第10話/通算第40話 「今日も喜咲がいいからです」
第4部『夫婦になっても恋人でいられますか?』
前書き
婚姻届を出した。
名字を決めた。
夫婦になった。
これで婚活は終わり。
めでたし、めでたし。
……になるはずでした。
でも、結婚した翌日から始まるのは、
「夫婦として一緒に暮らす」という、もっと面倒な毎日です。
元妻との思い出を、どこに置くのか。
家の中に、誰の居場所を作るのか。
仕事と夫婦の時間を、どう両立するのか。
家事は、どちらがやるのか。
記念日を忘れたら、どうするのか。
そして。
夫婦になったあとも、
「今日もこの人がいい」と思えるのか。
優には、一度結婚して、離婚した過去があります。
喜咲にとっては、初めての結婚です。
同じ「夫婦」になっても、
二人が立っている場所は、少し違う。
だから第4部では、
結婚したから分かり合える二人ではなく、
結婚しても分からないから、何度でも話す二人
を描きます。
恋人から夫婦へ。
でも、
夫婦になったからといって、
恋人であることまで終わる必要はない。
第4部のテーマは、
「夫婦になったあとも、今日この人を選び直す」
です。
付き合ったら、婚活より面倒だった。
では、
結婚したら?
たぶん。
もっと面倒です。
それでも二人は、
一緒にいたいと思えるのでしょうか。
第4部
『夫婦になっても恋人でいられますか?
《今度は、私を説得しないで》
妻から届いた最後のメッセージに、俺は返信できなかった。
小鳥遊優、四十五歳。医師。バツイチ。
仕事では、相手に分かりやすく説明することを心がけている。
ところが今、妻から説明を禁止されている。
しかも、理由は分かっている。
俺が説明するたびに、妻を傷つけてしまったからだ。
「……困りましたね」
午前一時。
俺はリビングのソファで、スマートフォンを握りしめていた。
寝室には喜咲がいる。
数メートル先に、結婚したばかりの妻がいる。
それなのに。
俺は明日の朝、彼女に「おはよう」と言える自信さえなかった。
昨日、俺たちは結婚してから最大の夫婦喧嘩をした。
きっかけは、次の休日の予定だった。
病院から勤務変更の依頼があった。
喜咲にも、仕事の都合があった。
どちらも確定していない。
だから相談しようとした。
そのはずだった。
だが、気づけば俺は、自分が間違っていないことを証明しようとしていた。
喜咲が何を感じているかよりも、自分の説明が正しいことを優先していた。
そして、俺たちは互いに言ってしまった。
『あなたと話すのが怖い』
あれは、本音だった。
しかし、本音なら何を言ってもいいわけではない。
俺はスマートフォンを伏せた。
明日は、うまく説明しよう。
そう考えて、すぐに首を振った。
違う。
明日こそ、説明しようとするのをやめなければならない。
「……それを考えている時点で、もう説明の準備なんですよね」
自分の面倒くささに、笑うことさえできなかった。
* * *
【おはようが、こんなに難しい】
翌朝。
キッチンから食器の音がした。
俺はソファから起き上がった。
腰が痛い。
首も痛い。
寝不足で頭も重い。
医師として評価すれば、睡眠環境は最悪である。
夫として評価すれば、それ以上に深刻だった。
「……おはよう」
喜咲がキッチンに立っていた。
いつもの部屋着。
いつものマグカップ。
いつもの妻。
ただ、俺と目が合った瞬間、わずかに表情が硬くなった。
「……おはようございます」
そこで会話が止まった。
俺は冷蔵庫を開けた。
何を取り出すつもりだったのか忘れた。
「優」
「はい」
「冷蔵庫、開いてる」
「……すみません」
閉める。
今度は何をすればいいのだろう。
「コーヒー、飲む?」
「いただきます」
「……いつものでいい?」
「はい」
喜咲は黙ってコーヒーを淹れた。
俺はテーブルに座った。
向かいの椅子に、彼女が座る。
昨日も、ここで話した。
そして、傷つけ合った。
喜咲がマグカップを両手で包んだ。
「……優」
「はい」
「昨日のこと、話してもいい?」
俺の背筋が伸びた。
「もちろんです」
「でも、お願いがある」
「……はい」
「今日は、私の話を最後まで聞いてほしい」
「分かりました」
「途中で正解を出そうとしないで」
「……努力します」
喜咲が眉を上げた。
「そこは、はいって言わないんだ」
「守れるか分からない約束は、安易にしないほうが」
「優」
「……はい」
「もう説明してる」
開始三十秒。
早くも失敗した。
俺が黙ると、喜咲は少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「……私も、昨日は優の話を聞いてなかった」
「……はい」
「だから今日は、二人で話そう」
俺は頷いた。
スマートフォンには触らなかった。
共有カレンダーも開かなかった。
今日は、予定を決める会議ではない。
妻と話す時間だった。
* * *
【私たち、何で結婚したんだろうね】
「……ねえ、優」
「はい」
「私たち、何で結婚したんだろうね」
心臓が、一瞬だけ強く鳴った。
それは、結婚を後悔しているという意味だろうか。
離婚という言葉が頭をよぎり、慌てて打ち消した。
今、勝手に結論を出してはいけない。
「……喜咲は、どう思いますか」
「先に優の答えを聞きたい」
俺は考えた。
好きだったから。
一緒に暮らしたかったから。
この人となら、何があっても話し合えると思ったから。
どれも本当だ。
だが、昨日の俺たちは、話すほど遠ざかった。
「……喜咲と一緒に生きていきたいと思ったからです」
喜咲は小さく頷いた。
「うん」
「でも、昨日は怖くなりました」
「……何が?」
「また、結婚に失敗するんじゃないかと」
喜咲の手が止まった。
言ってしまった。
けれど、取り消すつもりはなかった。
「……そうなんだ」
「はい」
「私も、怖かった」
喜咲はカップを見つめた。
「結婚したら、もっと分かり合えると思ってた」
「……はい」
「恋人のときより、遠慮しなくてよくなると思ってた」
「はい」
「でも昨日、私、優に何を言えばいいのか分からなくなった」
彼女の声が小さくなる。
「何を言っても、優が正しい答えを返してくる気がして」
俺は何も言わなかった。
「優は間違ったこと言ってないんだよ。病院の仕事も大事だし、私の仕事も大事」
「……はい」
「でもね」
喜咲が顔を上げた。
「私、寂しかったの」
俺は彼女を見た。
「次の休み、優とデートするつもりだった」
「……俺もです」
「楽しみにしてた?」
「もちろんです」
「だったら、どうして最初にそう言ってくれなかったの?」
答えようとした。
勤務変更の依頼があったこと。
まだ確定していなかったこと。
誰かが代わりに対応する可能性があったこと。
そのすべてを説明しそうになった。
しかし、喜咲が知りたいのはそこではない。
俺は口を閉じた。
そして、言った。
「……俺も、残念だったんです」
喜咲が目を上げた。
「病院から連絡が来たとき、嫌だと思いました」
「……うん」
「喜咲とのデートがなくなるかもしれないのが、嫌でした」
「……うん」
「でも、俺はそれを言わなかった」
喜咲の目が潤んだ。
「……それが聞きたかった」
俺は息を止めた。
「仕事を休んでほしいって言いたかったわけじゃない」
「はい」
「私の仕事を優先してほしかったわけでもない」
「……はい」
「ただ、優も私と一緒にいたかったんだって、知りたかった」
俺は目を伏せた。
昨日、何度も説明した。
喜咲の仕事を尊重していること。
病院の勤務変更は未確定だということ。
予定は二人で相談すべきだということ。
だが、たった一つ。
一番大切なことを言っていなかった。
「……俺は、喜咲と一緒にいたかったです」
「……うん」
「今日もです」
喜咲が涙を拭った。
「……最初から、そう言ってよ」
「すみません」
「ほんと、優って面倒」
「……それは、昨日も言われました」
「今日も言うよ」
小さな笑いが生まれた。
俺も、少しだけ笑えた。
* * *
【俺だって、傷つきます】
「……でもね、優」
喜咲の表情が変わった。
「昨日、もう一つ怖かったことがある」
「……はい」
「優が怒ったこと」
俺は口を閉じた。
「私、あんな声出す優、初めて見た」
「……すみません」
「謝ってほしいわけじゃないの」
喜咲は首を振った。
「優にも怒ることがあるって、ちゃんと分かった」
「……はい」
「でも、私、優なら何でも受け止めてくれると思ってたのかもしれない」
俺は、彼女を見た。
「私が怒っても、文句を言っても、優は冷静で」
「……はい」
「最後には、ちゃんと話をまとめてくれると思ってた」
俺は少し迷ってから口を開いた。
「……俺も、喜咲に分かってほしかったんです」
「何を?」
「俺なりに、二人の時間を守ろうとしていたことを」
喜咲が頷いた。
「病院に家庭の予定があるって伝えたんだよね」
「はい」
「それ、嬉しかったよ」
俺は驚いた。
「……そうですか」
「うん。でも、そのあとまた説明が始まっちゃったから」
「……はい」
「ありがとうって言う暇もなかった」
俺は苦笑した。
喜咲が、ゆっくり息を吸った。
「……昨日、私のこと面倒だって言ったよね」
胸が痛んだ。
「……はい」
「本当?」
逃げたくなった。
『そんなことはありません』
そう言えば、きっと楽だ。
だが、それではまた、自分の本音を隠すことになる。
「……面倒だと思うことはあります」
喜咲の指が、少しだけ動いた。
「……そっか」
「でも、嫌だという意味ではありません」
「うん」
「俺も面倒な人間です」
「知ってる」
即答だった。
「……少しは迷っていただけませんか」
「だって、昨日議事録作ろうとしてたじゃん」
「必要であれば、という話で」
「ほら。また説明してる!」
喜咲が吹き出した。
俺も、つられて笑った。
だが、まだ終わりではない。
「……喜咲」
「うん」
「昨日、俺も傷つきました」
笑いが止まった。
喜咲が姿勢を正す。
「……うん」
「前の結婚のことを言われたときです」
彼女が目を伏せた。
「……本当にごめん」
「はい」
俺は、すぐに許す言葉を探さなかった。
昨日のことは、確かに痛かった。
美和との結婚が終わったことを、今の喧嘩の理由にしたくなかった。
過去の結婚と、今の結婚。
どちらが正しく、どちらが間違いだったか。
そんなふうに並べたくなかった。
「……あの言葉は、つらかったです」
「……うん」
「でも、喜咲を責め続けたいわけでもありません」
彼女が顔を上げた。
「俺は、今の結婚で問題が起きたとき、今の俺たち二人で話したいです」
喜咲は、何度も頷いた。
「……うん。約束する」
少しの沈黙。
「優」
「はい」
「私、昨日、怖くなったんだと思う」
「……何がですか」
「優が、もう私と話したくないって思うんじゃないかって」
俺は答えた。
「……昨日は、話すのが怖かったです」
喜咲の目に涙が浮かんだ。
それでも、俺は続けた。
「何を言っても、傷つけるかもしれないと思いました」
「……うん」
「だから、正しい言い方ばかり考えました」
「……うん」
「でも」
俺は彼女を見た。
「喜咲と話さなくなるほうが、もっと怖いです」
喜咲の涙が落ちた。
「……私も」
俺はティッシュの箱を差し出した。
喜咲が一枚取る。
そして、もう一枚。
「……ねえ、優」
「はい」
「泣いてる妻に、ティッシュの箱ごと渡す夫ってどうなの?」
「必要枚数が分からなかったので」
「一枚ずつ渡してよ!」
「……すみません」
「もう!」
喜咲は泣きながら笑った。
俺も笑った。
昨日のことが消えたわけではない。
だが、昨日は言えなかったことを、今日は言えた。
それだけでも、俺たちは少し前に進めた気がした。
* * *
【正しい答えを、出さない勇気】
「……ところで、優」
喜咲が涙を拭いた。
「次の休み、どうする?」
俺は一瞬、身構えた。
そもそも、今回の喧嘩はその話から始まった。
病院の勤務変更。
喜咲の仕事。
二人のデート。
何一つ、まだ確定していない。
「……病院には、もう一度確認します」
「うん」
「ただ、その前に言いたいことがあります」
喜咲が俺を見る。
「何?」
「俺は、喜咲とデートしたいです」
喜咲は目を丸くした。
「……うん」
「できれば、予定を変えたくありません」
「……うん」
「でも、仕事の事情も確認したいです」
彼女は小さく頷いた。
「私も、仕事に行きたい気持ちがある」
「……はい」
「自分が企画した商品が、店頭でどうなってるのか気になるし」
「はい」
「現場の人とも話したい」
「……はい」
「でも、デートもしたい」
俺は頷いた。
「俺もです」
「……欲張りかな」
俺は首を振った。
「欲張りでも、いいんじゃないですか」
喜咲が顔を上げた。
「え?」
「両方やりたいなら、両方やりたいと言っていいと思います」
「でも、両方できないかもしれないよ?」
「そうですね」
「そのときは?」
俺は少し考えた。
「……そのとき、二人で考えませんか」
喜咲は黙っていた。
「俺が何かを決める前に、喜咲の希望も聞きたいです」
「……うん」
「俺の希望も、ちゃんと伝えます」
喜咲が小さく笑った。
「……それでいいんだと思う」
俺は息を吐いた。
「……よかったです」
「でも、優」
「はい」
「今の、ちょっとだけ会議っぽかった」
「……そうですか」
「議事録は?」
「作りません」
「選択肢の一覧表は?」
「作りません」
「優、成長したね」
「四十五歳にして、議事録を作らないことを褒められるとは思いませんでした」
喜咲が声を出して笑った。
俺も笑った。
仕事の予定は決まっていない。
デートが実現するかも分からない。
それでも、昨日とは違う。
俺たちは、互いを納得させようとしていなかった。
まず、自分がどうしたいかを話していた。
そして、相手がどうしたいかを聞いていた。
答えは、まだない。
だが、答えがないことが、もう怖くなかった。
* * *
【夫婦になっても、恋人でいられますか?】
「……ねえ、優」
喜咲が、静かに言った。
「はい」
「結婚して、後悔してない?」
俺は彼女を見た。
「……していません」
「昨日、あんなに喧嘩したのに?」
「はい」
「私、面倒な妻なのに?」
「それは否定しません」
「そこは否定して!」
思わず笑った。
喜咲も笑った。
けれど、彼女はすぐに真顔になった。
「……本当に?」
俺は頷いた。
「はい」
「どうして?」
俺は、今度こそ考えた。
うまく答えるためではない。
自分の気持ちを、確かめるために。
「……最初に会ったときのことを覚えていますか」
喜咲が眉を上げた。
「婚活アプリ?」
「はい」
「忘れるわけないじゃん」
「プロフィールに、変わったことが書いてありましたね」
「……それは忘れて」
「夜の相性も大切です、と」
「忘れろって言ってるでしょ!」
喜咲が顔を赤くした。
俺は笑った。
「でも、あのとき、俺は条件ばかり考えていました」
「……うん」
「年齢や仕事や、これまでの結婚歴や」
「そうだね」
「相性が合う人と結婚すれば、うまくいくと思っていたんです」
喜咲は頷いた。
「私も、そうだった」
「でも、違いました」
「……うん」
「喜咲と一緒に暮らして、合わないところがたくさんあると分かりました」
「それ、褒めてる?」
「事実です」
「医者のそういうところ!」
俺は少し笑った。
「俺は、何でも整理して説明しようとします」
「うん」
「喜咲は、まず気持ちを聞いてほしいと思うことがあります」
「……うん」
「仕事の考え方も、時間の使い方も、違うところがあります」
彼女は黙って聞いていた。
「でも、その違いを知るたびに、俺は喜咲のことをもっと知りたいと思いました」
喜咲の目が揺れた。
「……優」
「昨日は、正直に言ってつらかったです」
「……うん」
「今日も、すぐに全部忘れることはできません」
「……うん」
「でも、今、喜咲と話していて思ったんです」
俺は彼女を見た。
「俺は、喧嘩しない相手と結婚したかったわけではありません」
喜咲は何も言わなかった。
「何でも最初から分かり合える相手を探していたわけでもありません」
俺は少しだけ息を吸った。
「違うところがあっても、何度でも話したいと思える人と、一緒にいたかったんです」
喜咲の目から涙がこぼれた。
「……昨日の私でも?」
俺は頷いた。
「昨日のことを、よかったとは思っていません」
「……うん」
「でも、今日こうして話そうとしてくれる喜咲を、俺は好きです」
「……うん」
「明日また意見が違っても、逃げずに話したいです」
喜咲は泣きながら笑った。
「……どうして、そんなに面倒なことしてくれるの?」
俺は答えた。
「今日も喜咲がいいからです」
喜咲が、口元を押さえた。
しばらく、何も言わなかった。
そして。
「……ずるい」
小さく呟いた。
「何がですか」
「そういうこと、急に言うから」
「急ではありません。ずっと思っていました」
「……ほんと、ずるい」
喜咲は涙を拭った。
「私もね」
「……はい」
「昨日、優のこと嫌だって思った瞬間があった」
「……はい」
「もう話したくないって思った」
胸が痛んだ。
それでも、俺は最後まで聞いた。
「でも、一人で寝て、朝起きて」
「……はい」
「キッチンに優がいなくて、寂しかった」
喜咲が笑った。
「毎日いるのが当たり前になってたんだね」
「……俺もです」
「私も、今日も優がいい」
俺は何も言えなかった。
喜咲が、そっと手を伸ばす。
「……手、つないでいい?」
俺は、その手を握った。
「もちろんです」
温かかった。
昨日は、触れていいか分からなかった。
今日は、彼女のほうから手を伸ばしてくれた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「……ねえ、優」
「はい」
「また喧嘩するかもしれないよ?」
「すると思います」
「そこ、否定しないんだ」
「現実的に考えますと」
「もう!」
喜咲が笑った。
俺も笑った。
「でも、喧嘩したら、また話そうね」
「はい」
「勝ち負けじゃなくて」
「……はい」
「二人で、どうしたいかを考えよう」
俺は彼女の手を握り返した。
「そうしましょう」
そのとき、ようやく分かった気がした。
夫婦になったから、もう相手を選ばなくていいわけではない。
結婚したあとも、考え方は違う。
怒ることもある。
傷つけることもある。
それでも、今日もう一度、この人と一緒にいたいと思う。
恋人でいることは、結婚した日に終わったわけではなかった。
* * *
【仲直りの、その先へ】
その夜。
俺たちは、リビングのソファに並んで座っていた。
昨日と同じ場所。
昨日と同じ二人。
けれど、喜咲は俺の肩に寄りかかっていた。
「……優」
「はい」
「今日は、一緒に寝ようね」
俺は彼女を見た。
「……いいんですか」
「嫌なの?」
「まさか」
「じゃあ決まり」
喜咲が笑った。
「寝室の使用許可、出します」
「ありがとうございます」
「ただし、条件があります」
俺は背筋を伸ばした。
「……何でしょう」
「寝る前に、仕事の説明を始めないこと」
「……努力します」
「また努力!」
二人で笑った。
俺はスマートフォンを手に取った。
共有カレンダーを開く。
《次の休日 デート候補》
その文字は、まだ残っていた。
病院の勤務変更も、喜咲の仕事も、結論は出ていない。
だが、俺は一つだけ書き足した。
《二人とも、行きたい》
喜咲が画面を覗き込んだ。
「……何これ」
「今の気持ちです」
「カレンダーに気持ちを書く人、初めて見た」
「予定より大切かと思いまして」
喜咲が笑った。
「……ほんと、変な夫」
「否定できません」
「でも、好き」
俺は彼女を見た。
「……ありがとうございます」
「そこは、俺もって言ってよ!」
「……俺も好きです」
「遅い!」
喜咲は笑いながら、俺の肩に頭を預けた。
昨日の喧嘩は、なかったことにはならない。
言ってしまった言葉も、流した涙も、消えない。
それでも、俺たちは今日、もう一度話した。
そして、もう一度、相手の手を握った。
四十五歳。
二度目の結婚。
俺は、ようやく少しだけ分かった気がした。
結婚とは、正しい相手を一度選べば終わるものではない。
違うところを見つけるたびに、また話す。
変わっていく相手を、もう一度知る。
そして、自分も変わっていく。
そんな面倒な毎日を、これからも喜咲と続けていきたい。
俺は彼女の手を、そっと握り返した。
そのときだった。
ピロン。
テーブルの上で、喜咲のスマートフォンが光った。
「……ん?」
「通知ですね」
「仕事かな」
画面には、会社からのメールが表示されていた。
喜咲は俺の肩から頭を離した。
「こんな時間に珍しいね」
「……そうですね」
「ちょっと見てみる」
喜咲がスマートフォンを手に取った。
画面を開く。
件名を見た瞬間。
彼女の表情が変わった。
「……え?」
「どうしました?」
喜咲は答えなかった。
ただ、画面を見つめている。
「……喜咲?」
「優、これ……」
彼女が、スマートフォンを俺に向けた。
俺は件名を読んだ。
そして、言葉を失った。
そこには、はっきりと書かれていた。
《東海林喜咲様 企画部長就任について》
第40話 完
第4部『夫婦になっても恋人でいられますか?』完
次回予告
第5部『夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?』
次回 第1話/通算第41話
「妻が出世したら、夫婦の時間が減りました」
結婚してから最大の夫婦喧嘩を乗り越えた優と喜咲。
ようやく、もう一度笑えるようになった。
ところが、その直後に届いたのは、喜咲の企画部長就任通知だった。
会議が増える。
部下からの相談が増える。
取引先との会食が増える。
そして、二人で過ごす時間が減っていく。
妻の昇進は嬉しい。
その努力が認められたことも誇らしい。
それなのに、優は寂しさを感じてしまう。
「……ねえ、優。怒ってる?」
以前の優なら、きっと答えただろう。
『大丈夫です』
しかし、今度は違った。
「……はい。少し寂しいです」
第5部、開幕。
夫婦になっても、自分の人生を生きていいですか?
作品案内
四十代。恋は面倒だ。
結婚したら、もっと面倒だった。
それでも今日も、この人を選び直す。
優と喜咲の婚活・結婚ラブコメは、第5部へ続きます。
作者より
第40話までお読みいただき、ありがとうございます。
今回で、第4部『夫婦になっても恋人でいられますか?』は完結です。
第39話では、優と喜咲が結婚してから最大の夫婦喧嘩をしました。
そして今回、二人はもう一度向き合います。
ただし、喧嘩したことをなかったことにはしません。
正しいことを言っているのに、相手を傷つけてしまう。
相手を大切に思っているのに、自分の気持ちが伝わらない。
そんなすれ違いは、夫婦だからこそ起こるのかもしれません。
今回のテーマは、**「夫婦になっても、今日この人を選び直す」**です。
そして第5部では、喜咲の昇進をきっかけに、新しい問題が始まります。
仕事も、夫婦の時間も、自分の人生も大切にしたい。
そのとき、二人はどんな選択をするのでしょうか。
これからも、優と喜咲の物語を楽しんでいただければ嬉しいです。
あなたは、パートナーと喧嘩したあと、すぐに仲直りしたいですか? それとも時間を置いて話したいですか?
ぜひ、感想やコメントで教えてください。
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524
Momokun Official https://momokun.jp/




