第57話「医者の夫にも、待つしかできない日がある」
第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』
前書き
「私、決めた。大型プロジェクトに参加する」
妻がそう宣言した翌日。
俺との時間が、妻の予定表から消え始めた。
会議、打ち合わせ、資料確認。
共有カレンダーは仕事の予定で埋め尽くされ、夫婦の時間は次の日曜日の《デート》だけになっていた。
しかも、その約束さえ仕事に奪われるかもしれない。
「……日曜日以外、俺との予定がありません」
「私、仕事を選んじゃいけなかったのかなって……」
45歳のバツイチ医師・小鳥遊優。
42歳の食品メーカー企画部長・小鳥遊喜咲。
婚活アプリで出会い、恋をして、再婚した二人。
第5部で喜咲は、悩み抜いた末に、自分の人生を生きるため仕事を続ける決断をした。
優も、その挑戦を応援すると約束した。
けれど、現実は甘くなかった。
妻の夢を応援するほど、夫婦の時間が失われていく。
寂しいと言えば、妻の決断を否定してしまうかもしれない。
何も言わなければ、自分だけが我慢し続けることになる。
そんな二人に、やがて想像もしていなかった人生の転機が訪れる。
それは、仕事の予定や夫婦の約束だけでは答えを出せない出来事だった。
結婚したのに、どうしてこんなに難しいんだろう。
仕事を選ぶこと。
愛する人を選ぶこと。
そして、予想もしなかった未来と向き合うこと。
どちらか一方が我慢するだけでは、夫婦は続かない。
では、二人は何を選べばいいのか。
笑って、喧嘩して、悩んで、それでも互いの手を離さない。
大人の婚活・結婚ラブコメ。
第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』開幕。
夫婦でいることは、同じ予定表を共有することではない。
予定どおりにいかない人生を、それでも二人で選び直すことなのかもしれない。
「優。今、何を言おうとした?」
妻の問いに、俺は用意していた言葉を飲み込んだ。
初診で胎嚢が確認できた。けれど、心拍はまだ確認できていない。次の診察まで待つ必要がある。
その説明ならできる。知っていることも、まだ分からないことも、順番に並べられる。
だが、今の喜咲が聞いているのは、そこじゃない。
答えのない夜
「……安心できる説明を、何か探していました」
「見つかった?」
「……いいえ」
喜咲が、診察でもらった書類をそっと裏返した。机の上には、二人で開いた共有カレンダーがある。次の受診予定には、まだ『仮』の文字が付いていた。
「じゃあ、探さなくてもいいよ」
「……でも、心配でしょう」
「心配だよ。すごく」
彼女は一度、口を結んだ。
「だから、優にも聞きたい。予想じゃなくて、今どう思ってる?」
俺は医師だ。診察室なら、不安を訴える人に何を説明すべきか考えられる。
けれど、家では違う。
待っているのは妻で、隣で待っているのは俺自身だった。
「……怖いです」
声に出すと、喉の奥が熱くなった。
「次に何が見えるのか、考えてしまいます。考えても答えは出ないのに」
「そっか」
「……頼りなく聞こえますね」
「ううん。やっと同じ場所に来た感じ」
喜咲は俺の手を取った。
「先生の言葉は病院で聞ける。でも、優の気持ちは優に聞くしかないでしょ」
「……そうですね」
「それと、もう一つ」
「……はい」
「今日は私を安心させる係、休んでいいから」
「……休診、ですか」
「そう。夫は通常営業でお願いします」
思わず笑ってしまった。
この人は、怖いと言いながら、俺を笑わせる。
俺は彼女の手を握り返した。今夜、分からないことは分からないままでいい。せめて、一人で待たせないことだけは決められる。
それから再診まで、いくつもの朝が過ぎた。
出勤前、喜咲はスマートフォンで予約を確かめる。確認し終えたはずなのに、食卓に戻ってもう一度画面を開く日もあった。
「……予約、変わっていませんよ」
「分かってる。時間が飛んでくれないかなって見てた」
「……スマートフォンに、その機能はありません」
「知ってます」
妻の声は少し強かった。俺はそれ以上、説明を足さなかった。
職場に行けば、彼女は企画部長で、俺は医師だ。会議も診療も、いつもどおり続く。
なのに帰宅後、静かになった食卓で時計を見ると、次の診察だけがいつまでも近づかない気がした。
「今日、体調どうだった?」
今度は俺が聞く前に、喜咲が言った。
「特に変わらない。だからって、そこから何か推理しないでね」
「……まだ何も言っていません」
「顔が言ってる」
俺は反論できなかった。
「今分かってることだけ、大事にしようって決めたの。胎嚢が見えた。それは本当。次のことは、次に聞く」
「……はい」
「優も、未来の診察を頭の中で先に始めないこと」
「……努力します」
「そこは『はい』でしょ」
結局、その夜も二人で笑った。
笑い終わったあと、喜咲が小さく息を吐いたことを、俺は見逃さなかった。
内診室の扉の向こう
再診の朝、俺より先に支度を終えた喜咲が、玄関で靴を履き直していた。
「……まだ出発まで時間があります」
「知ってる。早く行ったら、早く結果が分かるわけじゃないのにね」
彼女は笑おうとして、うまく笑えなかった。
俺は普段どおりに振る舞おうとした。忘れ物の確認、予約時刻の確認、移動にかかる時間の確認。
「優」
三つ目の確認を始める前に呼び止められた。
「予想しない約束、覚えてる?」
「……覚えています」
「だったら、今、何を一番考えてる?」
本当は、診察で確認できなかった場合のことだった。
「……今日の結果を、あなたと一緒に聞きたい。それだけです」
喜咲はうなずき、俺の手を引いた。
待合室は前回と同じだった。番号が呼ばれ、誰かが立ち上がる。受付の音がして、また静かになる。
喜咲は膝の上で、バッグの持ち手を握り直した。
「ねえ。もし今日も分からなかったら?」
「……そのとき分かったことを、先生と確認しましょう」
「うん」
「……俺が勝手に結論を出すことはしません」
「それなら、隣にいて」
「……もちろんです」
名前が呼ばれた。問診のあと、喜咲は経腟超音波検査のため、内診室へ案内された。
この施設では、内診室に入るのは本人だけだ。
「じゃあ、優。ここで待ってて」
「……はい。出てきたら、ここにいます」
喜咲が小さくうなずく。手を離した瞬間、待合室の空気が急に冷たく感じられた。
扉が閉まる。
俺は医師だ。妊娠初期に何を確認する検査なのか、説明できる。
それでも、検査が終わるまでの時間を縮める方法は知らなかった。
壁の時計の針が進む。何度も見上げてしまう自分が、少し情けない。
やがて喜咲が戻ってきた。
俺は立ち上がる。彼女の表情から答えを探そうとして、すぐにやめた。
「……お疲れさまでした」
「うん。先生のお話、一緒に聞こう」
彼女が隣に座った。先ほどまで握っていたバッグの持ち手を、今度は両手で包んでいた。
ほどなくして二人で診察室に入り、担当医の説明を受けた。
「今日の経腟超音波検査では、胎児の心拍が確認できました」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で準備していた質問が、一つも出てこなくなった。
「……優、聞こえた?」
喜咲が、俺のほうを向いた。
「……はい」
「小さかったけど、動いてたの。先生が見せてくれた」
俺はその動きを直接見ていない。
けれど、妻の声が震えていることは分かった。俺の手を探す指先も、震えていた。
俺は、その手を握った。
担当医は、今日確認できた所見と、今後も経過を見ていく必要があることを説明した。心拍が確認できたからといって、その先のすべてが保証されるわけではない。
俺も喜咲も、一つずつうなずいた。
今日、二人で同じ画面を見たわけではない。
それでも、彼女が自分の目で確かめたことを、俺たちは二人の知らせとして受け取った。
今日は、喜んでいいですか
診察室を出ると、喜咲は廊下の端で立ち止まった。
「……どうしました」
「ちょっとだけ」
彼女はバッグを胸の前に抱え、深く息を吸った。
「こんなに驚いたのに、ちゃんとうれしいんだね」
俺は答えず、隣に立った。
喜咲の目元が潤んでいる。泣くのかと思ったら、口元だけが先に笑った。
「最初に陽性って分かったとき、どうしたらいいか分からなかった。初診の日も、見えたことは嬉しかったけど、次が怖かった」
「……はい」
「今も怖いよ。これからだって、分からないことはあるんでしょ」
「……あります」
「でもさ」
彼女は俺の袖を軽く引いた。
「今日、心拍が確認できたのは本当なんだよね」
「……はい。本当です」
言い切った途端、息が震えた。
それを聞いた喜咲が俺を見上げる。
「優、もしかして泣く?」
「……泣いていません」
「じゃあ、その顔は?」
「……説明が難しいです」
「お医者さんなのに?」
「……今日は、夫なので」
彼女が吹き出した。前回の受診でも、似たようなことを言った気がする。
俺は笑いながら、目元を押さえた。
嬉しいと言ってしまったら、明日が怖くなくなるわけではない。
それでも、今の気持ちを黙ってしまえば、またこの人を一人にする。
「……喜咲」
「うん?」
「……今日は、一緒に喜んでいいですか」
妻は目を丸くした。
「そこも許可が必要?」
「……確認しておきたくて」
「私、もう嬉しいって言ってるじゃん」
「……はい」
「優は?」
俺は今度こそ、すぐに答えた。
「……嬉しいです。とても」
喜咲は握っていた俺の手を引き寄せた。
「じゃあ、二人で喜ぼうよ」
その言葉を聞いて、ようやく笑えた。
何もかも安心できたわけじゃない。次の受診も、仕事も、考えることは山ほどある。
でも、今日確認できたことを、今日の喜びとして受け取っていい。
医師として知っていることと、夫として受け取る喜びは、別のものなのだ。
「……帰りに、何か食べていきますか」
「何? お祝い?」
「……そのつもりです」
「だったら、今日は私が食べたいものを選んでいい?」
「……もちろんです」
「診察後の特別待遇だ」
「……いつも選んでいる気がしますが」
「聞こえませーん」
楽しそうに歩き出した妻を追いかけた。
空白のないカレンダー
帰宅してしばらくすると、俺のスマートフォンに勤務変更の連絡が入った。
来週の予定を、一部調整する必要があるという。
俺は画面を見つめたまま黙ってしまった。
「優、また難しい顔」
「……勤務の予定が変わりそうです」
「そっか。じゃあ、確認しようか」
喜咲は共有カレンダーを開いた。
前回の受診のために調整した勤務。今後の受診を相談するための仮の予定。彼女の会議、俺の診療。
それぞれに、大切にしている時間がある。
「……俺の予定は動かしにくいので、先にあなたの空いている日を」
言いかけたところで、喜咲の指が止まった。
「優」
「……はい」
「前にも言ったよね。私の予定を勝手に消さない。優の予定も勝手に諦めない」
「……そうでした」
「今日だって、一緒に来られて嬉しかった。でも、これから毎回同じようにできるとは限らないでしょ」
「……はい」
「だから、そのたびに相談しよう。私の仕事も、優の仕事も、どっちも大事だから」
俺は勤務変更の連絡を閉じ、カレンダーを二人で見られる位置に置いた。
「……分かりました。先に決めないで、一緒に考えます」
喜咲が、少しだけ笑った。
「ねえ、優」
「……はい」
「次は、どっちの予定から直そうか」
画面には二人の予定が並んでいた。
空白は、ほとんどなかった。
第7話/通算第57話 完
次回予告
第8話/通算第58話「妊娠後も仕事を続けたい妻と、夫がぶつかりました」
心拍を確認し、ようやく二人で喜べた優と喜咲。しかし、診察の予定と仕事の責任は、待ってくれない。
妻を心配する優の言葉は、なぜ喜咲に「仕事を辞めてほしい」と聞こえてしまうのか。
二人は、心配することと相手の選択を尊重することの違いに向き合う。
「今日は、一緒に喜んでいいですか」。優のこの言葉を、どう感じましたか。感想をコメントで聞かせていただけると嬉しいです。
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524
Momokun Official https://momokun.jp/




