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第56話「妻の初診に付き添いたい医師が、仕事を休めない?」

第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』




前書き




「私、決めた。大型プロジェクトに参加する」




妻がそう宣言した翌日。




俺との時間が、妻の予定表から消え始めた。




会議、打ち合わせ、資料確認。




共有カレンダーは仕事の予定で埋め尽くされ、夫婦の時間は次の日曜日の《デート》だけになっていた。




しかも、その約束さえ仕事に奪われるかもしれない。




「……日曜日以外、俺との予定がありません」




「私、仕事を選んじゃいけなかったのかなって……」




45歳のバツイチ医師・小鳥遊優。




42歳の食品メーカー企画部長・小鳥遊喜咲。




婚活アプリで出会い、恋をして、再婚した二人。




第5部で喜咲は、悩み抜いた末に、自分の人生を生きるため仕事を続ける決断をした。




優も、その挑戦を応援すると約束した。




けれど、現実は甘くなかった。




妻の夢を応援するほど、夫婦の時間が失われていく。




寂しいと言えば、妻の決断を否定してしまうかもしれない。




何も言わなければ、自分だけが我慢し続けることになる。




そんな二人に、やがて想像もしていなかった人生の転機が訪れる。




それは、仕事の予定や夫婦の約束だけでは答えを出せない出来事だった。




結婚したのに、どうしてこんなに難しいんだろう。




仕事を選ぶこと。




愛する人を選ぶこと。




そして、予想もしなかった未来と向き合うこと。




どちらか一方が我慢するだけでは、夫婦は続かない。




では、二人は何を選べばいいのか。




笑って、喧嘩して、悩んで、それでも互いの手を離さない。




大人の婚活・結婚ラブコメ。




第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』開幕。




夫婦でいることは、同じ予定表を共有することではない。




予定どおりにいかない人生を、それでも二人で選び直すことなのかもしれない。

「……その日は、休めないかもしれません」


言った途端、喜咲の指がスマートフォンの上で止まった。


そこには、産婦人科の初診予約が表示されている。


昨日、妻が妊娠検査薬の陽性を告げた。四十二歳の喜咲も、四十五歳の俺も、想像すらしていなかった出来事だ。


一緒に考えようと約束したばかりなのに。


その最初の一歩を、俺の勤務表が塞いでいた。

夫にも、希望があります

「そっか。じゃあ、私一人で行くよ」


喜咲は画面を伏せた。責める声ではない。それが、かえって胸に残った。


「……少し待ってください」


「何を?」


「……まだ、休めないと決まったわけではありません」


「今、休めないかもって言ったよね」


「……かもしれない、です」


「そこ、厳密にする?」


妻の口元がわずかに緩む。俺は一度、息を吸った。


「……付き添いたいんです。俺が」


喜咲が顔を上げた。


「お医者さんだから?」


「……違います。夫だからです」


ようやく言えた。


昨日まで、俺は仕事の予定が動かせないと分かると、それ以上を考えなかった。誰にも迷惑をかけない。それが正しいのだと、自分の希望まで引っ込めていた。


「でも、優の患者さんだって待ってるでしょ」


「……はい。だから、診療に支障が出ない方法があるか相談します」


「私のために無理してほしくないよ」


「……無理をすると決めたわけでもありません」


「また『決まってから言う』人になってない?」


痛いところを突かれた。


喜咲は椅子を寄せ、俺の顔をのぞいた。


「付き添ってくれたら、嬉しい。だけど、来られなくても責めない。これが今の私の気持ち」


「……ありがとうございます」


「そこでお礼?」


「……その言葉を、先に聞けたので」


彼女は少し照れたように視線を外した。


「じゃあ、優の気持ちも、途中のまま教えてね」


「……はい」

変更できない予定は、誰のものか

翌日、勤務の調整を相談した。


予想どおり、簡単な話ではなかった。診療の予定を動かせば、患者の予定にも、ほかの医師の仕事にも影響する。誰かに代わってもらうなら、その人の都合を確かめなければならない。


最初は難しいという返事だった。


俺は勤務表を見つめた。画面には、空白の少ない時間割が並ぶ。


以前の俺なら、ここで諦めていただろう。


『調整は難しそうです』


喜咲に送る文章を打ったところで、指が止まった。


それだけでは、結論を伝えているにすぎない。


続けて入力する。


『でも、俺は一緒に行きたいです。別の調整ができないか、もう一度相談します』


送信すると、しばらくして返事が来た。


『うん。気持ち、受け取りました』


短い一文が、思いのほか嬉しかった。


俺は担当する診療を確認し、変更の影響が少ない方法を改めて相談した。できないことはできないと伝え、可能な範囲だけを頼む。勤務のすべてを他人へ預けるわけにはいかない。


何度かの確認を経て、初診に付き添えるよう時間を調整してもらえた。


ありがたかった。そして、少し申し訳なかった。


その気持ちを喜咲に話すと、妻は電話の向こうで言った。


「だったら、ちゃんとありがとうって言えばいいんじゃない?」


「……言いました」


「じゃあ次は、助けてもらった分、優も誰かを助けてね」


「……そうします」


「それにしても、付き添うための調整が、もう一つの診察みたいだね」


「……問診より項目が多いかもしれません」


「そこは笑うところだよね?」


俺は受話器を持ったまま、ようやく笑った。

二本の線の、その先

初診の日。


待合室で、喜咲は問診票を読み直していた。もう書き終えているのに、同じ欄へ何度も視線を戻す。


「……緊張していますか」


「してる。優は?」


「……俺もです」


「お医者さんなのに」


「……今日は家族です」


「そうだった。私の夫だった」


喜咲が俺の手の甲を小さく叩く。


昨日の食卓にあった二本の線が、ここまで二人を連れてきた。けれど、陽性という結果だけでは、妊娠の場所も、その後の経過も分からなかった。


診察では月経の時期や体調について確認があり、超音波検査が行われた。喜咲の希望と担当医の了承を得て、俺も説明を一緒に聞いた。


画面を見た瞬間、俺は無意識に身を乗り出していた。


淡い灰色の輪郭の中に、小さな黒い部分がある。


「子宮内に胎嚢が確認できます」


担当医が、その部分を示した。


胎嚢。妊娠初期に超音波で見える、袋状の構造だ。


知っている単語のはずだった。


けれど今、その言葉を頭の中で説明し直す余裕はなかった。


「……これが?」


喜咲の声が細くなる。


「はい。こちらです」


妻は画面を見たまま、まばたきを忘れたように動かなかった。


俺も同じだった。


画面の端で、担当医が示す小さな場所。それだけなのに、胸の奥が詰まった。


「……本当に、あったんだ」


喜咲がつぶやく。


俺は返事の代わりに、彼女の手を握った。


担当医は、今日確認できたことと、まだ確認できないことを分けて説明した。胎児の心拍は現時点では確認に至っていない。妊娠週数の見立てには幅があり、適切な間隔を置いて改めて診察する必要があるという。


今後の経過が保証されたわけではない。強い腹痛や出血など、気になる症状があれば相談することも確認した。


喜咲は一つずつうなずいていた。


俺は医師としてではなく、妻が聞き逃したことを一緒に確かめるために、隣にいた。


診察室を出るとき、彼女が小さく言った。


「優、一緒に来てくれてありがとう」


「……こちらこそ」


「何にお礼?」


「……一緒に見せてもらえたことに、です」


喜咲は、返事をするまで少し時間がかかった。

今日は、夫の言葉が欲しい

病院を出ても、喜咲の歩幅はいつもより小さかった。


「……気分が悪いですか」


「違う。頭が追いついてないだけ」


「……今日の所見については、一般的に」


「優」


俺は口を閉じた。


「説明モード、入った」


「……必要な情報かと」


「必要なのは分かるよ。ちゃんと先生にも聞いた。でも、今は夫の言葉が欲しい」


妻はまっすぐ俺を見る。


「画面を見て、どう思った?」


答えを探しながら、俺は診察室の光景を思い出した。


小さな黒い影。喜咲の声。手を握り返してきた指先。


「……目が離せませんでした」


「うん」


「……あんなに小さいのに」


彼女が待ってくれている。医学用語を並べる必要はない。


「……少し、嬉しかったです」


言ってから、自分でも驚いた。


「少し?」


「……嬉しいと言ってしまうのが、怖くもあります」


「私も」


「……でも、今日一緒に見られてよかった」


妻はうなずき、肩を俺に寄せた。


「私ね、安心して帰れると思ってた」


「……はい」


「でも、やっぱり次の診察が怖い。今日分かったことは嬉しいのに、まだ落ち着かない」


俺は頷いた。励ますための言葉が喉元まで来て、引っ込んだ。


「……俺も落ち着きません」


「よかった」


「……よかった、ですか」


「私だけじゃないって分かったから」


喜咲は少し笑う。


「お医者さんの夫って、何でも説明できるけど、心配するのは普通なんだね」


「……説明できないことも、あります」


「そっちの優のほうが、今日は好き」


また不意打ちだった。


俺が返事に詰まると、妻は満足そうに歩き出した。

夫の仕事だけ、例外にはしない

帰宅して、二人で共有カレンダーを開いた。


次の受診は、今日の結果を踏まえて適切な時期に行う。具体的な予約枠と二人の勤務を確かめる必要があった。


俺が先に喜咲の予定を見ようとすると、彼女が画面を押さえた。


「待って。優の勤務も一緒に見よう」


「……俺のほうは動かしにくいので」


「それ」


一本、指を立てられた。


「私の仕事は調整するのに、夫の仕事だけ例外ですか?」


「……そういう意味では」


「分かってる。でも、私が仕事を続けたいのと同じくらい、優にも大切な仕事があるでしょ」


喜咲は自分の予定を指した。


「私の予定を勝手に消さないでほしい。優の予定も、勝手に諦めないでほしい」


昨日まで、俺は仕事を変えられない理由を探していた。


今日は、変えられる範囲を相談した。


その違いを、妻はきちんと見ている。


「……俺の仕事だけ、例外にはしません」


「うん」


「……ただ、次も付き添いたいという希望はあります」


「じゃあ、それも予定表に入れておこう。まだ仮で」


「……仮で、ですか」


「決める前に話すって、約束したでしょ」


俺は頷いた。


カレンダーに二人の予定を並べる。空白は少ない。それでも、片方が黙って譲ることだけが答えではなかった。

次の診察まで

夜、喜咲は診察でもらった書類をテーブルに広げていた。


「ねえ、優。次まで長いね」


「……そうですね」


「今日、胎嚢が見えたの、嬉しかった」


「……俺もです」


「でも、明日になったらまた心配になるかも」


「……はい」


「そういうとき、何を信じたらいいんだろう」


俺は妻の隣に座った。


今日確認されたことはある。まだ分からないこともある。次の診察まで、医学的に説明できる一般論だってある。


その知識が、俺を安心させてくれるとは限らない。


「……一般的には」


そこまで言うと、喜咲が顔を上げた。


「優。今、何を言おうとした?」


俺は息を止めた。


妻に話そうとしたのは、診察で聞いた説明の続きか。


それとも、自分自身が誰かに言ってほしかった言葉なのか。


次の診察までの時間を、知識だけで埋めることはできない。


俺は、喜咲の手に触れた。


今度は答えを急がず、まず自分の気持ちを探した。



第56話 完

次回予告

第57話「医者の夫にも、待つしかできない日がある」


初診で胎嚢を確認した優と喜咲。しかし、次の診察までの不安は消えない。


医師として説明したい優と、夫の本音を聞きたい喜咲。


別の日の再診を迎え、二人は何を確かめるのか。




優と喜咲の「夫の仕事だけ例外にはしない」という約束を、どう感じましたか。感想をコメントで聞かせていただけると嬉しいです。

この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。

Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524

Momokun Official https://momokun.jp/

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