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『婚活アプリのプロフィールに「夜の相性も大切です」と書いた女とマッチしました』  作者: Momokun
第5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』
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41/64

第1話/通算第41話 「妻が出世したら、夫婦の時間が減りました」

第5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』


前書き


結婚したら、ずっと一緒にいられると思っていた。


でも、現実はそんなに甘くありません。


四十五歳、バツイチ医師の小鳥遊優。


四十二歳、食品メーカーで働く東海林喜咲。


婚活アプリで出会い、恋をして、何度も喧嘩をして、それでも二人は夫婦になりました。


第4部では、結婚してから最大の夫婦喧嘩を経験。


それでも最後には、お互いに「今日もあなたがいい」と伝えることができました。


ようやく、幸せな新婚生活が始まる。


……はずだったのですが。


妻が出世しました。


喜咲は企画部長に昇進。


仕事が増え、責任が増え、会議が増え、夫婦の時間が減っていく。


夫は妻の成功を喜びたい。


妻も仕事を頑張りたい。


でも、二人とも一緒にいたい。


ここで、新しい問題が生まれます。


結婚した二人は、自分の人生と夫婦の時間をどう両立させればいいのでしょうか。


夫の収入だけでも生活できる。


妻が仕事を続けることも、専業主婦になることも、働き方を変えることもできる。


でも、それは妻だけが考える問題なのでしょうか。


夫が働き方を見直すこともできる。


家事の分担を変えることもできる。


二人で過ごす時間の作り方を変えることもできる。


どちらか一人が夢や仕事を諦めるのではなく、二人が納得できる生き方を探すことはできないのでしょうか。


もちろん、相手の人生を勝手に決めることはできません。


けれど、自分の希望を言わずに、すべてを相手に任せることが優しさとも限りません。


第5部では、仕事への思い、夫婦の時間、一人で過ごす時間、そして将来の人生について、優と喜咲が向き合います。


もちろん、真面目な話ばかりではありません。


正しすぎる医師の夫と、毒舌だけれど寂しがり屋の妻。


今回も、夫婦の会話は簡単には終わりません。


婚活は終わった。


結婚式も終わった。


でも、人生の選択は終わらない。


夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?


そして。


自分の人生を大切にしながら、二人で幸せになることはできますか?


笑って、ときどき胸が痛くなって、最後には二人を応援したくなる。


そんな大人の結婚ラブコメ、第5部の開幕です。


あなたなら、愛する人との時間と、自分の人生をどう両立させますか?


ぜひ、優と喜咲の新しい十話を見届けてください。

《東海林喜咲様 企画部長就任について》

「……優」

「はい」

「私、出世するんだって」

「おめでとうございます」

「……企画部長だって」

「そう書いてありますね」

「私が?」

「はい」

「うちの会社、人事は大丈夫かな?」

「……そこは自信を持っていただきたいのですが」

結婚してから最大の夫婦喧嘩をした。

ようやく仲直りした。

今日も喜咲がいい。

そう伝えて、妻も「今日も優がいい」と答えてくれた。

そして、その日の夜。

妻は出世した。

正確には、企画部長就任の知らせが届いた。

俺は嬉しかった。

本当に嬉しかった。

妻の努力が認められたのだから、夫として誇らしい。

ただ、このときの俺には、一つだけ分かっていないことがあった。

妻が出世すると、夫婦の時間まで昇進するわけではない。

むしろ。

俺たちの時間は、少しずつ減っていくことになる。

* * *

【妻が企画部長になりました】

「……ねえ、優」

「はい」

「本当に嬉しい?」

喜咲がスマートフォンを置いた。

「もちろんです」

「でも、私、今より忙しくなると思う」

「そうでしょうね」

「帰るのが遅くなる日も増えるかもしれない」

「はい」

「休みの日に仕事の連絡が来ることもあると思う」

俺は頷いた。

「管理職ですからね」

喜咲が俺を見つめた。

「……優」

「はい」

「今、病院の偉い人みたいな返事した」

「……そうですか」

「もっと普通に喜んでよ!」

「おめでとうございます!」

「急に声が大きい!」

二人で笑った。

それから、俺は改めて言った。

「喜咲が努力してきたことを、俺は知っています」

彼女の笑顔が、少しだけ柔らかくなった。

「……うん」

「だから、評価されたことが嬉しいです」

「……ありがと」

喜咲が俺の肩に頭を預けた。

「……ねえ」

「はい」

「お祝い、してくれる?」

「もちろんです」

「ちょっといいお店、行きたいな」

「予約しましょう」

「やった!」

喜咲が顔を上げた。

「……あ。でも、優」

「はい」

「私と一緒なら、どこでもいいんじゃないの?」

俺は一瞬考えた。

「もちろん、どこでも構いません」

「じゃあ、なんで予約するの?」

「お祝いですから」

「私が行きたいって言ったから?」

「それもあります」

喜咲が笑った。

「……ほんと、真面目」

「医師ですので」

「医師って、お祝いにも診断書が必要なの?」

「必要ありません」

「即答!」

俺たちは、久しぶりに何の不安もなく笑った。

喧嘩のあと、ようやく取り戻した時間だった。

俺は思った。

これからも、こうやって二人で話していければいい。

ところが。

企画部長という仕事は、俺の想像以上に忙しかった。

* * *

【昇進祝いが、仕事に負けました】

正式に企画部長へ就任した喜咲は、さっそく忙しくなった。

それでも、俺たちはお祝いの夕食を楽しみにしていた。

俺は店を予約した。

喜咲も、その日は仕事を早めに切り上げるつもりだった。

ところが。

「……ごめん、優」

帰宅した喜咲が、申し訳なさそうに言った。

「どうしました?」

「ちょっと、部下から相談が入って」

「急ぎですか?」

「うん。今、確認しないといけなくて」

「分かりました」

喜咲はスマートフォンを手に取った。

「十分くらいで終わると思う」

「大丈夫ですよ」

俺は時計を見た。

まだ予約時間には余裕があった。

十分なら問題ない。

そう思った。

しかし。

十分。

二十分。

三十分。

喜咲は、まだ電話をしていた。

「……うん、分かった。そこは私が確認するから」

俺は、予約した店の情報を開いた。

そろそろ出なければ間に合わない。

喜咲の声が、少しだけ大きくなる。

「だから、誰かが悪いって話じゃなくて。どうするかを考えようって言ってるの」

俺は顔を上げた。

それは、どこかで聞いたことのある言葉だった。

夫婦喧嘩のあと、俺たちが話したことと似ている。

喜咲は、会社でも同じことを大切にしているのだろう。

そう思うと、少し嬉しかった。

そして。

予約時間が近づいた。

俺は、静かに店へ電話をかけた。

予約を取り消す。

電話を終えたところで、喜咲も通話を終えた。

「……ごめん!」

彼女が俺を見た。

「お店、間に合う?」

「……キャンセルしました」

「えっ」

「この時間からでは難しいので」

喜咲の表情が曇った。

「……ごめんね」

「仕事ですから」

「せっかく予約してくれたのに」

「また行きましょう」

「……怒ってない?」

「怒っていません」

嘘ではなかった。

俺も医師だ。

急な仕事で予定が変わることはある。

それに、喜咲は仕事をしたくて電話を長引かせたわけではない。

困っている部下を放っておけなかったのだろう。

「……ありがと」

喜咲が笑った。

「じゃあ、今日は家で食べようか」

「そうしましょう」

「何か作ろっか」

「昇進祝いですから、今日は俺が作ります」

「ほんと?」

「はい」

「じゃあ、豪華なのがいい!」

俺は冷蔵庫を開けた。

卵。

豆腐。

野菜。

「……少し難しいですね」

「何が?」

「冷蔵庫の在庫では、豪華さに限界があります」

「そこは愛情で何とかして!」

「愛情は栄養成分表示にありませんが」

「医者のそういうところ!」

結局、二人で簡単な夕食を作った。

食卓に並んだ料理を見て、喜咲が笑った。

「……企画部長就任祝いが、卵料理」

「味は保証します」

「豪華さは?」

「保証対象外です」

「ひどい!」

二人で笑った。

でも。

俺は、ほんの少しだけ残念だった。

喜咲の昇進を、ゆっくり祝いたかった。

店で乾杯して。

これまでの苦労を聞いて。

これからやりたい仕事について話して。

妻の嬉しそうな顔を、もう少し見ていたかった。

それができなかった。

たった、それだけのことだった。

だから俺は、その気持ちを口にしなかった。

* * *

【企画部長は、企画する時間がありません】

喜咲の生活は、目に見えて変わった。

朝は会議。

昼も会議。

午後は部下からの相談。

夕方には取引先との打ち合わせ。

夜には会食が入る。

帰宅してからも、仕事の連絡が届く。

「……優」

「はい」

「私、企画部長になったんだよね?」

「そうですね」

「企画を考える仕事だと思ってたんだけど」

「違うんですか?」

喜咲は真顔で言った。

「企画を考える時間がないの」

「……なるほど」

「今日なんか、企画を考える時間を確保するための会議があったんだよ?」

「それは問題ですね」

「でしょ?」

「会議時間を削減するための会議が必要かもしれません」

「会議を増やすな!」

喜咲が叫んだ。

俺は頷いた。

「失礼しました」

「ほんと、優って……」

彼女は呆れたように笑った。

でも、その笑顔には疲れがあった。

「……大変なんですね」

俺が言うと、喜咲は少しだけ黙った。

「……うん」

「無理しないでください」

「ありがと」

それから、彼女は小さく笑った。

「でもね、嫌なことばっかりじゃないんだよ」

「はい」

「部下から相談されるの、嬉しいときもあるし」

「はい」

「自分が考えた企画を、もっと大きな形にできるかもしれない」

彼女の声が少し明るくなった。

「私、やっぱりこの仕事、好きなんだと思う」

俺は頷いた。

「それは、いいことですね」

「……うん」

喜咲は笑った。

俺は、その笑顔が好きだった。

自分の仕事について話すときの喜咲は、いつも少し楽しそうだ。

だから、応援したいと思った。

けれど。

それから何日かして、俺は気づいた。

最近、妻と仕事以外の話をしていない。

* * *

【夕食に、妻の会社が参加してきます】

久しぶりに、二人で夕食を取れた夜。

「いただきます」

「いただきます」

俺たちは向かい合って座った。

食卓には温かい料理が並んでいる。

テレビはつけていない。

仕事の資料もない。

ただ、二人で食事をする。

それだけの時間が、妙に嬉しかった。

「……ねえ、優」

「はい」

「今日ね、ちょっと聞いてほしいことが」

ピロン。

喜咲のスマートフォンが光った。

彼女が画面を見る。

「……あ」

「仕事ですか?」

「うん。ちょっと確認するだけ」

「どうぞ」

喜咲は短い返信を送った。

俺は、その間に味噌汁を飲んだ。

「……ごめん。何の話だったっけ?」

「今日、聞いてほしいことがあると」

「あ、そうそう!」

喜咲が笑った。

「それでね」

今度は電話が鳴った。

彼女の表情が変わる。

「……ごめん、ちょっと出ていい?」

「もちろんです」

喜咲は電話に出た。

「はい、東海林です」

仕事の声になった。

ついさっきまで「優」と呼んでいた妻が、今は「東海林部長」になっている。

俺は黙って食事を続けた。

料理はおいしい。

温かい。

ただ、向かいの席にいる妻とは話せない。

十分ほどして、喜咲が電話を切った。

「……ごめん!」

「お疲れさまです」

「何の話してたっけ?」

俺は答えた。

「喜咲が、今日聞いてほしいことがあると」

「……あ」

彼女は、しばらく黙った。

「……何だったっけ」

俺も黙った。

そして、二人で笑った。

「私、今日何話したかったんだろ」

「それは俺にも分かりません」

「部長になったら、記憶力まで会社に持っていかれたのかな」

「返還請求したほうがいいかもしれませんね」

「どこに?」

「人事部でしょうか」

「人事部に記憶を返してって言う部長、怖すぎる!」

喜咲が笑った。

俺も笑った。

けれど、その笑いが消えたあと。

彼女は冷めた味噌汁を見つめた。

「……冷めちゃった」

「温め直しましょうか」

「ううん。大丈夫」

そう言って、喜咲は箸を持った。

俺は、その姿を見ていた。

冷めた料理なら、温め直せる。

でも。

話そうとしていたことを忘れてしまった時間は、どうすれば戻せるのだろう。

俺は妻と食事がしたかった。

正確には。

妻と話しながら、食事がしたかった。

今夜の俺たちは、同じものを食べている。

でも、同じ時間を過ごしている気がしなかった。

* * *

【同じ家にいるのに、妻が遠い】

その夜。

喜咲は、まだ仕事をしていた。

俺はリビングで本を開いていた。

だが、同じページを何度も読んでいた。

文字は目に入ってくる。

内容は頭に残らない。

何度か、喜咲のほうを見た。

彼女はスマートフォンで仕事の連絡を確認している。

疲れているのは分かっていた。

責任が増えたことも。

部下の相談に応えようとしていることも。

俺に申し訳ないと思っていることも。

だから、何も言わないほうがいい。

そう考えた。

「……優」

突然、喜咲が顔を上げた。

「はい」

「先に寝てていいよ」

「……分かりました」

俺は本を閉じた。

寝室に向かおうとして、足が止まった。

本当は、もう少し話したかった。

今日、俺の仕事であったこと。

喜咲が企画部長になってから感じていること。

次の休日に行きたい場所。

何でもよかった。

ただ、話したかった。

だが。

「お疲れさまです」

俺はそう言って、寝室へ向かった。

喜咲の声がした。

「……おやすみ」

「おやすみなさい」

ドアを閉める。

俺は、しばらく立ったままだった。

思い出した。

結婚してから最大の夫婦喧嘩をしたときも、俺は同じことをしていた。

自分の気持ちを隠して。

相手に分かりやすく説明して。

本当に言いたいことを、最後まで言わなかった。

あのとき、喜咲は寂しかったのだ。

今なら分かる。

俺も、寂しい。

でも。

出世を喜んでいるのに、寂しいと言っていいのだろうか。

仕事を頑張る妻に、もっと一緒にいたいと言っていいのだろうか。

俺はベッドに腰を下ろした。

そして、苦笑した。

「……また、正解を探していますね」

自分の気持ちに、正解も不正解もない。

それは、分かっているはずだった。

なのに。

四十五歳にもなって、俺はまだ同じところで迷っている。

* * *

【「大丈夫です」を送らない夜】

別の日。

喜咲は取引先との会食で、帰宅が遅くなると連絡してきた。

俺は一人で夕食を済ませた。

食器を片づける。

洗い物をする。

翌日の準備をする。

家事は問題なく終わった。

一人で過ごすこと自体が嫌なわけではない。

仕事があるのだから、帰りが遅くなる日もある。

それでも。

ふと、時計を見る。

喜咲は、まだ帰ってこない。

俺はスマートフォンを手に取った。

メッセージを入力する。

《お疲れさまです。無理しないでください》

いつもの文章だった。

間違ってはいない。

ただ。

俺は画面を見つめた。

本当に、言いたいことはそれだけだろうか。

仕事を頑張ってほしい。

体調にも気をつけてほしい。

それは本当だ。

でも。

今日あったことを、喜咲に話したい。

彼女が帰ってきたら、一緒に笑いたい。

たった十分でもいい。

夫婦として、同じ時間を過ごしたい。

俺は、入力した文章を消した。

そして、書き直した。

《お疲れさまです。帰ったら、少し話せたら嬉しいです》

送信する。

しばらくして。

ピロン。

返信が来た。

《うん! 私も話したい!》

思わず笑った。

その直後。

もう一通。

《ごめん、帰り少し遅くなる!》

俺はスマートフォンを伏せた。

「……なかなか難しいですね」

でも。

さっきまでとは、少し違った。

俺は、ちゃんと伝えた。

喜咲も、話したいと思ってくれている。

それだけは分かった。

* * *

【「怒ってる?」と聞かれた夫の答え】

喜咲が帰宅したのは、夜も遅い時間だった。

「……ただいま」

「お帰りなさい」

「遅くなっちゃった」

「お疲れさまです」

彼女はバッグを置いた。

上着を脱ぐ。

それから、俺を見た。

「……優」

「はい」

「怒ってる?」

俺は、一瞬だけ答えに迷った。

『大丈夫です』

その言葉が、喉まで出かかった。

以前の俺なら、きっとそう答えていただろう。

仕事だから仕方がない。

大変なのだから支えてあげたい。

俺が我慢すればいい。

そんな説明を並べて。

自分の気持ちを、全部隠したはずだ。

でも。

あの夫婦喧嘩のあと、俺たちは約束した。

言いたいことを、黙って飲み込まない。

正しい答えを出す前に、本音を伝える。

だから。

俺は、喜咲を見た。

「……はい。少し寂しいです」

彼女の表情が止まった。

「……寂しい?」

「はい」

「私が仕事してるから?」

俺は首を振った。

「仕事をしていることに怒っているわけではありません」

「……うん」

「昇進してほしくなかったわけじゃありません。評価されたのは嬉しいです。でも、二人の時間が減るのは寂しいです」

喜咲は、何も言わなかった。

俺も、続けて説明しなかった。

今、必要なのは説明ではない。

自分の気持ちを、彼女に知ってもらうことだった。

「……そっか」

喜咲が小さく呟いた。

「寂しかったんだ」

「はい」

「……私、気づいてなかった」

「そうかもしれません」

「……ごめん」

彼女が目を伏せた。

俺は首を振った。

「謝ってほしいわけではありません」

「……うん」

「喜咲の仕事を否定したいわけでもありません」

「……うん」

「ただ、俺も一緒にいたいんです」

喜咲が顔を上げた。

「……優」

「はい」

「もっと早く帰ってきてほしい?」

「はい」

「仕事の電話、減らしてほしい?」

俺は少し考えた。

「必要な仕事の連絡まで減らしてほしいわけではありません」

「……うん」

「でも、夕食のときは、できるだけ二人で話したいです」

「……うん」

「休日には、デートもしたいです」

喜咲の目が、少し潤んだ。

「……私も」

俺は黙っていた。

喜咲が、ゆっくり話し始める。

「私ね、企画部長になれて嬉しかったんだ」

「はい」

「ずっと仕事してきて、やっと認めてもらえた気がして」

「……はい」

「でも、実際になってみたら、思ってたよりずっと忙しくて」

彼女は小さく笑った。

「私、何のために仕事してるんだろって、たまに思う」

俺は彼女を見た。

「……それでも、仕事は好きですか」

喜咲は少し考えた。

そして、頷いた。

「……うん。好き」

「そうですか」

「でも、優と一緒にいる時間も好き」

俺の胸が、少し温かくなった。

「……ありがとうございます」

「そこは、俺もって言ってよ」

「俺も好きです」

「遅い!」

喜咲が笑った。

俺も笑った。

それから、彼女は静かに言った。

「……ねえ、優」

「はい」

「私、仕事も家庭も欲しいんだけど」

「はい」

「それって、欲張りかな」

俺は首を振った。

「欲張りでも、いいと思います」

喜咲が目を丸くした。

「……前にも言ってくれたね」

「はい」

「両方欲しいなら、両方欲しいって言っていいんだよね」

「そうです」

「でも、両方できないかもしれない」

「……はい」

俺は、彼女の手を取った。

「そのときは、二人で考えましょう」

喜咲が、小さく頷いた。

「……うん」

少しの沈黙。

それから。

「……ねえ、優」

「はい」

「私、今日ちょっと泣きそうだった」

「……何かあったんですか」

「ううん」

彼女は笑った。

「今、泣きそう」

「……どうしてですか」

「優が、寂しいって言ってくれたから」

俺は、返事に迷った。

喜咲が続ける。

「もし優が何も言わなかったら、私、仕事ばっかりしてたと思う」

「……はい」

「それで、気づいたときには、また二人で話せなくなってたかもしれない」

俺は頷いた。

「……それは、俺も嫌です」

「私も」

喜咲が、俺の手を握り返した。

「……ありがと」

俺は、ようやく笑った。

「どういたしまして」

すると喜咲が、少し意地悪そうな顔をした。

「でも、優」

「はい」

「これからも仕事の電話が来たら、出ることはあるよ?」

「分かっています」

「デートの予定が変わるかもしれないよ?」

「はい」

「それでも、応援してくれる?」

俺は、彼女を見た。

「もちろんです」

そして、少しだけ付け加えた。

「ただ、寂しいときは、寂しいと言わせてください」

喜咲が笑った。

「……うん」

彼女が、俺の肩に頭を預けた。

「私も、寂しいって言う」

「はい」

「我慢しないで言うね」

「そうしてください」

「……でも、優」

「はい」

「私が寂しいって言ったら、どうする?」

俺は少し考えた。

「可能な限り、時間を確保します」

「……なんか、病院の勤務調整みたい」

「夫婦の時間も大切な予定ですので」

喜咲が吹き出した。

「ほんと、優って面倒!」

「承知しています」

「でも、好き」

「……俺もです」

今度は、遅れずに答えられた。

* * *

【夫婦の時間は、会議ではありません】

翌日。

俺たちは、共有カレンダーを開いた。

「……じゃあ、どうしようか」

喜咲が言った。

「まず、二人で過ごせる時間を確認しましょう」

「うん」

「夕食を一緒に食べられる日」

「うん」

「休日が重なる日」

「うん」

「仕事の連絡が入った場合についても」

「……優」

「はい」

「それ、会議?」

「相談です」

「議題が三つあるよね?」

「あります」

「進行役は?」

「必要であれば俺が」

「やっぱり会議じゃん!」

喜咲が笑った。

俺も苦笑した。

「……すみません」

「でも、いいよ」

「……いいんですか?」

「うん」

喜咲が画面を見つめた。

「今回は、ちゃんと考えたい」

俺は頷いた。

「そうですね」

「まずね、仕事の電話」

「はい」

「夕食中に来ても、本当に急ぎじゃなければ、食べ終わってから返すようにする」

「いいと思います」

「でも、急ぎだったら出てもいい?」

「もちろんです」

「……ありがと」

俺は少し考えた。

「一つ、お願いがあります」

「何?」

「電話のあと、できれば会話の続きをしたいです」

喜咲が俺を見た。

「……それだけ?」

「はい」

「もっと電話を減らしてとか言わないの?」

「必要な連絡まで減らしてほしいわけではありません」

「……うん」

「ただ、電話が終わったあと、俺との時間に戻ってきてほしいです」

喜咲は、しばらく黙っていた。

それから。

「……分かった」

小さく頷いた。

「私も、優と話す時間が欲しい」

俺は笑った。

「では、そうしましょう」

「……ねえ、優」

「はい」

「私からもお願いしていい?」

「もちろんです」

「優も、仕事で忙しいときは無理しないで」

俺は彼女を見た。

「……はい」

「私だけが忙しいわけじゃないでしょ?」

「そうですね」

「優だって、帰るのが遅くなる日もあるし」

「はい」

「だから、私ばっかり悪いと思わなくていい?」

俺は少し考えた。

「悪いと思っているわけではありません」

「……うん」

「ただ、二人で過ごせる時間を大切にしたいだけです」

喜咲が笑った。

「……それ、私も同じ」

俺も頷いた。

夫婦の時間を守る。

それは、どちらか一人が我慢することではない。

相手の仕事を辞めさせることでもない。

二人で、どうすれば一緒にいられるかを考えることだ。

「……ところで、優」

「はい」

「今の話、議事録にする?」

俺は即答した。

「しません」

「本当に?」

「しません」

「選択肢の一覧表は?」

「作りません」

「優、成長したね!」

「四十五歳になって、議事録を作らないことで褒められるとは思いませんでした」

喜咲が声を出して笑った。

俺も笑った。

でも。

俺は思った。

二人の時間を守るために、本当に必要なのは、会議の回数ではない。

二人が、まだ一緒にいたいと思っていること。

そして、その気持ちを相手に伝えることだった。

* * *

【二日しかない。二日あります】

その夜。

俺たちは、翌月の予定を確認していた。

喜咲の会議。

取引先との会食。

俺の勤務。

それぞれの予定を重ねる。

そして。

喜咲が、突然黙った。

「……優」

「はい」

「これ、見て」

俺は画面を覗き込んだ。

翌月の共有カレンダー。

二人とも休める日が、表示されている。

一日。

二日。

それで終わりだった。

「……二日ですね」

喜咲が深いため息をついた。

「二日しかない」

俺は答えた。

「二日あります」

彼女が顔を上げた。

「……え?」

「二日あります」

「いや、聞こえたけど!」

「はい」

「一か月で二日だよ?」

「そうですね」

「新婚夫婦だよ?」

「はい」

「もっと一緒にいたくない?」

俺は、彼女を見た。

「いたいです」

喜咲が黙った。

「……本当に?」

「もちろんです」

「だったら、二日しかないって思わない?」

俺は少し考えた。

「……思います」

「……え?」

「本当は、もっと一緒にいたいです」

喜咲の表情が変わった。

俺は続けた。

「でも、今分かっている二日を、最初から少ないと決めつけるのは、もったいない気がするんです」

「……うん」

「二日あるなら、二日とも喜咲と過ごしたいです」

彼女は、しばらく黙っていた。

それから。

「……そっか」

小さく笑った。

「二日、あるんだね」

「はい」

「じゃあ、デートしよう」

「もちろんです」

「二日とも?」

「はい」

「優、疲れない?」

「喜咲と過ごす時間ですから」

彼女の頬が、少し赤くなった。

「……そういうこと、普通に言うよね」

「本音ですので」

「……ずるい」

喜咲は笑った。

そして、共有カレンダーに予定を入力した。

《デート》

もう一日にも。

《デート》

俺は画面を見た。

「……場所が未定ですね」

「これから決めるの!」

「では、候補を整理して」

「優?」

「……相談しましょう」

「よろしい!」

喜咲が笑った。

俺も笑った。

二人の予定が、カレンダーに並んだ。

たった二日。

それでも。

俺たちが一緒に過ごしたいと思って、選んだ二日だった。

妻は出世した。

仕事は忙しくなった。

夫婦の時間は減った。

それでも。

妻のことを好きな気持ちは、減らなかった。

喜咲が、俺の手を握った。

「……ねえ、優」

「はい」

「私、企画部長になってよかったのかな」

俺は、すぐには答えなかった。

それを決めるのは、俺ではない。

でも。

「……喜咲が嬉しそうに仕事の話をするとき、俺も嬉しいです」

彼女が顔を上げた。

「……うん」

「それから」

俺は少しだけ笑った。

「今日みたいに、一緒にデートの予定を考える時間も好きです」

喜咲が笑った。

「……私も」

俺は彼女の手を握り返した。

「だから、これからも両方を大切にしたいです」

「……うん」

喜咲は、もう一度カレンダーを見た。

《デート》

《デート》

その二つの予定を、指でなぞる。

「……でもさ」

「はい」

「やっぱり二日って少ないよね?」

俺は少し考えた。

「……一般的な新婚夫婦の休日として適切かは、比較資料がありませんので」

「比較しなくていい!」

「では、俺の希望を言います」

「……うん」

「もっと一緒にいたいです」

喜咲が笑った。

「……私も」

そして、呆れたように首を振った。

「……でも、優」

「はい」

「二日しかないって言った私に、二日ありますって言ったよね?」

「はい」

喜咲は、笑いながら言った。

「ポジティブなのか医者の勤務感覚がおかしいのか分からない」

第41話 完


次回予告

第5部 第2話/通算第42話

「夫の給料だけで暮らせるなら、妻は働かなくていいですか?」

企画部長になった喜咲。

仕事にはやりがいがある。

自分の企画を形にしたい。

部下の成長も見届けたい。

けれど、責任が増えるほど、夫婦の時間は減っていく。

そんなある日。

疲れた喜咲が、ぽつりと言った。

「……私、別に働かなくても生活できるんだよね」

医師である優の収入だけでも、夫婦の生活は十分に成り立つ。

だったら、喜咲は仕事を続けなくてもいいのだろうか。

優は言った。

「辞めたいなら、辞めてもいいですよ」

しかし。

その言葉を聞いた喜咲は、なぜか腹を立てた。

「……優は、私にどうしてほしいの?」

妻の人生は、妻が決める。

でも、夫の希望は言わなくていいのだろうか。

そして。

生活のために働かなくてもいい人は、何のために働くのだろうか。

次回、二人の新しい問題が始まる。


作品案内

四十代。

婚活は面倒だった。

恋愛は、もっと面倒だった。

そして結婚したら、仕事も家事も休日も、二人で考えることになった。

それでも今日も、この人がいい。

そんな大人の婚活・結婚ラブコメです。



作者より

第41話までお読みいただき、ありがとうございます。

今回から第5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』が始まりました。

第40話で、優と喜咲は結婚してから最大の夫婦喧嘩を乗り越えました。

しかし、夫婦の問題は仲直りすれば終わるわけではありません。

今回は、喜咲の企画部長就任をきっかけに、二人の時間が少しずつ減っていくお話でした。

妻が仕事で評価される。

夫としては嬉しい。

でも、一緒に過ごす時間が減れば、寂しくなる。

その寂しさを「応援しているのだから我慢しなければ」と隠す必要はないのかもしれません。

今回のテーマは、**「相手の成功を喜ぶことと、自分が寂しいと感じることは両立する」**です。

そして第5部では、仕事を続けること、辞めること、働き方を変えること、夫婦それぞれの人生を大切にすることを描いていきます。

結婚したからといって、自分の人生がなくなるわけではない。

でも、自分の人生を大切にすることと、夫婦で一緒に生きることを、どう両立させればいいのか。

優と喜咲も、まだ答えを知りません。

だからこそ、二人で考え続けます。

これからも、優と喜咲の物語を楽しんでいただければ嬉しいです。

あなたは、パートナーの仕事が忙しくなって一緒に過ごす時間が減ったとき、「寂しい」と素直に伝えられますか?

ぜひ、感想やコメントで教えてください。

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Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524

Momokun Official https://momokun.jp/

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