第8話/通算第58話「妊娠後も仕事を続けたい妻と、夫がぶつかりました」
第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』
前書き
「私、決めた。大型プロジェクトに参加する」
妻がそう宣言した翌日。
俺との時間が、妻の予定表から消え始めた。
会議、打ち合わせ、資料確認。
共有カレンダーは仕事の予定で埋め尽くされ、夫婦の時間は次の日曜日の《デート》だけになっていた。
しかも、その約束さえ仕事に奪われるかもしれない。
「……日曜日以外、俺との予定がありません」
「私、仕事を選んじゃいけなかったのかなって……」
45歳のバツイチ医師・小鳥遊優。
42歳の食品メーカー企画部長・小鳥遊喜咲。
婚活アプリで出会い、恋をして、再婚した二人。
第5部で喜咲は、悩み抜いた末に、自分の人生を生きるため仕事を続ける決断をした。
優も、その挑戦を応援すると約束した。
けれど、現実は甘くなかった。
妻の夢を応援するほど、夫婦の時間が失われていく。
寂しいと言えば、妻の決断を否定してしまうかもしれない。
何も言わなければ、自分だけが我慢し続けることになる。
そんな二人に、やがて想像もしていなかった人生の転機が訪れる。
それは、仕事の予定や夫婦の約束だけでは答えを出せない出来事だった。
結婚したのに、どうしてこんなに難しいんだろう。
仕事を選ぶこと。
愛する人を選ぶこと。
そして、予想もしなかった未来と向き合うこと。
どちらか一方が我慢するだけでは、夫婦は続かない。
では、二人は何を選べばいいのか。
笑って、喧嘩して、悩んで、それでも互いの手を離さない。
大人の婚活・結婚ラブコメ。
第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』開幕。
夫婦でいることは、同じ予定表を共有することではない。
予定どおりにいかない人生を、それでも二人で選び直すことなのかもしれない。
「優。私に仕事を辞めてほしいの?」
その一言で、俺の指が止まった。
共有カレンダーには、俺の診療予定と喜咲の会議が、色違いでぎっしり並んでいる。
「……辞めろなんて、言っていません」
「じゃあ、どうして私の予定ばかり消そうとするの?」
ついさっきまで、今日は嬉しい日だった。
産科の再診で胎児の心拍が確認できた。内診室の外で待っていた俺は、その動きを直接見ていない。それでも、診察室で妻の震える声を聞き、二人で喜んだ。
帰りには、喜咲の食べたいものを食べた。
ところが今、俺たちの間には、冷めかけたお茶と、閉じられない予定表がある。
「……あなたの体が心配なんです」
「心配してくれるのは分かる。でも、私の仕事を決めるのは誰?」
俺は答えられなかった。
消そうとしたのは、妻の予定だった
始まりは、勤務変更の連絡だった。
俺の診療の予定を一部調整する必要が生じた。そこで喜咲と二人、今後の受診も考えながら、共有カレンダーを開いた。
「次は、どっちの予定から直そうか」
そう尋ねたのは喜咲だった。
俺は空いている時間を探し、彼女の大型プロジェクトの会議に目を留めた。
「……この会議、別の日にできませんか」
「それは私が決められる会議じゃないよ」
「……でしたら、一部をほかの方に任せるのは?」
そこから、空気が変わった。
「優。私が今、何の仕事をしてるか知ってる?」
「……食品メーカーの企画部長です」
「クイズじゃないの」
彼女の指先が、画面の上で止まる。
「この企画、ずっと準備してきた。私だけのものじゃないし、チームで進めてきたものなの。だから誰かに任せるなら、何を任せられるか、まず私が考えたい」
「……負担を減らしたほうがいいと思っただけです」
「それをどうして、優が先に決めるの?」
声が鋭くなった。
俺は反射的に言い返そうとした。無理をしてほしくないだけだ、と。
だが、画面を見れば分かる。
俺は自分の勤務については『調整が必要』と考え、妻の会議については『減らせないか』と考えていた。
同じ予定表なのに、違う扱いをしていた。
「私、仕事を辞めるつもりはないから」
「……辞めろとは言っていません」
「言ってない。でも、妊娠した途端に私の仕事だけ減らそうとしたら、そう聞こえるよ」
喜咲はスマートフォンを伏せた。
小さな音だったのに、俺は肩を揺らした。
正しい説明では、伝わらない
夕食の片づけを終えても、気まずさは残った。
喜咲はテーブルに戻ってきたが、共有カレンダーには触れなかった。俺は湯飲みを持ち上げ、ほとんど減っていないお茶に気づく。
「……さっきは、言い方がよくありませんでした」
「言い方だけ?」
「……考え方も、です」
喜咲が俺を見る。
「じゃあ聞くけど。妊娠したら、仕事ってどこまで減らすべきなの?」
俺の頭には、一般的な説明がいくつも浮かんだ。
妊娠中の体調には個人差がある。仕事内容によって必要な配慮も違う。症状があれば、産科の担当医に相談する必要がある。
どれも間違いではない。
「……体調や仕事内容によりますし、担当の先生に確認して」
「うん。それは聞くよ」
喜咲が俺の言葉を遮った。
「でも、その前に私がどうしたいか、聞いてくれない?」
口を閉じた。
以前、彼女は仕事を続ける理由を話してくれた。
自分の企画が商品になり、店頭に並ぶこと。後輩が育ち、チームで結果を出すこと。生活費のためだけではなく、その仕事が好きだから働きたいのだと。
大型プロジェクトに参加することも、彼女が悩んで、自分で決めた。
俺はそのとき、決めるまで一緒に考えたいと言ったはずだ。
「……今の仕事を続けたいんですね」
「続けたい。だけど、何があっても今までと同じように働けるって決めつけてるわけじゃないよ」
「……はい」
「必要なら休むし、任せる仕事も考える。でも、私の知らないところで、私の人生を『安全そうな形』に並べ替えないで」
俺は思わず、伏せられたスマートフォンを見た。
ほんの少し前まで、あれを操作すれば妻を守れると思っていた。
「……俺は、何もしないほうがいいんでしょうか」
「ほら、またそれ」
「……え?」
「心配するか、何もしないか。どうして二択になるの?」
返す言葉がない。
「お医者さんの説明は、病院で聞くから」
「……今日は、夫は休診ですか」
「違う。先生が休診。夫は通常営業」
あの夜と、同じやり取りだった。
思わず笑いそうになり、でも今は笑ってごまかしてはいけないと思い直す。
「……夫として、話してもいいですか」
喜咲は、ようやく小さくうなずいた。
怖いから、先に怒っていた
「……今日、検査が終わるのを待っていたとき、何もできませんでした」
「うん」
「……心拍を確認できたと聞いて、本当に嬉しかった。でも、これから先のことまで分かったわけではありません」
喜咲は黙って聞いていた。
「……帰宅して、あなたがすぐに仕事の予定を確認しているのを見たら、怖くなったんです」
「何が?」
「……あなたが疲れていても、俺が気づかないかもしれない。つらくても、仕事が好きだから頑張ってしまうかもしれない」
そこで一度、息を整えた。
「……俺は、あなたに何かあったとき、自分が何もできなかったと思うのが怖いんです」
言ってから気づいた。
結局、俺は自分の怖さを減らすために、妻の予定を動かそうとしていた。
「……ごめんなさい。心配を、あなたの仕事を決める理由にしていました」
喜咲の表情がゆるんだ。
「私もね、怖い」
彼女は、両手で湯飲みを包んだ。
「心拍が確認できたとき、本当に嬉しかった。でも、これからも分からないことはあるんでしょう?」
「……あります」
「仕事だってそう。今まで積み重ねてきたものが、妊娠しただけで私の手から離れていくような気がした」
湯飲みの縁を親指でなぞりながら、喜咲は続けた。
「自分でもまだ、どうしたらいいか分からないんだよ。それなのに優が先に『任せたら』って言うから、もう決められちゃった気がした」
「……はい」
「怖いから、先に怒ってた」
俺は彼女の手元に、そっと手を伸ばした。
「……俺も、怖いから先に予定を消そうとしました」
「夫婦そろって先回り?」
「……しかも、二人とも方向が違います」
「困った夫婦だね」
今度は二人で笑った。
喧嘩がなくなったわけではない。けれど、相手を言い負かす必要は、もうなかった。
許可ではなく、相談を
「じゃあ、どうする?」
喜咲がスマートフォンを表向きに戻した。
俺は反射的に予定を動かそうとし、手を止める。
「……まず、あなたがどう働きたいかを聞きます」
「今の仕事を続けたい。プロジェクトにも関わっていたい」
「……はい」
「でも、体調によっては予定を変えることもあると思う。何を任せられるかは、私が仕事の中身を見て考えたい」
「……分かりました。俺が気になることを言うのは?」
「言って。黙られたら困る」
「……ただし、決定事項のように言わない」
「それ」
喜咲は、ようやくいつもの調子で笑った。
二人でノートを開いた。
本人が望む働き方。
産科の担当医に確認する、体調や仕事上の配慮についてのこと。
そして、必要になったときに、喜咲自身が職場と相談すること。
書き出すと、すべてを今夜決める必要はなかった。
「会社にいつ話すかも、まだ考えたい」
「……そうしましょう。話す相手や範囲も含めて」
「優の勤務もね。私に遠慮して、勝手に諦めないでよ」
「……その点は、お互いさまですね」
「そう。私の予定も、優の予定も、勝手に消さない」
前の話の終わりに交わした約束を、今度こそ二人で言い直した。
「……応援しています。仕事を続けたいという気持ちも」
「うん」
「……それから、心配しています。だから、しんどいときは教えてほしいです」
「分かった。優も、不安なときは正しい説明を探す前に言ってね」
「……努力します」
「また努力?」
「……はい」
「よろしい」
この人の返事は、ときどき俺の判断よりずっと厳しい。
でも、その厳しさに救われることもある。
「……ちなみに、今夜はもう仕事の話を終えますか」
「そうしたいけど、一個だけ」
「……何でしょう」
「今日、一緒に喜べてよかった」
俺は彼女の手を握った。
「……俺もです」
未来はまだ分からない。けれど、今日の喜びまで、心配で消す必要はなかった。
答えのない質問を、二人で
寝る前、喜咲がノートをもう一度開いた。
「今度は何ですか」
「次の受診で、先生に聞きたいこと」
俺は隣に座った。
「……質問なら、一緒に整理しましょうか」
「うん。でも、優が先に全部答えないでね」
「……承知しました」
喜咲はペンを走らせた。
次の診察では何を確認するのか。体調が変わったらどう相談するか。仕事を続けるうえで、どんなことを医師に伝えておくとよいのか。
俺は書かれた文字を、ただ隣で見ていた。
しばらくして、彼女のペンが止まった。
「ねえ、優」
「……はい」
「42歳の妊娠って、私、まだ知らないことばかりだね」
その声は、不安を隠していなかった。
「……そうですね。分からないことは、担当の先生に一緒に聞きましょう」
「怖い話もあるのかな」
「……あるかもしれません」
「それでも、ちゃんと聞きたい」
「……俺も、一緒に聞きたいです」
喜咲は少し笑い、ノートの新しい行に書いた。
『42歳の妊娠について』
そして、その下に、次々と質問を足していく。
俺はもう、答えを先回りして書き込まなかった。
42歳の妊娠。喜咲が書いたその言葉の下には、まだ答えのない質問が並んでいた。
第8話/通算第58話 完
次回予告
第9話/通算第59話「産科受診と夫婦それぞれの仕事が重なった」
仕事を続けたい喜咲と、その意思を尊重したい優。ようやく同じ方向を向いた二人に、次の産科受診とそれぞれの勤務予定が重なる問題が待ち受ける。どちらか一人の予定を消さずに、二人で答えを出せるのか。
この作品を第1話から読む
『婚活アプリのプロフィールに「夜の相性も大切です」と書いた女とマッチしました』第1話
https://note.com/momokun1/n/n91436e4030cb?magazine_key=mfe06874c3331
心配だからこそ、つい相手の予定を決めたくなる。優と喜咲の今回の言い合いを、どう感じましたか。感想をコメントで聞かせていただけると嬉しいです。
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524
Momokun Official https://momokun.jp/
Tales https://tales.note.com/momokun1
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