↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『婚活アプリのプロフィールに「夜の相性も大切です」と書いた女とマッチしました』  作者: Momokun
第5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』
PR
49/63

第9話/通算第49話 「仕事を辞めたい日があっても、辞めなくていいですか?」

第5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』




前書き




結婚したら、ずっと一緒にいられると思っていた。




でも、現実はそんなに甘くありません。




四十五歳、バツイチ医師の小鳥遊優。




四十二歳、食品メーカーで働く東海林喜咲。




婚活アプリで出会い、恋をして、何度も喧嘩をして、それでも二人は夫婦になりました。




第4部では、結婚してから最大の夫婦喧嘩を経験。




それでも最後には、お互いに「今日もあなたがいい」と伝えることができました。




ようやく、幸せな新婚生活が始まる。




……はずだったのですが。




妻が出世しました。




喜咲は企画部長に昇進。




仕事が増え、責任が増え、会議が増え、夫婦の時間が減っていく。




夫は妻の成功を喜びたい。




妻も仕事を頑張りたい。




でも、二人とも一緒にいたい。




ここで、新しい問題が生まれます。




結婚した二人は、自分の人生と夫婦の時間をどう両立させればいいのでしょうか。




夫の収入だけでも生活できる。




妻が仕事を続けることも、専業主婦になることも、働き方を変えることもできる。




でも、それは妻だけが考える問題なのでしょうか。




夫が働き方を見直すこともできる。




家事の分担を変えることもできる。




二人で過ごす時間の作り方を変えることもできる。




どちらか一人が夢や仕事を諦めるのではなく、二人が納得できる生き方を探すことはできないのでしょうか。




もちろん、相手の人生を勝手に決めることはできません。




けれど、自分の希望を言わずに、すべてを相手に任せることが優しさとも限りません。




第5部では、仕事への思い、夫婦の時間、一人で過ごす時間、そして将来の人生について、優と喜咲が向き合います。




もちろん、真面目な話ばかりではありません。




正しすぎる医師の夫と、毒舌だけれど寂しがり屋の妻。




今回も、夫婦の会話は簡単には終わりません。




婚活は終わった。




結婚式も終わった。




でも、人生の選択は終わらない。




夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?




そして。




自分の人生を大切にしながら、二人で幸せになることはできますか?




笑って、ときどき胸が痛くなって、最後には二人を応援したくなる。




そんな大人の結婚ラブコメ、第5部の開幕です。




あなたなら、愛する人との時間と、自分の人生をどう両立させますか?




ぜひ、優と喜咲の新しい十話を見届けてください。

「……優。私、仕事、辞めようかな」


妻がそう言ったのは、帰宅してから三分後だった。


俺は、味噌汁を温める手を止めた。


昨日、俺たちは十年後の人生について話した。


十年後も働いているのか。


どんな場所に住んでいるのか。


お互い、どんな人生を送っていたいのか。


そして今朝、妻は笑いながら言った。


『明日も働きたいかって聞かれたら、どう答えるんだろうね』


どうやら、その答えが出たらしい。


しかも、予想よりずっと早く。


「……喜咲?」


「うん」


「……今、何と?」


「仕事、辞めようかなって」


聞き間違いではなかった。


俺は妻を見た。


仕事用のバッグを肩に掛けたまま。


上着も脱がず。


靴も履いたまま。


玄関で立ち尽くしている。


「……とりあえず、座りませんか」


妻は俺を見た。


「……優」


「はい」


「私、また玄関で人生相談してる?」


「……はい」


「昨日は十年後。今日は退職」


「……相談内容が具体的になりましたね」


「そういう問題じゃない!」


いつもなら、ここでもう一つツッコミが入る。


しかし、今日は違った。


妻は小さく笑おうとして、そのまま黙ってしまった。


俺は、ようやく気づいた。


バッグを握る指に、力が入っている。


目元には疲れが浮かんでいた。


「……喜咲」


「何?」


「……お疲れさまでした」


妻は俺を見た。


そして、少しだけ表情を緩めた。


「……うん」


その声は、驚くほど小さかった。


どうやら今夜は、いつもの夫婦漫才だけで済む話ではないらしい。


* * *

【好きな仕事なのに、辞めたい日がある】

夕食は、ほとんど手つかずだった。


妻はソファに座り、クッションを抱えている。


目の前には、温め直した料理。


しかし、箸を持とうとしない。


「……食欲はありませんか?」


「あると思ってたんだけどね」


「……そうですか」


「帰ってきたら、急に疲れちゃった」


俺は向かいに座った。


妻は食品メーカーの企画部長だ。


昇進してから、仕事は大きく変わった。


会議が増えた。


部下からの相談も増えた。


自分の企画だけでなく、部署全体の判断にも責任を持つようになった。


そこへ、大型プロジェクトへの参加打診が重なった。


まだ参加を決めたわけではない。


具体的な役割も、仕事量も、確認している途中だ。


だが、挑戦するかどうかを考えている間も、今の仕事が減るわけではない。


「今日さ」


妻が口を開いた。


「朝から会議だったの」


「……はい」


「午前中に三つ。午後にも二つ」


「……五つですか」


「数えなくていい!」


「……失礼しました」


妻はクッションに顔を埋めた。


「しかもさ、会議が終わるたびに仕事が増えるの」


「……そうなのですか」


「資料を直して、部下の相談に乗って、別の案件の判断をして。それが終わったら、また会議」


「……大変ですね」


「会議って、仕事を減らすためにするものじゃないの?」


「……必ずしも、そうではありませんね」


「分かってる! 分かってるけど!」


妻は顔を上げた。


「私、今日、一日中働いてたのに、何も進んでない気がする!」


「……何も、ですか?」


「判断はした。確認もした。相談にも乗った」


「……十分に働いていると思いますが」


「でも、自分がやりたかった企画は、一文字も進んでないの!」


その声には、怒りよりも悔しさがあった。


「私、企画の仕事が好きなんだよ」


「……知っています」


「新しい商品を考えて、それが形になって、店頭に並ぶのを見るのが好きだった」


「……はい」


「お客さんが手に取ってくれたら嬉しいし、部下がいい企画を出してきたら、もっと嬉しい」


妻は少し笑った。


「なのに最近、自分が何を作ってるのか分からなくなる」


俺は黙っていた。


「企画部長なのにね」


「……部長になったからこそ、ではありませんか」


妻が顔を上げた。


「どういうこと?」


「……自分で企画する時間より、ほかの人が企画できる環境を整える時間が増えたのだと思います」


「……うん」


「……それも、大切な仕事ではないでしょうか」


「分かってる」


妻は小さくうなずいた。


「分かってるけど、疲れるんだよ」


俺は、返す言葉を失った。


正しい説明が、疲れている人を楽にするとは限らない。


それくらいは、結婚生活で学んでいた。


「……ねえ、優」


「はい」


「私、仕事が嫌いになったのかな」


その問いに、俺は答えられなかった。


妻自身にも、まだ答えが分からないのだ。


俺が代わりに決めていいはずがない。


* * *

【夫の給料だけで暮らせるなら、辞めればいいですか?】

「……優」


「はい」


「私が仕事辞めても、生活できるんだよね」


「……はい」


それは、以前から二人で確認していることだった。


俺は医師として働いている。


収入は安定している。


喜咲が仕事を辞めたとしても、夫婦二人の生活は十分に成り立つ。


だからこそ、妻はこれまで何度も考えてきた。


働かなくても暮らせる。


それなら、なぜ働くのか。


以前、妻は一つの答えを出した。


『私、生活のためだけに働いてたんじゃなかった』


そして、こう続けた。


『今の私は、まだ働きたい』


あのときの妻の笑顔を、俺は覚えている。


「……喜咲」


「何?」


「……仕事を辞めること自体は、選択肢にあると思います」


「うん」


「……ただ」


妻が顔を上げた。


「ただ?」


俺は少し迷った。


以前の俺なら、こう言っただろう。


『辞めたいなら辞めてもいいですよ』


相手の自由を尊重するつもりで。


余計な口出しをしないつもりで。


だが、その言葉が妻を怒らせたことを覚えている。


『優は私にどうしてほしいの?』


あのとき、俺は気づいた。


相手の人生を尊重することと、相手の人生から自分が退くことは違う。


「……俺の考えを話してもいいですか」


「うん」


「……今日、仕事を辞めたいと思ったことは、本当なのだと思います」


「……うん」


「……ですが、だからといって、これまで働き続けたいと思ってきた気持ちまで、なかったことにする必要はないのではありませんか」


妻は黙った。


「……難しい言い方」


「……すみません」


「つまり?」


「……今日の喜咲が、昨日までの喜咲を否定しなくてもいいと思います」


妻は少し目を伏せた。


「……そっか」


「……はい」


「でもさ」


「はい」


「明日も同じくらい疲れたら?」


俺は黙った。


「明後日も。その次の日も。ずっとこんな毎日だったら?」


「……それは、考える必要があります」


「でしょ?」


「……はい」


妻はクッションを強く抱いた。


「私、仕事が好きなはずなのに」


「……はい」


「好きだから頑張ってきたはずなのに」


「……はい」


「なんで、こんなにしんどいんだろうね」


俺には、その答えが分からなかった。


医師だからといって、妻の職場の事情をすべて理解できるわけではない。


まして、妻が感じている疲れを、俺が代わりに測ることなどできない。


ただ、一つだけ分かる。


妻は今、人生を変えるほど大きな決断を、疲れ切った状態で下そうとしている。


そして、また一人で答えを出そうとしている。


俺は、妻の手元を見た。


バッグから取り出したスマートフォンが、テーブルの端に置かれていた。


妻はときどき、その画面に目を向ける。


仕事のことが、まだ頭から離れないのだろう。


「……喜咲」


「何?」


「……今夜は、結論を出さなくてもいいのではありませんか」


妻は俺を見た。


「……え?」


「……退職についてです」


「でも、考えなきゃいけないでしょ?」


「……はい」


「大型プロジェクトの返事だって、ずっと待ってもらえるわけじゃないし」


「……そうですね」


「だったら、今考えないと」


「……今夜すべて決める必要はないと思います」


妻は眉をひそめた。


「明日になったら、急に正解が分かるの?」


「……分からないと思います」


「じゃあ同じじゃん!」


「……そうかもしれません」


「優!」


「……はい」


「今日の優、全然役に立たない!」


俺は少し考えた。


「……申し訳ありません」


「謝らなくていい!」


「……では、どうすれば」


「それを相談してるの!」


なるほど。


結婚生活とは難しい。


相談しているのに、相談の仕方まで相談しなければならないらしい。


俺が黙っていると、妻はため息をついた。


「……ごめん」


「……何がですか」


「八つ当たりしてる」


「……そうでしょうか」


「してるよ。優、何も悪くないのに」


俺は首を横に振った。


「……俺にも改善点はあります」


「え?」


「……さっきから、少し理屈っぽいようです」


「少し?」


「……かなり、でしょうか」


「相当!」


ようやく、妻が笑った。


俺も少し笑った。


そして、言い直した。


「……喜咲」


「うん」


「……今日は、もう頑張らなくてもいいと思います」


妻の表情が止まった。


「……え?」


「……今日、十分に働いたのでしょう」


「……うん」


「……だったら、今夜くらいは仕事の結論を出すことまで頑張らなくてもいいと思います」


妻は何も言わなかった。


「……俺は、そう思います」


しばらくの沈黙。


そして、妻は小さく言った。


「……そういうの、最初から言ってよ」


「……すみません」


「だから謝らなくていいって!」


今度は、二人で笑った。


だが、妻の顔には、まだ迷いが残っていた。


「……ねえ、優」


「はい」


「じゃあ、本当に仕事を辞めたくなったら?」


俺は妻を見た。


今度こそ、逃げずに答えようと思った。


* * *

【正解を言わない夫は、役立たずですか?】

「……一つ、聞いてもいいですか」


妻はクッションを抱いたまま、うなずいた。


「うん」


俺は、少し考えてから言った。


「……今日は辞めたいだけなのか、本当に辞めたいのか、一緒に考えませんか」


妻は黙った。


俺も黙っていた。


しばらくして、妻が口を開いた。


「……それって、違うの?」


「……違う場合もあると思います」


「どういうこと?」


「……仕事そのものを続けたくないのか、今の忙しさを続けたくないのか。そこは、まだ分からないと思います」


妻は俺を見た。


「……確かに」


「……仕事が嫌いになったのかもしれません」


「うん」


「……ですが、好きな仕事を楽しむ余裕がなくなっているだけかもしれません」


「……うん」


「……その違いを、今夜すぐに判断する必要はないと思います」


妻は視線を落とした。


「……優」


「はい」


「正解、言わないんだ」


俺はうなずいた。


「……相談するんでしょう?」


妻が顔を上げた。


一瞬、驚いたような表情をした。


そして。


「……あ」


小さく声を漏らした。


俺にも、思い出していることがあった。


結婚する前。


まだ恋人だったころ。


俺たちは未来について話したことがある。


結婚するかどうか。


一緒に暮らしていけるかどうか。


これから先、意見が違うこともあるだろう。


そのとき、どうするのか。


俺は、喜咲にこう言った。


『これから先のことを、ずっと喜咲と相談したい』


あのときは、未来の話だった。


まだ夫婦になる前の約束だった。


今は違う。


俺たちは、もう夫婦だ。


そして、今まさに相談しなければならない問題が目の前にある。


以前の俺なら、きっと正解を探した。


妻が喜ぶ答え。


妻を傷つけない答え。


夫として間違っていない答え。


だが、今回は違う。


妻の人生について、俺が一人で正解を決めたくなかった。


「……喜咲」


「うん」


「……俺は、あなたに仕事を辞めてほしいわけではありません」


妻は黙っていた。


「……ですが、無理をしてまで続けてほしいわけでもありません」


「……うん」


「……どちらを選んでも、俺たちの生活は続きます」


妻が顔を上げた。


「……ほんと?」


「……はい」


「私が仕事を辞めても?」


「……はい」


「ずっと働いても?」


「……はい」


「大型プロジェクトに参加して、もっと忙しくなっても?」


俺は少し黙った。


妻が目を細めた。


「……そこは即答しないんだ」


「……正直に言えば、寂しいと思うかもしれません」


妻は驚いた顔をした。


「……優」


「……俺も、自分の仕事を大切にしたいです。喜咲と過ごす時間も大切にしたい」


「……うん」


「……ですが、だからといって、喜咲に挑戦を諦めてほしいわけではありません」


「……うん」


「……俺の気持ちも、相談の中に入れてほしいんです」


妻はしばらく黙っていた。


やがて、ふっと笑った。


「……変わったね、優」


「……そうでしょうか」


「うん」


「……どこが?」


「前は、私に嫌われない答えばっかり探してた」


俺は言葉に詰まった。


図星だった。


妻は続けた。


「今は、ちょっと困ることもちゃんと言ってくれる」


「……そうですね」


「寂しいとか、心配とか」


「……はい」


「でも、私の人生は勝手に決めない」


妻はクッションを置いた。


「……私、それが嬉しい」


俺は少し照れた。


「……ありがとうございます」


「でも、相談好きなのは変わらないけどね」


「……そこは、改善すべきでしょうか」


妻は首を横に振った。


「ううん」


そして、俺の手を握った。


「そこは、そのままでいい」


俺は、その手を握り返した。


あのころの約束を、少しは守れているのだろうか。


そう思うと、胸の奥が温かくなった。


* * *

【退職届より、先に休みをください】

「……じゃあ、優」


「はい」


「今日は、どうしたらいいと思う?」


俺は少し考えた。


退職について答えを出さない。


大型プロジェクトへの返事も、今夜は決めない。


では、何をするか。


「……まず、夕食を食べませんか」


妻は俺を見た。


「……え?」


「……ほとんど食べていませんので」


「今、その話?」


「……はい」


「人生相談から、ご飯に戻るの?」


「……昨日も似たようなことがありましたね」


妻は吹き出した。


「十年後の次は、退職!」


「……そして夕食です」


「優って、本当に食事を大切にするよね」


「……生活の基本ですから」


「医者っぽい!」


「……一応、医師ですので」


「知ってる!」


妻は笑いながら箸を取った。


そして、料理を一口食べた。


「……あ」


「……どうしました?」


「おいしい」


「……よかったです」


「帰ってきたときは、食べる気にならなかったのに」


「……そうですか」


「うん。ありがとう」


その一言が、俺には嬉しかった。


退職するかどうか。


大型プロジェクトに参加するかどうか。


今夜、妻の問題を解決することはできない。


だが、温かい夕食を用意することくらいはできる。


夫として、できることは案外小さい。


そして、その小さなことが無意味とは限らない。


「……ねえ、優」


「はい」


「私、少し休んだ方がいいのかもしれない」


俺は顔を上げた。


「……そうですね」


「仕事の調整は必要だけど、休みを取れないか相談してみようかな」


「……いいと思います」


「急に休めるかは分からないけど」


「……はい」


「それに、私が全部抱え込まなくてもいい仕事もあるのかもしれない」


妻は箸を置いた。


「部下には仕事を任せるように言ってるのに、私自身ができてないんだよね」


「……そうなのですか」


「うん。部長になったんだから、何でも自分で判断しなきゃって」


妻は苦笑した。


「それで自分が潰れそうになってたら、意味ないよね」


「……そうですね」


「……優」


「はい」


「私、今日、本当に辞めたいと思ったんだよ」


「……分かっています」


「それは嘘じゃない」


「……はい」


「でも、今日だけで全部決めなくてもいいんだよね」


俺はうなずいた。


「……はい」


妻は小さく息を吐いた。


「……じゃあ、今日は辞めない」


その言葉に、俺は少し安心した。


だが、妻はすぐに続けた。


「でも、ずっと続けるって決めたわけでもないからね」


「……分かっています」


「そこ、間違えないでよ」


「……はい」


妻は笑った。


「それから」


「……はい」


「辞めたくなったら、また言うから」


「……もちろんです」


「何回でも言うかもしれないよ」


「……はい」


「そのたびに面倒くさい相談になるかもしれない」


俺は少し考えた。


「……相談の回数に制限は設けていませんので」


妻が吹き出した。


「何、その制度!」


「……特に制度化しているわけではありませんが」


「じゃあ言わないで!」


二人で笑った。


その笑顔を見て、俺はようやく少し安心した。


仕事を辞めたいと言った妻は、まだここにいる。


仕事を好きだった妻も、まだここにいる。


どちらか一方が嘘だったわけではない。


どちらも、今の喜咲なのだ。


* * *

【仕事を辞めても、あなたはあなたです】

夕食を終えたあと。


妻はソファに座り、俺の肩にもたれていた。


「……優」


「はい」


「私、仕事辞めたら、どうなるんだろうね」


「……生活についてですか?」


「ううん」


妻は首を横に振った。


「私自身のこと」


俺は黙った。


「ずっと働いてきたからさ」


「……はい」


「会社での役職とか、企画とか、そういうものがなくなったら、私って何が残るんだろうって」


その声は、少し不安そうだった。


以前、妻は専業主婦になることも考えた。


その生活に、幸せがないわけではない。


仕事を辞めたからといって、人生が終わるわけでもない。


それは妻自身が分かっている。


だが、頭で理解していることと、自分のこととして受け入れられることは別だ。


俺は妻を見た。


「……喜咲が残ります」


妻が顔を上げた。


「……え?」


「……喜咲自身です」


「……それだけ?」


「……それだけでは、不足でしょうか」


妻は少し笑った。


「……優らしい答え」


俺は続けた。


「……仕事をしている喜咲は、素敵だと思います」


「……うん」


「……ですが、企画部長でなくても、喜咲は喜咲です」


妻は黙っていた。


「……俺は、役職と結婚したわけではありませんから」


妻の頬が赤くなった。


「……優」


「はい」


「それ、プロポーズ?」


「……すでに結婚していますが」


「知ってる!」


「……では、再確認でしょうか」


「夫婦なのに、毎回契約更新するの?」


俺は少し考えた。


「……気持ちの確認は、必要かもしれませんね」


妻が黙った。


そして、俺の肩に額を押しつけた。


「……ずるい」


「……何がですか」


「そういうこと、普通に言うようになったところ」


「……改善でしょうか」


「大改善!」


俺は笑った。


妻も笑った。


そのまま少しの間、二人で寄り添っていた。


やがて、妻が小さく言った。


「……ねえ、優」


「はい」


「仕事を辞めても、続けても、私のこと好き?」


俺は妻を見た。


「……もちろんです」


「本当に?」


「……はい」


「じゃあ、私が今より忙しくなっても?」


少し考えてから、答えた。


「……寂しい日はあると思います」


妻は笑った。


「そこ、正直だよね」


「……隠さないと約束しましたので」


「……うん」


「……ですが、喜咲を好きな気持ちとは別の問題です」


妻は、俺の手を握った。


「……そっか」


「……はい」


「じゃあ、安心して悩めるね」


俺は少し笑った。


安心して悩む。


不思議な言葉だった。


だが、今の俺たちには、それが必要なのかもしれない。


* * *

【寝ている妻に、人生の答えを求めないでください】

「……ちょっとだけ、横になっていい?」


妻がそう言ったのは、食後しばらくしてからだった。


「……もちろんです」


「十分だけ」


「……はい」


「起こしてね」


「……分かりました」


妻はソファに横になった。


俺は薄い毛布を掛けた。


すると、妻が目を閉じたまま言った。


「……優」


「はい」


「仕事のこと、もうちょっと話したかった」


「……また話せます」


「……うん」


「……今夜、すべて決める必要はありません」


妻は小さく笑った。


「……またそれ」


「……はい」


「相談好き」


「……否定できません」


それきり、妻は返事をしなかった。


ほどなくして、静かな寝息が聞こえてきた。


俺は、そっと立ち上がった。


テーブルの上には、昨日のノートがある。


十年後の人生について話したノートだ。


そこには、いくつかの言葉が並んでいた。


《仕事》


《家庭》


《自分の時間》


《一年に一度、二人の人生について話す》


そして。


《一度決めた人生でも、二人で考え直していい》


俺は、その最後の一行を見つめた。


昨日は、十年後のために書いた言葉だった。


だが、必要になるのは十年後とは限らない。


今日かもしれない。


明日かもしれない。


疲れ切って帰ってきた、こんな夜かもしれない。


俺はペンを取った。


何かを書こうとして、止めた。


妻の仕事をどうするか。


その答えを、俺がノートに書くわけにはいかない。


代わりに、ノートを閉じた。


そして、妻の隣に座った。


眠っている妻の顔は、いつもより少し幼く見えた。


企画部長でもない。


大型プロジェクトの参加を迷っている人でもない。


ただ、疲れて眠っている喜咲だった。


俺は、その手にそっと触れた。


「……お疲れさまでした」


返事はなかった。


それでよかった。


今夜くらい、妻に答えを求めるのはやめよう。


妻が仕事を続けたいと言っても。


辞めたいと言っても。


それを聞ける夫でいたい。


そして、俺自身も。


寂しいときは寂しいと伝えられる夫でいたい。


俺たちは、まだ完璧な夫婦ではない。


たぶん、これからも完璧にはならない。


それでも、話し続けることはできる。


その約束だけは、忘れたくなかった。


* * *

【本当に辞めたいものは、何ですか?】

妻が目を覚ましたのは、しばらくしてからだった。


「……ん」


「……おはようございます」


「……え?」


妻はぼんやりと俺を見た。


「……朝?」


「……まだ夜です」


「……何時?」


「……少し眠っていました」


「十分?」


「……十分よりは長いですね」


妻は時計を見た。


「えっ、こんなに寝たの!?」


「……お疲れだったのでしょう」


「起こしてって言ったじゃん!」


「……気持ちよさそうに眠っていましたので」


「優!」


「……すみません」


妻はしばらく俺を睨んだ。


しかし、すぐに力が抜けたように笑った。


「……まあ、いいか」


「……はい」


「なんか、少し楽になった」


「……よかったです」


妻は体を起こした。


少し髪が乱れていた。


俺は思わず微笑んだ。


「……何?」


「……いえ」


「何か言いたそう」


「……少し、髪が」


妻は慌てて髪に触れた。


「えっ、変?」


「……少し」


「先に言って!」


「……申し訳ありません」


「今日、何回謝るの!」


妻は笑った。


俺も笑った。


しばらくして、妻が真面目な顔になった。


「……優」


「はい」


「私さ、寝る前に思い出したことがあって」


「……何でしょう」


「今日、部下が企画の相談に来たの」


「……はい」


「まだ完成してない案だったんだけど、面白かったんだよね」


妻の声が少し明るくなった。


「こういう商品があったら楽しいかもって、久しぶりに思った」


「……そうですか」


「もっと話したかったんだけど、次の会議があったから途中で終わっちゃって」


妻は小さくため息をついた。


「……それが、すごく残念だった」


俺は妻を見た。


「……その企画、また続きを聞きたいですか」


妻は少し考えた。


「……うん」


「……そうですか」


「うん。聞きたい」


妻は、自分でも驚いたような顔をした。


「……そっか」


「……何か分かりましたか」


妻はしばらく黙っていた。


そして、ゆっくり言った。


「……私、まだ仕事が好きなのかもしれない」


俺はうなずいた。


「……はい」


「全部が嫌になったわけじゃないんだね」


「……そうかもしれません」


「でも、今の働き方はしんどい」


「……はい」


「仕事を続けたい気持ちもある。でも、このままじゃ嫌だって気持ちもある」


妻は俺を見た。


「……これって、わがまま?」


俺は首を横に振った。


「……違うと思います」


「……そう?」


「……仕事が好きだからといって、すべての負担を受け入れる必要はありませんから」


妻は少し笑った。


「……優」


「はい」


「今の、すごくまとも」


「……普段は違うのでしょうか」


「たまにね!」


俺は笑った。


妻も笑った。


そして、少しだけ真面目な顔になった。


「……じゃあさ」


「はい」


「私、本当に辞めたいのは、仕事そのものじゃないのかもしれない」


俺は何も言わなかった。


妻の言葉が続くのを待った。


「忙しすぎる毎日とか」


「……はい」


「自分のやりたい仕事に手が回らないこととか」


「……はい」


「何でも自分で何とかしなきゃって思ってることとか」


妻は指を折りながら数えた。


「そういうのが、嫌なのかもしれない」


「……なるほど」


「でも、仕事を辞めたら、全部なくなると思っちゃった」


妻は少し笑った。


「そんなに簡単な話じゃないのにね」


俺はうなずいた。


「……一度に全部変える必要もないと思います」


「……うん」


「……まずは、変えられることがあるか考えてもいいのではありませんか」


妻は俺を見た。


そして、少しだけ目を細めた。


「……ねえ、優」


「はい」


「私が『仕事辞めたい』って言ったとき、引き止めようと思った?」


俺は少し考えた。


「……正直に言えば、驚きました」


「うん」


「……ですが、引き止めることが正しいとも思いませんでした」


「……どうして?」


「……俺が好きなのは、働いている喜咲だけではありませんから」


妻は黙った。


その頬が、少しずつ赤くなっていく。


「……優」


「はい」


「そういうこと言われると、仕事辞めたくなくなるんだけど」


「……それは困りましたね」


「なんで?」


「……辞めるよう誘導するつもりも、続けるよう誘導するつもりもありませんので」


「そこは真面目なのね!」


妻は笑った。


そして、俺の肩にもたれた。


「……ありがと」


「……はい」


「私、少し休んでよかった」


俺は、その言葉を聞いて安心した。


少し眠っただけで、仕事の問題が解決するわけではない。


明日になれば、また忙しい一日が始まるかもしれない。


だからこそ、今の妻の気持ちを、そのまま大切にしたかった。


* * *

【辞めるか続けるか、その二択じゃなくてもいい】

妻はテーブルの上のノートを開いた。


「……ねえ、優」


「はい」


「ちょっと書いてもいい?」


「……どうぞ」


昨日、十年後の人生を考えるために使ったノートだった。


妻は新しいページを開いた。


そして、上の方に書いた。


《今の仕事》


その下に、二つの項目。


《続けたいこと》


《変えたいこと》


俺は、その文字を見つめた。


「……退職するかどうか、ではないのですね」


「うん」


妻はペンを置いた。


「辞めるか続けるかだけで考えると、どっちも苦しくなっちゃうから」


「……なるほど」


「続けるなら全部我慢しなきゃいけない気がするし」


「……はい」


「辞めるなら、今まで頑張ってきたこと全部捨てる気がするし」


妻は少し笑った。


「でも、その二つしかないわけじゃないもんね」


「……そうですね」


「仕事の分担を変えられるかもしれないし、休み方を考え直すこともできるかもしれない」


「……はい」


「それでも難しかったら、そのときに辞めることを考えてもいい」


俺はうなずいた。


妻はノートに書き始めた。


《続けたいこと》


・商品企画を考えること。


・チームで新しいものを作ること。


・部下が成長するところを見ること。


その下に。


《変えたいこと》


・会議ばかりで一日が終わること。


・仕事を全部自分で抱え込むこと。


・疲れたまま、大きな決断をしようとすること。


妻はペンを止めた。


「……最後のは、仕事じゃないね」


「……いえ。大切なことだと思います」


妻は少し笑った。


「そう?」


「……はい」


「じゃあ、残しておこう」


妻はノートを見つめた。


そして、小さく言った。


「……ねえ、優」


「はい」


「今日、仕事辞めたいって言ったときさ」


「……はい」


「優が『辞めればいい』って言わなくて、ちょっと腹が立ったんだよね」


俺は妻を見た。


「……そうだったのですか」


「うん」


「……申し訳ありません」


「違うの」


妻は首を横に振った。


「簡単に辞めればいいって言ってほしかったわけじゃないの」


「……はい」


「でも、誰かに決めてほしかったのかもしれない」


その言葉に、俺は黙った。


「自分で考えるの、疲れちゃってたから」


妻は苦笑した。


「でもさ、優が決めちゃったら、きっと私、また怒ったと思う」


「……そうでしょうか」


「絶対怒る」


「……困りましたね」


「でしょ?」


妻は笑った。


「面倒くさい妻でごめんね」


俺は首を横に振った。


「……謝る必要はありません」


「……うん」


「……ただ、俺にも一つお願いがあります」


「何?」


「……一人で全部抱え込まないでください」


妻が顔を上げた。


「……優」


「……俺が答えを出すことはできませんが、一緒に考えることはできます」


妻は少し黙った。


そして、ゆっくりうなずいた。


「……うん」


「……俺も、自分の仕事についてもっと話すようにします」


「……約束ね」


「……はい」


妻は、嬉しそうに笑った。


* * *

【結婚しても、自分の人生を選んでいい】

妻はノートの下に、新しい見出しを書いた。


《大型プロジェクト》


その文字を、しばらく見つめている。


「……これも、ちゃんと考えなきゃね」


「……はい」


「参加したら、もっと忙しくなるかもしれない」


「……そうですね」


「でも、やってみたい気持ちもある」


俺は妻を見た。


「……その気持ちは、今日も残っていますか」


妻は少し考えた。


「……うん」


そして、もう一度うなずいた。


「……残ってる」


俺は微笑んだ。


「……そうですか」


「でも、今日の私だったら、全部嫌になって断ってたかもしれない」


「……そうですね」


「逆に、断るのが怖くて無理して引き受けてたかもしれない」


妻はノートを閉じた。


「……だから、今夜は返事しない」


俺はうなずいた。


「……はい」


「まず休めるか相談する。それから仕事内容も確認する」


「……はい」


「そのうえで、ちゃんと考える」


妻の声には、少しだけ力が戻っていた。


「……喜咲」


「何?」


「……俺にも、相談させてください」


妻は笑った。


「もちろん」


「……ありがとうございます」


「でもさ」


妻は俺の手を握った。


「決めるのは私だからね」


「……はい」


「優に決めてもらうわけじゃない」


「……分かっています」


「でも、一緒に考えるのは二人でいいんだよね」


俺はうなずいた。


「……もちろんです」


妻は嬉しそうに笑った。


「……うん。それがいい」


そして、少しだけ俺に近づいた。


「……ねえ、優」


「はい」


「私、結婚してから、何でも二人で決めなきゃいけないと思ってたかもしれない」


「……そうですか」


「仕事も、生活も、将来のことも」


「……はい」


「でも、自分で決めなきゃいけないこともあるんだよね」


「……そうですね」


「その代わり、決めるまで一人で悩まなくていい」


俺は妻を見た。


その言葉は、今日一日、妻が探していた答えなのかもしれない。


「……喜咲」


「何?」


「……俺は、喜咲の人生を代わりに生きることはできません」


妻は静かにうなずいた。


「……うん」


「……ですが、隣で一緒に考えることはできます」


「……うん」


「……そのくらいは、夫としてやらせてください」


妻は、少しだけ目を潤ませた。


そして。


「……優」


「はい」


「それ、かっこいいこと言ってるつもり?」


「……いえ。普通のことを言ったつもりですが」


「普通じゃないよ」


妻は笑った。


「私、五年間も婚活してたんだよ?」


「……知っています」


「条件ばっかり見て、相手を探してた」


「……はい」


「でも、こういう人がいいって、プロフィールには書けなかったな」


「……どういう人ですか」


妻は俺を見た。


「疲れて帰ってきたとき、正解じゃなくて、一緒に考えてくれる人」


俺は少し照れた。


「……そうですか」


「うん」


妻は、俺の肩に頭を預けた。


「……優でよかった」


俺は、その肩を抱いた。


「……俺もです」


少しの間、何も話さなかった。


仕事のことを忘れたわけではない。


明日になれば、また悩むかもしれない。


それでも、今夜はもう十分だった。


* * *

【明日も働きたいかは、明日考えてもいい】

寝室へ向かう前。


妻は、玄関に置いていた仕事用のバッグを片づけた。


俺はその様子を見ていた。


「……喜咲」


「何?」


「……明日のことですが」


妻が振り向いた。


「……優」


「はい」


「また仕事の話?」


「……いえ」


「じゃあ何?」


「……朝食は、パンとご飯のどちらにしますか」


妻は固まった。


そして、大きな声で笑った。


「また朝ごはん!?」


「……はい」


「昨日も聞いたじゃん!」


「……昨日は、今日の朝食です」


「そうだけど!」


「……明日の分は、まだ確認していませんので」


妻は笑い続けていた。


俺も笑った。


「……じゃあ、パン!」


「……分かりました」


「優は?」


「……ご飯です」


「また別々!」


「……問題はないと思います」


妻は笑った。


「うん。問題ないね」


そして、俺の腕に自分の腕を絡めた。


「……ねえ、優」


「はい」


「今朝、私が何て言ったか覚えてる?」


俺は少し考えた。


『明日も働きたいかって聞かれたら、どう答えるんだろうね』


「……覚えています」


妻はうなずいた。


「今日、その答えが分かった気がしたんだけどさ」


「……はい」


「やっぱり、まだ分かんないや」


俺は妻を見た。


「……それでいいと思います」


「……うん」


「……明日の気持ちは、明日にならないと分かりませんから」


妻は少し笑った。


「……優」


「はい」


「今日、仕事辞めたいって言っちゃったね」


「……はい」


「でも、今はちょっと違う」


「……そうですか」


「うん。辞めたい気持ちが全部消えたわけじゃないけど」


妻は、俺の腕に回した手に少し力を込めた。


「まだ、やってみたいこともある」


俺はうなずいた。


「……そうですね」


「だから、少し休んで、もう一回考える」


「……はい」


「仕事を辞めるかどうかも」


「……はい」


「大型プロジェクトに参加するかどうかも」


俺は、その手を握り返した。


「……喜咲」


「何?」


「……俺は、どちらを選んでも応援したいと思います」


妻は俺を見た。


「……寂しくなるかもしれないのに?」


「……はい」


「……優」


「……ただ、そのときは俺の気持ちも聞いてください」


妻は、ゆっくり笑った。


「……当たり前でしょ」


そして、俺の胸に額を押しつけた。


「……好き」


俺は妻を抱きしめた。


「……俺もです」


その夜、妻は仕事を辞めなかった。


続けるとも、まだ決めなかった。


ただ、今日の疲れだけで人生を決めるのをやめた。


昨日は、十年後の人生を話した。


今日は、仕事を辞めたい一日を話した。


そして明日は。


妻自身が、自分の人生をもう一度選ぼうとしている。


俺は、その隣にいたいと思った。


答えを出す人としてではなく。


答えが出るまで、話し続ける人として。


* * *

【次は、私が決めるから】

妻は、寝室の入り口で立ち止まった。


「……優」


「はい」


「一つだけ、確認していい?」


「……何でしょう」


「私が仕事を続けても、辞めても、優の気持ちは変わらない?」


俺は妻を見た。


「……はい」


妻は少しだけ笑った。


「じゃあ、私が今までと違う働き方を選んでも?」


「……はい」


「大型プロジェクトに挑戦したいって言っても?」


俺は少し考えた。


「……一緒に考えたいです」


妻は目を細めた。


「……そこは即答じゃないんだ」


「……俺にも仕事がありますし、二人の時間も大切にしたいので」


妻は驚いた顔をした。


それから、嬉しそうに笑った。


「……うん。それでいい」


「……そうですか」


「優も、自分の希望をちゃんと言ってくれる方がいい」


妻は俺の手を離した。


そして、テーブルに戻った。


さっき閉じたノートを、もう一度開く。


《続けたいこと》


《変えたいこと》


その下に書かれた文字。


《大型プロジェクト》


妻は、そのページをしばらく見つめていた。


俺は何も言わなかった。


今度こそ、妻が自分の言葉を見つけるのを待った。


やがて、妻は顔を上げた。


「……優。私、まだ仕事が好きみたい」


「……そうですか」


「でも、今までと同じ働き方をするつもりはない」


その声には、さっきまでの疲れとは違うものがあった。


迷いが消えたわけではない。


不安がなくなったわけでもない。


それでも、妻はもう一度、自分の人生を考えようとしている。


そして、ノートの《大型プロジェクト》という文字を、指でそっとなぞった。


「……次は、私が決めるから」


第49話 完


次回予告

次回 第5部 第10話/通算第50話

「結婚しても、自分の人生を生きていいですか?」

「……優。私、決めた」


仕事を辞めたいと思った夜。


喜咲は、答えを出さなかった。


休んで、考えて、自分の気持ちと向き合った。


そして、ようやく一つの結論にたどり着く。


夫の収入だけでも生活できる。


専業主婦になる選択肢もある。


それでも、自分には挑戦したいことがある。


「私、働かなくても生きていけるんだよね」


「……はい」


「それでも働いていい?」


「……それを俺に聞くんですか?」


「夫だから」


結婚したら、自分の人生は自分だけのものではなくなるのだろうか。


相手を愛することと、自分の人生を大切にすることは、両立できるのだろうか。


第5部、最終話。


仕事と家庭。


愛情と自立。


そして、何度でも相手を選び直す夫婦の物語。


優が伝える言葉は。


「今日も喜咲がいいので」


第5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』、次回完結。


仕事が好きなのに、辞めたくなったことはありませんか?


「今日は辞めたい。でも、本当はまだ続けたいのかもしれない」


そんな気持ちを経験したことがあれば、ぜひ感想やコメントで聞かせてください。


次回、第50話。二人が選ぶ、新しい夫婦の形へ

この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。

Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524

Momokun Official https://momokun.jp/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。