第2話/通算第52話「デートの予定に、仕事を入れないでください」
第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』
前書き
「私、決めた。大型プロジェクトに参加する」
妻がそう宣言した翌日。
俺との時間が、妻の予定表から消え始めた。
会議、打ち合わせ、資料確認。
共有カレンダーは仕事の予定で埋め尽くされ、夫婦の時間は次の日曜日の《デート》だけになっていた。
しかも、その約束さえ仕事に奪われるかもしれない。
「……日曜日以外、俺との予定がありません」
「私、仕事を選んじゃいけなかったのかなって……」
45歳のバツイチ医師・小鳥遊優。
42歳の食品メーカー企画部長・小鳥遊喜咲。
婚活アプリで出会い、恋をして、再婚した二人。
第5部で喜咲は、悩み抜いた末に、自分の人生を生きるため仕事を続ける決断をした。
優も、その挑戦を応援すると約束した。
けれど、現実は甘くなかった。
妻の夢を応援するほど、夫婦の時間が失われていく。
寂しいと言えば、妻の決断を否定してしまうかもしれない。
何も言わなければ、自分だけが我慢し続けることになる。
そんな二人に、やがて想像もしていなかった人生の転機が訪れる。
それは、仕事の予定や夫婦の約束だけでは答えを出せない出来事だった。
結婚したのに、どうしてこんなに難しいんだろう。
仕事を選ぶこと。
愛する人を選ぶこと。
そして、予想もしなかった未来と向き合うこと。
どちらか一方が我慢するだけでは、夫婦は続かない。
では、二人は何を選べばいいのか。
笑って、喧嘩して、悩んで、それでも互いの手を離さない。
大人の婚活・結婚ラブコメ。
第6部『夫婦の時間は、誰のものですか?』開幕。
夫婦でいることは、同じ予定表を共有することではない。
予定どおりにいかない人生を、それでも二人で選び直すことなのかもしれない。
「……優。今日のデート、仕事が入るかもしれない」
玄関で靴を履いた妻が、スマートフォンを握りしめていた。
午前十時二分。
俺たちのデートは、家を出る前から中止の危機に直面していた。
妻は仕事を続けると決めた。
俺も、その決断を応援すると約束した。
それでも。
今日だけは、妻を仕事に渡したくなかった。
* * *
【玄関で止まった日曜日】
「……喜咲」
「うん?」
「……緊急の連絡ですか」
「まだ分かんない。今後の予定について確認したいって」
喜咲は、食品メーカーの企画部長だ。
先日、大型プロジェクトへの参加を正式に決めたばかりだった。
仕事を辞めることまで考えた妻が、自分の意思で選び直した道。
俺は、それを誇らしく思っている。
ただ、今朝の連絡には覚えがあった。
先日、関係者から日曜日にも短時間の確認対応をお願いする可能性があると連絡が来ていたのだ。
あの夜、喜咲は尋ねた。
『もし、日曜日に仕事の連絡が来たら……』
俺は、答えられなかった。
仕事なら仕方ありません。
そう言えば簡単だった。
だが、今度こそ自分の本音を隠したくなかった。
「……優?」
妻が俺を見た。
「怒ってる?」
「……いいえ」
「でも、嫌そう」
「……それは」
俺は言葉を探した。
仕事なら仕方ありません。
いつもの台詞が、喉まで出かかった。
だが、それを口にすれば、妻は安心して仕事を引き受けるかもしれない。
俺が本当は寂しいと思っていることを知らないまま。
「……喜咲」
「何?」
「……今日は、二人で出かけたいです」
妻が瞬きをした。
「……うん」
「……できれば、デートの予定に、仕事を入れないでください」
言ってしまった。
妻の自由を尊重すると決めたばかりなのに、俺は自分の希望を優先してほしいと言っている。
喜咲はスマートフォンを見下ろした。
「……優」
「……はい」
「私が仕事するの、嫌になった?」
胸が詰まった。
「……違います」
「じゃあ?」
「……仕事をしている喜咲は好きです」
「うん」
「……でも、今日は」
一度、言葉を切った。
四十五歳にもなって、妻とのデートを楽しみにしていたと言うのは、少し恥ずかしい。
それでも。
「……今日は、夫として喜咲を独占したいです」
妻が固まった。
三秒ほど沈黙が続く。
「……優」
「……はい」
「その言い方、ずるくない?」
「……何がでしょう」
「そんなこと言われたら、断りにくいじゃん」
俺は慌てて首を振った。
「……断ってはいけないという意味ではありません」
「分かってるって」
「……独占という表現も適切ではありませんでした」
「もう! そこ訂正しなくていいから!」
喜咲が吹き出した。
そして、少しだけ真面目な顔になった。
「私も、今日は優と出かけたい」
「……はい」
「だから、まず本当に今やらなきゃいけない仕事なのか確認する」
妻は靴を脱いだ。
「何でも引き受けるつもりはないって、決めたから」
俺はうなずいた。
仕事を断ることが正解なのではない。
必要な仕事なのか、今やるべきことなのか。
それを確認してから決めればいい。
俺たちは、まだデートを諦めなくてよかった。
* * *
【仕事を断るのと、仕事を選ばないのは違います】
リビングに戻ると、喜咲はメッセージを読み直した。
「今後の打ち合わせ日程を確認したいみたい」
「……今日中に決定する必要があるのですか」
「そこまでは書いてない」
「……では、確認してみましょう」
「そうだね」
妻は返信を入力した。
今日中の対応が必要なのか。
明日の確認でも問題ないのか。
その二点を簡潔に尋ねた。
送信して、スマートフォンを置く。
「……返事、来るかな」
「……分かりません」
「そうだよね」
喜咲は時計を見た。
「せっかく準備したのになあ」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「……喜咲も、楽しみにしていましたか」
「当たり前でしょ」
「……そうですか」
「何、その反応」
「……少し安心しました」
妻は呆れたように笑った。
「優さあ。私だって、夫とデートしたいんだけど」
不意打ちだった。
「……ありがとうございます」
「お礼を言われること!?」
そのとき、スマートフォンが震えた。
喜咲が画面を確認する。
「……あ」
「……どうしました」
「明日の午前中で大丈夫だって」
思わず、息を吐いた。
「……では」
「うん。今日は仕事しない」
喜咲はスマートフォンをバッグにしまった。
「お待たせしました、旦那様」
「……はい」
「改めまして、デートに行きませんか?」
俺は妻の手を取った。
「……喜んで」
喜咲が笑った。
「お、今日は返事が早い!」
「……学習しました」
「夫婦生活を研修みたいに言わない!」
二人で笑った。
仕事はなくならない。
明日になれば、また忙しい日々が始まる。
それでも、今日の時間は守れた。
妻が仕事を諦めたからではない。
俺が我慢したからでもない。
二人で確認し、二人で選んだからだ。
「……喜咲」
「何?」
「……結婚後も予約可能な関係でよかったです」
「診療予約じゃないの!」
「……次回の予約も承ります」
「だから病院じゃないって!」
妻は笑いながら、俺の腕を引いた。
ようやく。
俺たちの日曜日が始まった。
* * *
【今日の同伴者は、部下ではありません】
今回のデートは、遠出ではない。
少し歩いたところにある洋食店で昼食を取り、そのあと散歩する。
以前、二人で相談して決めた予定だ。
特別な場所ではない。
だが、俺には十分だった。
「優、何食べる?」
「……喜咲は何がいいですか」
「出た」
「……何がでしょう」
「妻の希望を優先する夫」
「……問題がありますか」
「ある。優が何を食べたいのか分からない」
俺はメニューを見た。
「……では、ハンバーグを希望します」
「いいね!」
「……喜咲は?」
「私もそれにしようかな」
「……では、同じものを」
「ちょっと待って」
妻が笑った。
「同じものを頼まなくても夫婦だからね?」
「……承知しています」
「本当に?」
「……はい」
「じゃあ、私はオムライスにする」
「……それも魅力的ですね」
「交換する?」
「……よろしいのですか」
「もちろん」
妻は楽しそうにメニューを閉じた。
そんな小さな会話が嬉しかった。
注文を終えると、喜咲が窓の外を眺めた。
「こういうの、久しぶりな気がする」
「……そうですね」
「結婚しても、ちゃんとデートしたいね」
「……俺もそう思います」
「優も?」
「……はい」
「意外」
「……なぜでしょう」
「優って、結婚したら毎日一緒にいるから、わざわざデートしなくてもいいって言いそう」
否定できなかった。
以前の俺なら、そう考えたかもしれない。
だが、今は違う。
「……毎日一緒にいることと、二人で過ごす時間を作ることは、少し違うと思います」
喜咲が目を丸くした。
「……優」
「……はい」
「今の、すごくいいこと言った」
「……ありがとうございます」
「珍しく!」
「……最後の一言は必要でしょうか」
妻が笑った。
その笑顔を見ていると、今日デートをしたかった理由が分かった気がした。
俺は、妻の予定を確保したかったわけではない。
妻と、こんなふうに笑いたかったのだ。
料理が運ばれてきた。
喜咲は嬉しそうに目を輝かせる。
「おいしそう!」
「……そうですね」
俺はスマートフォンを取り出した。
料理を撮影する。
そして、妻にもカメラを向けた。
「ちょっと、優!」
「……はい」
「急に撮らないでよ!」
「……思い出を残したかったので」
妻は一瞬黙った。
それから、少し照れたように笑う。
「……じゃあ、かわいく撮って」
「……努力します」
「そこは保証して!」
シャッターを押した。
画面の中には、笑顔の妻がいた。
仕事の予定も、会議の資料もない。
ただ、目の前の料理を楽しみにしている喜咲。
その姿が、俺にはとても愛おしかった。
食事の途中、俺はふと尋ねた。
「……ところで、来週の仕事の予定ですが」
「ストップ!」
妻が右手を上げた。
「……はい?」
「優先生」
「……何でしょう」
「今日の同伴者は部下じゃなくて妻です」
俺は瞬きをした。
「……確かに」
「仕事の確認をするために来たわけじゃありません」
「……おっしゃるとおりです」
「しかも、優は私の上司でもないでしょ」
「……はい」
俺は姿勢を正した。
「……では、夫としての出席を申告します」
喜咲が吹き出した。
「何その報告!」
「……本日の役割を明確にしました」
「役割って!」
「……妻と食事をし、楽しい時間を過ごすことです」
「それ、役割じゃなくてデートでしょ!」
「……そうでした」
二人で笑った。
ただ、それだけの時間。
けれど、俺は思った。
こういう日曜日を、これからも何度でも過ごしたい。
* * *
【仕事をしていない妻にも、会いたかったんです】
食事を終えたあと、俺たちは並んで歩いた。
喜咲が、そっと俺の手を握った。
「ねえ、優」
「……何でしょう」
「朝のことなんだけど」
「……はい」
「ちょっと聞いていい?」
妻は足を止めた。
「仕事してる私が嫌?」
予想していなかった質問だった。
「……違います」
「分かってる。でも、少し気になって」
喜咲は俺を見た。
「私が仕事に夢中になるの、寂しい?」
俺は、すぐには答えられなかった。
寂しくありません。
仕事を応援しています。
以前の俺なら、そう答えていたと思う。
でも、それでは第51話で交わした約束を裏切ってしまう。
寂しいときは、寂しいと言う。
忙しいときは、忙しいと言う。
互いの本音を隠さない。
「……寂しいと思うことはあります」
妻の表情が少し揺れた。
「……うん」
「……でも、仕事をしている喜咲が嫌なわけではありません」
「うん」
「……一生懸命に働いている喜咲が好きです」
妻は黙って聞いていた。
「……でも、今日は仕事をしていない喜咲とも会いたかったです」
言葉にすると、少し恥ずかしかった。
「……仕事の話をしないで、食事をして」
「……うん」
「……くだらないことで笑って、手をつないで歩いて」
「うん」
「……そういう時間を、もっと一緒に過ごしたいです」
喜咲はしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……優」
「……はい」
「それ、ずるい」
「……何がでしょう」
「そんなこと言われたら、嬉しいじゃん」
妻が俺の腕に寄り添った。
「私も、今日は本当に楽しかった」
「……俺もです」
「仕事を選んだからって、優との時間をどうでもいいと思ってるわけじゃないからね」
「……分かっています」
「でも、優に寂しい思いをさせたくないって気持ちもある」
俺は妻の手を握り直した。
「……それなら、寂しいときは伝えます」
「うん」
「……喜咲も、忙しいときは教えてください」
「もちろん」
「……二人で、どうするか考えましょう」
妻は笑った。
「そうだね」
そして、少しだけ俺に近づいた。
「……でもさ、優」
「……はい」
「さっきの『独占したい』って台詞」
「……はい」
「結構、嬉しかったよ」
俺は足を止めた。
「……そうですか」
「うん」
「……では、次回も使用してよろしいでしょうか」
「申請制にするな!」
妻の笑い声が、夕方の道に響いた。
* * *
【一緒に考える時間も、デートです】
帰り道。
喜咲が、俺に尋ねた。
「今日、一番楽しかったことって何?」
少し考えた。
食事も楽しかった。
散歩も楽しかった。
妻の笑顔も、何度も見ることができた。
だが、一つだけ選ぶなら。
「……今朝の相談です」
「え?」
「……仕事の連絡が来たときです」
妻は驚いたように俺を見た。
「そこ!?」
「……はい」
「普通、デート中の何かじゃない?」
「……もちろん、今日のデートはすべて楽しかったです」
「うん」
「……でも、今朝は喜咲と一緒に、今日をどうするか決められました」
妻は黙っていた。
「……以前の俺なら、仕事を優先してくださいと言っていたと思います」
「……そうだね」
「……今日は、二人で出かけたいと伝えられました」
喜咲が俺の手を握り直した。
「私も、嬉しかった」
「……何がですか」
「優が、自分の希望をちゃんと言ってくれたこと」
妻は少し笑った。
「私だって、優の気持ちを知りたいから」
その言葉が、胸に残った。
相手を大切にすることは、自分の気持ちを隠すことではない。
一緒に考えることは、負担ばかりではない。
むしろ。
何を食べるか。
どこへ行くか。
いつ会うか。
そんなことを相談する時間も、幸せなのだと思う。
「……喜咲」
「何?」
「……次のデートも、相談して決めたいです」
「いいよ」
「……十五分程度の相談時間を確保しましょう」
「また予約する気!?」
「……必要に応じて」
「普通に話そうよ!」
妻が笑った。
俺も笑った。
次の日曜日がどうなるかは、まだ分からない。
仕事が入るかもしれない。
予定が変わるかもしれない。
それでも、俺たちは一緒に考えられる。
今日、そのことが分かった。
* * *
【「応援してる」の向こう側】
夜。
俺は共有カレンダーを開いた。
《日曜日 デート》
その予定は、もう終わっている。
けれど、消す必要はなかった。
今日という日が確かにあったことを、残しておきたかった。
俺は喜咲にメッセージを送った。
『今日はありがとうございました。とても楽しかったです』
すぐに返信が届く。
『こちらこそ! また行こうね』
俺は続けて入力した。
『明日からの仕事も応援しています』
送信する。
それから、スマートフォンを伏せた。
「……喜咲」
「何?」
「……今日は、本当に楽しかったです」
「私も!」
妻が笑った。
「またデートしようね」
「……はい」
俺たちは、並んで寝室へ向かった。
そのあと。
喜咲は、寝る前にもう一度スマートフォンを開いた。
夫から届いたメッセージ。
『明日からの仕事も応援しています』
嬉しかった。
優が自分の仕事を大切に思ってくれていることは、よく分かっている。
今日だって、そうだった。
でも。
喜咲は、昼間の優の言葉を思い出した。
『寂しいと思うことはあります』
『今日は仕事をしていない喜咲とも会いたかったです』
あのときの優は、少し恥ずかしそうだった。
それでも、ちゃんと本音を伝えてくれた。
では。
今まで、優が何度も口にしてきた『応援しています』は?
本当に、応援だけだったのだろうか。
その中に、言えなかった寂しさが隠れていたとしたら。
自分が仕事を頑張るたびに、優は何を飲み込んでいたのだろう。
「……優」
隣で、夫が顔を向けた。
「……何でしょう」
「……ううん。何でもない」
「……そうですか」
優は微笑んだ。
喜咲も笑い返した。
今日のデートは、間違いなく幸せだった。
だからこそ。
今度は、夫の言葉をもう少し深く知りたい。
喜咲はスマートフォンの画面を見つめた。
そこには、いつもと同じ優しい言葉が残っていた。
『応援しています』
その一文を見つめながら、喜咲は思った。
『応援してる』は、夫の本音なのだろうか。それとも、私に見せたくない我慢の名前なのだろうか。
第52話 完
次回予告
第6部 第3話/通算第53話
「『応援してる』は、我慢の別名ですか?」
夫の『応援してる』が、急に気になり始めた。
本当に応援してくれているのは分かっている。
でも、その言葉の裏に、どれだけの寂しさが隠れているのだろう。
「ねえ、優。応援ってどういう意味?」
妻の質問に、真面目な夫が答える。
「……相手の行動や目標を支持し、励ますことです」
「国語辞典を夫にした覚えはない!」
仕事を応援したい。
でも、二人の時間も欲しい。
相手を応援するために、自分の幸せを我慢する必要があるのでしょうか?
次回、二人がもう一度、『応援』という言葉に向き合います。
大切な人の仕事を応援したい。でも、一緒に過ごす時間も大切にしたい。
その二つは、どちらかを我慢しなければ両立できないのでしょうか。
あなたなら、大切な人に寂しい気持ちをどう伝えますか?
ぜひ感想やコメントで聞かせてください
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524
Momokun Official https://momokun.jp/




