↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
60/63

第10話/通算第60話「42歳の妊娠、数字だけでは決められません」

第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』




前書き




「私、決めた。大型プロジェクトに参加する」




妻がそう宣言した翌日。




俺との時間が、妻の予定表から消え始めた。




会議、打ち合わせ、資料確認。




共有カレンダーは仕事の予定で埋め尽くされ、夫婦の時間は次の日曜日の《デート》だけになっていた。




しかも、その約束さえ仕事に奪われるかもしれない。




「……日曜日以外、俺との予定がありません」




「私、仕事を選んじゃいけなかったのかなって……」




45歳のバツイチ医師・小鳥遊優。




42歳の食品メーカー企画部長・小鳥遊喜咲。




婚活アプリで出会い、恋をして、再婚した二人。




第5部で喜咲は、悩み抜いた末に、自分の人生を生きるため仕事を続ける決断をした。




優も、その挑戦を応援すると約束した。




けれど、現実は甘くなかった。




妻の夢を応援するほど、夫婦の時間が失われていく。




寂しいと言えば、妻の決断を否定してしまうかもしれない。




何も言わなければ、自分だけが我慢し続けることになる。




そんな二人に、やがて想像もしていなかった人生の転機が訪れる。




それは、仕事の予定や夫婦の約束だけでは答えを出せない出来事だった。




結婚したのに、どうしてこんなに難しいんだろう。




仕事を選ぶこと。




愛する人を選ぶこと。




そして、予想もしなかった未来と向き合うこと。




どちらか一方が我慢するだけでは、夫婦は続かない。




では、二人は何を選べばいいのか。




笑って、喧嘩して、悩んで、それでも互いの手を離さない。




大人の婚活・結婚ラブコメ。




第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』開幕。




夫婦でいることは、同じ予定表を共有することではない。




予定どおりにいかない人生を、それでも二人で選び直すことなのかもしれない。


本文

「先生。42歳で妊娠した私は、この子に何か起きる確率が高いんでしょうか」


喜咲の指が、膝の上の質問ノートを強く押さえた。


俺は隣で、答えを先回りして口にしそうになった。


昨日まで「数字の話、聞くの怖い」と言っていた妻が、今、自分からその数字を尋ねている。


診察室の時計が、控えめな音を立てた。


「年齢と妊娠について、順番にお話ししましょう」


産科担当医がそう答えると、喜咲は一度だけ小さくうなずいた。


今日、俺は夫としてこの椅子に座っている。


それだけのことが、思っていたより難しかった。

消せないのは、予定だけじゃなかった

今回の受診には、どうにか付き添うことができた。


俺の診療予定は職場に相談して調整した。喜咲も自分の仕事を、自分で確認した。共有カレンダーの三色は、どちらかが我慢する印ではなく、次に誰へ相談するかの目印になった。


家を出る前、喜咲は言った。


「一緒に来てくれて嬉しい。でも、次も絶対に来てね、とは言わないから」


「……できる限り調整します」


「その言い方、もう仕事の会議なのよ」


「……善処します」


「悪化した!」


笑っていたのは、病院に着くまでだった。


喜咲のノートには、受診で聞きたいことが並んでいる。体調、今後の診察、仕事を続けるうえで相談したいこと。そして最後に、太い字で『42歳の妊娠について』。


担当医は、俺たちの顔を見ながらゆっくり説明した。


「年齢が高くなるにつれて、流産が起こる頻度は高くなる傾向があります。また、赤ちゃんの染色体の数の違いが生じる頻度も、年齢と関係しています」


喜咲が鉛筆を握り直す。


「染色体の数の違い、というのは……」


「たとえば、21番染色体が通常より一本多い21トリソミーがあります。ダウン症候群とも呼ばれる状態です」


「それは、42歳だから、ということですか」


「年齢と関連するのは、あくまで集団として見た頻度です。42歳だから今回の赤ちゃんがそうだ、と決まるわけではありません」


喜咲は書こうとして、鉛筆を止めた。


「でも、可能性は上がるんですよね」


「はい。そこは曖昧にしないほうがいいと思います。ただ、年齢だけでお一人おひとりの経過や赤ちゃんの状態を断定することもできません」


『集団の数字と、この子のことは別』。


喜咲はノートにそう書いた。最後の「別」の字だけ、少し大きい。


俺は医学的な説明を頭の中で組み立てていた。どう言えば誤解が少ないか。どんな言葉なら安心させられるか。


しかし、彼女が聞いているのは、試験の正解ではなかった。


「先生、数字を聞けば、少しは安心できると思ってたんです」


喜咲の声が細くなった。


「でも、聞いたら別の怖さが出てきました」


担当医は急いで励まさなかった。


「数字を知って安心する方も、不安になる方もいます。その数字が何を示して、何までは示さないのかを理解することが大切です」


俺はノートの余白を見た。


いつもなら、そこに答えを書き足していただろう。


今日は、何も書かなかった。

あなたの学会じゃない

「出生前検査についても、説明していただけますか」


喜咲はノートから顔を上げた。


「もちろんです。検査には、特定の状態がある可能性を調べるものと、診断を確定するために用いるものがあります」


担当医が資料を広げる。


「可能性を調べる検査では、結果が出ても、それだけで診断が確定するとは限りません。検査ごとに分かる範囲と限界があります」


俺は、つい前のめりになった。


「……スクリーニング検査と確定診断を区別して、陽性的中率も踏まえて……」


「優」


妻の声が、俺の講義を止めた。


「……はい」


「あなたの学会じゃない」


担当医の手が、資料の上で一瞬止まる。


「……申し訳ありません」


「私が聞きたいの。優が専門家っぽいところを見せる時間じゃないから」


「……産婦人科は専門ではありませんし、そのとおりです」


「今日は夫として座ってて」


「……承知しました」


「だから会議っぽいの!」


喜咲が吹き出し、担当医も笑った。


張りつめていた肩が、ほんの少し下がる。


俺は背もたれに体を戻した。


妻を守ろうとするたび、説明で先回りしてしまう。この前、予定を勝手に動かしかけたときと、根っこは同じだ。


彼女の代わりに答えるな。


まず、彼女の質問を聞け。


担当医が説明を続ける。


「たとえばNIPTは、お母さんの血液を使って、主に特定の染色体の数の違いについて可能性を調べる検査です。陽性という結果だけでは確定診断になりませんし、陰性でもすべての病気がないと保証できるわけではありません」


「採血だけで全部分かると思ってました」


「そう思われることもあります。何を調べられるか、結果が出たあと何を確認できるかも含めて説明を受けることが大切です」


「では、陽性だったら、どうやって確かめるんですか」


「確定診断には、お腹に針を刺して羊水を採り、赤ちゃん由来の細胞を調べる羊水検査があります。妊娠週数によっては胎盤の組織を調べる絨毛検査も選択肢です。NIPTで陽性となったあと、羊水検査で確認することが一般的です」


「お腹に針を刺す……」


「羊水検査は通常、妊娠15〜16週以降に行います。まれですが、穿刺によって流産する可能性があります。リスクは施設や条件などで推定が異なり、約0.1〜0.3%と説明されています」


喜咲の鉛筆が止まった。


「……赤ちゃんのことを調べるために、赤ちゃんを失う可能性もあるんですね」


「はい。だから、検査の利益とリスクを両方知っていただきたいんです」


「じゃあ、羊水検査で染色体に問題がなければ、すべて安心なんですか」


「いいえ。調べた染色体の状態は分かっても、別の原因で心臓や脳、手足などに形態異常が生じることもあります。超音波検査で確認していく部分もありますが、すべてを見つけられるわけではありません」


「……一枚の結果で、全部が分かるわけじゃないんですね」


喜咲はノートに目を落とした。答えが増えたはずなのに、質問のほうが増えていた。


「受けるかどうか、今日決めないといけませんか」


「今日ここで決める必要はありません。ただ、検査によって受けられる妊娠週数が異なるので、希望があれば時期を含めて確認していきましょう」


喜咲は『今日決めなくていい』と書き、すぐ下に『でも期限は確認する』と付け加えた。


「……大変よね。決めなくていいことにも、締め切りがあるんだ」


俺は返す言葉を探した。


仕事の会議なら、締め切りを決めれば進む。


けれど今回は、締め切りを知ったからといって、気持ちが追いつくわけではない。

知ることも、知らないことも

「先生。検査を受けないのは、無責任ですか」


喜咲が聞いた。


その問いだけ、ノートに書いていなかった。


「無責任だと決まるわけではありません。検査を受けることも、受けないことも、何が分かるかを理解したうえで考えていただく選択です」


「……私、知りたいんです。でも、知ったらどうなるのかが怖い」


鉛筆の先が、紙の上で止まっている。


「もし検査で何か分かったとして……そのあと自分が何を考えるのか、今は想像できなくて」


担当医は、喜咲が言い終わるまで待った。


「そうした迷いも含めて相談していいんですよ。検査は、ダウン症候群などのある方やご家族の価値を決めるものではありません。結果を知ることの意味も、人によって違います」


喜咲の目が、少しだけ赤くなった。


「私、妊娠が分かった日は、嬉しいのに怖かったんです。今も同じなんですね」


俺はあの日を思い出す。検査薬を前にした妻が、すぐには笑えなかったこと。俺もまた、上手な言葉を見つけられなかったこと。


「必要なら遺伝カウンセリングという相談の場もあります」


担当医が案内の紙を示す。


「染色体や遺伝に関する情報を整理し、ご本人やご家族が考えるのを支える相談です。検査を受けるよう勧めるだけの場ではありません」


「相談しても、その日に結論を出せなくていいんですね」


「はい。何に迷っているかを話すこと自体にも意味があります」


喜咲が、やっと鉛筆を置いた。


「……それ、うちに必要かもしれません」


俺は思わずうなずいた。


「……同感です」


「ただし、議事録は禁止ね」


診察室に、小さな笑いが戻った。

医師の言葉では足りない日

診察が終わり、俺たちは待合スペースに並んで座った。


喜咲は渡された案内を膝に置き、しばらく黙っていた。


俺も急かさなかった。


「ねえ、優」


「……はい」


「今日の話、どう思った?」


知識なら、いくらでも並べられる。


それでも妻が求めているものは、説明の続きではない気がした。


「……怖かったです」


喜咲がこちらを向く。


「優も?」


「……はい」


「医者なのに?」


「……医師でも、未来は分かりません。まして俺は産婦人科の専門ではありません」


彼女は、しばらく俺の顔を見ていた。


「そうか。じゃあ、今日の優は本当に夫だったんだ」


「……それは、褒められているんでしょうか」


「うん。かなり」


喜咲が資料を閉じる。


「一緒に来てもらえてよかった。優が何でも答えられるからじゃなくて、優も怖いって言ってくれたから」


その言葉で、胸の奥の力が抜けた。


俺は心配を隠すことで、妻を安心させようとしてきた。


けれど、隠した不安はなくならない。ただ、二人の間に置き場所を失うだけだ。


「……まだ、怖いですか」


「怖い。でも聞いてよかった」


喜咲は自分の手を見てから、俺に差し出した。


「数字だけで、この子のことは決められないよね」


俺は、その手を握った。


「……数字も大事です。でも、どう受け止めるかは二人で考えたいです」


「うん」


短い返事だった。


だけど、診察室に入る前より、彼女の手は少し温かく感じられた。

決めないためではなく、考えるために

帰宅すると、喜咲はテーブルに質問ノートを開いた。


今日聞いたことを書き直していく。


『年齢と関連する頻度はある』


『年齢だけで、この妊娠の結果は決まらない』


『NIPT陽性後の確定診断には羊水検査などがある』


『羊水穿刺には流産のリスクもある』


『染色体の検査が正常でも、形態異常はあり得る』


『相談できる場所がある』


俺は湯気の立つカップを二つ置いた。


「……よく整理できていますね」


「評価面談は不要です」


「……失礼しました」


喜咲は最後に一行を書き足した。


『今すぐ全部決めなくていい。でも、必要な時期は確認する』


「これなら、優も納得?」


「……はい。ただ……」


「はい、そこまで」


俺は開きかけた口を閉じた。


喜咲は笑ったが、案内された相談窓口の紙に目を移すと、また表情を変えた。


「検査を受けるかどうか、まだ決めてないね」


「……はい」


「受けないと決めたわけでもない」


「……そうです」


沈黙が落ちた。


「私ね、検査そのものも怖いけど……結果を聞いたあと、私たちがどう考えるのかも怖い」


俺は、すぐに大丈夫とは言えなかった。


「……俺も、まだ整理できていません」


「じゃあ、一緒に分からないんだ」


彼女はその言葉を、確かめるように繰り返した。


「一緒に、分からない」


何も解決していないようで、少なくとも一つは変わった。


どちらかが答えを持っているふりをする必要がなくなったのだ。


喜咲がノートを閉じる。


その横には、相談窓口の案内が残った。


「ねえ、優」


「……はい」


「私たち、何を知りたいんだろう」


俺は答えようとして、やめた。


それを一人で決めてしまえば、また同じことの繰り返しになる。


予定表なら、相談する相手を決められた。


でも、この問いは違う。


検査の名前を並べる前に、二人で向き合わなければならないものがある。


俺は案内の紙を、喜咲のノートの隣へそっと寄せた。


その問いに答える前に、俺たちには話し合わなければならないことがあった。


第10話/通算第60話 完


次回予告

第11話/通算第61話「一年に一度の約束を、まだ一年経たずに使いました」


「ねえ、優。あの約束、前倒ししてもいい?」


年に一度だけ、夫婦の人生について話し合おうと決めた二人。まだ一年も経たないうちに、喜咲がその約束を持ち出す。仕事、家族への伝え方、出生前検査。そして、二人の時間。答えを急がずに話すための「人生会議」が始まる。

この作品を第1話から読む

『婚活アプリのプロフィールに「夜の相性も大切です」と書いた女とマッチしました』第1話


https://note.com/momokun1/n/n91436e4030cb?magazine_key=mfe06874c3331



「知ること」と「知りたくないこと」の間で迷ったことはありますか。二人に伝えたいことがあれば、コメントで教えてください。

この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。

Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524

Momokun Official https://momokun.jp/

Tales https://tales.note.com/momokun1

なろう https://mypage.syosetu.com/3115683/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。