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第54話「帰宅時間を聞くのは、束縛ですか?」

第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』




前書き




「私、決めた。大型プロジェクトに参加する」




妻がそう宣言した翌日。




俺との時間が、妻の予定表から消え始めた。




会議、打ち合わせ、資料確認。




共有カレンダーは仕事の予定で埋め尽くされ、夫婦の時間は次の日曜日の《デート》だけになっていた。




しかも、その約束さえ仕事に奪われるかもしれない。




「……日曜日以外、俺との予定がありません」




「私、仕事を選んじゃいけなかったのかなって……」




45歳のバツイチ医師・小鳥遊優。




42歳の食品メーカー企画部長・小鳥遊喜咲。




婚活アプリで出会い、恋をして、再婚した二人。




第5部で喜咲は、悩み抜いた末に、自分の人生を生きるため仕事を続ける決断をした。




優も、その挑戦を応援すると約束した。




けれど、現実は甘くなかった。




妻の夢を応援するほど、夫婦の時間が失われていく。




寂しいと言えば、妻の決断を否定してしまうかもしれない。




何も言わなければ、自分だけが我慢し続けることになる。




そんな二人に、やがて想像もしていなかった人生の転機が訪れる。




それは、仕事の予定や夫婦の約束だけでは答えを出せない出来事だった。




結婚したのに、どうしてこんなに難しいんだろう。




仕事を選ぶこと。




愛する人を選ぶこと。




そして、予想もしなかった未来と向き合うこと。




どちらか一方が我慢するだけでは、夫婦は続かない。




では、二人は何を選べばいいのか。




笑って、喧嘩して、悩んで、それでも互いの手を離さない。




大人の婚活・結婚ラブコメ。




第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』開幕。




夫婦でいることは、同じ予定表を共有することではない。




予定どおりにいかない人生を、それでも二人で選び直すことなのかもしれない。

【妻の帰宅時間を聞いてはいけませんか?】

「ねえ、優。私、これから毎日、何時に帰るか報告しなきゃいけないの?」


妻のその一言で、俺たちの話し合いは振り出しに戻った。


ほんの数分前、ようやく本音を伝え合えるようになったばかりなのに。


俺は、妻と夕食を食べたかった。


ただ、それだけだった。


「……喜咲。報告を求めたつもりはありません」


「でも、何時に帰るか聞いたよね?」


「……はい」


「それって、帰宅時間を把握したいってことじゃない?」


俺は返事に詰まった。


確かに、帰宅時間を知りたかった。


けれど、妻の行動を監視したかったわけではない。


「……夕食の準備を考えていただけです」


「分かってるよ。でもね、優」


喜咲はスマートフォンをテーブルに置いた。


「私だって、明日何時に帰れるか分からないの」


その声には、疲れがにじんでいた。


「会議が延びるかもしれない。部下から相談されるかもしれない。急に仕事が増えることだってある」


「……はい」


「そんなときに『何時に帰る?』って聞かれると、答えられない私が悪いみたいに感じちゃうの」


俺は、ようやく妻が怒った理由を理解し始めた。


喜咲は帰宅時間を秘密にしたいわけではない。


答えられないことを責められたくないのだ。


「……喜咲を責めるつもりはありませんでした」


「うん。それは分かってる」


妻は少し困ったように笑った。


「でも、優が楽しみに待ってると思ったら、帰れないのが申し訳なくなるでしょ?」


その言葉に、俺は気づいた。


妻の自由を尊重することばかり考えていた。


けれど、俺の期待そのものが、妻には負担になることもあるのだ。


だからといって。


一緒に夕食を食べたいという希望まで、隠すべきなのだろうか。


***

【夫の本音は、帰宅時刻ではありません】

「……喜咲」


「何?」


「……一つ、説明してもいいですか」


「うん」


俺は言葉を選んだ。


医師として患者に説明するときなら、必要な情報を整理すればいい。


しかし、妻に伝えたいのは正確な情報ではない。


俺自身の気持ちだった。


「……帰る時刻を決めてほしいのではありません」


喜咲が俺を見る。


「……帰ってきたら、一緒に過ごせるか知りたいんです」


「……うん」


「……できれば、一緒に夕食を食べたい。でも難しいなら、先に食べます」


妻の表情が少し変わった。


「……それだけ?」


「……はい」


「だったら最初から、そう言ってよ」


喜咲は肩の力を抜いた。


「何時に帰るか聞かれると、時間を守らなきゃいけない気がする。でも、一緒にご飯を食べたいって言われたら、私も考えられるよ」


「……なるほど」


「だから、その『なるほど』もやめて!」


「……なぜでしょう」


「夫婦の会話を分析しない!」


妻が笑った。


俺も、つられて笑った。


「でもね、優。私も決めつけてた」


喜咲が続けた。


「帰宅時間を聞かれただけで、監視されるみたいに感じちゃった」


「……仕事が忙しいからでしょうか」


「それもあると思う。会社では、ずっと時間に追われてるから」


喜咲は少し考えた。


「家に帰ってからまで、予定どおりに動かなきゃって思いたくなかったのかも」


「……そうでしたか」


「でも、優は私の上司じゃないもんね」


「……はい。夫です」


「知ってる!」


妻が吹き出した。


それから、俺の手を握った。


「優が一緒にご飯を食べたいって思ってくれるの、嬉しいよ」


「……本当ですか」


「本当。だから私にも、帰れない日は帰れないって言わせてね」


「……もちろんです」


ようやく分かった気がした。


帰宅時間を尋ねること自体が、束縛なのではない。


その答えを、相手に義務として求めるかどうかなのだ。


***

【結婚生活に利用規約はいりません】

「じゃあ、連絡の仕方を決めよう」


喜咲が言った。


「……合理的ですね」


俺はスマートフォンのメモを開いた。


「……第一項。帰宅予定時刻が未確定の場合は」


「待って」


「……はい」


「何を作ってるの?」


「……連絡に関する取り決めです」


「結婚生活に利用規約を導入しないで!」


妻に止められた。


どうやら、正式な文書にする必要はないらしい。


「簡単でいいの。返信を強制しない。帰る時間が分からないときは、分からないでいい」


「……はい」


「一緒に食べられなかったら、先に食べる。それだけ」


「……例外事項は」


「ない!」


「……緊急時の対応については」


「普通に連絡して!」


喜咲が笑った。


俺もスマートフォンを閉じた。


「あとね、優」


「……はい」


「私が帰るまで、ずっと待ってなくていいからね」


「……ですが」


「優だって、自分の時間を大切にしていいんだよ」


その言葉に、少し驚いた。


俺は妻を待つことが、愛情の示し方だと思っていた。


けれど、喜咲は違うらしい。


「待ってくれるのは嬉しい。でも、私の仕事が終わらないせいで、優まで我慢するのは嫌」


「……分かりました」


「それと、もう一つ」


妻が身を乗り出した。


「帰宅時間を聞く前に、『一緒にご飯食べたい』って言って」


「……毎回ですか」


「できれば毎回」


「……かなり恥ずかしいのですが」


「私、そういう優が好きなんだけどな」


反論できなかった。


妻は時々、俺の理屈を一言で無力化する。


しかも本人には、その自覚がないらしい。


***

【献立の報告書はいらない!】

翌日。


俺たちは早速、新しい連絡方法を試すことになった。


仕事の合間に、喜咲からメッセージが届いた。


『今日、帰る時間まだ分からない。打ち合わせ次第かな』


俺は返信を考えた。


妻に返答を強制しない。


自分の希望も隠さない。


重要なのは、その二つだ。


『承知しました。本日の夕食は俺が先に済ませます。喜咲の分は保存しておきます。献立は鶏肉と野菜の炒め物で、帰宅後に温め直せるよう調理方法を調整しています』


送信した。


しばらくして、返信が来た。


『優』


『はい』


『献立の報告書はいらない!』


俺は画面を見つめた。


報告書。


そこまで長い文章だっただろうか。


『申し訳ありません。情報量が過剰でした』


『だから謝らなくていいって!』


続けて、もう一通。


『「先に食べるね。帰ってきたら話そう」で十分だよ』


なるほど。


俺は返信した。


『先に食べます。帰ってきたら話しましょう』


すぐに返事が来た。


『うん! それがいい!』


思わず笑ってしまった。


帰宅時間は分からない。


それでも、妻と気持ちは通じている。


以前なら、返信がないことを気にして何度もスマートフォンを確認していただろう。


けれど今日は違った。


妻には妻の仕事がある。


俺にも俺の時間がある。


そして、帰宅したら二人の時間を作ればいい。


それで十分なのだ。


***

【同じ食卓にいるだけで】

その夜。


俺は約束どおり、先に夕食を済ませた。


喜咲の分は、あとから温められるようにしてある。


妻が帰宅したとき、俺は食卓で本を読んでいた。


「ただいま」


「……おかえりなさい」


喜咲は俺を見るなり、少し驚いた。


「あれ? もう食べた?」


「……はい」


「そっか」


その声に、ほんの少しだけ寂しさが混じった気がした。


俺は本を閉じた。


「……一緒に食べられなくて、残念でした」


妻が目を丸くする。


「……でも、今日は先に食べました」


「……うん」


「……次に一緒に食べられる日を楽しみにしています」


喜咲はしばらく俺を見つめていた。


そして、ふっと笑った。


「優、本当に変わったね」


「……そうでしょうか」


「前だったら、絶対に待ってたと思う」


「……はい」


「それで『大丈夫です』って言いながら、ちょっと寂しそうな顔してた」


正確だった。


反論の余地がない。


「でも、今日のほうがいい」


「……なぜでしょう」


「優がちゃんと、自分の時間を過ごしてたから」


喜咲は鞄を置いた。


「それに、寂しかったって言ってくれたし」


妻は温めた料理を食卓に運んできた。


「ねえ、優。私が食べてる間、隣にいてくれる?」


「……もちろんです」


俺は椅子を引いた。


「……ただ、俺はもう夕食を済ませていますが」


「一緒に食べなくても、一緒にいられるでしょ?」


「……確かに」


妻が食事をする隣で、俺はお茶を飲んだ。


喜咲は仕事の話をした。


俺も今日あったことを話した。


途中、妻が料理を一口食べて笑った。


「おいしい」


「……よかったです」


「次は一緒に食べたいな」


「……俺もです」


同じ時間に同じものを食べなくても、二人で過ごせる。


そして、次に一緒に食べる日を楽しみにできる。


俺たちは、結婚してからも少しずつ、夫婦の暮らし方を覚えているのだと思った。


***

【決まってから話せばいい】

食事を終えた喜咲が、スマートフォンを手に取った。


画面を確認した途端、表情が変わった。


「……仕事ですか」


「うん。大型プロジェクトのこと」


「……何かありましたか」


「新しい打ち合わせが増えるかもしれないんだって」


「……そうですか」


「まだ決まってないんだけどね」


喜咲は画面を見つめたまま、少し黙った。


「……忙しくなりそうですね」


「まあね。でも、私が選んだ仕事だから」


そう言って笑った。


けれど、その笑顔は少し硬かった。


「……喜咲」


「何?」


「……何か、相談したいことがありますか」


妻の指が止まった。


「……どうして?」


「……考え込んでいるように見えたので」


喜咲は俺を見た。


それから、スマートフォンに視線を戻した。


「ううん。まだ大丈夫」


「……そうですか」


「ちゃんと決まったら話すね」


俺は返事をしかけて、言葉を止めた。


ちゃんと決まったら。


さっき、俺たちは帰宅時間のことで話し合った。


決められない予定を無理に決めなくてもいい。


分からないことは、分からないと言っていい。


そのはずだった。


「……喜咲」


「うん?」


「……まだ決まっていないことでも、俺に話していいんですよ」


妻が顔を上げた。


驚いたような表情だった。


そして、一瞬だけ何かを言いかけた。


けれど。


「……ありがとう、優」


喜咲は微笑んだ。


「でも、今はまだ大丈夫」


俺はうなずいた。


「……分かりました」


それ以上は聞かなかった。


妻が自分で考える時間も、大切にしたかったからだ。


ただ。


喜咲はそのあとも、何度かスマートフォンに視線を落としていた。


画面を見ては、何かを考え、また伏せる。


俺が見ていることに気づくと、いつもの笑顔を見せた。


「優、そんなに心配しなくていいよ」


「……心配はしています」


「正直だね」


「……ですが、喜咲を信じています」


妻は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。


「ありがとう」


俺も笑い返した。


今日は、いい一日だったと思う。


帰宅時間のことで、少しすれ違った。


けれど、俺たちは話し合った。


一緒に夕食を食べられなくても、同じ食卓で過ごせた。


妻を応援しながら、自分の希望も伝えられた。


確かに、一歩前へ進んだはずだった。


それでも。


その夜、喜咲が口にした言葉だけは、なぜか心に残った。


『ちゃんと決まったら話すね』


妻は、そう言って笑った。


俺も笑い返した。


けれど、そのときの俺は気づいていなかった。


俺たちは今日、「決まる前に相談する」という約束をしていなかったのだ。



第54話 完

次回予告

第55話「大事なことは、決めてから言わないで」


夫婦の時間も、仕事の予定も、話し合えば決められる。


そう思っていた喜咲に、予想もしなかった出来事が訪れる。


まだ何も分からない。


喜んでいいのか、怖がるべきなのかさえ分からない。


そんなとき、夫にはいつ話せばいいのだろう。


何もかも分かってから?


それとも、分からない今だからこそ?


「……優。まだ、何も決まってないんだけど」


次回、二人が思い描いていなかった現実と向き合い始めます。




夫婦だからこそ、相手の帰宅時間が気になる。


でも、その質問が相手には負担になることもあります。


あなたは、パートナーの帰宅時間を聞くことを「心配」だと思いますか? それとも「束縛」だと思いますか?


ぜひ感想やコメントで聞かせてください

この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。

Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524

Momokun Official https://momokun.jp/

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