第2話/通算第42話 「夫の給料だけで暮らせるなら、妻は働かなくていいですか?」
第5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』
前書き
結婚したら、ずっと一緒にいられると思っていた。
でも、現実はそんなに甘くありません。
四十五歳、バツイチ医師の小鳥遊優。
四十二歳、食品メーカーで働く東海林喜咲。
婚活アプリで出会い、恋をして、何度も喧嘩をして、それでも二人は夫婦になりました。
第4部では、結婚してから最大の夫婦喧嘩を経験。
それでも最後には、お互いに「今日もあなたがいい」と伝えることができました。
ようやく、幸せな新婚生活が始まる。
……はずだったのですが。
妻が出世しました。
喜咲は企画部長に昇進。
仕事が増え、責任が増え、会議が増え、夫婦の時間が減っていく。
夫は妻の成功を喜びたい。
妻も仕事を頑張りたい。
でも、二人とも一緒にいたい。
ここで、新しい問題が生まれます。
結婚した二人は、自分の人生と夫婦の時間をどう両立させればいいのでしょうか。
夫の収入だけでも生活できる。
妻が仕事を続けることも、専業主婦になることも、働き方を変えることもできる。
でも、それは妻だけが考える問題なのでしょうか。
夫が働き方を見直すこともできる。
家事の分担を変えることもできる。
二人で過ごす時間の作り方を変えることもできる。
どちらか一人が夢や仕事を諦めるのではなく、二人が納得できる生き方を探すことはできないのでしょうか。
もちろん、相手の人生を勝手に決めることはできません。
けれど、自分の希望を言わずに、すべてを相手に任せることが優しさとも限りません。
第5部では、仕事への思い、夫婦の時間、一人で過ごす時間、そして将来の人生について、優と喜咲が向き合います。
もちろん、真面目な話ばかりではありません。
正しすぎる医師の夫と、毒舌だけれど寂しがり屋の妻。
今回も、夫婦の会話は簡単には終わりません。
婚活は終わった。
結婚式も終わった。
でも、人生の選択は終わらない。
夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?
そして。
自分の人生を大切にしながら、二人で幸せになることはできますか?
笑って、ときどき胸が痛くなって、最後には二人を応援したくなる。
そんな大人の結婚ラブコメ、第5部の開幕です。
あなたなら、愛する人との時間と、自分の人生をどう両立させますか?
ぜひ、優と喜咲の新しい十話を見届けてください。
「……優は、私に仕事を辞めてほしいの?」
妻にそう聞かれた。
俺は答えた。
「辞めたいなら、辞めてもいいですよ」
その瞬間。
「……は?」
喜咲の箸が止まった。
まずい。
この反応は、知っている。
結婚してから最大の夫婦喧嘩をしたときも、妻はこんな顔をしていた。
「……優」
「はい」
「今、何て言った?」
「辞めたいなら、辞めてもいいと」
「……そう」
喜咲が静かに箸を置いた。
「……じゃあ、聞くけど」
「はい」
「優は、私にどうしてほしいの?」
俺は考えた。
妻の人生は、妻が決めるべきだ。
俺が決めることではない。
だから。
「……喜咲が決めればいいと思います」
その瞬間。
「そういうことじゃない!」
俺は反射的に背筋を伸ばした。
四十五歳。
バツイチ。
医師。
そして、現在は再婚している。
それなりに人生経験を積んできたつもりだった。
だが。
妻の機嫌を悪くする能力だけは、いまだに成長が著しい。
しかも。
今回の俺は、決して間違ったことを言ったつもりではなかった。
だからこそ。
何が間違っていたのか、分からなかった。
* * *
【企画部長になった妻が、疲れています】
喜咲が企画部長になってから、俺たちの生活は変わった。
朝は会議。
昼も会議。
午後は部下からの相談。
夕方は取引先との打ち合わせ。
夜には会食。
帰宅後にも仕事の連絡が届く。
以前の喜咲も、決して暇ではなかった。
食品メーカーの企画職として、自分の仕事に誇りを持っていた。
新しい商品を考えること。
企画を形にすること。
チームで一つのものを作り上げること。
彼女は、そういう仕事が好きだった。
だから、企画部長への昇進が決まったとき、俺も嬉しかった。
妻の努力が認められた。
夫として、誇らしかった。
しかし。
責任が増えるということは、時間が減るということでもあった。
先日。
俺たちは翌月の共有カレンダーを確認した。
二人とも休める日は、二日しかなかった。
喜咲は言った。
「二日しかない」
俺は答えた。
「二日あります」
結果。
医師の勤務感覚を疑われた。
それでも、二日ともデートすることにした。
共有カレンダーには、二つの《デート》が並んでいる。
場所はまだ決まっていない。
それでも俺は、その予定を見るたびに嬉しくなった。
だが。
妻は、日を追うごとに疲れていった。
「……優」
ある夜。
帰宅した喜咲が、ソファに沈み込んだ。
「はい」
「今日ね、会議が六つあった」
「……多いですね」
「六つだよ?」
「はい」
「そのうち一つがね」
「はい」
「会議の時間を減らすための会議だったの」
俺は少し考えた。
「……成果はありましたか?」
喜咲が、ゆっくり顔を上げた。
「来週、続きを話し合うことになった」
「……なるほど」
「会議を減らすための会議が、もう一つ増えたの!」
「逆効果ですね」
「冷静に分析しないで!」
喜咲はクッションを抱き締めた。
「……私、企画部長なんだよね」
「そうですね」
「企画を考える人なんだよね」
「そうですね」
「なのに、今日、企画を考えた時間がない」
俺は返答に困った。
喜咲が、大きく息を吐いた。
「……私、何のために働いてるんだろ」
その声は、冗談には聞こえなかった。
俺は彼女の隣に座った。
「……疲れていますね」
「うん」
「少し休んだほうが」
「休みたいよ」
即答だった。
「でも、部下から相談されるし、決めなきゃいけないこともあるし」
「はい」
「私が止まると、仕事も止まっちゃう気がして」
喜咲は、クッションに顔を埋めた。
「……部長って、何なんだろ」
俺には、その答えは分からなかった。
ただ。
一つだけ、はっきりしていた。
妻は、自分の仕事が嫌いになったわけではない。
それでも。
今の働き方に、疲れ切っていた。
* * *
【妻の給料がなくても、生活できます】
その日の夕食。
喜咲は、いつもより口数が少なかった。
箸を動かしながら、何か考えている。
俺は無理に話しかけなかった。
しばらくして。
「……ねえ、優」
「はい」
「ちょっと聞いていい?」
「どうぞ」
喜咲は、箸を置いた。
「……私、別に働かなくても生活できるんだよね」
俺は彼女を見た。
「……そうですね」
「優のお給料だけで、二人とも暮らせる?」
「はい」
「今の生活を続けられる?」
「十分可能です」
「……そっか」
喜咲は、小さく頷いた。
俺は医師だ。
収入は安定している。
喜咲が仕事を辞めても、夫婦二人の生活は十分に成り立つ。
もちろん、将来の生活について考える必要はある。
しかし。
今すぐ生活費に困るような状況ではない。
「……じゃあさ」
喜咲が、俺を見た。
「私、仕事を辞めてもいいんだよね?」
「経済的には問題ありません」
「……そう」
「ただ、仕事を辞めるかどうかは、喜咲自身が」
「優」
「はい」
「今は家計の説明を聞いてるんじゃないの」
俺は口を閉じた。
喜咲は、少し困ったように笑った。
「……ねえ」
「はい」
「私が仕事を辞めたら、優はどう思う?」
俺は考えた。
妻が仕事を辞める。
帰宅時間を気にする必要がなくなるかもしれない。
休日に会社から連絡が入ることも減るだろう。
二人で過ごす時間が増える可能性もある。
それは、嬉しい。
しかし。
喜咲は、自分の仕事を大切にしてきた。
企画を考えるときの彼女は、楽しそうだった。
自分の提案が商品になったとき、本当に嬉しそうに話してくれた。
それを失ってしまうことが、彼女にとって幸せなのだろうか。
俺には分からなかった。
だから。
「……辞めたいなら、辞めてもいいですよ」
そう答えた。
そして。
冒頭の夫婦喧嘩が始まった。
* * *
【正しい答えなのに、妻が怒っています】
「……喜咲」
「何?」
「なぜ怒っているんですか?」
「それを聞く?」
「……はい」
喜咲は、俺をじっと見た。
「私が仕事を辞めてもいいの?」
「もちろんです」
「続けてもいいの?」
「はい」
「専業主婦になっても?」
「喜咲が望むなら」
「……じゃあ」
彼女は、少し身を乗り出した。
「優は、何がいいの?」
俺は考えた。
「……どれか一つを、俺が選ぶべきではないと思います」
喜咲の眉が上がった。
「……また、それ?」
「……はい?」
「だから!」
彼女は、テーブルに手を置いた。
「私の人生を優に決めてほしいって言ってるんじゃないの!」
「……分かっています」
「分かってない!」
俺は黙った。
喜咲は、少し声を落とした。
「……私ね」
「はい」
「優に仕事を辞めろって言われたいわけじゃないんだよ」
「はい」
「かといって、絶対に働けって言われたいわけでもない」
「そうですね」
「でも、何を聞いても『喜咲が決めればいい』って言われると」
彼女は、そこで言葉を止めた。
俺は待った。
「……なんかさ」
「はい」
「私の人生に、優は関係ないみたいじゃん」
胸の奥に、何かが刺さった。
「……そんなことはありません」
「じゃあ、何で自分の気持ちを言わないの?」
「それは」
俺は言葉に詰まった。
相手の人生を尊重する。
それは、間違っていないはずだった。
仕事を続けるか。
辞めるか。
専業主婦になるか。
どれも喜咲が決めるべきことだ。
俺が自分の希望を押しつけてはいけない。
そう思っていた。
けれど。
喜咲は、俺の説明を聞いて、寂しそうな顔をしていた。
「……ねえ、優」
「はい」
「私が仕事辞めたら、嬉しい?」
俺は慎重に答えた。
「……喜咲が楽になるなら、嬉しいです」
「……そう」
「一緒に過ごせる時間も増えるかもしれません」
「……うん」
「ただ、それが喜咲にとって本当にいい選択なのかは」
「もういい」
彼女が言った。
俺は口を閉じた。
「……小鳥遊さん」
突然、名字で呼ばれた。
「……はい」
「今、あなたは私の夫として話してる?」
「もちろんです」
「じゃあ、どうして全部、説明みたいになるの?」
俺は答えられなかった。
喜咲は、ため息をついた。
「……私さ」
「はい」
「優に、私のことを考えてほしかっただけなんだけど」
その言葉は。
怒鳴られるより、ずっと痛かった。
俺は、妻の人生を尊重しているつもりだった。
しかし。
妻には、人生を一人で考えさせられているように聞こえていたのだ。
* * *
【いい夫のつもりで、妻を一人にしていました】
その夜。
喜咲は先に寝室へ向かった。
俺はリビングに残った。
テーブルには、二人分の食器が並んでいる。
俺は片づけようとして、手を止めた。
頭から離れない言葉があった。
『私の人生に、優は関係ないみたいじゃん』
そんなはずはない。
俺の人生には、喜咲がいる。
これからも、一緒に生きていきたい。
だから結婚した。
それなのに。
俺は、妻の人生について何も言わないことが、いい夫の条件だと思っていた。
「……違いましたね」
小さくつぶやいた。
思い出した。
第39話。
結婚してから最大の夫婦喧嘩をした。
あのときも、俺は自分の本音を隠していた。
正しいことを言っていれば、相手を傷つけずに済むと思っていた。
だが。
それが、かえって妻を傷つけた。
第41話では、少し変われた。
妻の昇進は嬉しい。
でも、二人の時間が減るのは寂しい。
その両方を、言葉にできた。
なのに。
今回は、また同じところで立ち止まっている。
俺は共有カレンダーを開いた。
翌月。
《デート》
《デート》
二つの予定が並んでいる。
その日を、俺は楽しみにしていた。
喜咲と食事に行きたい。
ゆっくり話したい。
二人で出かけたい。
仕事の予定を気にせず、一緒に過ごしたい。
それは、俺の希望だ。
だったら。
どうして、妻に言えなかったのだろう。
答えは分かっていた。
俺が「もっと一緒にいたい」と言えば。
喜咲は、自分の仕事を続けることに負い目を感じるかもしれない。
俺が「無理をしないでほしい」と言えば。
仕事を辞めるように聞こえるかもしれない。
だから、どちらも言わなかった。
その結果。
俺の本音は、何も伝わっていなかった。
「……また、いい人になろうとしていましたね」
俺は苦笑した。
四十五歳。
医師。
バツイチ。
そして、再婚した夫。
それだけ人生経験を重ねても。
俺は、まだ自分の気持ちを伝えるのが下手だった。
だが。
今回の問題は、謝るだけでは終わらない。
妻は、本当に仕事を辞めるかもしれない。
あるいは、働き続けるかもしれない。
その選択は、これからの夫婦の生活にも関わってくる。
だから。
俺は、何も言わずにいたくなかった。
食器を片づけた。
そして。
寝室へ向かった。
* * *
【妻の人生に、夫の希望を言ってもいいですか?】
寝室のドアをノックした。
「……喜咲」
しばらくして。
「……何?」
返事があった。
「少し話せますか?」
「……まだ、説明することあるの?」
「……あります」
ドアの向こうが静かになった。
まずい。
また間違えたかもしれない。
そう思ったとき。
「……入っていいよ」
俺はドアを開けた。
喜咲はベッドに座っていた。
スマートフォンを持っている。
だが、画面は消えていた。
「……優」
「はい」
「私、今日はもう会社の会議だけでお腹いっぱいなんだけど」
「分かっています」
「夫婦の会議までしたくない」
「……会議ではありません」
「じゃあ、何?」
俺は彼女の前に座った。
「……俺の気持ちを伝えに来ました」
喜咲が、少し驚いた顔をした。
「……優の?」
「はい」
「……そっか」
彼女はスマートフォンを置いた。
「……聞く」
俺は頷いた。
「さっきは、すみませんでした」
「……何が?」
「喜咲の人生だから、喜咲が決めればいい。そればかり言っていました」
「……うん」
「でも、俺がどう思っているのかは、何も言いませんでした」
彼女は黙っていた。
俺は続けた。
「俺は、喜咲に仕事を辞めてほしいわけではありません」
「……うん」
「でも、無理をして働き続けてほしいわけでもありません」
「……うん」
「喜咲が自分の仕事を楽しそうに話すとき、俺も嬉しいです」
彼女が顔を上げた。
「……本当に?」
「はい」
「……私、仕事の話ばっかりしてるよ?」
「知っています」
「最近なんか、愚痴も多いし」
「それも知っています」
「……嫌じゃない?」
俺は首を横に振った。
「喜咲が何を大切にしているのか、分かりますから」
彼女は、しばらく黙っていた。
俺は続けた。
「ただ」
「……うん」
「最近、喜咲が疲れているのを見るのは、つらいです」
彼女の表情が変わった。
「……優」
「帰ってきても、仕事のことが頭から離れなくて」
「……うん」
「一緒に食事をしていても、電話が鳴って」
「……うん」
「話しかけるのをためらうことがあります」
俺は少し笑った。
「本当は、もっと一緒にいたいです」
喜咲が黙った。
「二人で食事をしたいです」
「……うん」
「休日に出かけたいです」
「……うん」
「仕事の話も、仕事以外の話もしたいです」
喜咲は、うつむいた。
「……ごめんね」
俺は首を横に振った。
「謝ってほしいわけではありません」
「……うん」
「喜咲が仕事を頑張っていることも、応援したいです」
俺は、彼女を見た。
「俺の希望を言っていいなら、喜咲が後悔しない方を一緒に考えたいです」
喜咲が顔を上げた。
「……それ、答えになってない」
俺は頷いた。
「相談なので」
一瞬。
沈黙が落ちた。
そして。
「……っ、ふふ」
喜咲が吹き出した。
「……もう!」
「……何でしょう」
「ほんっと、優って!」
「はい」
「真面目すぎ!」
「……すみません」
「でも」
彼女は笑いながら、俺を見た。
「……今のは、ちょっと嬉しかった」
俺は、少し安心した。
「それはよかったです」
「……ねえ、優」
「はい」
「私、優に仕事を辞めろって言われたかったわけじゃないんだよ」
「分かっています」
「働けって言われたかったわけでもない」
「はい」
「……ただ、私のこと、一緒に考えてほしかった」
俺は頷いた。
「はい」
「私の人生だから、自分で決めなきゃいけないのは分かってる」
「はい」
「でも、夫婦でしょ?」
「そうですね」
「だったら、一人で悩まなくてもいいよね?」
俺は、彼女の手を握った。
「もちろんです」
喜咲は、少しだけ笑った。
そして。
「……優」
「はい」
「私、仕事を辞めるかどうか、まだ決めてないよ」
「分かっています」
「でも、最近、辞めたいって思う日がある」
「はい」
「その一方で、まだやりたい仕事もある」
「……そうですね」
「自分でも、よく分かんない」
俺は、彼女の手を握り返した。
「だったら、今すぐ決めなくてもいいと思います」
喜咲が、ゆっくり頷いた。
「……うん」
「決めるのは喜咲です。でも、決めるまで一緒に考えるのは俺にもやらせてください」
彼女は、しばらく俺を見つめていた。
それから。
「……それ、最初に言ってよ」
「……すみません」
「ほんと、優って」
喜咲は、そっと俺の肩に頭を預けた。
「……面倒くさい」
俺は少し考えた。
「……以前、喜咲も同じことを言われていましたね」
彼女が顔を上げた。
「今、それ言う?」
「……失礼しました」
喜咲が笑った。
俺も笑った。
そして。
彼女は、小さく言った。
「……でも、ありがと」
その言葉が。
今夜、何より嬉しかった。
* * *
【辞めるか続けるか、今日決めなくてもいいんです】
翌日の夜。
俺たちは、もう一度仕事の話をした。
今度は、夕食を終えてからだった。
喜咲は、昨日より少し落ち着いた表情をしていた。
「……ねえ、優」
「はい」
「昨日の話、もうちょっとしていい?」
「もちろんです」
「……また相談だけど」
「歓迎します」
「会議は嫌いなのに、相談は好きなんだね」
「喜咲と話せますので」
彼女が、一瞬黙った。
「……そういうこと、さらっと言わないで」
「本音です」
「……知ってる」
喜咲は、少しだけ頬を赤くした。
それから。
「……私さ」
「はい」
「最近、仕事を辞めたいって思うことがあるんだけど」
「はい」
「本当に辞めたいのかって聞かれると、よく分かんないんだよね」
俺は頷いた。
「……今、一番つらいのは何ですか?」
喜咲は少し考えた。
「時間がないことかな」
「……はい」
「会議も、部下の相談も、取引先との打ち合わせもある」
「はい」
「全部大事なのは分かってる」
「……そうですね」
「でも、そのせいで自分がやりたかった企画の仕事ができない」
彼女は、少し悔しそうに笑った。
「……企画部長なのにね」
俺は、黙って聞いていた。
「部下が頼ってくれるのは嬉しいんだよ」
「はい」
「でも、全部私が抱えてたら、いつまでたっても終わらない」
「……そうですね」
「……何か、変えないといけないのかも」
俺は頷いた。
「仕事を辞めること以外にも、考えられることはあると思います」
「……例えば?」
「休暇を取ることや、仕事の進め方を見直すことなどでしょうか」
「……うん」
「働き方を変えられるか、相談する方法もあります」
喜咲が、少し考えた。
「……そっか」
「はい」
「辞めるか、続けるか。それだけじゃないんだね」
「そう思います」
彼女は、しばらく黙っていた。
そして。
「……私、ちょっと極端だったかも」
「疲れていると、そういうこともあります」
「……優」
「はい」
「今、診察してない?」
「……していません」
「じゃあ、もっと夫っぽく言って」
俺は少し考えた。
そして。
「……今日も、お疲れさまでした」
そう言った。
喜咲が、目を丸くした。
「……それだけ?」
「はい」
「解決策は?」
「今は、聞いてほしいのかと思いまして」
彼女は、しばらく俺を見つめていた。
それから。
「……優」
「はい」
「今日、すごくいい夫だよ」
「ありがとうございます」
「でも、調子に乗らないでね」
「……はい」
二人で笑った。
それから、喜咲は静かに言った。
「……私ね」
「はい」
「専業主婦になること、ちゃんと考えたことなかったんだよ」
「そうですか」
「働くのが当たり前だと思ってたから」
彼女は、少しだけ遠くを見るような顔をした。
「……でも、別に辞めても生活できるんだよね」
「はい」
「それなら、考えてみてもいいのかも」
俺は頷いた。
「一つの選択肢だと思います」
「……うん」
専業主婦になること。
仕事を続けること。
働き方を変えること。
どれか一つが正しく、ほかが間違っているわけではない。
それぞれの生活に、違った価値がある。
大切なのは。
喜咲自身が、どんな人生を望んでいるかだった。
そして。
その答えを、俺が代わりに決めることはできない。
けれど。
一緒に考えることなら、できる。
「……ねえ、優」
「はい」
「私、昨日まで、仕事を辞めるなんて逃げるみたいで嫌だったんだよね」
「……そうですか」
「でも、辞めること自体が悪いわけじゃないんだよね」
「もちろんです」
「……うん」
喜咲が、小さく笑った。
「それが分かっただけでも、ちょっと楽になった」
俺は頷いた。
「よかったです」
「……まだ辞めないけどね」
「はい」
「少なくとも、今日決めることじゃないと思う」
「そうですね」
喜咲は、少し安心したように息を吐いた。
俺も、ようやく肩の力が抜けた。
問題が解決したわけではない。
明日も妻は仕事に行く。
企画部長としての責任も、なくならない。
忙しい日々も、急には変わらないだろう。
それでも。
俺たちは、一つだけ前に進めた。
仕事を辞めるかどうかを、今日決めなくてもいい。
そして。
一人で決めなくてもいい。
そのことを、二人で確認できたのだから。
* * *
【妻が働かなくなったら、幸せになれますか?】
その夜。
寝る前に、喜咲が共有カレンダーを開いていた。
「……優」
「はい」
「来月のデート、まだ場所決めてないね」
「そうですね」
「二日あるんだよね?」
「はい」
喜咲が、少し笑った。
「……二日しかない、じゃなくて?」
俺も笑った。
「二日あります」
「相変わらずポジティブ」
「本当は、もっと一緒にいたいですけどね」
彼女は、俺を見た。
「……うん」
それから。
小さく頷いた。
「……私も」
喜咲は、カレンダーを閉じた。
そして。
「……ねえ、優」
「はい」
「もし、私が仕事を辞めたらさ」
「はい」
「こういう予定、もっと増えるのかな」
俺は少し考えた。
「一緒に過ごせる時間は、増えるかもしれませんね」
「……そっか」
喜咲は、少し嬉しそうに笑った。
「平日に買い物に行ったり」
「はい」
「ゆっくり家のことをしたり」
「はい」
「自分の時間も、今より持てるかもしれないよね」
「そうですね」
「……優が帰ってくるのを、待ってたりして」
俺は少し笑った。
「無理に待つ必要はありませんよ」
「……分かってる」
喜咲も笑った。
「でも、そういう生活もあるんだなって」
「はい」
「……今まで、あんまり考えたことなかった」
彼女は、しばらく黙っていた。
俺も、何も言わなかった。
仕事を辞める。
それは、今までの生活を変えるということだ。
忙しい毎日から、少し離れることができるかもしれない。
夫婦で過ごす時間も増えるかもしれない。
喜咲が自分のために使える時間も増えるだろう。
それは、決して悪いことではない。
専業主婦という生き方も、一つの立派な選択だ。
しかし。
仕事を辞めることで得られるものがある一方で。
失うものもあるかもしれない。
企画を考える楽しさ。
仲間と一緒に仕事を進める喜び。
自分が関わった商品が形になる達成感。
そういうものを、喜咲は大切にしてきた。
もちろん、仕事を離れても新しい楽しみや役割は見つかるかもしれない。
だが。
それが、どんな生活になるのか。
俺には、まだ想像がつかなかった。
そのとき。
喜咲が、ぽつりと言った。
「……ねえ、優」
「はい」
「仕事を辞めたら、私、幸せになれるのかな」
俺は答えられなかった。
夫の給料だけで、暮らしてはいける。
けれど。
妻を幸せにできるという保証まで、そこにはなかった。
第42話 完
次回予告
第5部 第3話/通算第43話
「専業主婦になったら、幸せになれますか?」
夫の収入だけで、夫婦二人は十分に暮らしていける。
それなら。
妻が仕事を辞めて、専業主婦になったらどうなるのだろうか。
朝食を作る。
掃除をする。
買い物に行く。
夫の帰宅を待つ。
時間に追われる生活から離れれば、自分の好きなことにも時間を使えるかもしれない。
けれど。
喜咲は、ふと考えた。
「……それって、私が本当に望んでいる生活なのかな」
楽になることと、幸せになることは同じなのだろうか。
そして。
仕事を辞めたあとも、私は私のままでいられるのだろうか。
次回。
喜咲が初めて、専業主婦になる自分の生活を真剣に想像する。
「専業主婦になったら、幸せになれますか?」
作品案内
四十代。
婚活は面倒だった。
恋愛は、もっと面倒だった。
そして結婚したら、仕事も家事も休日も、二人で考えることになった。
それでも今日も、この人がいい。
そんな大人の婚活・結婚ラブコメです。
作者より
第42話までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、「夫の給料だけで暮らせるなら、妻は働かなくていいのか」という問題を描きました。
喜咲には、仕事を辞める選択肢があります。
優の収入だけで、夫婦二人の生活は十分に成り立つからです。
しかし、生活のために働く必要がないことと、仕事を続ける意味がないことは、同じではありません。
仕事には、お金以外の価値もあります。
やりがい。
人とのつながり。
自分の考えたものが形になる喜び。
一方で、専業主婦として家庭を支えたり、自分の時間を大切にしたりする生き方にも価値があります。
大切なのは、どちらが正しいかではなく、その人がどんな人生を望んでいるかではないでしょうか。
そして今回は、優にも新しい課題が生まれました。
相手の人生を尊重することと、相手に何も言わないことは違う。
「あなたが決めればいい」という言葉は、正しいかもしれません。
でも、その言葉だけでは、夫婦として寂しいこともある。
だからこそ、優と喜咲は、今回も相談することを選びました。
次回は、喜咲が専業主婦になる自分を想像します。
働くこと。
働かないこと。
そして、自分が幸せだと思える生活とは何か。
二人の人生相談は、まだまだ続きます。
あなたは、経済的に働く必要がなくなったら、今の仕事を続けたいですか?
ぜひ、感想やコメントで教えてください。
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524
Momokun Official https://momokun.jp/




