第8話/通算第48話 「十年後、私たちはまだ働いていますか?」
第5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』
前書き
結婚したら、ずっと一緒にいられると思っていた。
でも、現実はそんなに甘くありません。
四十五歳、バツイチ医師の小鳥遊優。
四十二歳、食品メーカーで働く東海林喜咲。
婚活アプリで出会い、恋をして、何度も喧嘩をして、それでも二人は夫婦になりました。
第4部では、結婚してから最大の夫婦喧嘩を経験。
それでも最後には、お互いに「今日もあなたがいい」と伝えることができました。
ようやく、幸せな新婚生活が始まる。
……はずだったのですが。
妻が出世しました。
喜咲は企画部長に昇進。
仕事が増え、責任が増え、会議が増え、夫婦の時間が減っていく。
夫は妻の成功を喜びたい。
妻も仕事を頑張りたい。
でも、二人とも一緒にいたい。
ここで、新しい問題が生まれます。
結婚した二人は、自分の人生と夫婦の時間をどう両立させればいいのでしょうか。
夫の収入だけでも生活できる。
妻が仕事を続けることも、専業主婦になることも、働き方を変えることもできる。
でも、それは妻だけが考える問題なのでしょうか。
夫が働き方を見直すこともできる。
家事の分担を変えることもできる。
二人で過ごす時間の作り方を変えることもできる。
どちらか一人が夢や仕事を諦めるのではなく、二人が納得できる生き方を探すことはできないのでしょうか。
もちろん、相手の人生を勝手に決めることはできません。
けれど、自分の希望を言わずに、すべてを相手に任せることが優しさとも限りません。
第5部では、仕事への思い、夫婦の時間、一人で過ごす時間、そして将来の人生について、優と喜咲が向き合います。
もちろん、真面目な話ばかりではありません。
正しすぎる医師の夫と、毒舌だけれど寂しがり屋の妻。
今回も、夫婦の会話は簡単には終わりません。
婚活は終わった。
結婚式も終わった。
でも、人生の選択は終わらない。
夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?
そして。
自分の人生を大切にしながら、二人で幸せになることはできますか?
笑って、ときどき胸が痛くなって、最後には二人を応援したくなる。
そんな大人の結婚ラブコメ、第5部の開幕です。
あなたなら、愛する人との時間と、自分の人生をどう両立させますか?
ぜひ、優と喜咲の新しい十話を見届けてください。
「ねえ、優。十年後も、私たちって今と同じように働いているのかな?」
妻の質問に、俺は答えられなかった。
十年後。
俺は五十五歳。
妻の喜咲は五十二歳。
医師として働き続けているのか。
妻は食品メーカーの企画部長として、今と同じように仕事をしているのか。
そもそも、俺たちは今と同じ場所で、同じような生活を送っているのだろうか。
「……優?」
「はい」
「今、何考えてた?」
「……十年後の自分たちについてです」
「うん。それを聞いてるの」
「……想像したことがありませんでした」
妻は少し驚いた顔をした。
「えっ、優が?」
「……何かおかしいでしょうか」
「だって、優って何でも予定を立てるじゃん」
「……ある程度は」
「共有カレンダーに《夫婦時間・再調整》って書こうとした人でしょ?」
「……改善しました」
「《デート再予約》も却下したよね?」
「……覚えています」
「そんな人が、十年後の予定を考えてないの?」
俺は言葉に詰まった。
確かに、俺は予定を立てるのが好きだ。
しかし、十年後の予定となると話は別だった。
「……喜咲」
「何?」
「そもそも、十年後の予定を今から確定するのは困難です」
「それは分かってる!」
妻は呆れたように笑った。
そして、突然、真顔になった。
「……ところで優」
「はい」
「未来の話をする前に、現在の私を見てくれない?」
俺は妻を見た。
仕事用のバッグ。
上着。
そして、まだ脱いでいない靴。
「……失礼しました」
「私、玄関で十年後まで働かされるところだった!」
結婚生活とは難しい。
十年後の人生を考える前に、まず妻をリビングへ案内する必要があるらしい。
* * *
【十年後の夫は、まだ白衣を着ていますか?】
夕食の後。
妻は、前夜にも使っていたノートをテーブルに広げた。
《仕事》
《家庭》
《自分の時間》
そして、一番下に書かれた言葉。
《決める前に、二人で相談する》
大型プロジェクトへの参加を打診された妻と、二人で決めたことだった。
まだ、プロジェクトへの参加は決まっていない。
具体的な役割も、仕事量も、確認しなければならない。
それなのに、妻はさらに先の未来を考え始めていた。
「ねえ、優」
「はい」
「五十五歳になっても、今と同じように働きたい?」
俺は少し考えた。
「……今は、そう思っています」
「今は?」
「……はい。十年後まで同じ気持ちかどうかは分かりません」
妻は目を丸くした。
「優がそんなこと言うんだ」
「……意外ですか?」
「うん。優って、ずっと医者をやってそうだから」
「……医師の仕事は好きです」
「知ってる」
「……ですが、十年後の自分の考えまで、今の俺が決める必要はないと思います」
妻は、少しだけ嬉しそうに笑った。
「そっか」
そして、ノートに書いた。
《優・55歳 仕事は未定》
俺はその文字を見つめた。
「……未定、ですか」
「だって、分からないんでしょ?」
「……そうですが」
「じゃあ未定」
妻は満足そうにうなずいた。
「次、私ね」
《喜咲・52歳》
ペンが止まった。
「……私、どうしてるんだろう」
妻の声から、さっきまでの明るさが少し消えた。
「……仕事のことですか?」
「うん」
妻は食品メーカーで企画の仕事をしている。
新しい商品を考えることが好きだ。
企画が形になることも、部下が成長することも、チームで成果を出すことも。
だからこそ、専業主婦になるという選択肢があっても、今は働き続けたいと考えている。
「今の仕事、好きなんだよね」
「……知っています」
「でもさ、十年後も同じように好きなのかな」
「……分かりませんね」
「今度のプロジェクトだって、数年間は忙しくなるかもしれないんでしょ」
妻はペンを指で回した。
「挑戦したい気持ちはある。でも、もし参加したら、その先の自分ってどうなってるんだろう」
俺は答えなかった。
まだ分からないことを、分かったふりで答えたくなかった。
妻は続けた。
「十年後も企画を考えてるのかな。違う仕事をしてるかもしれないし、働き方を変えてるかもしれない」
「……そうですね」
「仕事を辞めてる可能性だってあるよね」
「……はい」
「それでもいい?」
以前なら、俺はすぐに答えていた。
『喜咲が決めればいいです』
間違いではない。
しかし、それだけでは妻の相談を終わらせてしまう。
俺は少し考えてから言った。
「……今の喜咲には、挑戦したい仕事があるんですよね」
「うん」
「……それなら、まずはその気持ちを大切にしてほしいです」
「……うん」
「ただ、十年後に別の生き方をしたくなったら、そのときは一緒に考えたいです」
妻は俺を見た。
「優も?」
「……もちろんです」
「優だって、仕事を続けたいんでしょ?」
「……はい」
「私のために、優が何かを諦めることになるかもしれないよ?」
俺は少し黙った。
妻の仕事を応援したい。
だが、自分の仕事も大切にしたい。
妻との時間も欲しい。
その全部を望むことが、前回の話の出発点だった。
「……俺も、自分の人生を諦めるつもりはありません」
「……そっか」
「だから、十年後に問題が起きたら、どちらか一人が我慢する前に相談したいです」
妻は、ゆっくりうなずいた。
「……いいね、それ」
そして、ノートに書き加えた。
《喜咲・52歳 仕事は未定》
二人分の未来が、そろって未定になった。
「……喜咲」
「何?」
「これでは、将来設計になっていないのでは?」
「いいの!」
「……そうですか」
「だって、分からないことを決めたって仕方ないでしょ?」
俺は納得した。
どうやら、妻の方が俺より将来設計に向いているらしい。
* * *
【十年後の妻を、家の備品にしないでください】
「じゃあ、仕事以外は?」
妻が聞いた。
「……といいますと?」
「五十五歳の優は、どんな生活をしていたい?」
俺は考えた。
朝、コーヒーを淹れる。
仕事へ行く。
帰宅する。
食事をする。
読書をする。
眠る。
大きな不満はない。
「……今と、あまり変わらない生活でしょうか」
妻は黙った。
「……喜咲?」
「ねえ、その生活に私いる?」
「……当然、います」
「どこに?」
「……家に」
妻の目が細くなった。
「私、家具?」
「……違います」
「家に置いておけば安心する存在なの?」
「……そういう意味ではありません」
「じゃあ、十年後の私たちの休日は?」
「……一緒に出かけたいです」
「どこに?」
「……それは、そのとき相談しましょう」
妻は両手を上げた。
「出た! 十年後も相談!」
「……相談するのは悪いことではありません」
「分かってるけど、たまには優から決めてよ!」
俺は少し考えた。
「……では、今度の休日は俺が行き先を考えます」
妻が驚いた。
「えっ、本当に?」
「……はい」
「十年後じゃなくて?」
「……次の休日です」
妻は笑った。
「それ、嬉しい」
俺も笑った。
だが、妻はさらに追及してきた。
「ところで、優。十年後の趣味は?」
「……読書です」
「今と同じ!」
「……本の種類は増えているかもしれません」
「ジャンルの話じゃない!」
そういえば、以前、一人で休日を過ごしたときも同じようなことを言われた。
仕事と読書以外に、何か楽しみを見つけなさい。
妻の言葉は、今も覚えている。
「……十年後までには、新しい趣味を見つけたいと思います」
「おお!」
「……そんなに驚くことですか?」
「優が自分から言うなんて!」
妻は嬉しそうに笑った。
俺も少し笑った。
五十五歳の自分。
どんな仕事をしているのかは分からない。
どんな趣味を持っているのかも分からない。
だが、一つだけ思った。
そのときも、仕事だけの人生にはしたくない。
妻だけに自分の幸せを預ける人生にもしたくない。
そして、妻の人生を俺のものにしたくもない。
「……喜咲」
「何?」
「十年後も、お互いに自分の楽しみを持っていたいですね」
妻は、少し驚いた顔をした。
そして笑った。
「……うん。そうだね」
俺は妻の手に触れた。
「そのうえで、一緒に楽しめることも見つけたいです」
妻は頬を赤くした。
「……優」
「はい」
「最近、そういうこと自然に言うようになったよね」
「……何がですか?」
「だから、そういうところ!」
結局、何を指摘されたのかは分からなかった。
だが、妻が嬉しそうなので、悪いことではないらしい。
* * *
【十年後の暮らしには、決められないことが多すぎます】
妻はノートに新しい見出しを書いた。
《住まい》
「十年後も、ここに住んでるかな」
俺は部屋を見回した。
二人で食事をするテーブル。
ソファ。
妻が置いたクッション。
結婚してから、少しずつ二人の生活になじんできた場所だ。
「……今のところ、引っ越す予定はありませんね」
「でも、仕事が変わったら?」
「……そのときは考える必要があります」
「私の仕事が今より忙しくなったら?」
「……通勤や生活への影響も考えたいですね」
「優の仕事が変わる可能性だってあるよね」
「……あります」
妻はペンを置いた。
「ねえ、優。私、結婚する前は、自分の都合だけで住む場所を考えればよかったんだよね」
「……はい」
「でも、今は違う」
「……そうですね」
「私が便利な場所が、優にも便利とは限らないもんね」
俺はうなずいた。
「……俺の仕事だけを基準にするつもりもありません」
妻は少し笑った。
「そこ、ちゃんと言ってくれるんだ」
「……以前は、俺の収入で生活できるのだから、俺の仕事を優先すればいいと考えていたかもしれません」
「……うん」
「ですが、喜咲が働く理由は収入だけではありませんから」
妻は黙っていた。
「……俺は、あなたの仕事も大切にしたいです」
「……ありがとう」
妻は小さく笑った。
だが、まだ話は終わらなかった。
次の項目は《親》。
「十年後ってさ、私たちだけが年を取るわけじゃないんだよね」
「……そうですね」
「親の生活だって、どうなっているか分からない」
「……はい」
「もし、家族のことで助けが必要になったら、仕事との両立も考えなきゃいけないよね」
俺は少し考えた。
「……そのときは、二人で相談しましょう」
「うん」
「ただ、俺たちだけで全部を抱え込む必要もないと思います」
妻は顔を上げた。
「……そうだね」
「必要になったら、周囲の助けも考えたいです」
「……うん」
妻はノートに書いた。
《親のことも、一人で決めない》
俺は、その文字を見つめた。
以前の妻なら、自分の問題は自分で解決しようとしたかもしれない。
以前の俺なら、相手に負担をかけないために、自分だけで抱え込もうとしたかもしれない。
だが、今は違う。
少なくとも、違う方向へ進もうとしている。
「……喜咲」
「何?」
「十年後のことを考えると、決められないことが多いですね」
「そうだね」
「……しかし、決められないからといって、何も考えないわけにもいきません」
妻は笑った。
「優って、本当に真面目だよね」
「……そうでしょうか」
「うん。でも、今日はその真面目さがありがたい」
俺は少し照れた。
「……そうですか」
「だって、一人で考えてたら、全部自分で何とかしなきゃって思っちゃいそうだから」
俺は妻の手を握った。
「……二人の生活ですから」
妻は、静かにうなずいた。
* * *
【十年後も、夜の相性は大切ですか?】
最後に、妻は《健康》と書いた。
「優、これは得意分野でしょ?」
「……健康については、医師としてお話しできることもあります」
「じゃあ、十年後の私たちの健康は?」
「……分かりません」
「即答!」
「……医学的にも、将来の健康を保証することはできません」
妻は笑った。
「じゃあ、どうすればいい?」
「……今の健康を大切にすることです」
「普通!」
「……普通のことが大切なのです」
「そういうところ、お医者さんだよね」
妻は笑いながら、ノートに書いた。
《今から健康を大切にする》
それから、何か思いついたように顔を上げた。
「……ねえ、優」
「はい」
「十年後の夜の相性って、どうなってるのかな?」
俺はコーヒーを飲み損ねた。
「……喜咲」
「何?」
「突然、何の話ですか」
「だって、夫婦の十年後でしょ?」
「……そうですが」
「私たちの出会い、忘れた?」
忘れるはずがない。
婚活アプリのプロフィールに書かれていた、あの一文。
《夜の相性も大切です》
あの言葉が、俺たちの出会いのきっかけだった。
「……忘れていません」
「でしょ?」
「……ですが、十年後のことは」
「分かりません、でしょ?」
「……はい」
妻は声を上げて笑った。
「もう! 今夜、何回それ言った?」
「……数えていません」
「そこも数えてないんだ!」
俺も笑った。
だが、妻は突然、静かな顔になった。
「……ねえ、優」
「はい」
「十年後も、手をつないでくれる?」
俺は妻を見た。
「……もちろんです」
「今より年を取ってても?」
「……俺も同じだけ年を取っています」
「そうだけど」
「……喜咲」
「何?」
「十年後のことを保証することはできません」
妻は少しだけ寂しそうな顔をした。
俺は、その手を取った。
「……ですが」
「うん?」
「十年後も、こうして手をつないでいたいと思っています」
妻は黙った。
「……少なくとも、今の俺はそう思っています」
「……優」
「はい」
「それ、反則」
「……何がですか?」
「正論のあとに、急にそういうこと言うところ!」
妻は俺の肩に頭を預けた。
俺も、その肩を抱いた。
十年後の健康は分からない。
仕事も、生活も、どうなっているか分からない。
だが、今夜、妻と手をつないでいたいと思う気持ちは、確かだった。
* * *
【婚活していた頃、十年後まで条件に入れていました】
「……ねえ、優」
妻が顔を上げた。
「はい」
「私たちさ、婚活してた頃、十年後まで条件に入れてたよね」
俺は思わず笑った。
「……そうですね」
「仕事とか、収入とか、住む場所とか、将来どうしたいかとか」
「……はい」
「優も?」
「……俺もです」
妻は笑った。
「ねえ、あれ、意味あった?」
俺は少し考えた。
「……ほぼありませんでしたね」
「ちょっと!」
妻が吹き出した。
「そこは少しはあったって言ってよ!」
「……もちろん、当時の価値観を確認する意味はあったと思います」
「うん」
「ですが、その条件どおりに暮らしているかと聞かれると」
「……うん?」
「……ほぼ違いますね」
「結局、意味ないじゃん!」
妻は笑った。
俺も笑った。
婚活していた頃。
俺は、一度目の結婚をうまく続けられなかった経験から、同じ失敗を繰り返したくないと思っていた。
だから、相手の条件を確かめた。
仕事。
生活習慣。
結婚への考え方。
将来の希望。
最初から一致していれば、きっとうまくいく。
そう考えていた。
だが、今なら分かる。
条件が合っていても、人生が変われば、考え方だって変わる。
昨日まで大切だったものが、今日も同じように大切とは限らない。
「……喜咲」
「何?」
「俺は、結婚する相手との条件が合っていれば、失敗しないと思っていました」
「……うん」
「ですが、結婚してからの生活は、条件だけでは決まりませんね」
妻はうなずいた。
「ほんと、それ」
そして、指を折り始めた。
「家事でしょ。仕事でしょ。一人の時間でしょ。元妻との思い出でしょ」
「……はい」
「あと、優の変な予定表」
「……最後の項目については異議があります」
「却下!」
妻は笑った。
「でもさ、私もそうだったよ」
「……何がですか?」
「婚活してた頃は、条件が合う人と結婚すれば、困らないと思ってた」
「……そうですね」
「でも、結婚したら困ることばっかり」
「……申し訳ありません」
「なんで謝るの!」
妻は笑いながら、俺の腕を軽く叩いた。
「優だけの問題じゃないでしょ」
「……そうですね」
「私だって面倒くさいところあるし」
「……否定はしません」
「そこは否定して!」
「……失礼しました」
妻はクッションを持ち上げた。
俺は反射的に身構えた。
だが、妻はクッションを置いた。
そして、少しだけ真剣な顔になった。
「……でも、優」
「はい」
「私、今の方が安心してるかも」
「……婚活していた頃より、ですか?」
「うん」
「……どうしてでしょう」
妻は少し考えた。
「条件が合ってるからじゃないんだよね」
「……はい」
「合わないことがあっても、話せるって思うから」
俺は黙った。
妻は続けた。
「結婚する前はさ、合わないところを見つけると、不安だったの」
「……そうですね」
「でも、今は違う」
妻は俺を見た。
「優となら、違ってても話せると思う」
胸の奥が、少し温かくなった。
「……喜咲」
「うん?」
「俺も、そう思っています」
妻は微笑んだ。
「……よかった」
婚活していた頃、俺たちは自分に合う相手を探していた。
だが、結婚してからは違う。
違うところをなくすのではない。
違うところがあっても、一緒に生きていく方法を考える。
それが、俺たちの夫婦生活なのだろう。
* * *
【十年計画より、一年に一度の人生会議】
妻は、ノートを閉じようとした。
「……優」
「はい」
「結局、十年後のこと、何も決まらなかったね」
俺はノートを見た。
仕事は未定。
住む場所も未定。
健康も分からない。
親のことも、今からすべてを決められるわけではない。
「……そうですね」
「十年後の計画、失敗かな?」
俺は少し考えた。
「……いいえ」
妻が顔を上げた。
「え?」
「……一つだけ、決めたいことがあります」
「何?」
俺は妻のノートを指さした。
「十年後の生活を決めるのではなく、十年後まで、どうやって話し続けるかを決めませんか」
妻は首をかしげた。
「……どういうこと?」
「……一年に一度、二人の人生について話す日を作るんです」
妻が目を丸くした。
「一年に一度?」
「……はい」
「仕事とか?」
「……はい」
「住む場所とか?」
「……はい」
「健康とか、親のこととか?」
「……もちろんです」
妻は、しばらく俺を見ていた。
そして言った。
「……優」
「はい」
「それ、会議じゃん」
「……そうですね」
「夫婦で会議するの?」
「……定期的に話し合うという意味では」
「会社みたい!」
俺は少し考えた。
「……では、名称を変えましょう」
「名前の問題じゃない!」
「……《夫婦の未来を考える日》」
「長い!」
「……《年間人生会議》」
「さらに会社っぽくなった!」
妻は笑い崩れた。
俺も笑った。
だが、笑いが収まると、妻はノートを開いた。
「……でも、いいと思う」
「……そうですか」
「うん。一年に一度、二人の人生について話す」
妻は、ゆっくり文字を書いた。
《一年に一度、二人の人生について話す》
俺はその文字を見つめた。
十年後のことは分からない。
だが、一年後にもう一度話すことなら、約束できる。
「……喜咲」
「何?」
「そのとき、今と違う考えになっていても、構いません」
妻は顔を上げた。
「……うん」
「喜咲が仕事を続けたいと思っていても、辞めたいと思っていても」
「……うん」
「俺自身の考えが変わっているかもしれません」
「……そうだね」
「大切なのは、その変化を黙って抱え込まないことだと思います」
妻は、少しだけ目を潤ませた。
「……優」
「はい」
「私、今までずっと、将来のことって、一度決めたら変えちゃいけないと思ってたかも」
「……そうですか」
「だって、仕事も結婚も、ちゃんと考えて決めたことだから」
「……はい」
「でも、十年後まで同じ考えでいられるかなんて、分からないもんね」
俺はうなずいた。
「……変えてはいけない理由はありません」
「……うん」
「仕事を続けることも、働き方を変えることも、そのときの喜咲が選んでいいと思います」
妻は俺の手を握った。
「……じゃあ、優もね」
「……俺も?」
「そう。優も、自分の人生をちゃんと考えて」
俺は黙っていた。
妻は続けた。
「私のために我慢して、何でも『大丈夫です』って言わないで」
その言葉が、胸に刺さった。
一度目の結婚。
そして、喜咲との結婚生活。
俺は何度も同じ間違いをしかけてきた。
相手を大切にしたい。
だから、自分の気持ちは隠しておこう。
そんな考え方だった。
「……分かりました」
俺は答えた。
「俺も、自分の希望を話します」
妻は笑った。
「約束ね」
「……はい」
俺たちは、ノートの最後にもう一行を書いた。
《一度決めた人生でも、二人で考え直していい》
妻はその文字を、しばらく見つめていた。
そして、小さく言った。
「……なんか、安心した」
「……そうですか」
「うん。十年後まで全部決めなくていいんだって思えたから」
俺は、妻の手を握り返した。
「……十年後に何が起きるかは分かりません」
「うん」
「ですが、そのときも喜咲と話していたいです」
妻は、ゆっくり笑った。
「……私も」
この夜、俺たちは十年後の計画を完成させなかった。
仕事を続けるかどうかも決めなかった。
住む場所も、老後の生活も、具体的な答えは出さなかった。
ただ、一つだけ約束した。
一年に一度、二人の人生について話す。
将来の答えが変わっても、その変化を二人で受け止めるために。
* * *
【十年後の約束より、明日の朝ごはん】
「……ところで、喜咲」
「何?」
「明日の朝食ですが」
妻は顔を上げた。
「……え?」
「パンとご飯、どちらになさいますか?」
妻は固まった。
数秒間の沈黙。
そして。
「十年後の人生から、朝ごはんに戻るの!?」
「……明日の生活も大切ですので」
「そういう意味じゃない!」
俺は笑った。
妻も笑った。
「……でも、優」
「はい」
「そういうところ、好きだよ」
俺は少し驚いた。
「……朝食を確認するところですか?」
「違う!」
「……そうですか」
「十年後のことをちゃんと考えてくれて、それでも明日のことも大切にしてくれるところ!」
俺は、少し照れた。
「……ありがとうございます」
妻は俺の肩にもたれた。
「十年後も、こうして話していられるかな」
俺は妻を見た。
「……そうありたいですね」
「うん」
「……そのためには、今から話すことが大切だと思います」
妻は笑った。
「じゃあ、明日の朝ごはんも?」
「……はい」
「私はパン」
「……分かりました」
「優は?」
「……ご飯にします」
妻は、少し驚いた顔をした。
「えっ、別々でいいの?」
「……同じものを食べる必要はありませんから」
妻は笑った。
「……そっか」
俺も笑った。
違うものを食べてもいい。
違う仕事をしてもいい。
違う時間を大切にしてもいい。
全部を同じにする必要はない。
それでも、一緒に食卓を囲むことはできる。
そんな当たり前のことが、今夜は少し特別に思えた。
* * *
【十年後の正解より、明日の本音】
翌朝。
俺はいつもどおり、二人分のコーヒーを淹れていた。
妻がリビングへ入ってくる。
「おはよう、優!」
「……おはようございます」
「昨日はありがとう」
「……何がですか?」
「十年後の話。ちゃんと聞いてくれたこと」
俺は笑った。
「……こちらこそ、ありがとうございました」
妻は椅子に座り、コーヒーカップを両手で持った。
「なんかさ、十年後の自分を想像したら、ちょっと安心した」
「……そうですか」
「うん。仕事も生活も、今のままじゃなくていいんだって分かったから」
俺はうなずいた。
妻はコーヒーを一口飲んだ。
「でも、今回のプロジェクトについては、まだ考えたいことがあるんだよね」
「……そうですね」
「やってみたい気持ちはあるんだけど、具体的な働き方とか、まだ確認したいこともあるし」
「……分かっています」
俺は、妻の顔を見た。
「……喜咲」
「何?」
「俺は、あなたの仕事を応援したいです」
「……うん」
「ですが、二人で過ごす時間が減ることを、寂しいと思うかもしれません」
妻は、ゆっくりうなずいた。
「……うん」
「そのときは、また相談させてください」
妻は笑った。
「当たり前でしょ」
俺も笑った。
「……それから」
「何?」
「俺の仕事についても、もう少し話したいと思います」
妻は驚いた顔をした。
「優が?」
「……はい」
「仕事で何が大変とか、何が嬉しいとか?」
「……そうです」
妻は嬉しそうに笑った。
「聞きたい!」
俺は、少し肩の力が抜けるのを感じた。
以前の俺なら、自分の仕事の事情を妻に説明することすら、負担をかけると思っていたかもしれない。
だが、夫婦の生活は二人のものだ。
喜咲の仕事だけが二人の時間に影響するわけではない。
俺の仕事も同じだった。
「……喜咲」
「うん?」
「十年後も、今の仕事を続けているかどうかは分かりません」
「……うん」
「ですが、十年後も、自分の人生を大切にしていたいと思います」
妻はうなずいた。
「私も」
「……そして」
「何?」
「その人生には、喜咲がいてほしいです」
妻は一瞬、黙った。
それから、頬を赤くした。
「……優」
「はい」
「朝からそういうこと言わないで!」
「……何か問題が?」
「心臓に悪い!」
「……健康には気をつけてください」
「医者に戻るな!」
俺たちは笑った。
十年後。
俺は五十五歳。
喜咲は五十二歳。
どんな仕事をしているのかは分からない。
同じ場所に住んでいるかどうかも分からない。
だが、そのときも妻と話していたい。
自分の希望も、相手の希望も、隠さずに。
そのために、一年に一度、二人の人生について話す。
それが、俺たちの新しい約束だった。
妻は、時計を見て立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ仕事行ってくるね!」
「……お気をつけて」
「優もね!」
妻はバッグを持った。
そして、玄関へ向かいかけて、ふと立ち止まった。
「……ねえ、優」
「はい」
「昨日、十年後も働いてるのかなって話したでしょ?」
「……はい」
妻は少し笑った。
「十年後も働きたいかって聞かれても、今は答えられないけどさ」
「……そうですね」
「じゃあ、明日も働きたいかって聞かれたら、どう答えるんだろうね」
俺は、妻を見た。
さっきまでと同じ、明るい笑顔だった。
仕事に行くことを嫌がっているわけではない。
プロジェクトへの挑戦を諦めたわけでもない。
ただ、妻は自分自身に問いかけていた。
十年後ではなく。
もっと近い未来について。
「……喜咲」
「何?」
俺は、すぐには答えられなかった。
十年後の人生を考えることはできる。
だが、明日の自分が何を望んでいるのか。
それは、今日の自分にも分からない。
妻は軽く手を振った。
「じゃあ、行ってきます!」
「……行ってらっしゃい」
玄関の扉が閉まった。
俺は、二人で使ったノートを見た。
《一年に一度、二人の人生について話す》
その約束は、確かに大切だ。
けれど。
十年後のことより、明日の自分を決める方が、ずっと難しいのかもしれない。
第48話 完
次回予告
次回 第5部 第9話/通算第49話
「仕事を辞めたい日があっても、辞めなくていいですか?」
「……優。私、仕事、辞めようかな」
仕事が好きだから、働き続けたい。
そう決めたはずの喜咲が、突然そう口にした。
企画部長としての責任。
大型案件への対応。
好きな仕事でも、疲れる日はある。
優の収入だけでも、夫婦の生活は十分に成り立つ。
だからこそ、「辞めればいい」と簡単には言えなかった。
本当に仕事を辞めたいのか。
それとも、今日はただ疲れているだけなのか。
仕事を辞めたいと思ったその日に、人生を決めなくてもいいですか?
次回、仕事を続けると決めた妻が、もう一度、自分自身の本音と向き合う。
十年後の人生について、大切な人と話したことはありますか?
仕事も家庭も、自分の時間も大切にしたい。そんな気持ちがあれば、ぜひ感想やコメントで聞かせてください。
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