の先生に相談してほしい。そのうえで、夫としては……つらいときには休んでほしいです」
喜咲はしばらく俺を見つめていた。
「それ、最初から言ってくれたらいいのに」
「……命令に聞こえませんか」
「命令だったら怒る。でも今のは、優の気持ちでしょ」
彼女はノートを閉じかけ、また開いた。
「私ね、予定が狂うのが嫌なんじゃない。私を抜きで決められるのが嫌なの」
胸の奥に引っかかっていたものの形が、やっと分かった気がした。
妻の仕事を大切にしたい。
妻の体も心配だ。
その二つは、どちらか一つしか選べないものではない。
「分かりました。俺の希望も、今度は黙りません」
「うん。私の希望も聞いてね」
「……はい」
「あと、『大丈夫』って言うたびに診察を始めないで」
「……診察はしていません」
「顔が診察してるの!」
俺は眉間に触れた。
喜咲が笑った。
今度は、俺も笑うことができた。
予定表では決められないこと
次は産科受診の項目だった。
「優が来られるなら、一緒に来てほしい」
「……できるだけ調整します」
「でも、来られないからって受診を後回しにはしないよ」
「はい。それは分けて考えましょう」
以前の俺なら、即座に共有カレンダーを開いていただろう。
実際、指がスマートフォンのほうへ動きかけた。
喜咲がその指を見ている。
「……今日は開きません」
「進歩したね、夫くん」
「……何かの評価面談ですか」
「褒めたんです」
受診の日程が決まれば共有する。付き添いが難しい日でも、必要な診察を受けることを優先する。どのような症状のときに相談すべきかは、担当医に確認する。
それだけをノートに残した。
五番目の『家族への報告』を見たとき、喜咲の表情が変わった。
「誰に、いつ話そうか」
「……今夜決めますか」
「まだ、決められない」
喜咲は案内の紙を裏返した。
「知らせたら、きっと喜んでくれる人もいる。でも、いろいろ聞かれるよね。順調なのか、とか。これからどうするのか、とか」
「……そうかもしれません」
「自分たちでも分からないことを、何度も説明するのは、今はしんどい気がする」
俺は頷いた。
伝える相手も、時期も、どこまで話すかも、今夜のうちに決める必要はない。
ただ、どちらかが一人で知らせると決めてしまわないようにする。
喜咲は『相談してから伝える』と書いた。
「これも保留ね」
「……はい」
「ねえ、優。保留が増えると落ち着かない?」
「……少し」
「正直でよろしい」
本当は、少しどころではなかった。
でも、『決まっていない』ことを『失敗』と呼ぶのは、違うのだと思った。
夫婦の時間を、予定の余りにしない
最後に喜咲が指さしたのは、『二人の時間』だった。
「最近の私たちって、仕事か病院の話ばっかりだよね」
「……否定できません」
「これからも大事な話は増えると思う。でも、話すことが全部、決め事になったら嫌だな」
テーブルの上には、冷めかけた二人分のお茶があった。
俺はカップを喜咲の近くへ寄せた。
彼女はありがとうと言って、両手で包む。
「一緒にご飯を食べたり、しょうもない話をしたり。そういう時間まで、何かの準備にしたくない」
「……そうですね」
「ねえ。私たち、親になるかもしれないけど、その前に夫婦なんだよ」
その言葉に、以前の夜が重なった。
仕事を続ける自分でも一緒にいてくれるかと、喜咲に聞かれた夜。
俺はあのとき、難しい説明をせずに答えた。
「……今日も喜咲がいいので」
「いきなり何?」
「今夜も、俺の答えは同じです」
喜咲の手が、カップの上で止まった。
「……それ、ずるいなあ」
「何がですか」
「こんな顔になるから、怒れなくなる」
妻は少し顔を伏せて、それから笑った。
「でもね、優。私だって今日も優がいいよ。たまに会議っぽいけど」
「……重大な欠点ですね」
「かなりね」
二人で笑ったあと、喜咲がノートに書く。
『夫婦の時間を、空いたところに押し込まない』
俺は、その下に一行だけ付け足した。
『気持ちが変わったら、言葉にする』
「優、それ私だけの宿題じゃないよ」
「……もちろんです」
「じゃあ、二人で」
一年に一度の約束を、守るために一年待つ必要はなかった。
状況が変われば、そのとき話し直せばいい。
相手を心配することと、相手の代わりに決めることは違う。
今夜、俺たちはようやく、その違いを少しだけ言葉にできた。
最後に残った問い
「よし。今日の会議、思ったよりよかったね」
喜咲は満足そうにノートを見下ろした。
決まったのは、ほとんどが『相談する』という約束だけだった。それでも、開いたときより紙の上はにぎやかだった。
「……一つ、抜けています」
「え?」
俺が指さしたのは、二番目の項目だ。
六つのうち、そこだけに何も書かれていない。
『出生前検査』
さっきまで動いていた喜咲の指が止まる。
診察室で聞いた、NIPTという検査。血液で特定の染色体の数の違いについて可能性を調べるもので、結果だけで確定診断にはならないと説明された。
羊水検査などで確認する場合があること。その検査にもリスクがあること。そして、どの検査でも赤ちゃんについて全部分かるわけではないこと。
知識を並べれば、紙は埋められる。
でも、それでは俺たちが何を知りたいのか、何を恐れているのかが置き去りになる。
「……避けてたね、私たち」
「……はい」
「今日、決めなくていいって言われた。でも、いつまでも考えなくていいわけじゃないんだよね」
「相談できる時期や、検査を受けられる時期は確認しておきましょう」
俺はそこで言葉を止めた。
受けるべきだとも、受けないほうがいいとも、俺の一言で決める話ではない。
喜咲はペンを握り直す。
その先を一度ノートに置き、しばらく動かさなかった。
やがて、六つの項目の一番下に、ゆっくり書いた。
『出生前検査は、どうする?』
そこで、喜咲のペンが止まった。
第11話/通算第61話 完
次回予告
第12話/通算第62話「出生前検査、受けても受けなくても怖いんです」
「正しい親なら受ける? 正しい親なら受けない?」
出生前検査について、改めて説明を受ける優と喜咲。検査で分かることと分からないこと、そして二人が本当に怖れていること。今夜はまだ結論を出せない。では、いつ、何を確かめればいいのだろう。
この作品を第1話から読む
『婚活アプリのプロフィールに「夜の相性も大切です」と書いた女とマッチしました』第1話
https://note.com/momokun1/n/n91436e4030cb?magazine_key=mfe06874c3331
大切な人と、すぐには答えの出ない話をしたことはありますか。よければコメントで聞かせてください。
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524
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Tales https://tales.note.com/momokun1
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