第6話/通算第46話 「夫婦なのに、一人の時間が欲しいです」
第5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』
前書き
結婚したら、ずっと一緒にいられると思っていた。
でも、現実はそんなに甘くありません。
四十五歳、バツイチ医師の小鳥遊優。
四十二歳、食品メーカーで働く東海林喜咲。
婚活アプリで出会い、恋をして、何度も喧嘩をして、それでも二人は夫婦になりました。
第4部では、結婚してから最大の夫婦喧嘩を経験。
それでも最後には、お互いに「今日もあなたがいい」と伝えることができました。
ようやく、幸せな新婚生活が始まる。
……はずだったのですが。
妻が出世しました。
喜咲は企画部長に昇進。
仕事が増え、責任が増え、会議が増え、夫婦の時間が減っていく。
夫は妻の成功を喜びたい。
妻も仕事を頑張りたい。
でも、二人とも一緒にいたい。
ここで、新しい問題が生まれます。
結婚した二人は、自分の人生と夫婦の時間をどう両立させればいいのでしょうか。
夫の収入だけでも生活できる。
妻が仕事を続けることも、専業主婦になることも、働き方を変えることもできる。
でも、それは妻だけが考える問題なのでしょうか。
夫が働き方を見直すこともできる。
家事の分担を変えることもできる。
二人で過ごす時間の作り方を変えることもできる。
どちらか一人が夢や仕事を諦めるのではなく、二人が納得できる生き方を探すことはできないのでしょうか。
もちろん、相手の人生を勝手に決めることはできません。
けれど、自分の希望を言わずに、すべてを相手に任せることが優しさとも限りません。
第5部では、仕事への思い、夫婦の時間、一人で過ごす時間、そして将来の人生について、優と喜咲が向き合います。
もちろん、真面目な話ばかりではありません。
正しすぎる医師の夫と、毒舌だけれど寂しがり屋の妻。
今回も、夫婦の会話は簡単には終わりません。
婚活は終わった。
結婚式も終わった。
でも、人生の選択は終わらない。
夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?
そして。
自分の人生を大切にしながら、二人で幸せになることはできますか?
笑って、ときどき胸が痛くなって、最後には二人を応援したくなる。
そんな大人の結婚ラブコメ、第5部の開幕です。
あなたなら、愛する人との時間と、自分の人生をどう両立させますか?
ぜひ、優と喜咲の新しい十話を見届けてください。
「ねえ、優。私、一人で過ごす休日が欲しい」
「……俺と一緒にいるのが、嫌になりましたか?」
「なんで一人で休みたいだけで、離婚の危機になるの!?」
妻の声が、リビングに響いた。
一週間の出張から帰ってきたばかりの妻。
東海林喜咲。
四十二歳。
食品メーカーの企画部長。
そして、俺の妻だ。
正式な名前は小鳥遊喜咲。
仕事では旧姓を使っている。
俺は小鳥遊優。
四十五歳。
バツイチの医師。
一度目の結婚で学んだことは、それなりにある。
だが。
二度目の結婚生活は、まだ俺に知らない問題を出してくる。
ようやく妻が帰ってきた。
また二人で朝食を食べられる。
夕食の味付けに文句を言われる。
読書中に、どうでもいい話で邪魔される。
そんな日常が戻ってきたことを、俺は喜んでいた。
なのに。
妻は、一人になりたいと言う。
「……喜咲」
「何?」
「俺は、一週間も寂しかったのですが」
「知ってるよ」
「……ようやく帰ってきたのに」
「うん」
「また、一人になるのですか?」
喜咲は、俺を見つめた。
そして。
深いため息をついた。
「……小鳥遊先生」
嫌な予感がした。
「……はい」
「結婚したら、一人で休日を過ごしちゃいけない法律でもあるんですか?」
「……そのような法律はありません」
「だったら!」
「……ですが」
「まだあるの!?」
俺は、真剣に答えた。
「夫婦関係において、一人になりたいという希望は、相手との関係性を再検討する兆候である可能性も」
「夫婦の休日を医学的に診断しないで!」
「……医学ではなく、一般的な考察ですが」
「どっちでもいい!」
妻は、ソファのクッションを抱えた。
そして。
俺を、じっと見た。
「……優」
「はい」
「私、あなたと結婚したの、後悔してないよ」
「……ありがとうございます」
「好きだし、一緒に暮らしたいし、これからも夫婦でいたい」
「……はい」
「でも、一人でいたい日もあるの!」
俺は黙った。
好きだ。
一緒にいたい。
でも、一人になりたい。
どうやら。
結婚生活には、同時に成立する矛盾が多すぎる。
そして、その矛盾を解くために必要なのは。
医師免許ではないらしい。
【妻でも部長でもない、一人の私になりたい】
「ねえ、優。出張中、私が何してたと思う?」
喜咲が聞いた。
「……仕事でしょうか」
「正解」
「……ありがとうございます」
「褒めてない!」
妻は笑ったあと、少し真剣な顔になった。
「朝から会議。移動して、また会議。食事中も仕事の話」
「……忙しかったですね」
「ホテルに戻ったら、翌日の資料。部下から連絡が来れば対応するし」
俺は、頷いた。
部長になってから。
喜咲の仕事は、確実に増えていた。
以前なら、自分の企画を形にすることが中心だった。
今は、それに加えて。
部下の相談。
判断を求められる案件。
チーム全体の責任。
そのすべてを背負っている。
「……大変だったでしょう」
「うん。でも、仕事は好きなの」
喜咲は、はっきり言った。
「自分で続けるって決めたし、今回の出張だって行ってよかったと思ってる」
「……はい」
「だけど、ずっと誰かのために考えてた気がするんだよね」
妻は、膝の上で指を組んだ。
「部長として、ちゃんとしなきゃ。仕事を失敗させちゃいけない。みんなのことも考えなきゃって」
「……そうですね」
「家に帰ったら、今度は妻でしょ?」
俺は、顔を上げた。
「……負担をかけていますか?」
「ほら!」
「……はい?」
「すぐ、そうなる!」
喜咲が、俺を指さした。
「優が悪いって言ってるんじゃないの!」
「……そうなのですか」
「私が勝手に考えちゃうんだよ。帰ってきたら、優と話したいとか、一緒にごはん食べたいとか」
「……それは嬉しいですが」
「そういうのも全部やりたい。でも、たまには何も考えたくない!」
俺は黙った。
すると、喜咲は少しだけ声を落とした。
「妻でも、企画部長でもない、ただの私に戻る時間が欲しいの」
その言葉は。
思っていた以上に、胸に残った。
妻。
企画部長。
どちらも、喜咲の大切な立場だ。
けれど。
その二つが、喜咲のすべてではない。
俺が医師であり、夫であり。
それだけでは説明できない、一人の人間でもあるように。
「……なるほど」
俺は、ゆっくり頷いた。
「喜咲自身の時間が欲しいんですね」
「そう!」
「……俺から離れる時間ではなく」
「そうそう!」
「……俺を嫌いになったわけでもなく」
「何回確認するの!」
俺は、少し笑った。
妻も笑った。
だが。
そのあと、喜咲は真剣な顔になった。
「……ねえ、優」
「はい」
「優は、一人の休日って何してる?」
俺は、考えた。
「……読書でしょうか」
「うん」
「仕事の資料を確認したり」
「それ仕事!」
「……では、読書を」
「ほかには?」
俺は、しばらく考えた。
仕事。
読書。
家事。
食事。
睡眠。
必要なものは、すべて揃っている。
しかし。
妻がいない休日に、何をしたいのか。
そう聞かれると。
「……特にありませんね」
喜咲の表情が変わった。
それは、怒りではなかった。
むしろ。
少し、寂しそうだった。
「……優」
「何ですか?」
「私がいないと何もない人にならないで」
俺は、言葉に詰まった。
「……そこまで深刻でしょうか」
「深刻だよ」
妻は、まっすぐ俺を見た。
「優の人生が、仕事と私だけになっちゃったら嫌なの」
「……読書もあります」
「読書は認める!」
「……ありがとうございます」
「でも、もっとあるでしょ。自分が好きなこととか、やってみたいこととか」
俺は、考えた。
思いつかなかった。
喜咲は、小さく笑った。
「私がいない間も、優には楽しく過ごしてほしい」
「……寂しがっていてほしいのでは?」
以前、出張前の妻は、確かにそう言っていた。
喜咲は、少しだけ目を泳がせた。
「……寂しがってはほしい」
「……はい」
「でも、楽しく過ごしてもほしい!」
「……矛盾していますね」
「夫婦なんだから、多少は矛盾するの!」
俺は、笑った。
喜咲も笑った。
ただ。
一つだけ、分かった。
妻が一人の時間を欲しがった理由は。
俺を遠ざけるためではない。
妻自身の人生を、大切にするためだった。
そして。
俺にも、自分の人生を楽しんでほしい。
そう願ってくれていた。
だから。
「……分かりました」
俺は、答えた。
「次の休日は、別々に過ごしてみましょう」
喜咲の顔が、ぱっと明るくなった。
「本当!?」
「はい」
「優も好きなことしてね!」
「……努力します」
「だから努力しなくていいって!」
妻は、楽しそうに笑った。
俺も笑った。
だが。
その時点で。
俺には、一つの重大な問題が残っていた。
自分の好きなこと。
それが、読書以外に思いつかない。
妻のいない一日を。
俺は、いったいどう過ごせばいいのだろう。
【休日の予定表を作ったら、妻に怒られました】
その夜。
俺は、スマートフォンを開いた。
次の休日は、喜咲と俺の休みが重なっている。
本来なら、二人で過ごす予定を考えるところだ。
しかし。
今回は、別々に過ごす。
妻は、行きたい場所があるらしい。
正確には。
行きたい場所を、その日に決めたいらしい。
俺には、理解しがたい計画だった。
「……さて」
俺は、共有カレンダーを開いた。
《休日》
《午前:読書》
《午後:趣味の探索》
《夕方:帰宅》
入力を終えた。
悪くない。
予定としては、十分に成立している。
すると。
背後から声がした。
「……優」
「何ですか?」
「何してるの?」
「休日の予定を立てています」
喜咲が、画面をのぞき込んだ。
そして。
「……趣味の探索?」
「はい」
「何それ?」
「新しい趣味を見つける活動です」
「どうやって?」
「……検討中です」
「だから、そういうのを休日に決めればいいじゃん!」
「……なるほど」
喜咲は、さらに画面を見た。
「ねえ、優」
「はい」
「何で一人の休日なのに、予定がぎっしりなの?」
「……有意義に過ごしたいので」
「有意義じゃないとダメ?」
俺は、少し考えた。
「……せっかくの休日ですから」
「何もしなくてもいいんだよ?」
「……何もしない?」
「そう」
「……それは、何時から何時まででしょうか」
妻は、固まった。
そして。
「小鳥遊先生!」
「……はい」
「何もしない時間に、開始時刻を決めないで!」
「……失礼しました」
喜咲は、俺の隣に座った。
そして、少しだけ真面目な顔になった。
「優ってさ、いつも何かしてないと落ち着かない?」
俺は、考えた。
仕事中。
何を優先するか考える。
家では。
家事を済ませ、翌日の予定を確認する。
休みの日も。
本を読んだり、必要なことを片づけたりする。
何もしていない時間。
確かに、あまりない。
「……そうかもしれません」
「疲れない?」
「……特には」
「本当?」
俺は、少し考えた。
「……疲れていることに、気づいていない可能性はあります」
喜咲は、目を丸くした。
「それ、ちょっと心配なんだけど!」
「……医師でも、自分のことは分かりにくいものです」
「医者だからこそ、ちゃんと休んでよ!」
「……はい」
妻は、スマートフォンを俺に返した。
「だから、明日は好きにしてみなよ」
「……好きに?」
「そう。何かしたくなったら、すればいい」
「……何もしたくなかったら?」
「何もしなくていい」
「……途中で予定を変更しても?」
「誰の許可もいらない!」
俺は、ゆっくり頷いた。
そして。
予定表を修正した。
《午前:自由》
《午後:自由》
喜咲が、画面を見る。
「……ねえ」
「はい」
「自由って予定なの?」
「……予定に入れておかないと、忘れそうなので」
妻は、とうとう笑い崩れた。
俺も、つられて笑った。
四十五歳。
医師。
二度目の結婚。
そして。
休日の自由を、妻に教わっている。
人生というものは。
何歳になっても、学ぶことが尽きないらしい。
【妻のいない休日に、何をしたらいいか分かりません】
休日の朝。
俺は、いつもどおり目を覚ました。
キッチンに立つ。
コーヒーカップを、二つ取り出す。
一つは、俺のもの。
もう一つは、喜咲のもの。
一週間の出張中。
俺は、間違えて二人分のコーヒーを淹れた。
妻がいないのに。
いつもの癖で、二つ並べてしまった。
だが。
今日は、違う。
喜咲は、ちゃんと家にいる。
「おはよう、優!」
妻が、寝室から出てきた。
「……おはようございます」
「いい天気だね!」
「……そうですね」
喜咲は、俺が淹れたコーヒーを飲んだ。
そして。
「じゃあ、今日は別行動だね!」
「……はい」
「楽しんでね!」
「……努力します」
「また努力って言った!」
俺は、少し笑った。
妻は、出かける準備を始めた。
服を選び。
バッグを持ち。
玄関で靴を履く。
「……喜咲」
「何?」
「帰宅予定は?」
「夕方くらいかな」
「……何時でしょう?」
「まだ決めてない」
「……なるほど」
「優も、好きにしててね」
「……はい」
喜咲は、ドアノブに手をかけた。
そして。
一度、振り返った。
「……ねえ、優」
「何ですか?」
「今日、一人で過ごすって決めたけど」
「……はい」
「帰ってきたら、今日の話、聞かせてね」
俺は、少し驚いた。
「……一人の時間なのに?」
「一人で過ごしたからって、何も話しちゃいけないわけじゃないでしょ?」
そう言って。
妻は、笑った。
「じゃあ、行ってきます!」
「……行ってらっしゃい」
玄関の扉が閉まった。
カチャリ。
静かになった。
一週間の出張に出かけた朝と、同じ音だった。
だが。
今日は、寂しさよりも。
少し、不思議な気分だった。
何をしてもいい。
誰かと予定を合わせる必要もない。
仕事の呼び出しも、今のところない。
妻に何かを頼まれているわけでもない。
俺だけの休日。
自由だった。
ところが。
「……さて」
何をしよう。
俺は、リビングに戻った。
時計を見る。
午前九時。
本を読むには、ちょうどいい時間だ。
俺は、本棚から読みかけの一冊を取り出した。
ソファに座る。
ページを開く。
静かな部屋。
温かいコーヒー。
誰にも邪魔されない。
実に、快適だった。
三十分後。
俺は、本を閉じた。
読み終わった。
「……さて」
次は?
本棚には、まだ読んでいない本がある。
しかし。
それだけで一日が終わってしまう。
それでは。
妻の言う、自分の楽しみを見つけるという目標から遠ざかる気がした。
俺は、スマートフォンを開いた。
検索欄に入力する。
《四十代男性 一人 休日 過ごし方》
画面には、さまざまな提案が表示された。
散歩。
映画。
買い物。
カフェ。
運動。
趣味。
どれも、悪くない。
だが。
「……どれを選べばいいのでしょう」
俺は、真剣に考えた。
必要な道具。
所要時間。
移動距離。
費用。
続けられる可能性。
検討すべき条件は、多い。
そこまで考えたところで。
俺は、手を止めた。
「……何をしているんでしょうね」
休日の過ごし方を。
仕事の案件のように比較している。
もし、喜咲がここにいたら。
何と言うだろう。
『好きなことするのに、選考会議を開かないで!』
俺は、思わず笑った。
そうだ。
正解を探す必要はない。
好きかどうかも。
やってみなければ分からない。
ならば。
とりあえず、外に出てみよう。
俺は、本を置いた。
上着を羽織った。
靴を履く。
玄関のドアを開けた。
そして。
「……右でしょうか。左でしょうか」
立ち止まった。
行き先は、決めていない。
つまり。
どちらへ進んでもいい。
俺は、数秒間考えた。
そして。
右へ曲がった。
理由は、なかった。
四十五歳にして。
これほど根拠のない意思決定をしたのは、久しぶりだった。
【目的地を決めずに歩いたら、知らないパン屋に入りました】
歩き始めて、しばらく。
俺は、あることに気づいた。
普段の俺は、目的地しか見ていない。
仕事へ向かうときは、時間を確認する。
買い物へ行くときは、必要なものを考える。
喜咲と出かけるときは、妻が楽しんでいるか気になる。
もちろん。
どれも、大切なことだ。
だが。
目的のない散歩では。
何を見ればいいのだろう。
そんなことを考えながら歩いていると。
小さなパン屋が目に入った。
店先には、焼きたてのパンが並んでいた。
ガラス越しに、いくつかの商品が見える。
俺は、立ち止まった。
別に、パンを買う予定はない。
朝食は、もう済ませた。
必要なものでもない。
ならば。
通り過ぎればいい。
そう思った。
ところが。
店の奥に、少し変わった形のパンが見えた。
何となく、気になった。
「……何でしょう、あれは」
俺は、数秒間迷った。
そして。
店の扉を開いた。
店内には、焼きたての香りが広がっていた。
棚には、いろいろなパンが並んでいる。
俺は、先ほど気になったものを探した。
あった。
丸い形で、表面に少しだけ焼き色がついている。
名前を見ても、どんな味なのかは分からなかった。
普段なら。
知っているものを選んだだろう。
失敗したくないからだ。
だが。
今日は。
失敗しても、特に問題はない。
俺は、そのパンを買った。
店を出る。
近くのベンチに座った。
袋から、パンを取り出す。
一口、食べた。
「……おいしいですね」
思ったより、甘かった。
外側は香ばしく、中は柔らかい。
見た目から想像していた味とは、少し違った。
ただ。
その違いが、面白かった。
俺は、もう一口食べた。
別に。
特別な体験ではない。
知らない店に入り。
知らないパンを買い。
一人で食べた。
それだけだ。
何かを達成したわけでもない。
誰かの役に立ったわけでもない。
仕事の成果にもならない。
それなのに。
楽しかった。
「……なるほど」
俺は、パンを見つめた。
自分が食べたいから、食べる。
気になったから、買ってみる。
ただ、それだけのこと。
考えてみれば。
こんな小さな選択をするのに。
理由なんて、必要なかった。
俺は、スマートフォンを取り出した。
喜咲にメッセージを送ろうと思った。
《知らないパン屋に入ってみました》
そこまで入力した。
そして。
手が止まった。
妻は、今ごろ何をしているのだろう。
買い物だろうか。
それとも。
どこかで、ゆっくりお茶を飲んでいるのだろうか。
今日は、お互いが自分の時間を過ごす日だ。
今すぐ、この出来事を報告する必要はない。
そう思って。
俺は、文章を消した。
スマートフォンをしまう。
もう一度、パンを食べた。
「……帰ってから話せばいいですね」
誰にともなく、つぶやいた。
そう思うと。
何となく、嬉しくなった。
これまでの俺なら。
妻がいない休日は、話し相手のいない休日だった。
だが。
今日は、少し違う。
一人で過ごしているのに。
帰ってから話すことが、一つ増えた。
俺は、パンを食べ終えた。
そして。
また、歩き始めた。
今度は。
右へ行くか、左へ行くか。
あまり考えなかった。
気になった方へ歩けばいい。
もし、違うと思ったら。
引き返せばいい。
それだけだった。
【何もしなかった時間が、意外と楽しかったです】
午後。
俺は、家に戻った。
予定していたより、長く歩いてしまった。
知らないパン屋。
いつも通らない道。
途中で見つけた、少し変わった看板。
特別な出来事は、何もない。
だが。
思っていた以上に、楽しかった。
俺は、ソファに座った。
時計を見る。
まだ、十分に時間がある。
さて。
次は何をしよう。
また本を読んでもいい。
家事をしてもいい。
少し寝てもいい。
だが。
そのとき。
妻の言葉を思い出した。
『何もしなくてもいいんだよ』
俺は、スマートフォンを置いた。
本も開かなかった。
ただ。
ソファに座った。
静かな部屋。
窓から入る、午後の光。
遠くから聞こえる、車の音。
時計の針が進んでいく。
五分。
十分。
俺は、何もしなかった。
そして。
「……悪くありませんね」
思わず、つぶやいた。
いつもなら。
何かをしていない時間は、無駄だと思っていた。
本を読めば、知識が増える。
仕事をすれば、必要なことが片づく。
家事をすれば、生活が整う。
では。
何もしない時間には、何が残るのか。
俺は、目を閉じた。
別に。
何も残らなくても、いいのかもしれない。
そのことに気づいて。
少し、肩の力が抜けた。
気づけば。
俺は、うとうとしていた。
目を覚ますと。
思っていたより、時間が過ぎていた。
「……寝てしまいましたか」
時計を見る。
かなり、気持ちよく眠っていたらしい。
俺は、少し笑った。
予定外の昼寝。
普段なら。
時間を無駄にしたと考えるかもしれない。
だが。
今日は、違う。
誰かを待たせたわけでもない。
仕事を忘れたわけでもない。
妻との約束に遅れたわけでもない。
ただ、自分が眠かったから寝た。
それだけだった。
「……これも、休日ですね」
俺は、ゆっくり立ち上がった。
そして。
少しだけ、気づいた。
一人で過ごすことは。
必ずしも、何かをしなければならないことではない。
自分の時間を、自分のために使う。
それだけでも、十分なのだ。
喜咲が言っていたことが。
ようやく、少し分かった気がした。
ただ。
その直後。
俺は、時計をもう一度見てしまった。
妻は、いつ帰ってくるのだろう。
「……夕方でしたね」
俺は、笑った。
一人で過ごすことは、楽しい。
でも。
妻の帰りが楽しみなのも、本当だ。
どうやら。
どちらか一つを選ぶ必要は、ないらしい。
【妻が帰ってきたら、話したいことが増えていました】
夕方。
玄関の扉が開いた。
「ただいまー!」
喜咲の声だった。
俺は、顔を上げた。
「……お帰りなさい」
妻は、満足そうな顔で靴を脱いだ。
「楽しかったー!」
「……それは、よかったです」
「優は?」
「……楽しかったです」
喜咲が、動きを止めた。
そして。
俺を見た。
「……本当?」
「はい」
「読書以外に、何かした?」
「散歩をしました」
「へえ!」
「知らないパン屋に入りました」
「いいじゃん!」
「目的地を決めずに歩きました」
喜咲の目が、大きくなった。
「……優が?」
「はい」
「行き先を決めずに?」
「……はい」
「予定表なしで?」
「……はい」
妻は、しばらく俺を見つめた。
そして。
「すごい!」
「……そこまででしょうか」
「すごいよ! 小鳥遊優が、目的もなく歩いたんだよ!」
「……四十五歳の男性としては、一般的な行動だと思いますが」
「優としては、大事件だよ!」
妻は、大笑いした。
俺も、つられて笑った。
「それで?」
喜咲が、聞いた。
「……何がでしょう?」
「パン屋! どんなパンだったの?」
俺は、少し嬉しくなった。
「……少し変わった形で」
「うん!」
「名前からは味が分からなくて」
「うんうん!」
「食べてみたら、予想より甘かったです」
「へえ! いいなあ!」
妻は、楽しそうだった。
大した話ではない。
本当に、何でもない出来事だ。
だが。
喜咲は、何度も頷きながら聞いてくれた。
「今度、一緒に行こうよ!」
俺は、少し考えた。
そして。
「……それも、いいですね」
「何、その言い方!」
「……ただ」
「ただ?」
「次に行くときは、喜咲にも好きなパンを選んでほしいです」
妻は、少し驚いたようだった。
「……何で?」
「俺が選んだものを、喜咲が気に入るとは限りませんので」
「……うん」
「でも、二人で違うものを選んだら」
俺は、少し笑った。
「……話すことが増えそうです」
妻は、黙った。
そして。
ふっと笑った。
「……そうだね」
その表情を見て。
俺は、少し安心した。
今日は、妻と一緒に過ごさなかった。
でも。
妻と話すことは、確実に増えている。
一人の時間が。
二人の時間を、減らしたわけではなかった。
【妻の休日は、何もしない贅沢でした】
夕食のあと。
俺たちは、ソファに並んで座っていた。
今度は、俺が聞く番だった。
「……喜咲は、何をしていたんですか?」
「んー。買い物したり、お茶飲んだり」
「……ほかには?」
「ぶらぶらした!」
「……目的地は?」
「そのときの気分!」
俺は、頷いた。
「……なるほど」
喜咲は、少し笑った。
「あとね、結構、何もしてない時間もあった」
「……何も?」
「うん。座ってぼーっとしたり」
「……そうですか」
「最高だった!」
俺は、驚いた。
「……最高だったのですか?」
「うん!」
「……何か特別なことをしたわけでもないのに?」
妻は、俺を見た。
そして。
「優も、今日ちょっと昼寝したでしょ?」
俺は、目を丸くした。
「……なぜ分かったんですか?」
「顔見れば分かるよ。いつもより、のんびりしてる」
「……そうでしょうか」
「そう!」
喜咲は、少し笑った。
「気持ちよかった?」
俺は、頷いた。
「……はい」
「でしょ?」
「……なるほど」
妻は、満足そうだった。
「ねえ、優」
「はい」
「私、今日ずっと楽しかったよ」
「……はい」
「誰かに気を遣う必要もなかったし、何をするかも自分で決められたし」
俺は、妻を見た。
「……また、一人の休日が欲しいですか?」
喜咲は、少し考えた。
「うん。たまにはね」
「……そうですか」
以前なら。
少し、寂しくなったかもしれない。
だが。
今は、違う。
妻が一人の時間を楽しめたことが。
素直に、嬉しかった。
ただ。
喜咲は、続けた。
「でもね」
「何ですか?」
「今日、何回か優のこと思い出した」
俺は、驚いた。
「……そうなのですか?」
「うん。変な看板見たときとか」
「……はい」
「これ、優に見せたら、絶対真面目に分析するだろうなって」
「……必要なら分析しますが」
「今はしなくていい!」
二人で笑った。
喜咲は、少しだけ声を落とした。
「あと、何か美味しいもの食べたら、優にも食べさせたいなって思った」
俺は、妻を見た。
「……一人の時間が欲しかったのに?」
「そうだよ」
「……俺のことを、考えていたんですね」
喜咲は、頷いた。
「ずっとじゃないよ?」
「……はい」
「でも、思い出した」
妻は、俺の肩に、そっと頭を預けた。
「一人で楽しかったこと、帰ってから優に話したかった」
俺は、少しだけ息を吐いた。
そして。
自然に、言葉が出た。
「……俺もです」
「え?」
「今日あったことを、喜咲に話したかったです」
妻が、顔を上げた。
俺は、続けた。
「知らないパン屋に入ったことも」
「うん」
「目的地を決めずに歩いたことも」
「うん」
「何もしないで、昼寝してしまったことも」
妻は、笑った。
「いい休日じゃん」
「……はい」
俺も、笑った。
「でも、今日の出来事を、すぐには連絡しませんでした」
「……どうして?」
「帰ってきたら、話せると思ったので」
喜咲は、黙った。
「……そうだね」
小さな声だった。
でも。
嬉しそうだった。
俺は、ようやく理解した。
一人の時間を過ごすことは。
相手との時間を捨てることではない。
一人で経験したことがあるから。
帰ってきたときに、話せることがある。
二人で同じ場所へ行かなければ。
同じ景色を見なければ。
会話が生まれないわけではない。
むしろ。
別々の時間があるからこそ。
知らなかった相手の一日を、聞く楽しみがある。
「……喜咲」
「何?」
「今日、一人で過ごしてみて、分かりました」
「何が?」
俺は、少し考えた。
「一人の時間があるから、二人で話したいことも増えるんですね」
妻は、ゆっくり笑った。
「……そういうこと」
そして。
俺の手を握った。
その手は、温かかった。
【一人でいたいと言われても、愛情を疑わない夫婦になりたい】
「ねえ、優」
喜咲が言った。
「何ですか?」
「今日、嫌じゃなかった?」
俺は、妻を見た。
「……一人で過ごしたことですか?」
「うん」
少し、考えた。
そして。
「……最初は、少し嫌でした」
喜咲の表情が変わった。
「……そっか」
「はい」
俺は、続けた。
「一週間の出張から帰ってきたばかりでしたから」
「……うん」
「もっと一緒にいたいと思っていました」
妻は、黙って聞いていた。
「ですが」
「……うん」
「喜咲が一人で過ごしたい理由も、分かりました」
俺は、妻を見た。
「俺と一緒にいたくないからではないんですね」
喜咲が、頷いた。
「そうだよ」
「……はい」
「優のこと、嫌いになったわけじゃない」
「……分かりました」
喜咲は、少し笑った。
「ねえ、優」
「はい」
「私、結婚したら、一人になりたいって言いにくくなると思ってた」
俺は、妻を見た。
「……どうしてですか?」
「だって、結婚したら一緒にいるのが当たり前、みたいな感じするじゃん」
「……そうですね」
「だから、一人でいたいって言ったら、相手を傷つけるかなって」
俺は、黙った。
その不安は。
間違っていなかった。
今朝。
俺は、確かに傷つきかけた。
妻が一人でいたいと言ったことを。
俺から離れたいという意味に、勝手に変えてしまった。
「……すみません」
俺は、言った。
喜咲が、顔を上げた。
「何が?」
「最初に、俺と一緒にいるのが嫌になったのかと聞いてしまいました」
妻は、少し笑った。
「びっくりしたよ」
「……そうでしょうね」
「私、ただ一人で休日を過ごしたかっただけなのに」
「……はい」
俺は、少し考えた。
「喜咲が俺と一緒にいたいと思っていることを、疑う必要はなかったですね」
妻は、黙った。
そして。
「……うん」
小さく頷いた。
俺は、続けた。
「ただ」
「何?」
「これからも、寂しいと思う日はあると思います」
「……うん」
「そのときは、言ってもいいでしょうか」
喜咲は、すぐに答えた。
「もちろん」
「……一人でいたい気持ちを否定するつもりはありません」
「うん」
「でも、俺が一緒にいたいと思っていることも、知っていてほしいです」
妻は、少しだけ目を細めた。
そして。
「……優」
「はい」
「そういうの、もっと早く言ってよ」
俺は、思わず笑った。
「……まだ、練習中ですので」
「夫婦何年目になったら卒業するの?」
「……卒業試験の日程が未定です」
喜咲は、吹き出した。
俺も笑った。
そして。
妻は、俺の腕に触れた。
「私も、ちゃんと言う」
「……何をですか?」
「一人でいたいときは、一人でいたいって」
「……はい」
「優と一緒にいたいときは、一緒にいたいって」
俺は、頷いた。
「……そうですね」
喜咲は、少し照れたように笑った。
「あと、寂しかったら寂しいって言う」
俺は、妻の手を握った。
「……俺もです」
以前の俺なら。
相手を傷つけないように。
自分の気持ちを隠したかもしれない。
大丈夫です。
好きにしてください。
そう言えば。
優しい夫でいられると思っていた。
でも。
それだけでは。
妻に、自分の本当の気持ちは伝わらない。
寂しいと思ったら、寂しいと言う。
一人でいたいと思ったら、一人でいたいと言う。
一緒に出かけたいと思ったら、そう伝える。
結婚したからといって。
すべての希望が一致するわけではない。
だから。
違うときに、話せばいい。
俺たちは。
そういう夫婦になろうとしているのだと思った。
【一人の時間も、二人の時間も、欲しいんです】
「ねえ、優」
喜咲が言った。
「何ですか?」
「また、一人の休日を作ってもいい?」
俺は、少し考えた。
そして。
「……いいと思います」
妻が、笑った。
「本当?」
「はい」
「優も、また一人で楽しんでね」
「……そうですね」
俺は、頷いた。
「次は、別のパン屋に行ってみようかと」
喜咲が、目を輝かせた。
「いいじゃん!」
「……ただし」
「何?」
「パン屋へ行くことを目的にすると、目的のない散歩ではなくなります」
妻は、固まった。
そして。
「どっちでもいい!」
「……そうでしょうか」
「パン一個買うのに、哲学を始めないで!」
俺は、笑った。
妻も笑った。
そして。
喜咲が、少し考えたように言った。
「……でもさ」
「はい」
「次の休みは、一緒に出かけたいな」
俺は、妻を見た。
「……一人の時間は?」
「今日は十分楽しんだ!」
「……なるほど」
「今度は、優と遊びたい!」
俺は、笑った。
「……分かりました」
喜咲は、少し不満そうな顔をした。
「……それだけ?」
「……何がでしょう?」
「優は?」
俺は、少し考えた。
そして。
今度は、迷わず答えた。
「俺も、喜咲と出かけたいです」
妻の表情が、柔らかくなった。
「……うん!」
その笑顔を見て。
俺も、嬉しくなった。
一人でいたい。
二人でいたい。
どちらも。
同じ人間の、同じくらい大切な気持ちなのだろう。
そう思った。
すると。
喜咲が、突然立ち上がった。
「じゃあ、次の休みはデートね!」
「……はい」
「どこ行く?」
俺は、考えた。
「……パン屋でしょうか」
「またパン屋!?」
「……気に入っていただけるかと」
「悪くないけど!」
妻は、笑った。
「たまには、別のところ行こうよ!」
「……では、行き先を決めましょう」
俺は、スマートフォンを手に取った。
すると。
喜咲が、すかさず言った。
「予定表は禁止!」
「……まだ何もしていませんが」
「顔が予定表を作る顔だった!」
「……顔で分かるのですか?」
「分かる!」
俺は、スマートフォンを置いた。
「……分かりました。相談しましょう」
妻は、満足そうに笑った。
「うん。相談しよう!」
俺たちは、ソファに並んで座った。
行き先は、まだ決まっていない。
何をするかも、決まっていない。
それでも。
一緒に出かけたい。
その気持ちだけは、はっきりしていた。
俺は、ふと思った。
結婚する前。
俺たちは、相性のいい相手を探していた。
条件を比べ。
価値観を確かめ。
失敗しない結婚を考えていた。
だが。
結婚して分かった。
相性がいいというのは。
何もかも、最初から一致することではない。
一人でいたい日がある。
二人でいたい日がある。
仕事を優先したい日もある。
寂しいと言いたい日もある。
その違いを。
なかったことにしなくていい。
二人で、話せばいい。
「……喜咲」
「何?」
「今日、一人で過ごしてみて」
「うん」
「やっぱり、俺は喜咲と暮らしたいと思いました」
妻は、少し驚いた顔をした。
そして。
「……私も」
小さく笑った。
「でも、また一人になりたい日はあると思う」
「……はい」
「優も、そういう日があっていいからね」
俺は、頷いた。
「……そうですね」
妻は、俺の手を握った。
俺も、握り返した。
一人で過ごす時間がある。
二人で過ごす時間がある。
別々の仕事がある。
それぞれの人生がある。
全部を、一つにしなくてもいい。
むしろ。
違う人生を生きている二人だからこそ。
一緒にいる時間が、面白い。
俺は、そう思った。
すると。
喜咲が、急に言った。
「あ、そうだ!」
「何ですか?」
「冷蔵庫にデザートあったよね?」
「……ありますね」
「食べよう!」
俺は、立ち上がった。
冷蔵庫を開ける。
中には、俺が買っておいたデザートが残っていた。
俺は、それを取り出した。
すると。
背後から、妻の声がした。
「あ、私にもちょっとちょうだい!」
俺は、手を止めた。
「……喜咲」
「何?」
「一人の時間を尊重するのであれば」
「うん?」
「一人分のデザートも、尊重していただけると」
妻は、数秒間、俺を見つめた。
そして。
「夫婦なんだから、一口くらいいいでしょ!」
俺は、思わず笑った。
なるほど。
一人の時間は、尊重する。
でも。
デザートは、共有する。
どうやら。
結婚生活における自由の範囲は。
まだまだ、研究の余地があるらしい。
結局。
俺たちは、一つのデザートを二人で分けた。
妻は、美味しそうに笑っていた。
俺も、笑った。
一人の時間も、悪くない。
でも。
やっぱり。
この時間も、好きだった。
【妻からの相談は、まだ終わりません】
夜。
リビングには、穏やかな時間が流れていた。
喜咲は、ソファでくつろいでいる。
俺は、隣で本を読んでいた。
同じ部屋にいる。
でも、別々のことをしている。
時々。
妻が何かを話しかけてくる。
俺は、本を閉じて答える。
そして。
また、それぞれの時間に戻る。
以前の俺なら。
せっかく一緒にいるのだから、何かしなければと思っていたかもしれない。
だが。
何も特別なことをしなくてもいい。
同じ場所で、別々のことをする。
それも。
二人で暮らすということなのだろう。
俺は、ページをめくった。
すると。
「……ねえ、優」
喜咲が、声をかけてきた。
「何ですか?」
「今日、楽しかったね」
「……はい」
「一人で過ごすのも、たまにはいいね」
「……そうですね」
妻は、少し笑った。
そして。
「次は、一緒に出かけようね」
俺は、頷いた。
「……はい」
そのとき。
喜咲のスマートフォンが、小さく震えた。
妻は、画面を確認した。
そして、スマートフォンを伏せた。
俺は、少しだけ顔を上げた。
仕事の連絡だろうか。
部長になってから。
妻のスマートフォンには、以前より多くの通知が届くようになった。
だが。
今日は、それ以上は聞かなかった。
妻が話したいことなら。
きっと、話してくれる。
そう思った。
俺は、もう一度、本を開いた。
すると。
「……優」
また、声がした。
「……はい」
今度は、少し違う声だった。
俺は、本を閉じた。
喜咲は、さっきまでの笑顔とは違う表情をしていた。
怒っているわけではない。
困っているわけでもない。
ただ。
何かを考えている顔だった。
俺は、妻を見た。
「……どうしました?」
喜咲は、少しだけ迷った。
そして。
俺の顔を見た。
「ねえ、優。まだ決まった話じゃないんだけど……」
俺は、黙って続きを待った。
喜咲は、スマートフォンをテーブルに置いた。
そして。
「……仕事のことで、相談してもいい?」
第46話 完
次回予告
第5部 第7話/通算第47話
「仕事と家庭、どちらも欲しいのは欲張りですか?」
一人の時間も、二人の時間も大切にしたい。
ようやく、その答えを見つけた優と喜咲。
しかし。
喜咲に、大型プロジェクトへの参加打診が持ち上がる。
成功すれば、仕事の可能性が広がる。
その一方で。
これまで以上に、仕事に時間を使うことになるかもしれない。
仕事も、家庭も。
どちらも、大切にしたい。
でも。
すべてを手に入れようとするのは、欲張りなのだろうか。
「ねえ、優。家庭も欲しい。仕事もしたい。これって欲張り?」
妻の問いに、優は何と答えるのか。
次回、第47話。
夫婦は、相手の夢を応援しながら、自分の寂しさも伝えられるのでしょうか?
作品のご案内
婚活アプリで出会った、四十代の男女。
恋人になり、夫婦になった二人を待っていたのは、結婚してから始まる新しい問題でした。
仕事、家事、お金、休日、そして一人の時間。
意見がぶつかっても、笑い合いながら、何度でも相手を選び直す。
大人が笑って、ときどき胸が温かくなる婚活・結婚ラブコメです。
今回の読者への質問
結婚しても、恋人がいても、「一人で過ごす時間」は必要だと思いますか?
それとも、大切な人とは、できるだけ一緒にいたいですか?
ぜひ、感想やコメントで教えてください。
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524
Momokun Official https://momokun.jp/




