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『婚活アプリのプロフィールに「夜の相性も大切です」と書いた女とマッチしました』  作者: Momokun
第5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』
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43/64

第3話/通算第43話 「専業主婦になったら、幸せになれますか?」

第5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』




前書き




結婚したら、ずっと一緒にいられると思っていた。




でも、現実はそんなに甘くありません。




四十五歳、バツイチ医師の小鳥遊優。




四十二歳、食品メーカーで働く東海林喜咲。




婚活アプリで出会い、恋をして、何度も喧嘩をして、それでも二人は夫婦になりました。




第4部では、結婚してから最大の夫婦喧嘩を経験。




それでも最後には、お互いに「今日もあなたがいい」と伝えることができました。




ようやく、幸せな新婚生活が始まる。




……はずだったのですが。




妻が出世しました。




喜咲は企画部長に昇進。




仕事が増え、責任が増え、会議が増え、夫婦の時間が減っていく。




夫は妻の成功を喜びたい。




妻も仕事を頑張りたい。




でも、二人とも一緒にいたい。




ここで、新しい問題が生まれます。




結婚した二人は、自分の人生と夫婦の時間をどう両立させればいいのでしょうか。




夫の収入だけでも生活できる。




妻が仕事を続けることも、専業主婦になることも、働き方を変えることもできる。




でも、それは妻だけが考える問題なのでしょうか。




夫が働き方を見直すこともできる。




家事の分担を変えることもできる。




二人で過ごす時間の作り方を変えることもできる。




どちらか一人が夢や仕事を諦めるのではなく、二人が納得できる生き方を探すことはできないのでしょうか。




もちろん、相手の人生を勝手に決めることはできません。




けれど、自分の希望を言わずに、すべてを相手に任せることが優しさとも限りません。




第5部では、仕事への思い、夫婦の時間、一人で過ごす時間、そして将来の人生について、優と喜咲が向き合います。




もちろん、真面目な話ばかりではありません。




正しすぎる医師の夫と、毒舌だけれど寂しがり屋の妻。




今回も、夫婦の会話は簡単には終わりません。




婚活は終わった。




結婚式も終わった。




でも、人生の選択は終わらない。




夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?




そして。




自分の人生を大切にしながら、二人で幸せになることはできますか?




笑って、ときどき胸が痛くなって、最後には二人を応援したくなる。




そんな大人の結婚ラブコメ、第5部の開幕です。




あなたなら、愛する人との時間と、自分の人生をどう両立させますか?




ぜひ、優と喜咲の新しい十話を見届けてください。

「……優。私、専業主婦になってみる」

妻が、突然そう宣言した。

「……仕事を辞めるんですか?」

「違う!」

「……では、休職ですか?」

「そうじゃなくて!」

喜咲は、スマートフォンを俺に突きつけた。

画面には、一日の予定表が表示されている。

《専業主婦になった私の一日》

「……これは?」

「シミュレーション!」

「……なるほど」

「仕事を辞めたら、私がどんな生活をするのか、想像してみようと思って」

俺は頷いた。

昨日の夜。

妻は、俺に聞いた。

『仕事を辞めたら、私、幸せになれるのかな』

俺は答えられなかった。

医師として、収入はある。

俺一人の給料でも、夫婦二人は十分に生活できる。

しかし。

生活できることと、幸せになれることは違う。

それが、昨日の俺に分かった唯一のことだった。

「……それで、優」

「はい」

「今日は協力してね」

「もちろんです」

「まず、あなたには夫役をやってもらいます」

俺は少し考えた。

「……今も夫ですが」

「知ってる!」

「……役作りは必要ですか?」

「いつもどおりでいいの!」

「……そうですか」

喜咲は、にっこり笑った。

「ただし!」

「はい」

「私の理想の専業主婦生活だから、優にも理想の夫になってもらいます!」

嫌な予感がした。

「……具体的には?」

「毎日、決まった時間に帰ってくる!」

「……それは」

「休日出勤しない!」

「……医師なので」

「仕事の電話が鳴らない!」

「……努力します」

喜咲は、腕を組んだ。

「理想の夫って、難しいね」

俺は頷いた。

「……職業上、かなり難易度が高いですね」

「そこ、冷静に分析しないで!」

こうして。

妻の専業主婦生活シミュレーションが始まった。

ただし。

開始三分で、すでに夫の勤務条件に問題が発生していた。

* * *

【専業主婦になった妻の一日は、予定でいっぱいです】

「まず、朝七時!」

喜咲がスマートフォンを操作する。

「起きます!」

「はい」

「朝ごはんを作ります!」

「はい」

「優を送り出します!」

「……ありがとうございます」

「それから、洗濯!」

「はい」

「掃除!」

「はい」

「買い物!」

「……はい」

「お昼ごはん!」

俺は、予定表を見た。

「……喜咲」

「何?」

「午前中の予定が、かなり詰まっていますね」

彼女は画面を見つめた。

「……本当だ」

「はい」

「何か、仕事の予定表みたい」

「そうですね」

喜咲は、眉をひそめた。

「……専業主婦って、思ってたより忙しいんだね」

俺は頷いた。

「家事は、時間も手間もかかりますから」

「……確かに」

「特に毎日のことなので」

「うん」

「仕事を辞めたからといって、何もしなくていいわけではありません」

喜咲は、しばらく画面を見つめていた。

そして。

「……でもさ」

「はい」

「会議はないよね?」

「そうですね」

「部下から急に相談されることもない」

「はい」

「取引先から電話が来ることもない」

「……そうですね」

「じゃあ、最高じゃない!」

俺は少し考えた。

「……家事にも、予定外のことは起きますよ」

「例えば?」

「洗濯物が乾かなかったり」

「うん」

「掃除の途中で、別の汚れが見つかったり」

「うん」

「夕食の準備をしていたら、必要な食材がなかったり」

喜咲が、俺を見た。

「……優」

「はい」

「何でそんなに詳しいの?」

「俺も家事をしていますので」

「……あ、そっか」

俺は頷いた。

すると。

喜咲の表情が変わった。

「……ねえ、優」

「はい」

「私が専業主婦になったら、家事って全部私の仕事になるの?」

俺は首を横に振った。

「そう決める必要はありません」

「……そうなの?」

「はい。二人の生活ですから、分担は相談しましょう」

喜咲は、少し驚いた顔をした。

「……専業主婦なのに?」

「専業主婦でも、休みは必要でしょう」

「……うん」

「俺が家事をしなくていい理由にはなりません」

彼女は、しばらく俺を見つめていた。

そして。

「……優」

「はい」

「それ、すごくいいこと言ってる」

「ありがとうございます」

「でも」

「……はい?」

「じゃあ、私の仕事って何になるの?」

俺は考えた。

朝食。

洗濯。

掃除。

買い物。

夕食。

それを全部二人でやるなら、妻は何をするのだろう。

いや。

そもそも、何をするべきかを決める必要があるのだろうか。

「……喜咲が、どんな生活をしたいかによりますね」

彼女は、目を細めた。

「……また相談?」

「はい」

「優って、本当に相談好きだよね」

「結婚生活には必要だと思っています」

「……じゃあ」

喜咲は、スマートフォンを操作した。

「家事分担について、夫婦会議を開きます!」

俺は、思わず笑った。

「……会議を減らしたかったのでは?」

喜咲が固まった。

「……あ」

「はい」

「……また会議を増やしてる!」

彼女は、頭を抱えた。

「私、会社を辞めても企画部長が抜けない!」

どうやら。

専業主婦になっても。

妻の中の企画部長は、簡単には退職してくれないらしい。

* * *

【何もしない時間まで、予定に入れますか?】

「……気を取り直して!」

喜咲は、スマートフォンを操作した。

「午後は自由時間!」

「いいですね」

「平日に買い物に行ける!」

「はい」

「映画も観られる!」

「そうですね」

「カフェでゆっくりできる!」

「はい」

「仕事の電話を気にしなくていい!」

そこで、彼女の指が止まった。

「……いいな」

小さな声だった。

俺は、妻を見た。

企画部長になってから、喜咲は忙しかった。

朝から会議。

昼も会議。

午後は部下の相談。

夕方は取引先との打ち合わせ。

帰宅しても、仕事の連絡が入る。

以前の喜咲も忙しかったが、今は責任が増えている。

そして。

何よりつらそうなのは、自分が好きだった企画の仕事に時間を使えないことだった。

「……優」

「はい」

「私、最近ね」

「はい」

「何も考えない時間がないんだよ」

俺は黙って聞いた。

「休みの日も、月曜日の会議が気になるし」

「……はい」

「ごはん食べてても、部下からの相談を思い出すし」

「はい」

「お風呂に入ってても、企画の進捗が気になる」

喜咲は、苦笑した。

「……休んでるつもりでも、頭の中で仕事してるんだよね」

俺は頷いた。

「……それは疲れますね」

「うん」

「何もしない時間があってもいいと思います」

喜咲は、少し驚いた顔をした。

「……優が言う?」

「はい」

「医者なのに?」

「医師も休みは必要です」

「……本当に?」

「もちろんです」

「じゃあ、ちゃんと休んでよ」

「……努力します」

「それ、いつも言ってる!」

返す言葉がなかった。

喜咲は笑った。

そして。

スマートフォンに、新しい予定を入力した。

《午後二時 何もしない》

俺は、それを見た。

「……喜咲」

「何?」

「何もしないことを、予定に入れるんですか?」

「だって、決めておかないと何かしちゃいそうで」

「……なるほど」

「何?」

「何もしない時間まで、管理しているんですね」

喜咲が、画面を見た。

一秒。

二秒。

「……本当だ!」

彼女は、吹き出した。

「私、何もしないことまで仕事にしてる!」

「……職業病ですね」

「重症だね!」

俺も笑った。

喜咲は《何もしない》という予定を削除した。

画面に、空白ができた。

何の予定もない午後。

誰からも呼ばれない時間。

何かを決めなくてもいい時間。

喜咲は、その空白をしばらく見つめていた。

「……いいな」

さっきより、少し静かな声だった。

「……こういう時間、欲しかったんだ」

俺は、その言葉を忘れないようにした。

妻が欲しいのは、仕事を辞めることなのか。

それとも。

仕事に追いかけられない時間なのか。

まだ、分からなかった。

* * *

【スーパーに入った瞬間、企画部長が復活しました】

「……優!」

「はい」

「買い物に行こう!」

「……今からですか?」

「うん!」

喜咲は、スマートフォンを閉じた。

「ちょうど明日の朝ごはんの材料も欲しいし」

「そうですね」

「専業主婦になったら、平日の昼間にゆっくり買い物できるんだよね」

「はい」

「今日は夜だけど、気分だけでも!」

俺は頷いた。

こうして。

俺たちは、近くのスーパーに向かった。

もちろん。

この日の買い物は、ただの買い物だった。

少なくとも。

店に入るまでは。

「……優、ちょっと待って」

食品売り場を歩いていた喜咲が、突然足を止めた。

「……何かありましたか?」

「これ!」

彼女は、棚に並んだ商品を指さした。

「このパッケージ、前と変わってる!」

「……そうなんですか?」

「うん!」

喜咲は、商品を手に取った。

「ほら、ここの色!」

「……はい」

「前より、ずっと見やすい」

「そうなんですか」

「それに、この文字の大きさ!」

「……はい」

「商品の特徴が、すぐ分かるようになってる」

俺は、パッケージを見た。

正直に言おう。

俺には、そこまで大きな違いが分からなかった。

だが。

喜咲には、分かるらしい。

「……これ、考えた人、上手いな」

彼女は、楽しそうに笑った。

「棚に並んだときのことまで考えてる」

「……そうなんですね」

「だって、優。見て!」

喜咲は、商品を元の位置に戻した。

そして、隣の商品と見比べた。

「ほら、離れて見ると分かるでしょ?」

「……確かに、少し目立ちますね」

「そう!」

妻の声が弾んだ。

「こういうの、すごく大事なんだよ!」

俺は、彼女の横顔を見た。

さっきまで。

仕事を辞めたあとの、何もしない時間を楽しそうに想像していた。

会議がなくなる。

責任が減る。

仕事の電話から解放される。

それを、心から喜んでいた。

なのに。

今。

喜咲は、食品売り場で目を輝かせている。

疲れ切った企画部長の顔ではない。

自分の好きなことを見つけた人間の顔だった。

「……ねえ、優」

「はい」

「もし私がこの商品を担当してたらさ」

「はい」

「もう少し、ここの文字を大きくするかな」

「……そうなんですか」

「うん。あと、色も少し変えるかも」

彼女は、少し離れた場所から棚を見た。

「……でも、今のままでも十分いいな」

その声には。

仕事の愚痴を話すときにはなかった、楽しさがあった。

俺は、つい笑ってしまった。

「……喜咲」

「何?」

「今、かなり楽しそうですね」

彼女が、こちらを見た。

「……え?」

「仕事の話をしているときの喜咲は、楽しそうです」

一瞬。

彼女の表情が止まった。

「……あ」

そして。

手に持っていた商品を見た。

「……本当だ」

小さく、つぶやいた。

「私、また仕事のこと考えてる」

俺は頷いた。

「そうですね」

「……専業主婦になる想像をしてたのに」

「はい」

「結局、商品のこと考えてる」

喜咲は、少し困ったように笑った。

「……何やってるんだろ、私」

俺は答えなかった。

代わりに、彼女の手元の商品を見た。

「……喜咲」

「何?」

「それ、買いますか?」

「え?」

「かなり気に入っているようなので」

彼女は、目を丸くした。

そして。

「……優!」

「はい」

「私はパッケージを評価してるの!」

「……そうですね」

「買うかどうかは、中身も大事でしょ!」

「……失礼しました」

喜咲が笑った。

俺も笑った。

ただ。

俺には、一つ気になることがあった。

妻は、仕事を辞めたいと言っている。

それなのに。

仕事に関係することを、こんなに楽しそうに話している。

矛盾しているように見える。

けれど。

本当に、矛盾なのだろうか。

* * *

【仕事が嫌いなのに、仕事の話をすると笑う妻】

帰宅後。

買ってきたものを片づけながら、喜咲が言った。

「……ねえ、優」

「はい」

「私、何であんなに楽しそうだったんだろ」

俺は、彼女を見た。

「スーパーでの話ですか?」

「うん」

「……商品を見るのが好きだからでは?」

「……そうなんだけど」

喜咲は、少し考えた。

「私さ、最近ずっと仕事の愚痴ばっかりだったじゃん」

「そうですね」

「会議が多いとか」

「はい」

「企画を考える時間がないとか」

「はい」

「部下の相談が終わらないとか」

「……そうですね」

「なのに」

彼女は、小さく笑った。

「……商品を見ると、楽しいんだよね」

俺は頷いた。

「そう見えました」

「……うん」

喜咲は、しばらく黙っていた。

それから。

「……私、仕事が嫌いになったんだと思ってた」

「……そうですか」

「だって、毎日疲れるし」

「はい」

「朝、会社に行くのが嫌な日もあるし」

「……はい」

「もう辞めたいって、本気で思うこともある」

俺は黙って聞いていた。

喜咲は、少し悔しそうに笑った。

「……でも、商品を考えるのは好きなんだよ」

「はい」

「どうしたら手に取ってもらえるかな、とか」

「そうですね」

「どんな人が買ってくれるかな、とか」

「はい」

「自分の考えたものが、本当に店に並んだら嬉しいだろうな、とか」

彼女は、そこで言葉を止めた。

俺は、少し考えた。

「……喜咲」

「何?」

「仕事の中に、好きなことと嫌なことがあるのは、おかしくないと思います」

彼女が、顔を上げた。

「……そう?」

「はい」

「でも、好きな仕事なのに辞めたいって思うんだよ?」

「そういうこともあると思います」

「……どうして?」

俺は考えた。

医師の仕事でも。

やりがいを感じることはある。

一方で。

疲れる日もある。

思うようにいかない日もある。

仕事が好きだからといって、すべてが楽しいわけではない。

ただ。

その説明を始めたら。

妻は、また俺を診察中の医師だと思うかもしれない。

だから。

今回は、短く答えた。

「……好きな仕事でも、疲れるときはありますから」

喜咲は、少し黙った。

「……そっか」

「はい」

「……そうだよね」

彼女は、ソファに腰を下ろした。

そして。

「……私、企画部長になったんだよね」

「そうですね」

「でも、企画を考える時間が減ってる」

「……はい」

「部下の相談には答えなきゃいけないし」

「はい」

「会議にも出なきゃいけないし」

「……そうですね」

「自分の仕事をする時間がない」

彼女は、天井を見上げた。

「……何のために企画部長になったんだろ」

俺には、すぐに答えられなかった。

ただ。

スーパーでの妻の顔が、頭から離れなかった。

企画を考える喜咲は。

本当に、楽しそうだった。

* * *

【夫の帰宅を待つ生活も、悪くありません】

「……さて!」

喜咲が、突然立ち上がった。

「シミュレーションの続き!」

「……まだ続くんですか?」

「もちろん!」

彼女は、スマートフォンを取り出した。

「最後は夕方!」

「はい」

「晩ごはんを作って」

「はい」

「お風呂の準備をして」

「……はい」

「優が帰ってくるのを待つ!」

俺は少し笑った。

「……楽しみにしてくれるんですか?」

「当たり前でしょ!」

「それは嬉しいですね」

喜咲も笑った。

そして。

「……でもさ」

「はい」

「優って、毎日同じ時間に帰れるわけじゃないよね」

「そうですね」

「帰りが遅くなる日もある」

「あります」

「……そっか」

彼女は、予定表を見つめた。

《優、帰宅》

その予定の時刻を、何度か動かした。

そして。

「……これ、決められないね」

「……そうですね」

「医者の妻って、予定が立てにくいな」

「……申し訳ありません」

「今さら謝らないでよ」

喜咲は笑った。

だが。

少しだけ、その表情が曇った。

「……もし、私が毎日家にいたらさ」

「はい」

「優が帰ってくるまで、一人なんだよね」

「そういう日もあると思います」

「……うん」

俺は、彼女を見た。

「……寂しいですか?」

喜咲は、少し考えた。

「……どうだろ」

「はい」

「今だって、一人の時間はあるし」

「そうですね」

「友達と会ったり、趣味を楽しんだりもできる」

「はい」

「家にずっといなきゃいけないわけじゃないもんね」

「もちろんです」

喜咲は、頷いた。

「……それなら、楽しそう」

俺も笑った。

だが。

彼女は、もう一度予定表を見た。

「……でもさ、優」

「はい」

「私、仕事から帰ってくるとき」

「はい」

「優が先に家にいると、ちょっと嬉しいんだよね」

俺は、少し驚いた。

「……そうなんですか?」

「うん」

彼女は、少し照れくさそうに笑った。

「『ただいま』って言ったら、『お帰りなさい』って返ってくるでしょ?」

「はい」

「それで、『今日もお疲れさまでした』って言ってくれる」

「……そうですね」

「……あれ、結構好きなんだ」

俺は、胸の奥が温かくなるのを感じた。

「……それは、知りませんでした」

「今、言ったからね」

「……はい」

喜咲は笑った。

そして。

「……専業主婦になったら、私が言う側になるんだね」

「そうですね」

「それも、いいな」

「はい」

「でも」

彼女は、俺を見た。

「……私も、たまには言われたい」

俺は頷いた。

「言いますよ」

「……え?」

「喜咲が専業主婦になっても」

「……うん」

「今日も一日、お疲れさまでしたって」

喜咲の表情が変わった。

「……専業主婦でも?」

「もちろんです」

「……何で?」

俺は、少し考えた。

「家事も、自分の時間を大切にすることも、毎日の生活ですから」

「……うん」

「俺が仕事から帰ってきたときに、喜咲が笑っていてくれたら嬉しいです」

彼女は、黙った。

俺は続けた。

「ただ」

「……何?」

「そのために、喜咲が一日中、俺の帰りを待つ必要はありません」

「……うん」

「喜咲自身の時間も、大切にしてほしいです」

彼女は、少しだけ笑った。

「……優」

「はい」

「私が仕事を辞めても、そう言ってくれる?」

「はい」

「仕事を続けても?」

「もちろんです」

「……本当に?」

俺は、彼女を見た。

昨日の俺なら。

きっと、こう答えていた。

『喜咲が決めればいいと思います』

それは、間違いではない。

けれど。

妻が聞きたいのは、それだけではない。

だから。

今度は、俺自身の気持ちを伝えた。

「……正直に言うと」

「……うん」

「喜咲と一緒に過ごす時間が増えたら、嬉しいです」

彼女が、顔を上げた。

「……うん」

「でも、喜咲が仕事の話を楽しそうにしているのも、好きです」

「……優」

「どちらか一つを、俺の都合で選んでほしくはありません」

彼女は黙っていた。

俺は続けた。

「……ただ、最近の喜咲が疲れているのは、心配です」

「……うん」

「仕事を辞めるかどうかは、まだ分かりません」

「……うん」

「でも、今より楽になれる方法があるなら、一緒に考えたいです」

喜咲は、しばらく俺を見つめていた。

そして。

「……優」

「はい」

「今日、すごく夫っぽい」

俺は少し考えた。

「……一応、夫なので」

「そこは素直に喜んで!」

「ありがとうございます」

喜咲が笑った。

俺も笑った。

すると。

彼女が、そっと俺の肩に頭を預けた。

「……ねえ、優」

「はい」

「専業主婦になっても、私のこと好き?」

「もちろんです」

「仕事ばっかりしてても?」

「はい」

「家事が苦手な日があっても?」

「……ありますね」

「そこは否定して!」

「……失礼しました」

喜咲は、俺の肩を軽く叩いた。

そして。

小さく笑った。

「……ほんと、面倒くさい夫」

「すみません」

「でも」

彼女は、俺の手を握った。

「……今日も、優がいいかな」

俺は、握り返した。

「……俺もです」

その夜。

妻が専業主婦になるかどうかは、決まらなかった。

けれど。

昨日よりも少しだけ。

俺たちは、お互いの気持ちを知ることができた。

* * *

【楽になることと、幸せになることは同じですか?】

しばらくして。

喜咲は、スマートフォンを開いた。

《専業主婦になった私の一日》

そこには、たくさんの予定が並んでいた。

朝食。

洗濯。

掃除。

買い物。

自由時間。

夕食。

夫の帰宅。

どれも、悪くない。

いや。

今の喜咲にとっては、魅力的なことばかりだった。

時間に追われない。

会議に追われない。

仕事の電話に追われない。

自分の時間を、自分で決められる。

「……いい生活だね」

彼女が言った。

「そうですね」

「……本当に」

喜咲は、画面を見つめた。

「私、こういう生活もしてみたい」

俺は頷いた。

「いいと思います」

「……うん」

彼女は、少し考えた。

そして。

「……でも、優」

「はい」

「何か、違う気もするんだよね」

俺は、彼女を見た。

「……何がですか?」

「分かんない」

「……そうですか」

「専業主婦になるのが嫌なわけじゃないんだよ」

「はい」

「家のことをするのも、別に嫌いじゃないし」

「……そうですね」

「自分の時間が増えるのも嬉しい」

「はい」

「でも」

喜咲は、そこで言葉を止めた。

俺は、待った。

「……それだけで、私、満足するのかな」

俺は答えなかった。

妻の人生だ。

俺が決めることではない。

だが。

今回は、そこで話を終わらせるつもりもなかった。

「……喜咲」

「何?」

「さっき、スーパーで楽しそうでしたね」

彼女が、顔を上げた。

「……うん」

「ああいう時間も、好きなんですよね」

「……そうだね」

「それなら、仕事を辞める前に、少し考えてもいいと思います」

「……何を?」

俺は、慎重に言葉を選んだ。

「仕事の何がつらくて、何が好きなのかを」

喜咲は、黙った。

俺は続けた。

「今の働き方がつらいことと、仕事そのものが嫌いなことは、同じとは限りません」

「……うん」

「もちろん、辞めることも選択肢です」

「……うん」

「でも、仕事を続けながら、何かを変える方法もあるかもしれません」

喜咲は、スマートフォンを見つめた。

「……そっか」

小さく、つぶやいた。

そして。

「……私、ちょっと極端だったのかも」

「……そうですか?」

「うん」

彼女は、苦笑した。

「仕事を辞めるか、我慢して続けるか」

「はい」

「その二つしか考えてなかった」

「……そうですね」

「でも、本当はほかにもあるんだよね」

俺は頷いた。

「休むことも、働き方を変えることも、考えられます」

「……うん」

「今すぐ結論を出す必要もありません」

喜咲は、大きく息を吐いた。

「……私、仕事が嫌いなんじゃなくて」

「はい」

「疲れてるだけかもしれない」

その言葉を聞いて。

俺は、少し安心した。

ただし。

安心したのは、妻が仕事を続けそうだからではない。

喜咲が、自分の気持ちを少しずつ言葉にできるようになったからだ。

仕事を辞める。

仕事を続ける。

専業主婦になる。

働き方を変える。

どの選択にも、それぞれの生活がある。

楽になることと、幸せになることも、必ずしも同じではない。

そして。

幸せの形は、今すぐ一つに決めなくてもいい。

「……ねえ、優」

「はい」

「私、今日はちょっと楽しかった」

「そうですか」

「うん」

喜咲は、笑った。

「専業主婦になった自分を考えるのも」

「はい」

「スーパーで商品を見るのも」

「そうですね」

「優と、こうやって話すのも」

俺は頷いた。

「俺も楽しかったです」

すると。

彼女が、少し照れくさそうに笑った。

「……だったら、また相談していい?」

「もちろんです」

「仕事のこと、また愚痴るかもよ?」

「構いません」

「同じ話、何回もするかもよ?」

「……それは、すでに経験しています」

「そこは黙ってて!」

俺は笑った。

喜咲も笑った。

そして。

彼女は、スマートフォンを閉じた。

* * *

【私が本当に辞めたいものは、何ですか?】

「……優」

「はい」

「私、明日も会社に行くよ」

「そうですね」

「……正直、ちょっと嫌だけど」

俺は頷いた。

「……そういう日もありますね」

「うん」

喜咲は、ソファに深く腰を下ろした。

「また会議だし」

「はい」

「また部下から相談されるし」

「……そうですね」

「また、自分の企画を考える時間がないかもしれない」

俺は、黙って聞いていた。

すると。

彼女が、少し笑った。

「……でもさ」

「はい」

「明日、ちょっと楽しみなこともあるんだよね」

「……何ですか?」

「企画のこと」

俺は、彼女を見た。

「……そうですか」

「うん」

喜咲は、少し恥ずかしそうに笑った。

「……やっぱり、好きなんだと思う」

「仕事がですか?」

「……全部じゃないけど」

「はい」

「企画を考えるのは、好き」

「そうですね」

「自分の考えたことが、商品になるのも好き」

「はい」

「誰かが、それを手に取ってくれたら嬉しい」

俺は、頷いた。

「……そうですね」

喜咲は、少し考えた。

そして。

「……でも、今の生活は、つらい」

「……はい」

「時間がない」

「はい」

「仕事が終わらない」

「……そうですね」

「何のために働いてるんだろって、思う日もある」

彼女は、俺を見た。

「……何か、変だよね」

俺は首を横に振った。

「そうは思いません」

「……どうして?」

「喜咲が、本当に仕事を大切にしているからだと思います」

彼女は、少し驚いた顔をした。

「……大切にしてるから?」

「はい」

「……辞めたいって言ってるのに?」

「それでもです」

喜咲は、しばらく黙っていた。

そして。

小さく、笑った。

「……そっか」

俺は、彼女の手を握った。

今すぐ答えを出す必要はない。

仕事を辞めることもできる。

続けることもできる。

休むことも、働き方を変えることも、選択肢にある。

そのどれが、喜咲にとって幸せなのか。

俺には、まだ分からない。

けれど。

一緒に考えることはできる。

喜咲は、俺の手を握り返した。

そして。

スマートフォンの予定表を、もう一度開いた。

《専業主婦になった私の一日》

朝食。

掃除。

買い物。

自由時間。

夫の帰宅。

彼女は、その予定をしばらく見つめていた。

それから。

画面を閉じた。

「……ねえ、優」

「はい」

「私、仕事を辞めたいんだと思ってた」

喜咲は、少しだけ笑った。

「でも……私、本当に辞めたいのは、何なんだろう」


第43話 完

次回予告

第5部 第4話/通算第44話

「仕事を辞めない理由が、お金じゃありませんでした」

夫の給料だけで、生活していける。

仕事を辞めることもできる。

専業主婦になることも、現実的な選択肢だ。

それなのに。

喜咲は、まだ仕事を辞める決断ができない。

毎日、疲れている。

会議ばかりで、自分のやりたい仕事ができない。

責任だけが増えていく。

それでも。

自分の企画が商品になる瞬間を、まだ見ていたい。

仕事を辞めたい日もある。

でも、仕事を続けたいと思う瞬間もある。

では。

自分は、何のために働いてきたのだろう。

次回。

喜咲は、仕事から少し距離を置き、自分が働き続けてきた理由を考える。

そして。

ある答えにたどり着く。

「……私、生活のためだけに働いてたんじゃなかった」


作品案内

四十代。

婚活は面倒だった。

恋愛は、もっと面倒だった。

そして結婚したら、仕事も家事も休日も、二人で考えることになった。

それでも今日も、この人がいい。

そんな大人の婚活・結婚ラブコメです。



作者より

第43話までお読みいただき、ありがとうございます。

今回は、「専業主婦になったら、幸せになれるのか」という問題を描きました。

喜咲には、仕事を辞める選択肢があります。

優の収入だけで、夫婦二人の生活は十分に成り立つからです。

専業主婦として家庭を大切にする生き方も、自分の時間を楽しむ生き方も、立派な選択です。

一方で。

喜咲には、仕事を通じて得てきた喜びもあります。

自分の企画が形になること。

商品が店頭に並ぶこと。

自分の考えたものを、誰かが手に取ってくれること。

そうした喜びを大切にしてきたからこそ、簡単には決められないのかもしれません。

仕事を辞めたいことと、仕事そのものが嫌いなことは、必ずしも同じではありません。

そして。

専業主婦になることも、仕事を続けることも、どちらかが正しいというものではありません。

大切なのは、自分にとって何が幸せなのかを考えること。

その答えは、人生の途中で変わってもいいのだと思います。

今回、喜咲は専業主婦になる自分を想像しました。

その結果、自分が仕事の何を嫌がり、何を大切にしてきたのか、少しずつ見え始めています。

次回は、その答えをさらに深く考えます。

働く必要がないのに、なぜ働きたいのか。

仕事を続ける理由が、お金ではないとしたら。

その理由は、いったい何なのか。

優と喜咲の人生相談は、まだまだ続きます。

あなたなら、経済的に働く必要がなくなったとき、今の仕事を続けたいですか?

ぜひ、感想やコメントで教えてください。

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