第5話/第55話「大事なことは、決めてから言わないで」
第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』
前書き
「私、決めた。大型プロジェクトに参加する」
妻がそう宣言した翌日。
俺との時間が、妻の予定表から消え始めた。
会議、打ち合わせ、資料確認。
共有カレンダーは仕事の予定で埋め尽くされ、夫婦の時間は次の日曜日の《デート》だけになっていた。
しかも、その約束さえ仕事に奪われるかもしれない。
「……日曜日以外、俺との予定がありません」
「私、仕事を選んじゃいけなかったのかなって……」
45歳のバツイチ医師・小鳥遊優。
42歳の食品メーカー企画部長・小鳥遊喜咲。
婚活アプリで出会い、恋をして、再婚した二人。
第5部で喜咲は、悩み抜いた末に、自分の人生を生きるため仕事を続ける決断をした。
優も、その挑戦を応援すると約束した。
けれど、現実は甘くなかった。
妻の夢を応援するほど、夫婦の時間が失われていく。
寂しいと言えば、妻の決断を否定してしまうかもしれない。
何も言わなければ、自分だけが我慢し続けることになる。
そんな二人に、やがて想像もしていなかった人生の転機が訪れる。
それは、仕事の予定や夫婦の約束だけでは答えを出せない出来事だった。
結婚したのに、どうしてこんなに難しいんだろう。
仕事を選ぶこと。
愛する人を選ぶこと。
そして、予想もしなかった未来と向き合うこと。
どちらか一方が我慢するだけでは、夫婦は続かない。
では、二人は何を選べばいいのか。
笑って、喧嘩して、悩んで、それでも互いの手を離さない。
大人の婚活・結婚ラブコメ。
第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』開幕。
夫婦でいることは、同じ予定表を共有することではない。
予定どおりにいかない人生を、それでも二人で選び直すことなのかもしれない。
「妊娠検査薬、陽性だった」
喜咲がテーブルに置いた小さな白い器具には、二本の線が浮かんでいた。
俺は医師だ。
検査結果の意味を説明する機会なら、何度もあった。
なのに、自分の妻が差し出したそれを前にして、喉が動かなかった。
「……優?」
喜咲の指先が、器具の端を押さえている。離した途端、そこにある事実まで変わってしまうと思っているように。
「……え?」
ようやく出た言葉に、妻が力なく笑った。
「うん。私も最初、そう言った」
ほんの数日前まで、俺たちは帰宅時間の話をしていた。
何時に帰れるか分からない。決まったら話す。それでも、一緒に過ごしたい気持ちは伝えよう。
ようやく二人で決めたのは、それくらいのことだった。
なのに今、帰宅予定よりずっと大きな「分からない」が、食卓の真ん中に置かれている。
予定表にない二本の線
「今日、仕事の予定を見直してたときに気づいたの」
喜咲は向かいの椅子に座った。いつもなら鞄を置くなり始まる仕事の話が、今日は途切れ途切れだった。
「月経、遅れてるなって。最初は疲れとか、生活リズムのせいかなと思ったんだけど」
「……それで、検査を?」
「念のため。買って帰って、説明書を確認してから使った」
妻は二本の線に目を落とした。
「何度見ても同じなの。……え、今? って」
俺たちは妊娠を意識して暮らしていたわけではない。
喜咲は四十二歳。食品メーカーの企画部長として、大型プロジェクトを抱えている。俺も自分の勤務がある。
二人の予定表には会議や勤務、そして時々の夕食の約束が並んでいた。
そのどこにも、今日の出来事を書き込む欄はなかった。
「……これ、いつから二人分の予定表になりますか」
口にしてから、俺は目を閉じた。
何を聞いているんだ、俺は。
喜咲が顔を上げる。
「……は?」
「……いえ。これからの予定を整理する必要が」
「待って。まず『驚いた』くらい言って」
「……驚きました」
「うん」
「……今も驚いています」
妻は俺の顔をじっと見たあと、ほんの少し笑った。
「知ってる。今まで見たことない顔してる」
いつものように笑い返そうとして、うまくいかなかった。
喜咲の笑顔も、長くは続かなかった。
テーブルの上で、器具だけが静かに二本の線を示していた。
嬉しい、だけでは足りない
「ねえ、優。私、どんな顔をしたらいいのかな」
「……どんな顔、ですか」
「嬉しいのか、怖いのか、自分でも分かんない」
喜咲は膝の上で手を組み直した。
「さっきまで仕事の段取りを考えてたんだよ。それが急に、これ。頭が追いつかない」
俺は何か言いかけて、やめた。
妻に必要なのは、俺が勝手に用意した答えではない。
「……怖いんだと思う」
彼女は視線を落とした。
「でも、怖いだけじゃない。少し嬉しい気もする。そう思ったら、今度は嬉しがっていいのか心配になる」
「……喜咲」
「四十二歳って、私が一番よく知ってる。でも、年齢の話だけじゃなくて。仕事も、これからの暮らしも、どうなるのか分からなくて」
俺は妻の手に触れた。
冷たかったわけではない。ただ、握り返されるまでの一瞬が、妙に長く感じられた。
「……俺も、分かりません」
「お医者さんでも?」
「……医師として分かることはあります。でも、今の俺自身が何を感じているのかは、まだ」
喜咲の眉が少し下がった。
「そっか。優も一緒なんだ」
「……驚いています。心配もしています」
「うん」
「……それだけではない気も、しています」
妻が長く息を吐いた。
「よかった。私だけ、変な反応してるんじゃなかった」
「……変ではありません」
即答すると、喜咲はようやく俺の手を握り返した。
その手に答えはない。それでも、一人で考えているときより、少しだけ呼吸がしやすくなった。
お医者さんを呼んだんじゃない
「……産婦人科で診てもらう必要があります」
俺の口が、先に動いた。
「検査薬が陽性でも、妊娠の場所やその後の経過は分かりません。受診して、週数や所見を……」
「優」
言葉を切られた。
「説明モード、入ってる」
「……必要な情報なので」
「必要なのは分かってる。ちゃんと聞きたいよ。でも、今じゃない」
妻は握っていた手をいったん離し、俺のほうへ椅子を寄せた。
「私、お医者さんを呼んだんじゃないんだよ」
胸の奥が、ひどく静かになった。
「夫に話したかったの」
俺は開きかけた口を閉じた。
患者への説明なら、知識を整理して順番に伝えればいい。
けれど俺は今、妻に向き合いながら、妻の顔を見ていなかった。
「……すみません」
「だから、謝らなくていいって」
「……はい」
「優だって、びっくりしたんでしょ? 一緒にびっくりしてよ」
「……とても、びっくりしています」
「それは聞いた!」
思わず二人で笑った。
今度の笑いには、少しだけ温度があった。
俺は椅子を寄せ返した。
妻が肩を預けてくる。その重みを受け止める。
「……今夜は、何も決めなくていいですか」
「うん。そうしたい」
検査薬はテーブルに残したまま、俺たちはしばらく寄り添った。
決まる前に、話す
「実はね」
先に口を開いたのは喜咲だった。
「病院でちゃんと確認できてから言おうかと思ったの」
「……そうだったんですか」
「期待させちゃうかもしれないし。私自身、何が起きてるのか整理できてなかったから」
喜咲は少しうつむいた。
「でも、それってこの前と同じだなって」
俺は数日前の夜を思い出した。
大型プロジェクトで増えるかもしれない打ち合わせ。決まってから話す、と言った妻。
俺は、まだ決まっていなくても話していいと伝えた。
「仕事もそう。いつも自分で何とかして、結論を出してから優に報告しようとする」
「……責任感が強いからだと思います」
「たぶん、迷ってる自分を見せるのが苦手なんだよ」
俺は返す言葉を探した。
俺にも覚えがあったからだ。
寂しいと言わずに、妻を応援しているつもりになっていた。
自分の希望を隠すことが、相手の自由を尊重することだと思っていた。
「……俺も、似ていますね」
「似てるどころじゃないでしょ」
「……少しは否定していただきたかったのですが」
「しない。だって、この前やっと『一緒に夕食を食べたい』って言えた人だもん」
妻は小さく笑ってから、俺の手を取り直した。
「だから今日は、分かんないまま話そうと思った」
「……はい」
「怖いとか、嬉しいかもしれないとか、途中の気持ちも全部」
「……聞きたいです。俺の気持ちも、途中のまま伝えます」
「それ、約束ね」
俺がスマートフォンへ手を伸ばすと、妻がすかさず腕を押さえた。
「利用規約、作らない!」
「……まだ何もしていません」
「目が『第一項』って言ってた!」
反論は難しかった。
ただ、今度はメモに残さなくても忘れない気がした。
明日の答えは、明日の二人で
「……受診のこと、相談してもいいですか」
俺が尋ねると、喜咲はうなずいた。
「うん。そこはちゃんと確認したい」
どこへ相談するか。仕事の予定をどう調整するか。
具体的に考え始めると、すぐに二人の勤務が頭に浮かぶ。
「……できれば、俺も付き添いたいです。勤務を調整できるか確認します」
「優の仕事も大事だよ。無理に決めないでね」
「……分かりました。まず相談します」
妻が少し笑った。
「いいね。今日の優は、ちゃんと相談できてる」
「……成長を採点されている気分です」
「満点には、まだ早いかな」
「……厳しいですね」
「でも、好き」
不意打ちだった。
俺が返事に迷っている間に、喜咲は肩を寄せ直した。
「私たち、赤ちゃんのことを考えてたわけじゃないよね」
「……はい」
「なのに、突然こんなことになって。これからどうなるんだろう」
声の最後だけが、かすかに揺れた。
「……まだ分かりません。でも、今起きたことを、一緒に考えることはできます」
「うん」
「……喜んでいいかどうかも、まだ分かりません」
「うん。私も」
俺たちは手をつないだまま、産婦人科を受診するための予定を話し始めた。
検査薬の二本の線は、そこにある。
だが、妊娠の場所も、この先の経過も、まだ確認されていない。
あの二本の線が俺たちにとって何を意味するのか。
その答えは、まだ誰も知らなかった。
第55話 完
次回予告
第56話「妻の初診に付き添いたい医師が、仕事を休めない?」
二人で話すと決めた優と喜咲。
けれど、産婦人科を受診するという一つの予定にも、それぞれの仕事がある。
妻の仕事を尊重したい夫は、自分の勤務について同じように相談できるのか。
優と喜咲の「まだ決まっていないことを話す」という選択を、どう感じましたか。感想をコメントで聞かせていただけると嬉しいです
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524
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