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第9話/通算第39話 「夫婦喧嘩は、勝ったほうが負けですか?」

第4部『夫婦になっても恋人でいられますか?』




前書き




婚姻届を出した。




名字を決めた。




夫婦になった。




これで婚活は終わり。




めでたし、めでたし。




……になるはずでした。




でも、結婚した翌日から始まるのは、




「夫婦として一緒に暮らす」という、もっと面倒な毎日です。




元妻との思い出を、どこに置くのか。




家の中に、誰の居場所を作るのか。




仕事と夫婦の時間を、どう両立するのか。




家事は、どちらがやるのか。




記念日を忘れたら、どうするのか。




そして。




夫婦になったあとも、




「今日もこの人がいい」と思えるのか。




優には、一度結婚して、離婚した過去があります。




喜咲にとっては、初めての結婚です。




同じ「夫婦」になっても、




二人が立っている場所は、少し違う。




だから第4部では、




結婚したから分かり合える二人ではなく、




結婚しても分からないから、何度でも話す二人




を描きます。




恋人から夫婦へ。




でも、




夫婦になったからといって、




恋人であることまで終わる必要はない。




第4部のテーマは、




「夫婦になったあとも、今日この人を選び直す」




です。




付き合ったら、婚活より面倒だった。




では、




結婚したら?




たぶん。




もっと面倒です。




それでも二人は、




一緒にいたいと思えるのでしょうか。




第4部




『夫婦になっても恋人でいられますか?』




始まります。

「……分かったって言ったでしょ」

妻の声は静かだった。

俺は、そこで黙ればよかった。

「でしたら、怒る必要はないのでは?」

たった一言で、喜咲の表情が変わった。

「……私が怒るかどうかまで、優が決めるの?」

小鳥遊優、四十五歳。医師。バツイチ。

二度目の結婚生活において、俺はどうやら最も危険な発言をしたらしい。

* * *

【説明しているのに、伝わりません】

次の休日に、俺たちはデートをする予定だった。

正確には、《デート候補》。

病院から俺に勤務変更の依頼が来て、喜咲にも仕事の調整が必要になった。どちらもまだ確定していない。

昨日、俺たちは約束したばかりだ。

予定が変わるなら、勝手に決めず、二人で相談する。

だから、俺は相談しているつもりだった。

「俺は、喜咲の仕事が大切ではないと言ったわけではありません」

「うん」

「病院の依頼について事情を確認して、喜咲の予定も聞いて、それから考えたいんです」

「うん」

「まだ何も決めていません」

「……うん」

「ですから、現時点では結論を出せないというだけで」

「優」

「はい」

「説明、終わった?」

「あと少しです」

「長い!」

喜咲が額を押さえた。

「私、何に怒ってると思う?」

「俺が、病院の仕事を優先すると決めたように聞こえたことですか」

「それもある。でも、そこだけじゃない」

「では、どういう点でしょう」

「……そうやって質問されると、面接みたい」

俺は口を閉じた。

医療現場では、相手の訴えを丁寧に確認することが大事だ。

どうやら家庭では、確認の仕方も大事らしい。

「私、次の休み、優と一緒にいたかったんだよ」

「俺もです」

「だったら、最初にそう言ってよ」

「言う前に、勤務の事情を」

「ほら。また仕事の話」

喜咲はコーヒーカップを持ち上げた。

「私の仕事を大事にしてほしい。でも、それだけじゃないの。優との時間も大事にしたかったの」

「……はい」

「なのに優は、仕事を優先するしかないかもって、すぐ言った」

「可能性の話でした」

「そういうところ!」

俺は何も言えなかった。

『可能性』は正しい言葉だと思う。

しかし、正しい言葉が、今の喜咲には何の役にも立たないらしい。

「……とにかく、病院に確認します」

「うん」

「喜咲の予定も、分かり次第教えてください」

「分かった」

俺は少し安心した。

一歩進んだように思えたのだ。

だが、喜咲はカップを置いて、こう言った。

「優。今の『分かった』、仲直りしたって意味じゃないから」

どうやら俺は、二度目の誤診をしたらしい。

* * *

【夫婦の相談に、議事録は要りません】

昼休み、病院に勤務変更の事情を確認した。

人員の調整中で、まだ俺に決まったわけではない。事情によっては断ることもできるが、別の誰かが対応しなければならなくなる可能性はある。

「家庭の予定がありますので、少し考えさせてください」

そう伝えた。

以前の俺なら、口にしなかったかもしれない。

『家庭の予定』を、仕事の相手にもちゃんと言えたことが、少し嬉しかった。

喜咲にメッセージを送る。

《勤務変更はまだ確定していません。家庭の予定があることも伝えました》

すぐに既読がついた。

《そっか。ありがとう》

俺は続けて送った。

《喜咲の仕事は、どうなりそうですか?》

《まだ調整中》

《では、両方の状況が判明してから、改めて相談しましょう》

少し間があった。

《ねえ、優》

《はい》

《私が何に怒ってるか、本当に分かってる?》

俺は入力欄を見つめた。

慎重に、一文字ずつ打つ。

《俺の言葉が、喜咲との時間より仕事を優先するように聞こえたことだと思っています》

返信。

《やっぱり、まだ分かってない》

そこで昼休みが終わった。

夜、帰宅すると、喜咲はソファにいた。

「ただいま」

「おかえり。ご飯、温めて食べて」

「ありがとうございます」

いつもなら、新商品の話が始まる。

売り場で見えたこと、企画の難しさ、うまくいったこと。

俺には専門外だが、彼女が嬉しそうなのは分かる。

今夜は、テレビの音だけがした。

食事を終え、俺は隣に座った。

「……少し、話せますか」

「うん」

「まず、病院の勤務調整についてですが」

「……まず?」

「はい。今分かっている情報を整理します」

俺は共有カレンダーを開いた。

《次の休日 デート候補》

《変更するときは、二人で相談》

「こちらの予定は、まだ確定していません。病院の依頼も未確定。喜咲の仕事も調整中です。ですので、選択肢としては」

「優」

「はい」

「これ、会議?」

「違います。夫婦の相談です」

「議題は?」

「次の休日について」

「議事録は?」

「必要であれば」

「要らない!」

喜咲が思わず声を上げた。

いつもなら、ここで二人とも笑う。

今日は、喜咲だけが少し笑って、すぐに真顔に戻った。

「ねえ。私、あなたの部下じゃないよ」

「分かっています」

「患者さんでもない」

「もちろんです」

「だったら、診察みたいに話を進めないでよ」

俺はスマートフォンを伏せた。

「……どう話せばいいですか」

「まず、私の話を最後まで聞いて」

その言葉を、俺は本気で守ろうと思った。

* * *

【聞くことと、判定すること】

「この前、日曜に店頭を見に行った商品、覚えてる?」

「はい。喜咲が企画に関わった商品ですね」

「そう。それで改善するところが見つかったの。次の休日に、現場の人とも話せそうで」

「なるほど」

「行くか迷ってる。私が見たほうが早いところもあるけど、優とのデートもしたい」

俺は頷いた。

「それなら、喜咲自身が確認する意義は大きそうですね」

喜咲が俺を見る。

「……今、何した?」

「話を聞きました」

「判定したでしょ」

「判定?」

「私の仕事に、行く価値があるかどうか」

「そんなつもりはありません」

喜咲は膝の上で手を握った。

「大事な仕事だって分かってほしい。でも、行くべきだって決めてほしいわけじゃないの」

「……はい」

「私、まだ迷ってるんだよ」

俺はようやく気づきかけた。

喜咲は、結論の承認を求めているのではない。

迷っている途中に、俺にもいてほしいのだ。

「……そうなんですね」

「うん」

「迷っているんですね」

喜咲が目を細める。

「……優」

「はい」

「今度は、マニュアルどおりの相づちに聞こえる」

俺は天井を見上げたくなった。

説明すると長い。

判断すると違う。

繰り返すとマニュアル。

一応、医師として多くの会話を経験してきた。

しかし、四十五歳にして『そうなんですね』の難易度を思い知るとは。

「……俺は、何と答えればいいんですか?」

喜咲の表情が曇った。

「それを私に決めさせるの?」

「……」

「優自身は、どう思ってるの?」

俺は言葉に詰まった。

どう思っているか。

仕事の必要性。

調整の可能性。

デートの代替日。

そんなものばかり考えていた。

「……俺も、休みは喜咲と過ごしたかったです」

「……うん」

「病院から連絡が来て、困りました」

「……うん」

「でも、喜咲の仕事を止めたいわけではないです」

「知ってる」

喜咲の声が、少し柔らかくなった。

そこでやめればよかった。

「だからこそ、まずは仕事を優先すべき状況なのか、合理的に検討する必要が」

「……また、それ?」

俺は目を閉じた。

せっかく届きかけた言葉を、自分で遠ざけてしまった。

* * *

【俺だって、間違える】

「優ってさ、いつも正しいよね」

喜咲の声は低かった。

「そんなことはありません」

「私が気持ちを言うと、優は理由を整理して、結論を出そうとする」

「……」

「最後は、私が納得するのを待ってる」

「説得するつもりではありません」

「でも、そう感じるの」

俺は黙った。

喜咲は目を伏せた。

「私、面倒?」

「……何ですか、急に」

「仕事もデートも欲しいって言って、優の話にいちいち文句つけて。面倒な妻?」

正解を探そうとした。

『そんなことはありません』と答えるべきだ。

だが、それも嘘になる気がした。

「……面倒だと思うことはあります」

喜咲の指が止まった。

「……そっか」

「でも、嫌だという意味では」

「言い訳しなくていい」

「聞いてください。俺も面倒な人間ですし、二人で生活することは」

「ほら。今も説明してる」

俺は息を吐いた。

「……喜咲こそ、俺の話を最後まで聞いていますか?」

彼女が顔を上げた。

「え?」

「俺は、喜咲の仕事を軽く扱っていません。休みがなくなるのも嫌です。だから病院に家庭の予定があると伝えました」

「……」

「それなのに、何を言っても俺が分かっていないことになる」

「優……」

「俺だって、何を言えばいいか分からなくなるんです!」

声が大きくなった。

自分の声に、自分で驚いた。

喜咲は、もっと驚いた顔をしていた。

「……怒ったんだ」

「……すみません」

「優がそんな声出すの、初めて聞いた」

俺は唇を結んだ。

怒鳴りたくなかった。

相手を傷つけたくなかった。

それでも、腹が立っていた。

俺だって困っている。

俺だって寂しい。

俺だって、うまく話せない。

喜咲が小さく言った。

「私、優となら何でも話せると思ってた」

「……」

「でも今、何を言っても正しい答えが返ってくる気がして、怖い」

俺は顔を上げた。

「……怖い?」

「うん。優と話すのが、怖い」

冷蔵庫の低い音だけが聞こえた。

怖い。

俺と話すのが。

胸の奥が冷たくなった。

そして、止める前に言葉が出た。

「……俺も、喜咲と話すのが怖いです」

彼女の表情が固まった。

「……そう」

「何を言っても、喜咲を傷つけるか、怒らせる気がして」

「……」

「それで、本音を言う前に、正しい言い方ばかり考えてしまいます」

喜咲は俯いた。

「私たち、ひどいね」

笑おうとした声が、震えていた。

* * *

【好きだから、言ってはいけなかった】

「……前の結婚でも、こんなふうに話してたの?」

喜咲が言った。

その瞬間、空気が変わった。

俺の過去の結婚を、今ここで持ち出す必要はなかった。

喜咲もすぐに気づいたらしい。

「……ごめん。今のは違う。言っちゃいけなかった」

俺は答えられなかった。

美和を責めることも、喜咲を責めることも、したくない。

過去の結婚と今の喧嘩を、勝ち負けで並べたくなかった。

それでも、傷ついた。

「……今の話に、前の結婚は関係ありません」

「うん。ごめん」

「……」

「本当に、ごめん」

喜咲が目元を押さえた。

「私、最低なこと言った」

「……そうですね」

言ってから、後悔した。

そんな言い方がしたかったわけではない。

「優……」

「俺も、言いすぎました」

「……うん」

謝った。

二人とも、謝った。

でも、喜咲の涙は止まらなかった。

俺は手を伸ばしかけて、止めた。

今、触れていいのか分からない。

「……喜咲」

「何?」

「少し、時間を置きましょう」

彼女は首を縦に振った。

「……そうだね」

寝室へ向かう背中を、追えなかった。

* * *

【謝れば、元に戻れますか?】

午後十一時過ぎ。

俺はリビングで、冷めたコーヒーを飲んだ。

寝室の明かりは消えている。

いつもなら、同じ部屋でくだらない話をしている時間だ。

共有カレンダーを開く。

《次の休日 デート候補》

《変更するときは、二人で相談》

その文字は残っていた。

仕事の予定は、まだ何一つ決まっていない。

それなのに、俺たちは、今夜一緒に過ごす時間まで失ってしまった。

俺は何を間違えたのか。

喜咲の言葉を聞いた。

自分の事情を説明した。

相手の仕事を尊重した。

けれど、気づけば俺は『自分の説明に納得してもらうこと』を目標にしていた。

喜咲が何を感じているかよりも、俺の言葉が誤解でないと証明することを優先していた。

それは、相談ではなく説得だ。

「……馬鹿ですね、俺は」

ソファに座ったまま、呟いた。

『喜咲と話すのが怖いです』

あれは本音だった。

だが、本音なら何を言ってもいいわけではない。

俺は、喜咲のことが好きだ。

その気持ちは、少しも変わっていない。

なのに、今日は、好きだと言うより先に、相手を黙らせる言葉を探していた。

寝室の扉が、少し開いた。

「……優」

「はい」

喜咲が立っていた。

「さっきのこと、本当にごめん」

「……俺もです。怖いなんて言い方をして、すみませんでした」

彼女は首を振った。

「優が怖いと思ったことも、ちゃんと聞かなきゃいけなかった。私、自分のことばっかりだった」

「……俺も、自分の正しさばかり考えていました」

喜咲は小さく頷いた。

「……でも、今すぐいつもどおりに笑うのは、無理かも」

「はい」

「今日は、一人で寝てもいい?」

胸の奥が痛んだ。

「……もちろんです」

「ごめんね」

「謝らなくていいです」

喜咲は扉に手をかけた。

「……おやすみ、優」

「おやすみなさい、喜咲」

扉が静かに閉まった。

俺はソファに横になった。

謝罪は届いた。

でも、それで傷ついた時間が消えるわけではない。

寂しかった。

昨日まで、短いデートの二時間さえ宝物だと思っていたのに。

今日は、数メートル先にいる妻の手を握れない。

その差が、どうしようもなく寂しかった。

* * *

【勝ちたい相手ではなかった】

午前零時を過ぎた。

眠れない。

仕事を優先するか、デートを優先するか。

その答えは、まだ出ていない。

だが、別の答えだけは分かった。

俺は、喜咲に勝ちたいわけじゃない。

俺の説明を全部認めさせても、喜咲が黙ってしまったら意味がない。

俺の言葉が正しかったとしても、二人で笑えなくなったら、何も嬉しくない。

一緒にいたくて結婚した。

何でも話せる相手でいたくて結婚した。

なのに、今日の俺たちは、話すほど遠ざかった。

スマートフォンが震えた。

喜咲からだった。

《優》

《はい》

同じ家にいる妻と、画面越しに話している。

さっきまでなら、こんなことも『非効率です』と言ったかもしれない。

今は、文字が届くだけで嬉しかった。

《今日のこと、なかったことにはできないと思う》

《俺も、そう思います》

《私、ひどいこと言った》

《俺もです》

少し間が空いた。

《私たち、ちゃんと夫婦になれてるのかな》

すぐには答えられなかった。

婚姻届を出して、名字を決めて、同じ家で暮らしている。

それでも『ちゃんと』の意味は、今日一日で分からなくなった。

《まだ、分からないことがたくさんあります》

そう送った。

《……うん》

俺は続けた。

《でも、喜咲と一緒に考えたいです》

送信してから、はっとした。

また、答えを急いでいないだろうか。

けれど、今度の返信は違った。

《私も》

たった二文字。

仲直りには、まだ遠い。

それでも、俺たちは初めて、お互いを言い負かさずに、同じことを言えた。

そして、喜咲からもう一通届いた。

《明日、もう一回話せる?》

《もちろんです》

《でも、お願いがある》

《何ですか?》

しばらくして、最後のメッセージが表示された。

《今度は、私を説得しないで》

俺は、画面を見つめた。

明日、何を話せばいいのか。

まだ分からない。

俺は初めて、正しい答えを用意せずに、妻と向き合わなければならなくなった。


第39話 完


次回予告

次回 第4部 第10話/通算第40話

「今日も喜咲がいいからです」

結婚してから最大の夫婦喧嘩をした優と喜咲。

謝っても、すぐには元どおりになれない。

「……ねえ、優。私たち、何で結婚したんだろうね」

条件が合ったから?

喧嘩しないと思ったから?

それとも、違いがあっても話し続けたいと思ったから?

今度こそ、相手を説得せずに、自分の気持ちを伝えられるのか。

第4部最終話。二人が、もう一度お互いを選び直す。





四十代。恋は面倒だ。

結婚したら、もっと面倒だった。

それでも今日も、この人を選び直す。

優と喜咲の「夫婦になってからの恋」を、これからも追いかけていただけたら嬉しいです。

作者より

今回は、二人が結婚してから最大の夫婦喧嘩を描きました。

相手を大切に思っていても、正しい説明で相手を説得することに夢中になると、本当に聞くべき気持ちを聞き逃すことがあります。

優も喜咲も傷つけ、傷つきました。それでも、すぐに仲直りしたことにはせず、「明日もう一度話す」ことだけを選びます。

あなたはパートナーと喧嘩したあと、すぐに話したいですか? それとも少し時間を置きたいですか?

感想やコメントで教えていただけると嬉しいです。

この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。

Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524

Momokun Official https://momokun.jp/

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