第5話/通算第45話 「妻が出張で一週間いません」
前書き
結婚したら、ずっと一緒にいられると思っていた。
でも、現実はそんなに甘くありません。
四十五歳、バツイチ医師の小鳥遊優。
四十二歳、食品メーカーで働く東海林喜咲。
婚活アプリで出会い、恋をして、何度も喧嘩をして、それでも二人は夫婦になりました。
第4部では、結婚してから最大の夫婦喧嘩を経験。
それでも最後には、お互いに「今日もあなたがいい」と伝えることができました。
ようやく、幸せな新婚生活が始まる。
……はずだったのですが。
妻が出世しました。
喜咲は企画部長に昇進。
仕事が増え、責任が増え、会議が増え、夫婦の時間が減っていく。
夫は妻の成功を喜びたい。
妻も仕事を頑張りたい。
でも、二人とも一緒にいたい。
ここで、新しい問題が生まれます。
結婚した二人は、自分の人生と夫婦の時間をどう両立させればいいのでしょうか。
夫の収入だけでも生活できる。
妻が仕事を続けることも、専業主婦になることも、働き方を変えることもできる。
でも、それは妻だけが考える問題なのでしょうか。
夫が働き方を見直すこともできる。
家事の分担を変えることもできる。
二人で過ごす時間の作り方を変えることもできる。
どちらか一人が夢や仕事を諦めるのではなく、二人が納得できる生き方を探すことはできないのでしょうか。
もちろん、相手の人生を勝手に決めることはできません。
けれど、自分の希望を言わずに、すべてを相手に任せることが優しさとも限りません。
第5部では、仕事への思い、夫婦の時間、一人で過ごす時間、そして将来の人生について、優と喜咲が向き合います。
もちろん、真面目な話ばかりではありません。
正しすぎる医師の夫と、毒舌だけれど寂しがり屋の妻。
今回も、夫婦の会話は簡単には終わりません。
婚活は終わった。
結婚式も終わった。
でも、人生の選択は終わらない。
夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?
そして。
自分の人生を大切にしながら、二人で幸せになることはできますか?
笑って、ときどき胸が痛くなって、最後には二人を応援したくなる。
そんな大人の結婚ラブコメ、第5部の開幕です。
あなたなら、愛する人との時間と、自分の人生をどう両立させますか?
ぜひ、優と喜咲の新しい十話を見届けてください。
「一週間、私がいなくても大丈夫?」
妻にそう聞かれて、俺は答えに詰まった。
料理はできる。洗濯もできる。掃除だって問題ない。
四十五歳。バツイチ。医師。
一人暮らしの経験なら、十分にある。
なのに。
「……大丈夫です」
たった七文字が、どうしても口から出なかった。
「……優?」
妻が、心配そうに俺を見る。
東海林喜咲。
四十二歳。
食品メーカーの企画部長。
そして、俺の妻だ。
正式には小鳥遊喜咲だが、仕事では旧姓の東海林を使っている。
そんな彼女が、つい先ほど、一週間の出張を告げられた。
よりによって。
仕事を続けると、自分の意思で決めたその日に。
「……優、怒ってる?」
「怒ってはいません」
「じゃあ、困ってる?」
俺は、少し考えた。
「……生活には困らないと思います」
「生活には?」
「はい」
「じゃあ、それ以外は?」
俺は、妻を見た。
「……分かりません」
「え?」
「喜咲が一週間いない生活を、まだ経験していませんので」
妻は、目を丸くした。
「……優でも、分からないことあるんだ」
「かなりあります」
「医者なのに?」
「医師は、妻の不在に関する専門家ではありませんので」
「何その専門分野!」
喜咲が吹き出した。
俺も笑った。
だが。
その笑いが収まると、妻は少しだけ真剣な顔になった。
「……ねえ、優」
「何ですか?」
「本当に、行ってもいい?」
その言葉が、胸に引っかかった。
喜咲は、自分で仕事を続けると決めた。
俺も、その選択を応援すると決めた。
仕事をする理由は、お金ではない。
俺一人の収入でも、夫婦二人の生活は十分に成り立つ。
専業主婦になることも、休むことも、働き方を変えることもできる。
そのうえで。
喜咲は、まだ働きたいと選んだ。
だからこそ。
俺が寂しそうな顔をしたせいで、その選択を後悔してほしくなかった。
「……行ってきてください」
俺は言った。
「仕事、頑張ってきてください」
喜咲が、俺を見つめる。
「……無理してない?」
「……寂しくないとは、言いません」
妻の目が、大きくなった。
「でも、喜咲の仕事を応援したいのも本当です」
「……うん」
「両方、本音です」
喜咲は、しばらく黙っていた。
そして。
「……そっか」
小さく笑った。
「じゃあ、私も本音を言う」
「はい」
「仕事は、ちゃんとしたい」
「そうですね」
「でも、優と一週間会えないのは、ちょっと嫌」
俺は、思わず笑った。
「……俺も嫌です」
「そこは即答なんだ!」
「本音ですので」
喜咲が笑う。
俺も笑った。
ただ。
このときの俺は、まだ知らなかった。
妻のいない一週間が。
思っていた以上に、俺の日常を変えることになるとは。
* * *
【妻の出張準備が、なぜか夫婦喧嘩になりました】
出張前日の夜。
寝室には、大きなスーツケースが置かれていた。
その前で。
妻が、腕を組んでいる。
「……優」
「何ですか?」
「一週間って、服を何枚持っていけばいいと思う?」
俺は、少し考えた。
「……必要な日数分でしょうか」
「それが分からないから聞いてるの!」
「……なるほど」
喜咲は、スーツケースを開いた。
中には、衣類や日用品がきれいに並んでいる。
「これで足りるかな?」
「……足りそうですね」
「本当?」
「はい」
「忘れ物ない?」
「持ち物の一覧があれば、確認できます」
妻が、俺を見た。
「……小鳥遊先生」
嫌な予感がした。
「……はい」
「旅行の準備を、病院のチェックリストみたいにしないで」
「……確認漏れは減ると思いますが」
「仕事みたいで嫌なの!」
「……失礼しました」
喜咲は笑いながら、服をたたみ直した。
そして。
突然、手を止めた。
「……あ!」
「どうしました?」
「優の着替え、用意してない」
俺は、首を傾げた。
「……なぜ必要なのでしょう?」
「だって、一週間いないから」
「俺は自分でできますよ」
「知ってるけど!」
妻は、少し困ったように笑った。
「何か、しておいた方がいいのかなって」
俺は、彼女を見た。
「……特にありませんよ」
「本当に?」
「はい」
「ごはんは?」
「作れます」
「洗濯は?」
「できます」
「掃除は?」
「問題ありません」
喜咲は黙った。
そして。
「……私、いなくても困らないじゃん」
俺は、少し考えた。
「……家事については、そうですね」
妻の目が細くなった。
「……小鳥遊先生」
「……はい」
「妻が一週間いなくなる前日に、言うことがそれ?」
「……安心して出張に行けるかと」
「そうなんだけど!」
喜咲は、スーツケースの前に座り込んだ。
「何か違う!」
「……難しいですね」
「夫婦って難しいね!」
「……そうですね」
妻は、小さくため息をついた。
「……でもさ」
「はい」
「優が何でもできる人で、よかった」
「……そうですか?」
「うん」
喜咲が笑った。
「私が仕事に行っても、優の生活が壊れないから」
俺は、少し驚いた。
「私、優のお世話をするために結婚したわけじゃないし」
「……そうですね」
「優だって、家事をしてもらうために私と結婚したんじゃないでしょ?」
「もちろんです」
「……じゃあ、いいんだよね」
彼女は、少し安心したように笑った。
だが。
「……でも」
「何ですか?」
「私がいなくても、何も変わらないっていうのは、ちょっと嫌」
俺は、考えた。
そして。
「……それは、ないと思います」
妻が顔を上げた。
「……例えば?」
「会話が減ります」
「うん」
「夕食が、一人になります」
「……うん」
「それから」
俺は、少し考えた。
「……家が静かになります」
喜咲の目が細くなった。
「……ちょっと」
「はい?」
「それ、私がうるさいってこと?」
「……そういう意味では」
「絶対そういう意味じゃん!」
「……会話が楽しいという意味です」
「最初からそう言って!」
「……失礼しました」
妻が笑った。
俺も笑った。
すると。
喜咲が、急に真剣な顔になった。
「……優」
「何ですか?」
「私がいない間、ちゃんと寂しがってね」
俺は、少し考えた。
「……命令されて寂しがるものなのでしょうか?」
「そこ、理屈で返さない!」
「……難しい注文ですね」
「でも、仕事の邪魔はしないでね」
「……はい」
「寂しがってほしいけど、安心もしたい」
俺は、頷いた。
「……矛盾していますね」
「夫婦なんだから、多少は矛盾するの!」
「……なるほど」
妻は、俺の腕にそっと触れた。
「優も、何でも一人で我慢しなくていいからね」
「……はい」
俺は、その手を握った。
その夜。
俺たちは、いつもより少し遅くまで話していた。
出張中、いつ連絡するか。
帰ってきたら、何を食べたいか。
次の休み、どこへ行くか。
どれも、明日でも話せるようなことばかりだった。
ただ。
一週間会えないと思うと。
その何でもない会話が、妙に惜しかった。
* * *
【コーヒーカップが、二つありました】
出張当日の朝。
「……じゃあ、行ってくるね!」
玄関で、喜咲が言った。
「……行ってらっしゃい」
「ちゃんとごはん食べてね!」
「はい」
「洗濯物ためないでね!」
「……はい」
「夜更かししすぎないでね!」
俺は、少し考えた。
「……喜咲」
「何?」
「俺は四十五歳です」
「知ってる!」
「一人暮らしの経験もあります」
「知ってる!」
「……では、なぜ」
妻は、俺の言葉を遮った。
「言いたいから!」
俺は黙った。
そして。
「……分かりました」
「分かったなら、ちゃんと聞く!」
「……はい」
喜咲が、満足そうに笑った。
そして。
スーツケースを持ち上げると、一度だけ振り返った。
「……優」
「何ですか?」
「一週間、頑張ってくるね」
俺は、頷いた。
「……行ってきてください」
「うん!」
彼女は、笑顔で手を振った。
玄関の扉が閉まる。
カチャリ。
小さな音だった。
その瞬間。
家が、静かになった。
俺は、しばらく玄関に立っていた。
妻は仕事に行っただけだ。
一週間後には、帰ってくる。
何も心配する必要はない。
そう思いながら、リビングへ戻った。
「……さて」
仕事に行くまで、まだ少し時間がある。
コーヒーでも飲もう。
いつものように。
カップを二つ取り出した。
お湯を沸かす。
豆を用意する。
コーヒーを淹れる。
そして。
テーブルに並べた。
二つのカップ。
一つは、俺のもの。
もう一つは。
喜咲のものだった。
「…………」
俺は、カップを見つめた。
妻は、いない。
一週間の出張に行った。
今日は、俺一人だ。
なのに。
コーヒーを、二人分淹れてしまった。
「……何をしているんでしょうね」
誰にともなく、つぶやいた。
当然、返事はない。
いつもなら。
『優! 何してるの!』
そんな声が飛んでくるだろう。
俺は、思わず笑った。
そして。
笑ったあとで、もう一度カップを見た。
「……二杯ですか」
一人で飲むには、少し多い。
捨てるのも、もったいない。
結局。
俺は、二杯とも飲んだ。
その日。
午前中の俺は。
いつもより、トイレに行く回数が多かった。
妻がいない影響は。
予想以上に早く。
しかも、予想外の場所に現れた。
* * *
【妻のいない生活は、驚くほど完璧でした】
一日目の夜。
仕事を終えて、家に帰った。
玄関の扉を開ける。
「……ただいま帰りました」
返事はなかった。
当然だ。
喜咲は、出張中なのだから。
俺は、靴を脱いだ。
手を洗った。
着替えた。
そして、夕食を作った。
料理は、問題なく完成した。
食器も洗った。
洗濯も済ませた。
明日の準備も終わった。
実に、順調だった。
妻がいなくても。
生活は、きちんと回っている。
むしろ。
いつもより、早く終わった。
なぜなら。
妻との会話がないからだ。
「…………」
俺は、ソファに座った。
時計を見た。
まだ、夜は長い。
読書でもしよう。
本を開いた。
数ページ読んだ。
そして。
ふと、思った。
今日の夕食。
喜咲なら、何と言っただろう。
『ちょっと味が薄くない?』
そう言うかもしれない。
いや。
『優、また健康のこと考えすぎ!』
そう言う可能性もある。
俺は、少し笑った。
そして。
自分が、誰もいない部屋で笑っていることに気づいた。
「……なるほど」
何が、なるほどなのか。
自分でも、よく分からなかった。
スマートフォンを手に取った。
喜咲に、メッセージでも送ろうか。
《夕食を作りました》
入力して、手が止まった。
……それだけ?
妻は仕事で忙しいはずだ。
わざわざ報告するようなことだろうか。
俺は、文章を消した。
《こちらは問題ありません》
今度は、妙に事務的だった。
まるで、仕事の引き継ぎ連絡である。
また消した。
《元気ですか?》
これも、何か違う。
朝、出発したばかりなのだ。
結局。
俺は、何も送らなかった。
スマートフォンをテーブルに置いた。
そして。
妻のいないリビングを見渡した。
散らかっていない。
食器も洗った。
洗濯も終わった。
明日の準備も済んでいる。
完璧だった。
何も困っていない。
なのに。
今日あったことを話す相手が、いない。
仕事帰りに見かけた、ちょっと変わった看板。
夕食を作りながら思いついた、どうでもいい冗談。
読んでいる本の、妙に納得できない一行。
そんな話をする相手が、いない。
話さなくても、生きていける。
困ることはない。
それなのに。
「……静かですね」
俺の声だけが、リビングに響いた。
妻のいない生活は、驚くほど完璧だった。
そして。
その完璧な生活が。
どうしようもなく、物足りなかった。
* * *
【神崎は、たった一言で俺を黙らせました】
出張二日目。
朝、コーヒーを淹れようとして。
俺は、手を止めた。
カップが、二つ並んでいた。
昨日の失敗を思い出す。
「……今日は、一つでいいですね」
一つだけ、棚に戻した。
簡単なことだった。
カップを一つ減らすだけ。
たった、それだけだ。
なのに。
少しだけ、寂しかった。
「……重症ですね」
自分でつぶやいた。
妻が聞いていたら、きっと笑っただろう。
『優、私がいないだけで、そんなに大変なの?』
……そう言われたら。
俺は、何と答えるだろう。
その日の夕方。
神崎隆之と話す機会があった。
「……で?」
神崎が言った。
「何がですか?」
「喜咲さん、出張なんだろ?」
「はい」
「一週間?」
「そうです」
「大変だな」
俺は、首を傾げた。
「……特に大変なことはありません」
神崎が、こちらを見た。
「そうなのか?」
「はい」
「飯は?」
「作れます」
「洗濯は?」
「できます」
「掃除は?」
「問題ありません」
神崎は、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……お前さ」
「何ですか?」
「俺は、家事ができるかどうか聞いてるんじゃないんだけど」
俺は、少し考えた。
「……そうなんですか?」
神崎が、ため息をついた。
「お前、本当に医者なのか?」
「……医師免許は持っていますが」
「そこを疑ってるんじゃねえよ!」
俺は黙った。
神崎は、少し笑った。
そして。
何でもないことのように言った。
「……寂しいんだろ」
俺は、反射的に答えようとした。
『いいえ、大丈夫です』
けれど。
言葉が止まった。
神崎が、俺を見た。
「……どうした?」
俺は、少し考えた。
「……なぜ、そう思うんですか?」
「顔」
「……顔?」
「ああ」
「……どんな顔をしていますか?」
神崎は、少し考えた。
そして。
「一人で暮らせることを、必死に証明してる顔」
俺は黙った。
図星だった。
神崎が、笑った。
「お前、昔からそうだよな」
「……何がですか?」
「困ってないって説明するときほど、説明が長い」
「……そうでしょうか」
「今も、そうだったろ?」
俺は、何も言えなかった。
神崎は、続けた。
「家事ができることと、寂しくないことは別だろ」
俺は、少し考えた。
「……そうですね」
「奥さんがいなくて寂しい。それだけじゃ駄目なのか?」
俺は、視線を落とした。
駄目ではない。
そう思う。
ただ。
喜咲は、自分の意思で仕事を続けることを選んだ。
俺は、それを応援すると決めた。
だから。
寂しいなんて言ったら。
彼女を困らせるかもしれない。
「……喜咲には、仕事を頑張ってほしいので」
神崎が頷いた。
「いいじゃないか」
「……はい」
「それと、寂しいのは関係ないだろ」
俺は、顔を上げた。
「……関係ありませんか?」
「関係はあるだろうけど、別の話じゃないか?」
神崎は、少し笑った。
「喜咲さんに仕事を辞めてほしいわけじゃないんだろ?」
「はい」
「出張をやめてほしいわけでもない」
「……そうですね」
「じゃあ、寂しいって言えばいいじゃないか」
俺は、黙った。
単純な話だった。
あまりにも、単純だった。
「……神崎」
「何だ?」
「寂しいと言っても、何も解決しないと思うんですが」
神崎は、俺を見た。
そして。
「お前、奥さんとの会話を、問題解決の会議だと思ってるのか?」
俺は、少し考えた。
「……違いますね」
「だろ?」
「……はい」
神崎が笑った。
「寂しいって言われたら、喜咲さんだって嬉しいかもしれないぞ」
「……そうでしょうか」
「知らん」
「……知らないんですか」
「本人に聞けよ!」
俺は、思わず笑った。
神崎も笑った。
それから。
俺は、少しだけ真剣になった。
「……一つ、分かった気がします」
「何が?」
「喜咲がいなくても、生活はできます」
「……ああ」
「でも」
俺は、言葉を探した。
「……喜咲と暮らしたいんです」
神崎は、少しだけ目を丸くした。
そして。
「……それ、本人に言えよ」
俺は、頷いた。
「……そうですね」
帰り道。
俺は、スマートフォンを取り出した。
今夜。
妻に、電話をしよう。
特別な用事はない。
相談したい問題もない。
ただ。
声が聞きたかった。
それだけだった。
* * *
【ビデオ通話で、夫婦が同じ嘘をつきかけました】
その夜。
喜咲から、メッセージが届いた。
《仕事、今終わった!》
俺は、すぐに返信した。
《お疲れさまです》
すると。
《優、まだ起きてる?》
《起きています》
《少し話せる?》
俺は、思わず笑った。
《もちろんです》
数秒後。
スマートフォンが鳴った。
ビデオ通話だった。
画面に、妻の顔が映る。
「……優!」
「……お疲れさまです」
「やっと顔見られた!」
「そうですね」
喜咲は、少し疲れた顔をしていた。
それでも。
画面の向こうで、明るく笑った。
「……ねえ、優」
「何ですか?」
「私がいなくて、困ってない?」
俺は、少し考えた。
「……生活は、問題ありません」
「……そっか」
彼女は、頷いた。
「ごはん、ちゃんと食べてる?」
「はい」
「洗濯してる?」
「しています」
「掃除は?」
「問題ありません」
「……何か、腹立つ!」
俺は、首を傾げた。
「……なぜですか?」
「私がいなくても、完璧すぎる!」
「……困る方がよかったですか?」
「そうじゃないけど!」
喜咲が笑った。
俺も笑った。
「……あ、そうだ」
俺は、思い出した。
「何?」
「昨日、コーヒーを二人分淹れてしまいました」
妻が、固まった。
「……え?」
「いつもの癖で」
「……二人分?」
「はい」
「……私、いないのに?」
「そうです」
一秒。
二秒。
そして。
「……あはははは!」
喜咲が、大きな声で笑った。
「優! 何してるの!」
「……俺も、そう思いました」
「それで?」
「……二杯とも飲みました」
「何で!」
「もったいなかったので」
妻は、さらに笑った。
「もう! 優って本当に!」
俺も笑った。
その笑い声が。
久しぶりに、リビングに響いた。
たった二日。
まだ、二日しか経っていない。
それなのに。
妻の笑い声を聞くだけで。
家の中が、少し明るくなった気がした。
「……ねえ、優」
喜咲が言った。
「何ですか?」
「本当に、大丈夫?」
俺は、答えようとした。
その瞬間。
妻も、口を開いた。
「私は大丈……」
「俺も大丈……」
二人の声が重なった。
そして。
同時に、止まった。
「…………」
「…………」
画面越しに、見つめ合う。
先に笑ったのは、喜咲だった。
「……ちょっと待って」
「……はい」
「今、二人とも同じこと言おうとした?」
「……そうですね」
「……大丈夫って?」
「はい」
喜咲が、少し困ったように笑った。
「……私たち、成長してないね」
俺は、首を横に振った。
「……成長していると思います」
「え?」
「以前なら、二人とも最後まで言っていたので」
喜咲が、目を丸くした。
そして。
「……確かに!」
二人で笑った。
だが。
そのあと。
画面の向こうで、妻が少しだけ俯いた。
「……ねえ、優」
「何ですか?」
「私、今日、すごく忙しかった」
「……そうですか」
「仕事は大変だったけど、充実してた」
「……はい」
「やっぱり、仕事続けてよかったって思った」
俺は、頷いた。
「……それは、よかったです」
喜咲が笑った。
けれど。
すぐに、その笑顔が少しだけ曇った。
「……でもね」
「はい」
「仕事が終わって、一人になったら」
彼女は、少し言葉を探した。
「……優に、話したくなった」
俺は、黙って聞いていた。
「今日、こんなことがあったよ、とか」
「……はい」
「こういうこと、頑張ったんだよ、とか」
「……そうですね」
「そういう、別に大したことじゃない話を」
妻は、少しだけ目を伏せた。
「……優に聞いてほしかった」
俺は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……俺もです」
喜咲が、顔を上げた。
「……え?」
「俺も、今日あったことを喜咲に話したかったです」
妻の表情が、少し変わった。
「……そうなの?」
「はい」
「何があったの?」
俺は、少し考えた。
「……特に大きな出来事はありません」
「ないのかい!」
「ですが」
「何?」
「夕食を作ったとき、喜咲なら何と言うだろうと考えました」
妻は、目を丸くした。
「……何て言うと思った?」
「味が薄い、と」
「……あはは!」
彼女が笑った。
「言いそう!」
「……そうですね」
「でも、それだけ?」
「いえ」
俺は、少し考えた。
「本を読んでいたときも、喜咲に話したいことがありました」
「……うん」
「ただ、メッセージを送るほどの話でもないと思って」
「……うん」
「結局、何も送りませんでした」
喜咲は、しばらく黙っていた。
そして。
「……優」
「はい」
「それ、送ってよ」
俺は、首を傾げた。
「……大した話ではありませんよ?」
「だから、いいんじゃん」
「……え?」
「私、優から大事件の報告が欲しいわけじゃないよ」
妻は、少し笑った。
「今日のごはんがどうだったとか」
「はい」
「変な看板見たとか」
「……そうですね」
「コーヒー二杯淹れちゃったとか!」
「……それは、失敗談ですが」
「失敗談、大歓迎!」
俺は、思わず笑った。
喜咲も笑った。
そして。
妻が、少しだけ真剣な顔になった。
「……ねえ、優」
「何ですか?」
「私が忙しいからって、何も言わないでほしくない」
俺は、黙った。
「もちろん、仕事中はすぐ返せないけど」
「……はい」
「あとで読むのは、嬉しいから」
彼女は、少し照れたように笑った。
「だって、夫婦でしょ?」
その言葉に。
俺は、頷いた。
「……そうですね」
「私たち、何でも相談するって決めたじゃん」
「はい」
「でもさ」
喜咲は、少し笑った。
「相談するような大問題がなくても、話していいんだよ」
俺は、しばらく考えた。
そして。
「……それは、そうですね」
「当たり前でしょ!」
「……俺は少し、難しく考えすぎていたようです」
「少し?」
「……かなり」
「正解!」
二人で笑った。
ただ。
俺には、まだ伝えていないことがあった。
神崎に指摘されたこと。
自分でも、認めたこと。
妻がいなくても、生活はできる。
でも。
妻がいないと、寂しい。
その当たり前のことを。
俺は、まだ言葉にしていなかった。
* * *
【「寂しいです」と言ったら、妻が黙りました】
「……喜咲」
俺は、口を開いた。
「何?」
「一つ、話してもいいですか?」
妻が、少し身構えた。
「……何? 真面目な話?」
「……はい」
「怖いんだけど!」
「……怖い話ではありません」
「本当?」
「はい」
俺は、少し考えた。
どう言えば、伝わるだろう。
妻に、負担をかけずに。
仕事を応援していることも。
離れていて寂しいことも。
両方、伝えたい。
「……俺は、喜咲が出張に行くことを応援しています」
「……うん」
「仕事を続けると決めたことも、嬉しかったです」
「……うん」
「でも」
俺は、一度だけ息を吸った。
「……寂しいです」
喜咲が、黙った。
画面の向こうで。
妻が、俺を見つめている。
「…………」
俺は、続けた。
「家事には困りません」
「……うん」
「一人で食事もできます」
「……うん」
「生活は、問題ありません」
「……うん」
「でも」
俺は、妻の顔を見た。
「……喜咲がいないと、寂しいです」
その言葉を聞いた瞬間。
妻の表情が、変わった。
驚いたような。
嬉しいような。
少しだけ、泣きそうな。
そんな顔だった。
「……優」
「はい」
「……それ、ずるい」
俺は、首を傾げた。
「……なぜですか?」
「だって」
彼女は、少し笑った。
「私が、先に言おうと思ってたのに」
俺は、目を丸くした。
「……そうなんですか?」
妻は、頷いた。
そして。
小さな声で言った。
「……私も」
俺は、黙った。
「……寂しい」
その瞬間。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「……喜咲」
「……何?」
「……俺もです」
「知ってる!」
妻が笑った。
俺も笑った。
「……ねえ、優」
「何ですか?」
「寂しいって言っても、いいんだね」
俺は、頷いた。
「……はい」
「仕事を頑張りたいのと、優に会いたいのって」
「……はい」
「両方あっても、いいんだね」
俺は、少し笑った。
「……いいと思います」
喜咲が、安心したように息を吐いた。
「……よかった」
「何がですか?」
「私、ちょっと心配だったんだ」
「……何をです?」
「仕事を続けるって決めたのに」
彼女は、少し言葉を探した。
「優に会いたいって思うのは、何か矛盾してるのかなって」
俺は、首を横に振った。
「……矛盾していません」
「……そう?」
「はい」
「……どうして?」
俺は、少し考えた。
「仕事を続けたいのは、喜咲の意思です」
「……うん」
「俺と一緒にいたいと思ってくれるのも、喜咲の意思です」
妻が、黙った。
「どちらかを諦めなければならないとは、思いません」
「……優」
「……もちろん、両立が難しいことはあると思います」
「うん」
「そのときは、また相談しましょう」
喜咲は、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……ねえ」
「はい」
「優ってさ」
「何ですか?」
「たまに、すごくいいこと言うよね」
俺は、少し考えた。
「……たまに、ですか」
「毎回じゃないから!」
「……そうですか」
「普段は、正論で人を腹立たせるくせに!」
「……改善したいと思います」
「でも」
妻が、少し笑った。
「……今日は、好き」
俺は、言葉に詰まった。
すると。
喜咲が、画面に顔を近づけた。
「……優?」
「……はい」
「今、照れた?」
「……いいえ」
「絶対照れた!」
「……画面越しでは、正確な判定が難しいと思います」
「医者のくせに言い訳するな!」
「……専門外ですので」
「また専門外!」
妻が笑った。
俺も笑った。
そして。
その笑顔を見ながら。
俺は、もう一つだけ、本音を伝えた。
「……喜咲」
「何?」
「帰ってきたら、一緒に夕食を食べましょう」
妻が、少し驚いた顔をした。
「……そんなの、当たり前じゃん」
「……そうですね」
「何食べたい?」
俺は、少し考えた。
「……何でもいいです」
「それ、一番困る答え!」
「……では、喜咲の好きなものを」
「私のじゃなくて、優が食べたいもの!」
俺は、困った。
「……相談しましょうか」
「また相談!」
「……夫婦なので」
喜咲は、一瞬黙った。
そして。
「……もう!」
そう言って、大きな声で笑った。
俺も笑った。
それから。
妻は、少しだけ声を落とした。
「……早く帰りたいな」
俺は、頷いた。
「……待っています」
「あと五日もあるよ?」
「……そうですね」
「長いよ?」
「……長いですね」
喜咲は、少し笑った。
「……でも、頑張る」
「はい」
「ちゃんと仕事してくる」
「……行ってきてください」
妻が、俺を見た。
「……優」
「何ですか?」
「帰ってきたら、いっぱい話そうね」
俺は、笑った。
「……はい」
「どうでもいい話も!」
「……はい」
「コーヒー二杯事件みたいなのも!」
「……できれば、あれは繰り返したくありませんが」
「じゃあ、別の失敗をして!」
「……努力目標としては、適切ではないと思います」
「真面目か!」
二人で笑った。
そして。
通話を終える直前。
喜咲が、小さく言った。
「……ねえ、優」
「何ですか?」
「寂しいって言ってくれて、ありがとう」
俺は、少し驚いた。
「……お礼を言われるようなことでは」
「いいの!」
妻は、笑った。
「嬉しかったから」
俺は、頷いた。
「……俺も、嬉しかったです」
「……何が?」
「喜咲も、寂しいと言ってくれたので」
彼女は、少し照れたように笑った。
「……じゃあ、おあいこだね」
「……そうですね」
そして。
「……おやすみ、優」
「……おやすみなさい、喜咲」
通話が終わった。
* * *
【一人で暮らせる。でも、二人で暮らしたい】
画面が暗くなった。
リビングに、静けさが戻った。
俺は、しばらくスマートフォンを見つめていた。
何も変わっていない。
喜咲は、まだ出張先にいる。
帰ってくるのは、五日後だ。
今夜も、俺一人。
夕食も、一人。
明日の朝も、一人でコーヒーを飲む。
生活が変わったわけではない。
妻が帰ってきたわけでもない。
なのに。
さっきまで感じていた寂しさが、少し違っていた。
消えたわけではない。
ただ。
一人で抱えなくてもいい寂しさになった。
俺は、ふと笑った。
「……なるほど」
今度は、何がなるほどなのか分かっていた。
寂しいと言ったところで。
出張が短くなるわけではない。
妻が、今すぐ帰ってくるわけでもない。
何も解決しない。
そう思っていた。
でも。
違った。
寂しいと言ったら、妻も寂しいと言ってくれた。
たった、それだけで。
俺は、こんなにも安心している。
問題が解決したからではない。
同じ気持ちを、二人で知ることができたからだ。
俺は、キッチンへ向かった。
明日の朝の準備をする。
コーヒーカップを、一つ取り出した。
そして。
もう一つのカップに目が止まった。
喜咲のカップだ。
俺は、少し考えた。
明日の朝も、妻はいない。
だから。
カップは一つでいい。
俺は、自分のカップだけを用意した。
そのあと。
スマートフォンを取り出した。
今度は、迷わなかった。
《明日の朝は、コーヒーを一杯だけ淹れます》
送信。
数秒後。
妻から、返信が届いた。
《当たり前でしょ!》
俺は、笑った。
さらに、もう一通。
《でも、帰ったら二杯ね!》
俺は、頷いた。
誰も見ていないのに。
自然と、頷いていた。
《はい。二杯淹れます》
送信。
そして。
妻のカップを、そっと棚に戻した。
喜咲が帰ってきたら、また二つ並べればいい。
それまでは、一つでいい。
一人で暮らすことは、できる。
喜咲がいなくても、食事は作れる。
洗濯も、掃除もできる。
仕事にも行ける。
俺は、一人でも生きていける。
でも。
一人で生きていけることと。
一人で生きていたいことは、同じではない。
結婚する前。
俺は、もう一度誰かと暮らすことに、少し臆病になっていた。
一度、結婚に失敗した。
だから。
誰かと生活を合わせる難しさも、知っているつもりだった。
それでも。
喜咲と出会った。
話して。
喧嘩して。
何度も、意見が食い違って。
それでも、話し続けた。
結婚してからも。
同じだった。
妻が仕事を続けたいと思うこと。
俺が、妻と一緒に過ごしたいと思うこと。
その二つは、必ずしも同じ方向を向いていない。
けれど。
違っていても、いい。
その違いを、二人で話せるなら。
俺は、リビングの明かりを消した。
明日も、仕事がある。
喜咲にも、仕事がある。
それぞれの場所で、それぞれの一日を過ごす。
そして。
今日あったことを、また話そう。
大きな事件なんて、なくていい。
コーヒーを何杯飲んだとか。
夕食が少し薄味だったとか。
そんな、どうでもいい話でいい。
妻のいない一週間は、まだ始まったばかりだ。
それでも。
俺は、もう一つのことを知った。
一週間、妻がいなくても生きていける。でも、俺が一緒に生きたいのは、やっぱり喜咲だった。
第45話 完
次回予告
第5部 第6話/通算第46話
「夫婦なのに、一人の時間が欲しいです」
一週間の出張で、妻がいない寂しさを知った優。
ところが、今度は喜咲から、思いがけない言葉が飛び出す。
「ねえ、優。私、一人で過ごす休日が欲しい」
夫婦なのに、一人になりたい?
それって、結婚した意味がないということ?
いや、待て。
一人の時間が欲しいことと、夫婦でいたいことは、矛盾するのだろうか。
そして。
喜咲のいない休日を過ごすことになった優は、自分について、ある事実に気づく。
妻がいないとき、俺はいったい何をしたいんだろう。
次回、第46話。
結婚しても、一人の時間は必要ですか?
作品のご案内
婚活から始まり、恋人になり、夫婦になった二人。
結婚はゴールではありませんでした。
仕事、家事、お金、時間。そして、自分自身の人生。
意見が違うたびに喧嘩して、それでも何度でも相手を選び直す。
四十代の大人が繰り広げる、笑えて、ときどき胸が温かくなる結婚ラブコメです。
今回の読者への質問
仕事や旅行で、大切な人と離れたとき。
「寂しい」と素直に伝えられますか?
それとも、相手に心配をかけたくなくて「大丈夫」と言ってしまいますか?
ぜひ、感想やコメントで教えてください
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
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