第4話/通算第44話 「仕事を辞めない理由が、お金じゃありませんでした」
第4部『夫婦になっても恋人でいられますか?』
前書き
婚姻届を出した。
名字を決めた。
夫婦になった。
これで婚活は終わり。
めでたし、めでたし。
……になるはずでした。
でも、結婚した翌日から始まるのは、
「夫婦として一緒に暮らす」という、もっと面倒な毎日です。
元妻との思い出を、どこに置くのか。
家の中に、誰の居場所を作るのか。
仕事と夫婦の時間を、どう両立するのか。
家事は、どちらがやるのか。
記念日を忘れたら、どうするのか。
そして。
夫婦になったあとも、
「今日もこの人がいい」と思えるのか。
優には、一度結婚して、離婚した過去があります。
喜咲にとっては、初めての結婚です。
同じ「夫婦」になっても、
二人が立っている場所は、少し違う。
だから第4部では、
結婚したから分かり合える二人ではなく、
結婚しても分からないから、何度でも話す二人
を描きます。
恋人から夫婦へ。
でも、
夫婦になったからといって、
恋人であることまで終わる必要はない。
第4部のテーマは、
「夫婦になったあとも、今日この人を選び直す」
です。
付き合ったら、婚活より面倒だった。
では、
結婚したら?
たぶん。
もっと面倒です。
それでも二人は、
一緒にいたいと思えるのでしょうか。
第4部
『夫婦になっても恋人でいられますか?』
始まります。
「優! 今日、企画会議を三回やったのに、企画を一分も考えてない!」
帰宅した妻が、玄関で叫んだ。
俺は少し考えた。
「……それは、企画会議なのでしょうか?」
「私が聞きたい!」
東海林喜咲。
四十二歳。
食品メーカーの企画部長。
そして、俺の妻だ。
もっとも。
今の彼女は、企画部長というより、会議に敗北した人間に見える。
「一回目は、企画会議の準備!」
「……はい」
「二回目が、本番!」
「それなら企画を考えられたのでは?」
「時間が足りなくなった!」
「……なるほど」
「三回目は、次回の会議で何を話すか決める会議!」
俺は黙った。
妻も黙った。
そして。
「……優」
「はい」
「私、何のために会社に行ってるんだろう」
その言葉には、笑いがなかった。
昨日の夜。
喜咲は、俺に聞いた。
『私、本当に辞めたいのは、何なんだろう』
仕事そのものなのか。
今の働き方なのか。
それとも。
仕事に追いかけられ続ける毎日なのか。
まだ、答えは出ていない。
「……喜咲」
「何?」
「一度、休みを取ってみませんか?」
妻が顔を上げた。
「……え?」
「仕事から少し離れて、考えてみるのはどうでしょう」
「……優が、私に休めって言うの?」
「はい」
「自分は休むのが下手なくせに?」
「……否定できません」
「医者って、休み方を習わないの?」
「……習った記憶はありませんね」
「じゃあ、私より重症じゃない!」
返す言葉がなかった。
喜咲は笑った。
だが。
すぐに真剣な顔になった。
「……でも、休んでどうするの?」
「何もしなくてもいいと思います」
「何もしない?」
「はい」
「仕事のことも考えない?」
「できれば」
彼女は、腕を組んだ。
「……できるかな」
「昨日、練習していましたよね」
「何を?」
「何もしない予定を、予定表から削除する練習です」
喜咲が固まった。
「……あれ、練習だったんだ」
「本番はこれからですね」
「何もしないことに本番があるの?」
「喜咲の場合は、ありそうです」
妻は吹き出した。
それから。
スマートフォンを取り出した。
「……休み、申請してみる」
「いいと思います」
「一日だけでも、仕事のことを忘れてみる」
「はい」
画面を操作する指が止まった。
「……ねえ、優」
「何ですか?」
「私、休んだら、仕事を辞めたくなるのかな」
俺は答えられなかった。
代わりに、言った。
「……それも、確かめてみましょう」
喜咲は少し考えた。
そして。
「……うん」
小さく頷いた。
* * *
【何もしない休日が、いちばん難しい】
数日後。
喜咲は、有給休暇を取った。
朝七時。
俺がリビングへ行くと、妻はすでに起きていた。
しかも。
スマートフォンを真剣に見つめている。
「……おはようございます」
「おはよう!」
「今日は、お休みですよね?」
「そう!」
「……では、なぜそんなに早起きを?」
喜咲が胸を張った。
「休みを無駄にしたくないから!」
嫌な予感がした。
「……何をする予定ですか?」
「見て!」
画面には、予定表が表示されていた。
《充実した有給休暇》
午前七時 起床
午前八時 朝食
午前九時 掃除
午前十時 買い物
午前十一時 カフェ
午後一時 読書
午後二時 自由時間
午後三時 休息
俺は、画面を見つめた。
「……喜咲」
「何?」
「これは、休暇でしょうか?」
「そうだよ!」
「……午後二時と三時の違いは?」
「二時は自由時間!」
「はい」
「三時は休む時間!」
「……なるほど」
「何?」
「休むことまで、管理しているんですね」
一秒。
二秒。
「……本当だ!」
喜咲は、頭を抱えた。
「私、有給休暇まで企画してる!」
「……優秀な企画部長ですね」
「褒めないで!」
妻は笑いながら、予定を次々に削除した。
最後に残ったのは。
《有給休暇》
その一行だけだった。
「……よし!」
「いいですね」
「今日の目標は、何もしない!」
「はい」
「仕事のことも考えない!」
「……はい」
「予定も決めない!」
俺は頷いた。
すると。
喜咲が、急に不安そうな顔をした。
「……優」
「何ですか?」
「予定を決めないって、何から始めればいいの?」
「……始めなくていいのでは?」
妻は、しばらく俺を見つめた。
そして。
「……私、会社を辞めても忙しいかもしれない」
「……その可能性はありますね」
二人で笑った。
ただ。
その笑いのあと。
喜咲は、少しだけ真剣な顔になった。
「……でも、優」
「はい」
「今日、会社に行かなくていいんだよね」
「そうですね」
「会議もない」
「はい」
「部下から急に呼ばれることもない」
「そうですね」
「何か、すごく楽」
彼女は、ソファに深く腰を下ろした。
その顔から、緊張が抜けていく。
俺は、その表情を見ていた。
妻が欲しかったのは。
こんな時間だったのかもしれない。
「……では、行ってきます」
俺が玄関へ向かうと、喜咲が立ち上がった。
「待って!」
「……はい?」
彼女が、小走りで近づいてくる。
「行ってらっしゃい!」
満面の笑顔だった。
俺は、思わず笑った。
「……ありがとうございます」
「今日は、私が先に帰ってるからね!」
「最初から家にいますが」
「細かい!」
「……失礼しました」
喜咲が笑う。
俺も笑った。
「帰ってきたら、お帰りって言ってあげる!」
「楽しみにしています」
「あと、夕食も一緒に食べようね」
「はい」
彼女が、俺の腕にそっと触れた。
「……こういう生活も、いいね」
その言葉に。
俺は、すぐ頷いた。
「……そうですね」
本音だった。
仕事から帰ったら、妻が家にいる。
一緒に夕食を食べられる。
休日の予定も、合わせやすくなるかもしれない。
俺一人の収入でも、生活は十分に成り立つ。
喜咲が専業主婦になれば。
夫婦の時間は、今より増えるだろう。
それは。
正直、嬉しい。
ただ。
昨夜までの彼女を思い出す。
企画を考えられないことに、あれほど悔しがっていた妻。
スーパーで商品のパッケージを見て、目を輝かせていた妻。
どちらも、喜咲だった。
「……優?」
「はい」
「何考えてるの?」
俺は、妻を見た。
「……今日の夕食が楽しみだな、と」
喜咲が笑った。
「まだ朝だよ?」
「そうですね」
「どんだけ帰ってきたいの!」
「……かなり、ですね」
俺が答えると。
妻は、一瞬だけ驚いた顔をした。
そして。
「……じゃあ、早く帰ってきてね」
そう言って、笑った。
* * *
【スーパーで、妻が仕事を思い出した理由】
その日の夕方。
帰宅すると、玄関から声が聞こえた。
「お帰り!」
喜咲だった。
朝と同じ、明るい声だ。
「……ただいま帰りました」
「今日もお疲れさま!」
「ありがとうございます」
「ごはん、もう少しでできるよ!」
俺は、思わず笑った。
「……今日は、随分楽しそうですね」
「うん!」
喜咲は頷いた。
「休みって、最高!」
「それはよかったです」
「誰にも急かされないし!」
「はい」
「会議もないし!」
「そうですね」
「会社の電話も気にしなくていいし!」
「……いい一日でしたね」
「そう!」
彼女は笑った。
だが。
その笑顔が、少しだけ変わった。
「……でもね」
「何ですか?」
「一個だけ、予定どおりにいかなかったことがあるの」
俺は、首を傾げた。
「……予定は削除したのでは?」
「そこは突っ込まないで!」
「……失礼しました」
喜咲は、買い物袋から一つの商品を取り出した。
スープのパッケージだった。
「……これ、見て」
「夕食用ですか?」
「それもあるけど」
彼女は、少し笑った。
「これ、私が前に企画に関わった商品なの」
俺は、箱を手に取った。
「……そうだったんですか」
「うん」
「知らずに食べていたかもしれませんね」
「ちゃんと見てよ!」
「……今後は、注意します」
妻は、俺から商品を受け取った。
そして。
「……今日、スーパーに行ったときね」
「はい」
「この商品が、棚に並んでたの」
「そうですね」
「そしたら、私の隣にいた人が、これを手に取ったの」
俺は、頷いた。
「……そうなんですか」
「うん」
喜咲は、箱を持ったまま、そのときの様子を再現し始めた。
棚から商品を取る。
裏面を見る。
少し考える。
そして。
「……買い物かごに入れたの!」
俺は、妻を見た。
「……それは、嬉しいですね」
「嬉しかった!」
彼女の声が弾んだ。
「私、思わず声をかけそうになった!」
「……何と?」
「それ、私も作るのに関わったんです! って」
俺は少し考えた。
「……知らない方には、驚かれるかもしれませんね」
「分かってる!」
「……名刺を渡さなくてよかったですね」
「持ってきてないよ!」
「……安心しました」
「何で!」
喜咲は笑った。
だが。
すぐに、その商品へ視線を戻した。
「……でもさ」
「はい」
「その人、私の名前なんか知らないんだよ」
「そうでしょうね」
「誰が企画したかも、知らない」
「はい」
「ただ、棚に並んでた商品を見て」
彼女は、少し声を落とした。
「……買ってくれたの」
俺は、黙って聞いていた。
「その人にとっては、普通の買い物だったんだと思う」
「……そうですね」
「でも、私にとっては」
喜咲は、商品の箱を指でなぞった。
「……すごく嬉しかった」
その顔を見た瞬間。
俺は、思い出した。
昨日の夜。
妻が仕事について話していたときの顔を。
疲れていた。
苛立っていた。
辞めたいと言っていた。
それなのに。
今。
目の前の妻は。
たった一つの商品が買い物かごに入ったことを、こんなに嬉しそうに話している。
「……喜咲」
「何?」
「今日、一番嬉しかったことは、それですか?」
彼女は、少し考えた。
そして。
「……うん」
頷いた。
「休みの日なのにね」
「……そうですね」
「仕事のことを忘れるつもりだったのに」
「はい」
彼女は、箱を見つめた。
「……また、作りたいなって思っちゃった」
俺は、妻を見た。
「……何をですか?」
「新しい商品」
彼女の声は、はっきりしていた。
「もっと、誰かに喜んでもらえるもの」
「……はい」
「どうしたら手に取ってもらえるかな、とか」
「そうですね」
「どんな人が買ってくれるかな、とか」
彼女は、少し笑った。
「……考えちゃった」
そして。
自分でも驚いたように、つぶやいた。
「……私、休みの日まで企画してる」
俺は、思わず笑った。
「……職業病ですね」
「重症?」
「……かなり」
「治る?」
俺は、少し考えた。
「……本人が治したいと思っていない可能性があります」
喜咲は、目を丸くした。
そして。
大きな声で笑った。
「……確かに!」
その笑顔を見ながら。
俺は、ようやく分かり始めていた。
妻は、仕事が嫌いになったのではない。
好きだった仕事を、好きな形でできなくなっていたのだ。
* * *
【後輩に反対されて、嬉しかった日】
夕食のあと。
喜咲は、ソファに座り、さっきの商品をもう一度見ていた。
「……ねえ、優」
「何ですか?」
「この商品、一人で作ったわけじゃないんだよ」
「そうでしょうね」
「企画って、結局、みんなで作るものだから」
彼女は、箱をテーブルに置いた。
「最初は、自分の案が通るのが嬉しかった」
「……はい」
「でも、最近は、それだけじゃないんだよね」
「……どういうことですか?」
喜咲は、少し考えた。
「前にね、会議で自分の意見をなかなか言えなかった後輩がいたの」
「……そうなんですか」
「いつも、私の顔を見てから話すの」
「……なるほど」
「私が何か言うと、『そうですね』って」
俺は、黙った。
妻が、こちらを見た。
「……優?」
「はい」
「今、自分のことだと思った?」
「……少し」
「分かってるなら直して!」
「……努力します」
「それも、いつも言ってる!」
妻は笑った。
そして。
「……でも、その後輩がね」
「はい」
「ある日、私の案に反対したの」
「……そうですか」
「しかも、ちゃんと理由をつけて」
俺は頷いた。
「……それは、いいことですね」
「うん」
喜咲は、嬉しそうに笑った。
「私も最初は、驚いたよ」
「そうでしょうね」
「でも、話を聞いたら、その人の考えにも納得できるところがあったの」
「……はい」
「自分で考えて、自分の意見を言ってくれたんだって思ったら」
彼女は、少しだけ目を細めた。
「……嬉しかった」
俺は、その横顔を見た。
「……喜咲」
「何?」
「部長になって、よかったこともあるんですね」
妻は、一瞬黙った。
「……あ」
それから。
小さく頷いた。
「……そうだね」
「はい」
「私、最近ずっと、部長になって大変なことばっかり考えてた」
「……そうですね」
「会議が増えたとか」
「はい」
「責任が重くなったとか」
「……はい」
「自分の企画を考える時間がなくなったとか」
喜咲は、テーブルの上の商品を見た。
「……でも、後輩が育つのも、仕事なんだね」
俺は頷いた。
「そう思います」
「私が全部考えなくても、いい企画が出てくる」
「……そうですね」
「それを、一緒に形にすることもできる」
「はい」
彼女は、少し笑った。
「……私、部長になった意味が、ちょっと分かったかも」
俺は、何も言わなかった。
妻は、続けた。
「……ただね」
「何ですか?」
「それでも、今の働き方は嫌」
その言葉には、迷いがなかった。
「会議が多すぎるのも嫌だし」
「……はい」
「自分の時間がなくなるのも嫌」
「そうですね」
「全部、自分で抱え込むのも嫌」
俺は頷いた。
「……そこは、変えられるかもしれませんね」
「うん」
彼女は、腕を組んだ。
「私、後輩に任せられる仕事まで、自分で持ってたのかもしれない」
「……そうですか」
「部長なんだから、全部ちゃんとしなきゃって」
「責任感が強いんですね」
「褒めないで」
「……なぜですか?」
「それで疲れてるんだから」
俺は、少し考えた。
「……では、責任感の使い方を変える必要がありそうですね」
喜咲が、こちらを見た。
そして。
「……優」
「はい」
「たまに、いいこと言うよね」
「……たまに、ですか」
「たまに!」
俺は笑った。
妻も笑った。
そして。
「……私、ちょっと相談してみようかな」
「何をですか?」
「仕事の進め方」
喜咲は、スマートフォンを手に取った。
「会議を減らせないか、とか」
「はい」
「後輩にもっと任せられることがないか、とか」
「……そうですね」
「自分でも、企画を考える時間を作れないか、とか」
彼女は、そこで手を止めた。
「……でも、すぐには変わらないよね」
「そうかもしれません」
「会議だって、私一人で全部決めてるわけじゃないし」
「……はい」
「部下にも、それぞれ仕事がある」
俺は頷いた。
「簡単ではないでしょうね」
喜咲は、少し笑った。
「……優って、そこで『絶対うまくいく』って言わないよね」
「……言い切れませんので」
「そういうところ、正直」
「ありがとうございます」
「褒めてないかも」
「……そうですか」
彼女は笑った。
だが。
その表情は、さっきまでより穏やかだった。
「……でも、やってみる」
その言葉を聞いて。
俺は、少し安心した。
妻が仕事を辞めなさそうだからではない。
一人で全部決めようとしていた喜咲が。
今度は、周りの人と話しながら変えようとしている。
そのことが、嬉しかった。
* * *
【夫の本音は、少しだけ身勝手でした】
「……ねえ、優」
喜咲が言った。
「もう一回、聞いていい?」
「何ですか?」
彼女は、俺の隣へ座った。
「私が仕事を辞めたら、困る?」
俺は、少し考えた。
「……経済的には、困りません」
「そうだよね」
「はい」
「私が専業主婦になっても、生活できるんだよね」
「十分できます」
「……うん」
喜咲は、しばらく黙っていた。
そして。
俺を見た。
「……じゃあ、優は?」
「……俺ですか?」
「うん」
その目は、真剣だった。
「優は、私に仕事を続けてほしい?」
また。
その質問だった。
以前の俺なら。
『喜咲が決めればいいと思います』
そう答えただろう。
妻の人生だ。
夫が決めることではない。
それは、今も変わらない。
ただ。
妻は、俺の意見を聞いている。
正解を求めているのではない。
俺が、何を望んでいるのかを知りたいのだ。
「……正直に言ってもいいですか?」
喜咲が頷いた。
「もちろん」
俺は、少し息を吸った。
「喜咲が仕事を辞めたら、嬉しいと思う気持ちはあります」
彼女が、目を丸くした。
「……え?」
「一緒に過ごす時間が増えますから」
「……うん」
「最近、少し寂しかったので」
喜咲は、黙った。
俺は続けた。
「今日みたいに、帰ったときに喜咲が家にいる生活も、いいなと思いました」
「……そっか」
彼女は、小さく頷いた。
「……本音?」
「はい」
「……嬉しい」
妻は、少し笑った。
だが。
すぐに聞いてきた。
「……じゃあ、辞めてほしい?」
俺は首を横に振った。
「そこまでは思っていません」
「……どうして?」
「今日、仕事の話をしていた喜咲も、楽しそうだったので」
「……うん」
「俺は、ああいう喜咲も好きです」
彼女が、少し照れくさそうに笑った。
「……何それ」
「そのままの意味です」
「家にいる私も好きで、働いてる私も好き?」
「はい」
「……欲張り」
俺は、少し考えた。
「……喜咲ほどではありませんが」
「そこは否定して!」
二人で笑った。
それから。
俺は、妻の手を握った。
「……ただ」
「何?」
「俺が嬉しいからという理由だけで、喜咲に仕事を辞めてほしくはありません」
彼女が、俺を見た。
「……どうして?」
「……後悔してほしくないので」
俺は、少し言葉を探した。
「俺と一緒にいる時間が増えても」
「うん」
「喜咲が好きなことを全部諦めてしまったら」
俺は、妻を見た。
「……それは、俺も嬉しくありません」
喜咲は、しばらく黙っていた。
そして。
「……優」
「はい」
「私、ちょっと勘違いしてたかもしれない」
「何をですか?」
「仕事を辞めたら、優との時間が増える」
「そうですね」
「だから、幸せになれるんじゃないかって」
俺は頷いた。
「……はい」
「でも、仕事を続けることと、優との時間を大切にすることって」
彼女は、少し考えた。
「……どっちかしか選べないわけじゃないんだよね」
「そうですね」
「もちろん、簡単じゃないけど」
「はい」
「工夫しても、無理なことはあるかもしれないけど」
「……そうですね」
妻は、小さく笑った。
「……でも、最初から諦める必要はないんだ」
俺は頷いた。
「……はい」
喜咲は、俺の肩に頭を預けた。
「……ねえ、優」
「何ですか?」
「私、ずっと二つしかないと思ってた」
「……二つ?」
「仕事を辞めるか、今のまま我慢するか」
彼女は、目を閉じた。
「……でも、ほかにもあるんだね」
俺は、妻の手を握り返した。
「そうですね」
喜咲は、少し笑った。
「……それにしても」
「何ですか?」
「優が、私に家にいてほしいって思ってたの、意外だった」
「……そうですか?」
「うん」
彼女は、いたずらっぽく笑った。
「毎日、お帰りって言ってほしいの?」
「……言ってもらえたら嬉しいですね」
「エプロンつけて?」
「……そこまでは」
「『お風呂にする? ごはんにする?』って?」
俺は、少し考えた。
「……まず、喜咲が休めているか確認します」
妻が、吹き出した。
「そこは普通に答えてよ!」
「……失礼しました」
「もう!」
喜咲は笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。
そして。
「……でも、ありがとう」
小さく言った。
「何がですか?」
「本音、言ってくれて」
俺は、頷いた。
「……はい」
その言葉に。
少しだけ、胸が温かくなった。
* * *
【仕事を辞めない理由が、お金じゃありませんでした】
しばらくして。
喜咲が、俺の肩から顔を上げた。
「……優」
「はい」
「私、分かったかもしれない」
その声は、静かだった。
「何がですか?」
「何のために、仕事を続けてきたのか」
俺は、妻を見た。
彼女は、テーブルの上の商品を手に取った。
「……今日ね」
「はい」
「スーパーで、知らない人がこれを買ってくれたとき」
彼女は、小さく笑った。
「すごく嬉しかった」
「……そうですね」
「後輩が育ってくれたことを思い出したときも」
「はい」
「また、みんなで何か作りたいって思った」
俺は、黙って聞いた。
「会議は嫌い」
「……そうですね」
「責任が重いのも、つらい」
「はい」
「疲れて、全部投げ出したくなる日もある」
「……分かります」
喜咲は、少し驚いた顔をした。
「……優も?」
「はい」
「医者でも?」
「医師でも、そういう日はあります」
妻は、少し笑った。
「……そっか」
そして。
商品を、そっとテーブルに戻した。
「……でもね」
「はい」
「私、生活のためだけに働いてたんじゃなかった」
俺は、妻を見た。
喜咲は、まっすぐ前を見ていた。
「自分で何かを考えるのが好きだった」
「……はい」
「それが形になるのが嬉しかった」
「……はい」
「誰かが買ってくれるのが、楽しかった」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「後輩が、自分で考えてくれるようになるのも嬉しかった」
俺は、黙って聞いていた。
「みんなで一つのものを作るのが、好きだった」
喜咲は、大きく息を吐いた。
「……私、忘れてたんだね」
「……何をですか?」
「仕事を続けてきた理由」
彼女は、俺を見た。
「お金じゃなかったんだ」
俺は頷いた。
「……そうですね」
「もちろん、お給料は大事だよ」
「はい」
「働いた分、ちゃんともらいたいし」
「当然です」
「……でも」
彼女は、小さく笑った。
「働かなくても生活できるって分かっても、私、まだ仕事をしたいんだね」
その表情には、迷いが少なかった。
少なくとも。
昨日までの妻とは、違っていた。
「……優」
「はい」
「私、決めた」
俺は、妻を見た。
「……何をですか?」
喜咲は、俺の手を握った。
そして。
はっきりと言った。
「今の私は、まだ働きたい」
俺は、頷いた。
「……はい」
「でも、今までと同じ働き方は嫌」
「……そうですね」
「会議ばっかりなのも嫌だし」
「はい」
「全部一人で抱えるのも嫌」
「……はい」
「優との時間がなくなるのも嫌」
俺は、彼女の手を握り返した。
「……そこは、俺も嫌です」
喜咲が、少し驚いた顔をした。
そして。
笑った。
「……そこ、即答なんだ」
「本音ですので」
「……そっか」
彼女は、嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、少しずつ変えてみる」
「何をですか?」
「仕事の進め方」
喜咲は、指を折りながら言った。
「会議を減らせないか、相談する」
「はい」
「任せられる仕事は、任せる」
「……そうですね」
「自分でも企画を考える時間を作る」
「いいと思います」
「ちゃんと休む」
「……大切ですね」
「それから」
彼女は、俺を見た。
「優との時間も、ちゃんと作る」
俺は、少し笑った。
「……ぜひ、お願いします」
喜咲も笑った。
ただ。
そこで、彼女は少し真剣な顔になった。
「……でも、すぐには変わらないと思う」
「そうでしょうね」
「失敗するかもしれない」
「……はい」
「また、仕事辞めたいって言うかもしれない」
俺は頷いた。
「そういう日もあると思います」
「……そのとき、どうする?」
俺は、少し考えた。
そして。
「……そのときは、また相談しましょう」
喜咲が、吹き出した。
「出た! 相談!」
「……はい」
「優って、本当に相談が好きだよね!」
「必要だと思っていますので」
「分かってる!」
妻は笑った。
そして。
少しだけ、声を落とした。
「……でも、そういうところ、好きだよ」
俺は、彼女を見た。
「……ありがとうございます」
喜咲は、俺の肩に頭を預けた。
「……ねえ、優」
「何ですか?」
「私、専業主婦になることも、まだ選択肢にはあると思ってる」
「……はい」
「今は仕事を続けたいけど」
「そうですね」
「いつか、考えが変わるかもしれない」
俺は頷いた。
「そのときは、そのときで考えればいいと思います」
「……うん」
彼女は、俺の手を握った。
「……私が専業主婦になっても、好きでいてくれる?」
「もちろんです」
「仕事を続けても?」
「はい」
「働き方を変えても?」
「……はい」
「……何でもいいの?」
俺は、少し考えた。
「何でも、ではありません」
喜咲が顔を上げた。
「……え?」
俺は、妻を見た。
「喜咲が、無理をしているのに何も言わない生活は、嫌です」
彼女は、黙った。
「……はい」
「それから」
「……何?」
「喜咲が、一人で全部決めてしまうのも、寂しいです」
妻が、少し目を丸くした。
「……優」
「はい」
「それ、ずるい」
「……なぜですか?」
「そんなこと言われたら」
彼女は、照れくさそうに笑った。
「ちゃんと相談しなきゃって思うじゃん」
俺も笑った。
「……そうですね」
喜咲は、大きく息を吐いた。
そして。
「……分かった」
小さく頷いた。
「私、自分で決める」
「はい」
「でも、一人では決めない」
俺は、妻の手を握った。
「……それがいいと思います」
喜咲は、俺の肩にもう一度頭を預けた。
そして。
「……優」
「何ですか?」
「今日も、私がいい?」
俺は、少し笑った。
「……今日も喜咲がいいので」
妻が笑った。
「……それ、便利な言葉になってない?」
「……そうですか?」
「何でも解決しようとしてない?」
「……万能ではないと思います」
「当たり前でしょ!」
二人で笑った。
けれど。
そのあと。
喜咲は、俺の手を離さなかった。
俺も、離さなかった。
仕事を辞める。
仕事を続ける。
休む。
働き方を変える。
どれが正解なのか。
俺には、決められない。
けれど。
今日の喜咲は、自分で選んだ。
生活のためではなく。
自分が、まだ仕事をしたいから。
そして。
その選択を聞いた俺は。
嬉しかった。
妻が仕事を続けるからではない。
喜咲が、自分の人生を少し好きになれたように見えたからだ。
* * *
【夫婦の時間を守ると決めた、その夜に】
「……さて!」
喜咲が、勢いよく立ち上がった。
「……どうしました?」
「明日からの予定、整理する!」
俺は、時計を見た。
「……今日は、休暇だったのでは?」
「そうだった!」
「……休めましたか?」
喜咲は、少し考えた。
「……休んだよ」
「本当ですか?」
「うん」
彼女は笑った。
「今日、仕事のこと考えたけど」
「はい」
「考えたいことを考えたんだよね」
俺は、頷いた。
「……そうですね」
「会社に言われたわけじゃなくて」
「はい」
「誰かに頼まれたわけでもなくて」
妻は、小さく笑った。
「自分で考えたかったから」
その言葉を聞いて。
俺は、少し安心した。
「……それなら、よかったです」
「うん!」
喜咲は、共有カレンダーを開いた。
「でね、優!」
「はい」
「まず、夫婦の時間を決めよう!」
俺もスマートフォンを取り出した。
「……いいですね」
「次の休み、一緒に出かけよう!」
「そうしましょう」
二人で予定を確認する。
仕事。
休日。
会議。
俺にも、勤務の予定がある。
喜咲にも、企画部長としての予定がある。
「……優」
「はい」
「夫婦なのに、予定を合わせるのって大変だね」
「……そうですね」
「結婚する前より、難しくない?」
「……そうかもしれません」
妻は、少し笑った。
「婚活のときは、会える日を探してたのに」
「はい」
「結婚したら、会えない日を減らしてる」
俺は、思わず笑った。
「……確かに」
「ねえ、優」
「何ですか?」
「夜の相性より、休日の相性の方が難しくない?」
俺は少し考えた。
「……比較する項目が違うと思いますが」
「そこ、真面目に分析しなくていい!」
「……失礼しました」
喜咲は、声を上げて笑った。
俺も笑った。
そして。
二人で、空いている日を探した。
ようやく。
一日だけ、予定が合いそうな日が見つかった。
「……ここ!」
喜咲が、画面を指さした。
「この日、二人とも休めそう!」
「……そうですね」
「じゃあ、デート!」
「いいですね」
彼女は、嬉しそうに笑った。
「何しようか?」
「……相談しましょう」
「また相談!」
「……今回は、必要では?」
「分かってる!」
妻は、笑いながら共有カレンダーに予定を入力しようとした。
そのときだった。
ピロン。
通知音が鳴った。
喜咲のスマートフォンだった。
「……ん?」
彼女が画面を見た。
「会社から?」
「……そうみたい」
明日以降の予定についての連絡らしい。
喜咲は、画面を開いた。
そして。
指が止まった。
「……え?」
俺は、妻を見た。
「……どうしました?」
喜咲は、返事をしなかった。
画面を見つめている。
さっきまでの笑顔が、消えていた。
「……喜咲?」
「……優」
ようやく、彼女が口を開いた。
「……ちょっと、見て」
俺は、隣から画面をのぞき込んだ。
そこには。
新しい予定が表示されていた。
《出張予定》
《期間:一週間》
俺は、少し考えた。
「……一週間、ですか」
喜咲が頷いた。
「……うん」
「……長いですね」
「……長いね」
妻は、画面を見つめたままだった。
「……来週、出張が入った」
俺は、頷いた。
「……そうですか」
「うん」
短い沈黙。
喜咲が、苦笑した。
「……ねえ、優」
「はい」
「私、さっき何て言った?」
俺は、少し考えた。
「……夫婦の時間を大切にする、と」
「そう!」
彼女は、スマートフォンを持ち上げた。
「その直後に、一週間の出張!」
「……そうですね」
「仕事を続けるって決めた途端に、これだよ!」
俺は、少し笑った。
「……なかなか厳しいですね」
「厳しすぎる!」
妻は、ソファに倒れ込んだ。
「私の働き方改革、初日から危機!」
「……まだ始まっていませんが」
「これから始めるの!」
「……そうですね」
喜咲は、しばらく天井を見つめていた。
そして。
ゆっくり起き上がった。
「……でも」
「……はい?」
「仕事、続けるって決めたんだよね」
俺は、頷いた。
「そうですね」
「今の私は、まだ働きたい」
「……はい」
「だったら、こういうこともあるんだよね」
「……そうですね」
喜咲は、スマートフォンを見た。
「もちろん、仕事ばっかりにはしないつもりだけど」
「はい」
「今回は、出張が入った」
俺は、頷いた。
「……そうですね」
彼女は、俺を見た。
「……優」
「はい」
「怒ってる?」
俺は、首を横に振ろうとした。
だが。
その前に、思い出した。
以前の俺なら。
妻が忙しいとき。
『大丈夫です』
そう言っていた。
寂しくても。
不満があっても。
相手を困らせたくなくて。
本音を隠していた。
最近は、少し変わった。
寂しいときには、寂しいと言えるようになった。
だから。
今回も。
ちゃんと話せばいい。
そう思った。
「……怒ってはいません」
俺は答えた。
喜咲が、少し安心したように笑った。
「……そっか」
「はい」
「……よかった」
彼女は、スマートフォンをテーブルに置いた。
そして。
俺の手を握った。
「……ねえ、優」
「何ですか?」
「一週間、私がいなくても大丈夫?」
俺は、答えようとした。
生活には、困らない。
料理もできる。
洗濯もできる。
掃除もできる。
一人暮らしだって、経験している。
妻が一週間いなくても。
何とかなる。
だから。
いつもなら、簡単に言えるはずだった。
『大丈夫です』
けれど。
その言葉が、喉の奥で止まった。
俺は、妻の仕事を応援したい。
それは、本当だ。
今日、喜咲が自分の意思で仕事を続けると決めたことが、嬉しかった。
その気持ちも、嘘ではない。
ただ。
一週間。
妻が家にいない。
一緒に夕食を食べられない。
今日みたいに、玄関で「お帰り」と言ってもらえない。
仕事から帰っても。
あの明るい声が聞こえない。
そう考えた瞬間。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……優?」
喜咲が、俺を見た。
「……どうしたの?」
俺は、笑おうとした。
妻を安心させたかった。
出張に行くことを、後悔させたくなかった。
だから。
『大丈夫です』
そう言えばいい。
たった一言。
それだけで、妻は安心するだろう。
けれど。
俺は知っている。
その言葉のあと。
本当は寂しかったのだと気づく夜が来ることを。
俺は、妻の手を握った。
少しだけ、強く。
そして。
答えようとした。
しかし。
妻の仕事を応援すると決めた俺が、一番言いたくなかったのは、その言葉だった。
第44話 完
次回予告
第5部 第5話/通算第45話
「妻が出張で一週間いません」
妻が仕事を続けると決めた。
俺は、その選択を応援した。
そして。
妻は、一週間の出張へ行った。
一人で暮らすことには慣れている。
料理もできる。
洗濯もできる。
掃除もできる。
生活に、不自由はない。
そのはずだった。
なのに。
朝、コーヒーを淹れたら。
カップが、二つあった。
いつもの癖だった。
妻がいないだけで。
どうして、こんなに家が静かなのだろう。
そんな俺に、神崎が言った。
『寂しいんだろ』
否定しようとした。
けれど。
言葉が止まった。
一人で生活できることと、一人でいたいことは、同じではない。
次回。
妻のいない一週間。
夫は、自分の寂しさと向き合うことになる。
作品案内
四十代。
婚活は面倒だった。
恋愛は、もっと面倒だった。
そして結婚したら、仕事も家事も休日も、二人で考えることになった。
それでも、今日もこの人がいい。
そんな大人の婚活・結婚ラブコメです。
作者より
第44話までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、「働かなくても生活できるとしたら、それでも仕事を続けたいのか」という問題を描きました。
喜咲には、専業主婦になる選択肢があります。
優の収入だけでも、夫婦二人の生活は十分に成り立つからです。
専業主婦として家庭を大切にすることも、仕事を続けることも、どちらかが正しいというものではありません。
大切なのは、自分がどんな人生を送りたいかを考えることです。
喜咲は、仕事から少し離れることで、仕事の楽しさを思い出しました。
自分の企画が商品になること。
誰かが、その商品を手に取ってくれること。
後輩が成長すること。
チームで一つの結果を出すこと。
それらは、生活費とは別の、喜咲にとって大切なものでした。
だからこそ、喜咲は「今の私は、まだ働きたい」と、自分で選びました。
ただし、仕事を続けることと、今の働き方を我慢し続けることは同じではありません。
働き方は変えてもいい。
疲れたら休んでもいい。
将来、別の生き方を選んでもいい。
そして、その選択について、夫婦で何度でも話し合っていい。
次回は、一週間の出張を通じて、優が「妻のいない生活」と向き合います。
応援したい。
でも、寂しい。
その二つの気持ちは、両立するのでしょうか。
あなたなら、働かなくても生活できるようになったとき、今の仕事を続けたいですか?
ぜひ、感想やコメントで教えてください。
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524
Momokun Official https://momokun.jp/




