第7話/通算第47話 「仕事と家庭、どちらも欲しいのは欲張りですか?」
5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』
前書き
結婚したら、ずっと一緒にいられると思っていた。
でも、現実はそんなに甘くありません。
四十五歳、バツイチ医師の小鳥遊優。
四十二歳、食品メーカーで働く東海林喜咲。
婚活アプリで出会い、恋をして、何度も喧嘩をして、それでも二人は夫婦になりました。
第4部では、結婚してから最大の夫婦喧嘩を経験。
それでも最後には、お互いに「今日もあなたがいい」と伝えることができました。
ようやく、幸せな新婚生活が始まる。
……はずだったのですが。
妻が出世しました。
喜咲は企画部長に昇進。
仕事が増え、責任が増え、会議が増え、夫婦の時間が減っていく。
夫は妻の成功を喜びたい。
妻も仕事を頑張りたい。
でも、二人とも一緒にいたい。
ここで、新しい問題が生まれます。
結婚した二人は、自分の人生と夫婦の時間をどう両立させればいいのでしょうか。
夫の収入だけでも生活できる。
妻が仕事を続けることも、専業主婦になることも、働き方を変えることもできる。
でも、それは妻だけが考える問題なのでしょうか。
夫が働き方を見直すこともできる。
家事の分担を変えることもできる。
二人で過ごす時間の作り方を変えることもできる。
どちらか一人が夢や仕事を諦めるのではなく、二人が納得できる生き方を探すことはできないのでしょうか。
もちろん、相手の人生を勝手に決めることはできません。
けれど、自分の希望を言わずに、すべてを相手に任せることが優しさとも限りません。
第5部では、仕事への思い、夫婦の時間、一人で過ごす時間、そして将来の人生について、優と喜咲が向き合います。
もちろん、真面目な話ばかりではありません。
正しすぎる医師の夫と、毒舌だけれど寂しがり屋の妻。
今回も、夫婦の会話は簡単には終わりません。
婚活は終わった。
結婚式も終わった。
でも、人生の選択は終わらない。
夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?
そして。
自分の人生を大切にしながら、二人で幸せになることはできますか?
笑って、ときどき胸が痛くなって、最後には二人を応援したくなる。
そんな大人の結婚ラブコメ、第5部の開幕です。
あなたなら、愛する人との時間と、自分の人生をどう両立させますか?
ぜひ、優と喜咲の新しい十話を見届けてください。
「……優。私たち、これから何年間も、まともに休日が合わなくなるかもしれない」
妻の言葉に、俺はコーヒーカップを置いた。
「……何年間も、ですか?」
「まだ決まってない。でも、そうなる可能性はある」
一週間の出張から帰ってきたばかりの妻。
小鳥遊喜咲。
四十二歳。
食品メーカーの企画部長。
仕事では旧姓の東海林喜咲を使っている。
俺は小鳥遊優。
四十五歳。
バツイチの医師だ。
結婚してから、ようやく分かったことがある。
妻と一緒にいられる時間は、無限ではない。
先日は、互いに一人で過ごす休日の大切さを学んだ。
一人の時間があるからこそ、二人で話したいことが増える。
そう思ったばかりだった。
ところが。
今度は、二人で過ごす時間そのものが減るかもしれないという。
「……何があったのですか?」
喜咲は、スマートフォンをテーブルに置いた。
「会社から、大型プロジェクトに参加しないかって打診されたの」
「……それは、おめでとうございます」
「まだ決まってないってば」
「……失礼しました」
「うまくいけば、今後の仕事の幅がかなり広がると思う」
妻の表情が、少し明るくなった。
俺は、その顔が好きだった。
自分の企画を話すとき。
新しい商品について考えるとき。
喜咲は、少女のように目を輝かせる。
だから、俺は言った。
「……素晴らしいですね。ぜひ挑戦してください」
すると。
妻の表情が、ぴたりと止まった。
「……優」
「はい」
「私、まだ相談を始めたばっかりなんだけど」
「……そうですね」
「なんで、もう結論が出てるの?」
俺は黙った。
どうやら。
今回も、最初の一言を間違えたらしい。
* * *
【妻の相談を、三十秒で終わらせる夫】
「小鳥遊先生」
妻が、俺を見た。
嫌な予感がした。
「……はい」
「私が何を悩んでるのか、分かってる?」
「……仕事と家庭の両立でしょうか」
「正解!」
「……ありがとうございます」
「でも、まだ何も聞いてないでしょ!」
確かに。
そのとおりだった。
妻が仕事で評価される。
大きな仕事を任される可能性がある。
それは、喜ばしい。
だから応援する。
俺の中では、自然な流れだった。
だが。
喜咲は、応援だけを求めているわけではない。
「……改めて、お話を伺います」
俺は姿勢を正した。
「まず、今回のプロジェクトについて、分かっていることからお願いします」
「……ねえ」
「はい」
「なんで急に診察室みたいになったの?」
「……状況を整理した方がよいかと思いまして」
「夫婦の相談に問診票はいらない!」
「……問診票は出していません」
「出しそうな顔をしてる!」
俺は肩の力を抜いた。
妻が笑った。
そして、真剣な顔に戻った。
「今回の仕事、私にとっては大きなチャンスだと思う」
「……はい」
「今までより広い範囲で、企画に関われるかもしれない」
「それは楽しみですね」
「うん。正直、すごくやってみたい」
妻は、はっきり言った。
その声には、迷いがなかった。
けれど。
次の瞬間、視線が落ちた。
「でも、参加したら、今よりずっと忙しくなる可能性があるの」
「……どの程度でしょうか」
「まだ分からない。具体的な役割も、働き方も確認しなきゃいけない」
「……なるほど」
「ただ、数年間は仕事の比重が高くなるかもしれないって」
数年間。
その言葉が、胸に残った。
一週間の出張。
それだけでも、俺は寂しかった。
妻のいない朝。
無意識にコーヒーを二人分淹れた。
夜になれば、ビデオ通話を待った。
そして。
ようやく妻が帰ってきた。
これからは、また二人で食事をして、くだらない話をして、休日を過ごせる。
そう思っていた。
だが。
これから数年間、今より忙しくなるかもしれない。
俺は、目の前のコーヒーカップを見た。
二つ並んでいる。
当たり前のように。
「……優?」
妻に呼ばれた。
「はい」
「今、何考えてた?」
俺は顔を上げた。
そして、反射的に答えた。
「……喜咲なら、きっとできます」
妻は黙った。
「俺も、できる限り協力します」
「……うん」
「仕事は大切ですから」
そこで。
妻が、深いため息をついた。
「……まただ」
「……何がですか?」
「優、今、寂しいって思ったでしょ?」
俺は言葉に詰まった。
妻が、俺をまっすぐ見た。
「なのに、なんで先に『応援します』って言うの?」
* * *
【妻の成功が嬉しい。でも、寂しいです】
俺は、しばらく答えられなかった。
妻が成功することは嬉しい。
それは本当だ。
だが。
妻と過ごせる時間が減るかもしれない。
それが寂しいのも、本当だった。
「……喜咲」
「うん」
「俺は、あなたの仕事を応援しています」
「それは分かった」
「……ですが」
「うん」
「今より二人の時間が減ると聞いて、寂しくなると思いました」
妻は、何も言わなかった。
だから、俺は続けた。
「正直に言えば、不安です」
口にした瞬間。
胸の中にあったものが、少し軽くなった。
一週間の出張前も、そうだった。
以前の俺なら、きっと言わなかった。
寂しい。
そんなことを言えば、妻の負担になる。
妻が仕事を辞めたり、挑戦を諦めたりする原因になるかもしれない。
だから。
いい夫として、黙って応援すればいい。
そう考えていた。
けれど。
その考え方で、俺は一度目の結婚をうまく続けられなかった。
過去の結婚を、今さら誰かのせいにするつもりはない。
ただ。
自分の気持ちを隠したままでは、相手にも伝わらない。
そのことだけは、忘れたくなかった。
「……寂しいです」
俺は、もう一度言った。
妻が、少し目を見開いた。
「喜咲が評価されるのは、本当に嬉しいです」
「……うん」
「でも、妻と一緒に過ごす時間も欲しいです」
喜咲は、ゆっくり頷いた。
そして。
「……よかった」
そう言った。
「……何がですか?」
「ちゃんと言ってくれた」
妻は、少し笑った。
「私、優が『大丈夫です』って言ったら、どうしようと思ってた」
「……以前なら、そう答えていたかもしれません」
「知ってる」
「……そうですか」
「嫌になるくらい知ってる」
妻は笑った。
俺も笑った。
そして。
喜咲は、俺の手に触れた。
「私ね」
「はい」
「仕事を頑張りたいの」
「……はい」
「でも、優と過ごす時間も大切なの」
「分かっています」
「だから、どっちかを選べって言われたら、困る」
俺は、妻の手を見た。
「……誰かに、そう言われたのですか?」
「ううん」
妻は首を振った。
「誰にも言われてない」
そして、少し寂しそうに笑った。
「私が勝手に、そう思ってるだけ」
* * *
【働かなくても暮らせる妻は、なぜ働きたいのか】
翌日の夕食。
喜咲は、珍しく箸を置いたまま考え込んでいた。
「……お口に合いませんでしたか?」
俺が尋ねると。
妻は顔を上げた。
「違う違う。おいしいよ」
「……それならよかったです」
「優って、料理もできるよね」
「……必要なことですから」
「洗濯も掃除もするし」
「……はい」
「医者として働いてるし」
「……はい」
「私が仕事を辞めても、生活には困らないし」
俺は、箸を止めた。
「……その話ですか」
喜咲は、小さく笑った。
「うん。また、この話」
以前。
喜咲は、専業主婦になることを考えた。
俺の収入だけでも、夫婦で暮らしていくことはできる。
だから。
仕事を辞めるという選択肢は、現実にあった。
家事をして。
買い物をして。
自分の好きなことをして。
夫の帰宅を待つ。
そんな暮らしにも、幸せはある。
妻は、それを否定しなかった。
ただ。
その生活が、今の自分の望む人生なのか。
考えた末に。
働き続けたいと決めた。
「……喜咲」
「何?」
「以前、今はまだ働きたいと、おっしゃっていましたね」
「うん」
「その気持ちは、変わったのですか?」
妻は、首を振った。
「変わってない」
そして、少しだけ笑った。
「むしろ、今回の話を聞いて、もっと仕事が好きなんだって分かった」
「……そうですか」
「企画を考えるのも好きだし、商品になったときは嬉しいし」
妻は、指を折りながら続けた。
「部下が成長するのを見るのも嬉しい。チームで結果を出せたときなんて、最高だと思う」
俺は、頷いた。
そんな妻の姿を、何度も見てきた。
仕事で疲れた顔をして帰ってきても。
自分たちの企画の話になると、急に元気になる。
そのたびに。
俺は、少し嬉しくなる。
「でもね」
妻は、声を落とした。
「生活のために、そこまで働かなくてもいいんだよね」
「……そうですね」
「私が頑張った分だけ、優との時間が減るかもしれない」
「……はい」
「それでも仕事がしたいって」
喜咲は、俺を見た。
「私、そんなに欲張りなのかな」
俺は、すぐには答えなかった。
仕事をしなくても暮らせる。
だから、働かなくていい。
そんな単純な話ではない。
妻には、妻自身の人生がある。
だが。
その人生に、俺もいる。
そして、俺の人生には妻がいる。
どちらかの希望だけで決められることではない。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「何?」
「喜咲は、今回の仕事をやりたいのですか?」
妻は、すぐに答えた。
「やりたい」
「……そうですか」
「でも、優との時間も欲しい」
「……俺もです」
妻は、少し驚いた顔をした。
俺は、続けた。
「実は、俺も欲張りなんです」
「……え?」
「喜咲には仕事を頑張ってほしい。でも、家では一緒に過ごしたい」
「……うん」
「休日には出かけたいですし、夕食もできれば一緒に食べたい」
妻は、黙った。
「そのうえ、俺自身の仕事も大切にしたい」
俺は、少し笑った。
「……全部欲しいです」
喜咲は、俺を見つめた。
そして。
「……優」
「はい」
「私たち、似た者夫婦だったんだね」
「……そうでしょうか」
「うん。二人とも、欲張り」
俺は、頷いた。
「……否定できませんね」
妻は笑った。
だが。
その笑顔は、すぐに消えた。
「でもさ」
「はい」
「欲張った結果、どっちも中途半端になったらどうする?」
俺は、答えられなかった。
その問いには。
まだ、正解がなかった。
* * *
【夫婦の時間を、仕事の残り物にしたくありません】
「……少し、確認させてください」
俺は、妻に尋ねた。
「今回のプロジェクトに参加すると、休日はなくなるのですか?」
「そこまでは言われてないよ」
「帰宅時間が毎日遅くなるのですか?」
「分からない」
「出張が増えるのですか?」
「それも、まだ分からない」
「……なるほど」
俺は、頷いた。
そして。
「では、今の段階で、すべてを諦める必要はありませんね」
妻は、顔を上げた。
「……どういうこと?」
「まず、確認できることを確認しましょう」
「……例えば?」
「どんな役割を期待されているのか。仕事量はどの程度なのか。現在の業務との調整は可能なのか」
「……うん」
「そして、どれくらい先の予定まで見通せるのか」
妻は、しばらく考えた。
「確かに、聞いてみないと分からないことばっかりだね」
「……そうですね」
「でも、仕事なんて、予定どおりにいかないことも多いよ?」
「……知っています」
俺も、医師として働いている。
急に仕事の予定が変わることはある。
妻の仕事だけが、夫婦の時間を奪っているわけではない。
「……ですから」
俺は言った。
「予定が変わったときに、どうするかを考えておきたいです」
「どうするって?」
「例えば、一緒に出かける予定が、仕事でなくなった場合」
「うん」
「そのまま諦めるのではなく、別の日を相談する」
「……うん」
「時間が取れないなら、短い時間でも二人で過ごす」
妻は、黙って聞いていた。
「もちろん、無理をしてまで予定を守る必要はありません」
「……そうだね」
「ですが」
俺は、妻を見た。
「夫婦の時間を、仕事の残り物にはしたくありません」
妻の表情が、変わった。
俺自身、その言葉に少し驚いていた。
以前なら。
きっと言わなかった。
仕事が忙しいなら、仕方がない。
相手に負担をかけるくらいなら、自分が我慢すればいい。
そう考えていた。
だが。
我慢することと。
相手を大切にすることは、同じではない。
「……優」
妻が、小さな声で言った。
「うん」
「それ、嬉しい」
俺は、少し照れた。
「……ありがとうございます」
「でもさ」
妻は、急に笑った。
「予定が合わなかったら、また共有カレンダーに何か書くでしょ?」
「……当然です」
「何て?」
俺は、少し考えた。
「……《夫婦時間・再調整》でしょうか」
妻は、吹き出した。
「業務連絡みたい!」
「……では、《デート再予約》」
「病院の予約システムから離れて!」
俺は、真剣に考えた。
「……《喜咲と過ごす時間》」
妻の笑顔が、止まった。
「……え?」
「そのまま書けば、分かりやすいかと」
喜咲は、少し顔を赤くした。
そして。
「……そういうの、ずるい」
小さく言った。
「……何がですか?」
「急に真面目な顔で、そういうこと言うところ」
俺は、首を傾げた。
妻は、俺の肩に寄りかかった。
「……でも、ありがとう」
俺は、その肩をそっと抱いた。
* * *
【家庭も欲しい。仕事もしたい。これって欲張り?】
その夜。
喜咲は、リビングのソファに座っていた。
テレビは、ついていない。
スマートフォンも、テーブルの上に置いたままだ。
俺は、隣に座った。
「……疲れていませんか?」
「ちょっとね」
「……休みますか?」
「ううん。もう少しだけ、話したい」
「……分かりました」
妻は、しばらく黙っていた。
そして。
「ねえ、優」
「はい」
「私って、欲張りなのかな」
俺は、妻を見た。
「……何についてですか?」
「仕事」
「はい」
「家庭」
「……はい」
「あと、一人の時間」
俺は、少し笑った。
「……三つありますね」
「そうなの!」
妻も笑った。
「企画部長になれて嬉しかった」
「……はい」
「もっと大きな仕事に挑戦できるかもしれないって聞いて、すごく嬉しかった」
「……そうですね」
「でも、優との時間も大切なの」
「……俺もです」
「それに、一人で過ごしたい日だってある」
「……それも大切ですね」
妻は、膝の上で手を組んだ。
「全部欲しいんだよね」
俺は、続きを待った。
喜咲は、俺を見た。
「家庭も欲しい。仕事もしたい。これって欲張り?」
俺は、少し考えた。
そして。
「……欲張りだと思います」
妻が、固まった。
「……え?」
「全部欲しいのですから」
「ちょっと待って」
「……はい」
「ここ、普通は否定する場面じゃない?」
「……そうなのですか」
「『そんなことないよ、喜咲』って!」
俺は、頷いた。
「……そんなことないですよ、喜咲」
「今さら遅い!」
妻は、クッションで俺の腕を叩いた。
俺は、笑った。
そして。
「ですが、喜咲」
「何?」
「欲張りで、何が悪いのでしょうか」
妻の手が止まった。
「……え?」
「欲しいものが、たくさんある」
「……うん」
「それは、悪いことではありません」
俺は、妻の目を見た。
「大切なのは、全部を手に入れられると決めつけることでも、最初から諦めることでもなく」
一度、言葉を区切った。
「どうすれば実現できるか、一緒に考えることだと思います」
妻は、黙った。
「仕事も家庭も欲しいのでしょう?」
「……うん」
「でしたら」
俺は、笑った。
「両方欲しいなら、両方欲しいって言っていいんじゃないですか」
喜咲の目が、少し潤んだ。
「……でも」
「はい」
「両立できるか、分からないよ?」
「……そうですね」
「頑張っても、無理かもしれない」
「……はい」
「どっちかを諦めなきゃいけない日が来るかもしれない」
俺は、頷いた。
「そのときは、そのときに考えましょう」
「……え?」
「できるかどうかは、その後相談しましょう」
妻は、俺を見つめた。
しばらくして。
「……優」
「はい」
「それ、ずるい」
「……何がですか?」
「そんなこと言われたら」
妻は、小さく笑った。
「また好きになるじゃん」
俺は、少し驚いた。
「……また、ですか?」
「何?」
「……一度、好きではなくなっていたのでしょうか」
妻は、クッションを持ち上げた。
「そこを分析するな!」
俺は、素直に謝った。
* * *
【いい夫をやめたら、妻に喜ばれました】
「……ただ、一つだけ」
俺は、妻に言った。
「何?」
「俺の希望も、相談に入れてください」
喜咲は、目を丸くした。
「……優の希望?」
「はい」
俺は、少し迷った。
今までなら。
ここで、言葉を飲み込んでいた。
喜咲が頑張りたいなら。
俺の希望など、後回しでいい。
そう考えていた。
だが。
それでは、また同じことになる。
「……俺は、あなたの仕事を応援したいです」
「うん」
「でも、休日には一緒に出かけたいです」
「……うん」
「夕食も、できれば一緒に食べたいです」
「うん」
「帰ってきた喜咲に、今日あったことを話したいです」
妻の表情が、少しずつ変わった。
俺は、続けた。
「俺自身の仕事も大切にしたいですし、一人の時間も必要です」
「……うん」
「ですが」
俺は、妻の手を取った。
「あなたと過ごす時間も、俺自身が欲しいものです」
喜咲は、黙った。
そして。
「……優」
小さな声で言った。
「はい」
「それ、すごく嬉しい」
「……そうですか」
「うん」
妻は、俺の手を握り返した。
「優が、自分の希望を言ってくれるの」
俺は、少し笑った。
「……以前、言われましたから」
「何を?」
「俺の人生が、仕事と喜咲だけにならないように、と」
妻は、目を丸くした。
「ああ、言ったね!」
「……はい」
「でも、今日も私のことばっかり考えてない?」
「……確かに」
「趣味は?」
「……読書があります」
「また読書!」
妻は、笑った。
俺も笑った。
だが。
妻は、笑い終えると、少し真面目な顔になった。
「……優」
「はい」
「私、勝手に決めないようにする」
俺は、妻を見た。
「自分の仕事だから、自分で決めなきゃって思ってた」
「……そうですね」
「でも、夫婦の生活にも関係することだもんね」
「……はい」
妻は、俺の手を握ったまま続けた。
「だから、ちゃんと相談する」
俺は、頷いた。
「……俺も、自分の気持ちを隠さずに話します」
妻は、笑った。
そして。
「約束ね」
そう言った。
* * *
【答えを出さない相談にも、意味があります】
翌日の夜。
妻は、仕事から帰ると、ノートを持ってきた。
「……何をするのですか?」
「整理するの」
「……なるほど」
「まだ決まってないことが多いから、何を確認するか書いておこうと思って」
妻は、ノートを開いた。
そして、三つの言葉を書いた。
《仕事》
《家庭》
《自分の時間》
俺は、頷いた。
「……分かりやすいですね」
「でしょ?」
妻は、少し得意そうに笑った。
「まず、仕事」
「はい」
「プロジェクトには興味がある」
「……そうですね」
「でも、具体的な役割とか、どんな働き方になるのかは確認したい」
「……はい」
次に。
妻は、《家庭》を指さした。
「優との時間も大切にしたい」
「……ありがとうございます」
「仕事のことは私が決めるけど、二人の生活のことは二人で相談したい」
俺は、頷いた。
「……そうですね」
最後に。
《自分の時間》。
妻は、そこを指で軽く叩いた。
「これも忘れない」
「……一人の休日ですね」
「そう」
俺は、少し笑った。
つい先日、学んだばかりのことだ。
結婚しても、一人でいる時間は必要だ。
そして。
一人の時間があるからこそ。
二人で話したいことも増える。
「……いいと思います」
俺が言うと。
妻は、ノートを見つめた。
「でも、こうして書くと、やっぱり全部は無理かもしれないね」
俺は、考えた。
仕事。
家庭。
自分の時間。
どれも、大切だ。
だが。
時間は無限ではない。
毎日、すべてを満点にすることは難しい。
「……そうですね」
妻の表情が、少し曇った。
だから。
俺は、続けた。
「毎日、全部を満たす必要はないと思います」
「……え?」
「仕事を優先する日もあるでしょう」
「うん」
「夫婦の時間を優先する日もあるでしょう」
「……うん」
「一人で休むことが必要な日もあると思います」
妻は、黙って聞いていた。
「大切なのは、いつも同じ配分にすることではなく」
俺は、ノートを見た。
「その配分について、二人で話せることではないでしょうか」
妻は、ゆっくり頷いた。
「……なるほど」
「仕事の状況が変われば、相談し直せばいい」
「……うん」
「一度決めたことを、永遠に守らなければならないわけではありません」
妻は、少し笑った。
「優が、それ言うんだ」
「……何がですか?」
「予定表に《自由》って書いてた人が」
俺は、黙った。
確かに。
説得力には、少し問題がある。
「……人間は成長するものです」
「一週間で?」
「……成長速度には個人差があります」
妻は、笑い崩れた。
俺も笑った。
そして。
妻は、ノートの一番下に、もう一行を書いた。
《決める前に、二人で相談する》
俺は、その文字を見つめた。
「……いいですね」
妻は、頷いた。
「うん」
「今回のプロジェクトについても、まず詳しい話を聞いてみます」
「……そうしてください」
「それから、もう一度相談してもいい?」
俺は、笑った。
「……もちろんです」
妻も笑った。
その顔を見て。
俺は、少し安心した。
答えは、まだ出ていない。
仕事と家庭をどう両立するのか。
それも、分からない。
だが。
妻は、一人で結論を出そうとしていない。
俺も、自分の気持ちを隠さずに話せた。
今夜は。
それだけで、十分だった。
* * *
【十年後の私たちは、どうなっているのでしょうか】
翌朝。
俺は、いつもどおりコーヒーを淹れていた。
カップは、二つ。
一つは、俺のもの。
もう一つは、喜咲のもの。
妻は、キッチンに入ってきた。
「おはよう、優!」
「……おはようございます」
「昨日はありがとう」
「……何がですか?」
「仕事の相談」
「……ああ」
妻は、カップを受け取った。
「ちょっと、気持ちが整理できた」
「……それはよかったです」
「まだ悩んではいるけどね」
「……当然だと思います」
「優は?」
「……俺ですか?」
「うん。昨日話してみて、どう思った?」
俺は、少し考えた。
「……やはり、不安はあります」
妻は、頷いた。
「うん」
「ただ」
俺は、コーヒーを一口飲んだ。
「何も決まっていない段階で、失う時間ばかり考えても仕方がありません」
「……そうだね」
「まずは、喜咲がどんな仕事に挑戦したいのかを、もう少し知りたいです」
妻が、笑った。
「……優」
「はい」
「私の仕事、興味持ってくれるんだ」
「……もちろんです」
「今までも話してたけど」
「……はい」
「なんか、今回は違う気がする」
俺は、妻を見た。
妻の仕事を応援する。
それは、今までもしてきた。
だが。
応援するだけでは、足りなかった。
妻が何を望んでいるのか。
どんな不安を抱えているのか。
その選択によって、二人の生活がどう変わるのか。
そういうことを。
俺自身の問題として考える必要がある。
「……喜咲」
「何?」
「俺は、仕事の専門的なことまでは分かりません」
「うん」
「ですが、喜咲が何をしたいのかは、知りたいです」
妻は、少し照れたように笑った。
「……そっか」
「はい」
「じゃあ、今度ちゃんと話す」
「……楽しみにしています」
妻は、コーヒーを飲んだ。
そして。
何かを思いついたように言った。
「そうだ!」
「……何ですか?」
「優も、自分の仕事の話してよ」
「……仕事の話ですか?」
「そう!」
「……診療内容については、守秘義務がありますので」
「患者さんの個人情報を聞こうとしてない!」
「……それは失礼しました」
「仕事の何が大変とか、何が嬉しいとか、そういう話!」
俺は、少し考えた。
確かに。
俺は、妻の仕事について聞くことはあっても。
自分の仕事についての気持ちは、あまり話してこなかったかもしれない。
「……分かりました」
「約束ね!」
「……はい」
妻は、嬉しそうに笑った。
そして。
仕事へ行く準備を始めた。
いつもの朝。
いつものコーヒー。
いつもの夫婦の会話。
けれど。
昨日までとは、少し違う。
俺たちは。
互いの仕事を、ただ応援するだけではなく。
その仕事を大切にしている相手の気持ちまで。
知ろうとしている。
そんな気がした。
* * *
その日の夜。
喜咲から、メッセージが届いた。
《今日、プロジェクトのことを少し聞いてきた》
俺は、仕事を終えてから返信した。
《どうでしたか?》
すぐに返事が来た。
《やっぱり、面白そう》
俺は、少し笑った。
そして、次のメッセージを待った。
《でも、まだ確認したいことがある》
《そうですね》
《だから、まだ決めない》
俺は、その画面を見つめた。
以前の喜咲なら。
自分で全部考え。
自分で結論を出してから。
俺に伝えていたかもしれない。
けれど。
今は、違う。
《帰ったら、また相談してもいい?》
俺は、すぐに返信した。
《もちろんです》
少し考えて。
もう一行、付け加えた。
《俺も、自分の希望を話します》
しばらくして。
妻から、返事が来た。
《それが一番嬉しい》
俺は、スマートフォンを閉じた。
仕事も欲しい。
家庭も欲しい。
一人の時間も欲しい。
すべてを望むことは、欲張りなのかもしれない。
だが。
欲張りだからといって。
最初から諦めなければならないわけではない。
実現できることもある。
難しいこともある。
予定が変わることもある。
そのたびに。
二人で考えればいい。
夫婦なのだから。
どちらか一人が、正しい答えを出す必要はない。
そのとき。
玄関から、鍵を開ける音がした。
「ただいま!」
妻の声が聞こえた。
俺は立ち上がった。
「……お帰りなさい」
喜咲が笑った。
「ねえ、優!」
「……何ですか?」
「今日も相談していい?」
俺は、頷いた。
「……もちろんです」
そして。
少し考えて、付け加えた。
「ただし」
妻が、目を丸くした。
「……ただし?」
「……今日は、俺の話も聞いてください」
喜咲は、一瞬きょとんとした。
そして。
嬉しそうに笑った。
「当たり前でしょ!」
俺も笑った。
だが。
妻は、そこで少し真剣な顔になった。
「……ねえ、優」
「はい」
「今回のプロジェクト、数年間は忙しくなるかもしれないって言ったでしょ?」
「……はい」
「それで、ちょっと考えたんだけど」
妻は、バッグを置いた。
そして。
俺を見た。
「ねえ、優。十年後も、私たちって今と同じように働いているのかな?」
俺は、言葉に詰まった。
十年後。
俺は、五十五歳。
喜咲は、五十二歳。
仕事は?
暮らしは?
健康は?
そして。
そのときも、俺たちは今と同じように、二人でコーヒーを飲んでいるのだろうか。
婚活していた頃。
俺たちは、相手の条件ばかり考えていた。
だが。
結婚してから気づいた。
人生は、条件どおりには進まない。
今日の希望が。
十年後も同じとは限らない。
俺は、妻を見つめた。
そして。
初めて、自分自身に問いかけた。
俺は、十年後の自分たちを、まだ一度も想像したことがなかった。
第47話 完
次回 第5部 第8話/通算第48話
「十年後、私たちはまだ働いていますか?」
優、五十五歳。
喜咲、五十二歳。
十年後も、二人は同じように働いているのだろうか。
住む場所は? 健康は? 親のことは?
婚活していた頃、二人は将来の条件を細かく考えていた。
けれど、結婚した今、未来は簡単には決められない。
固定した十年計画より、大切なことがあるのかもしれない。
次回、夫婦が初めて本気で考える「十年後の人生」。
優と喜咲のように、仕事も家庭も諦めたくないと思ったことはありますか? 感想やコメントで、ぜひ聞かせてください。
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