第8話/通算第38話 「夫婦の予定は、誰が優先するんですか?」
第4部『夫婦になっても恋人でいられますか?』
前書き
婚姻届を出した。
名字を決めた。
夫婦になった。
これで婚活は終わり。
めでたし、めでたし。
……になるはずでした。
でも、結婚した翌日から始まるのは、
「夫婦として一緒に暮らす」という、もっと面倒な毎日です。
元妻との思い出を、どこに置くのか。
家の中に、誰の居場所を作るのか。
仕事と夫婦の時間を、どう両立するのか。
家事は、どちらがやるのか。
記念日を忘れたら、どうするのか。
そして。
夫婦になったあとも、
「今日もこの人がいい」と思えるのか。
優には、一度結婚して、離婚した過去があります。
喜咲にとっては、初めての結婚です。
同じ「夫婦」になっても、
二人が立っている場所は、少し違う。
だから第4部では、
結婚したから分かり合える二人ではなく、
結婚しても分からないから、何度でも話す二人
を描きます。
恋人から夫婦へ。
でも、
夫婦になったからといって、
恋人であることまで終わる必要はない。
第4部のテーマは、
「夫婦になったあとも、今日この人を選び直す」
です。
付き合ったら、婚活より面倒だった。
では、
結婚したら?
たぶん。
もっと面倒です。
それでも二人は、
一緒にいたいと思えるのでしょうか。
第4部
『夫婦になっても恋人でいられますか?』
始まります。
《日曜日 デート》
《日曜日 仕事・仮》
妻との約束が、スマートフォンの画面上で仕事に押し出されようとしていた。
「優」
「はい」
「私の仕事と、優の仕事。どっちが大事?」
俺は答えられなかった。
午後九時四十三分。
目の前にいるのは、俺の妻。
小鳥遊喜咲。
仕事では、東海林喜咲。
そして俺は、彼女と日曜日にデートしたいだけの夫だった。
「……比較できません」
「そうだよね」
「はい」
「じゃあ、私たちの時間は?」
俺はスマートフォンを見た。
二週間前から入っている《デート》。
今日になって追加された《仕事・仮》。
どちらも消したくない。
だが、日曜日は一日しかない。
「優?」
「はい」
「何を考えてるの?」
「優先順位です」
「やめて」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
「何がです?」
「今から表を作って、点数をつけますって」
俺はスマートフォンを伏せた。
「……作ろうとしていました」
「先週、家事の点数化に失敗したばかりでしょ」
「今回は改善できるかと」
「反省してない!」
喜咲がため息をついた。
俺もため息をついた。
家事分担の問題は、何とか解決した。
今度は時間だ。
どうやら結婚生活には、解決しても解決しても、新しい問題が追加されるらしい。
しかも。
ほとんどの場合、正解がない。
* * *
先に入れた予定が勝ちですか?
「確認させてください」
俺はカレンダーを開いた。
「デートは二週間前から予定しています」
「うん」
「仕事の話が来たのは今日ですね?」
「そう」
「では、先に約束した予定を優先すれば、デートです」
喜咲が腕を組んだ。
「じゃあ、優の病院に急患が来たら?」
「対応します」
「私とのデートは?」
「延期を相談します」
「先に約束していても?」
「患者さんへの対応が必要ですから」
「じゃあ、私の仕事で、どうしても外せない用事ができたら?」
「……内容によります」
「私の仕事は、後から入ったら駄目?」
俺は口を閉じた。
喜咲は責めているわけではなかった。
ただ、聞いている。
だからこそ、適当な答えは言えなかった。
「今回の仕事は、何をするんですか?」
「新商品の店頭確認。実際に売り場でどう見えるか、どんな反応があるか、企画側でも確認したいの」
「別の方に頼めませんか?」
「それも考えた。でも、私が直接見たいところがある」
「そうですか」
「私の仕事って、企画書を作って終わりじゃないから」
喜咲がテーブルに置いたバッグを見た。
「考えた商品が、実際にお店に並ぶ。それを見るのも仕事なんだよ」
俺は頷いた。
「大切な仕事ですね」
「うん」
「なら、行ったほうがいいと思います」
そう言った瞬間。
喜咲の表情が曇った。
「……優」
「はい」
「それ、今決めるの?」
「何をです?」
「私が仕事に行くこと」
俺は戸惑った。
「喜咲の仕事なので、喜咲が決めることでは?」
「そうだけど」
彼女が首を傾けた。
「私、まだ迷ってるんだよ」
「……はい」
「仕事も大事。でも、優とのデートも大事」
「はい」
「だから相談したかったの」
俺は黙った。
喜咲が続ける。
「行ったほうがいい、って言われるとさ」
「はい」
「優とのデートを諦めるのが、正しいことみたいになるじゃん」
その言葉で、ようやく気づいた。
俺は、理解のある夫でいようとしていた。
妻の仕事を尊重する。
妻の判断を邪魔しない。
寂しくても我慢する。
そうすれば、いい夫でいられる。
でも。
それでは、喜咲が俺に相談する意味がない。
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
「では、言い直します」
喜咲が俺を見た。
俺は一度、息を吐いた。
「俺は、日曜日に喜咲と一緒にいたいです」
彼女の表情が変わった。
「……うん」
「久しぶりに一日休みが合うので、楽しみにしていました」
「うん」
「だから、仕事が入るのは残念です」
喜咲は小さく頷いた。
「……私も」
「でも、喜咲が仕事を大切にしていることも分かります」
「うん」
「なので」
俺はカレンダーを見た。
「どちらかを諦める前に、一緒に考えませんか」
喜咲が少し笑った。
「……最初からそう言ってよ」
「すみません」
「本当に、優は面倒くさいね」
「喜咲ほどではありません」
「言ったな?」
「事実確認です」
喜咲がクッションを投げてきた。
俺は受け止めた。
夫婦の相談は、物理的な攻撃を伴う場合がある。
医学書には載っていない。
* * *
変更できる約束は、大切じゃないんですか?
翌日の昼休み。
喜咲からメッセージが届いた。
《日曜日、午後一時からなら仕事に行けそう》
続けて。
《午前中は空けられるかも》
俺は画面を見つめた。
午前中だけ。
つまり、一日デートはできない。
だが、午前中は一緒にいられる。
《分かりました。仕事なら仕方ありません》
そこまで打って、指が止まった。
仕方ありません。
何と便利な言葉だろう。
自分の気持ちを説明しなくて済む。
相手を責めなくて済む。
理解のある大人にも見える。
だが、その言葉で会話を終わらせたら。
喜咲は、俺が何を思っているのか分からない。
俺は文章を消した。
《正直に言うと、一日デートできないのは残念です》
送信。
少し考えて、もう一通。
《でも、午前中だけでも一緒に過ごしたいです》
数分後。
《うん。私も》
続いて。
《午前中は空けられるように調整したよ》
俺は少し驚いた。
《ありがとう》
《どういたしまして》
さらに一通。
《だから優も、ちゃんとデートの準備してね》
俺は考えた。
デートの準備。
結婚前なら、店を探した。
時間を決めた。
行き先を考えた。
天気予報も確認した。
しかし、結婚してからはどうだろう。
同じ家で暮らしている。
顔は毎日見られる。
だから、デートを特別な予定として扱う機会が減っていた。
《分かりました。店を探します》
すぐに返事が来た。
《それでこそ私の夫》
俺は少し笑った。
そして、カレンダーを開いた。
《日曜日 デート》
予定を削除する代わりに、時間を変更する。
午前八時から午前十時。
二時間。
たった二時間。
でも。
二時間しかない、と考えるか。
二時間もある、と考えるか。
少なくとも、喜咲が調整して作ってくれた時間だ。
俺も、その時間を大切にしたかった。
* * *
夫婦のデートにも予約が必要ですか?
金曜日の夜。
「優、日曜日どうする?」
帰宅した喜咲が聞いた。
「予約しました」
「え?」
「朝食の店です」
「……本当に?」
「はい」
「何時?」
「午前八時です」
喜咲が時計を見た。
「早くない?」
「午後から仕事ですので」
「デートで朝八時集合?」
「同じ家から出発します」
「それ、集合って言わないから」
俺はスマートフォンを見せた。
朝食の予約。
場所。
所要時間。
店から喜咲の仕事先へ移動する余裕も考えた。
彼女が画面を覗き込む。
「……優」
「はい」
「これ、診療スケジュール?」
「デートの予定です」
「移動時間まで入ってる」
「遅刻を避けるためです」
「トイレ休憩も?」
「必要なら追加します」
「いらない!」
喜咲が笑った。
そして、画面を指さす。
「ここ」
「はい」
「朝ごはんのあと、三十分空いてるね」
「予備時間です」
「何の?」
「移動の遅れなどに対応するための」
「じゃあ、その三十分は?」
「はい?」
「手をつないで歩く時間にしよう」
俺は少し驚いた。
「……手をつなぐ時間を予定に入れるんですか?」
「入れちゃ駄目?」
「駄目ではありませんが」
「じゃあ決まり」
喜咲がスマートフォンを操作する。
《午前九時三十分 手をつないで散歩》
俺は画面を見た。
「……正式な予定になりましたね」
「そう」
「雨天の場合は?」
「傘を差す」
「強風の場合は?」
「近くでお茶する」
「急な仕事の連絡が来た場合は?」
喜咲が俺を見る。
「対応が必要なら話す。でも、そうじゃなければあとで返す」
俺は頷いた。
「分かりました」
喜咲が笑った。
「優もね」
「はい」
「緊急の仕事は仕方ない。でも、そうじゃない用事まで全部優先しなくていいから」
俺はスマートフォンを見た。
そうか。
デートは、空いた時間にするものではない。
二人で、時間を空けてするものなのだ。
「……喜咲」
「何?」
「楽しみになってきました」
喜咲が一瞬黙った。
それから、嬉しそうに笑った。
「……私も」
* * *
日曜日の朝八時に、もう一度恋人になる
日曜日。
午前七時四十分。
俺は玄関で靴を履いていた。
喜咲が寝室から出てきた。
「……優」
「おはようございます」
「早くない?」
「予約の二十分前です」
「店まで十分もかからないでしょ」
「余裕を持った行動です」
「家からのデートなのに?」
「はい」
喜咲は少し笑った。
そして、俺の服を見た。
「……今日、いい感じじゃん」
「そうですか?」
「うん。ちゃんとデートの服」
俺は自分の服を見下ろした。
いつもの仕事着とは違う。
少しだけ気を使った服。
「喜咲とのデートなので」
そう答えると、彼女は目を細めた。
「……そういうこと言うの、ずるい」
「何がです?」
「結婚したら、もう口説かれないと思ってた」
俺は少し考えた。
「結婚しても、好きな相手は変わりませんので」
喜咲が黙った。
そして、顔をそらした。
「……早く行くよ」
「まだ時間がありますが」
「いいから!」
どうやら、予定より早く出発することになった。
理由は不明だった。
* * *
カフェの窓際。
焼きたてのパン。
コーヒー。
向かいには喜咲。
特別に高級な店ではない。
豪華な料理でもない。
それでも、俺には十分だった。
「優、何食べる?」
「モーニングセットにします」
「私も」
「同じですね」
「夫婦っぽい」
「昨日も同じ夕食を食べましたが」
「そういう意味じゃない!」
喜咲が笑った。
俺も笑った。
しばらくして、朝食が運ばれてきた。
喜咲はパンを一口食べて、窓の外を見た。
「……いいね」
「おいしいですか?」
「うん。でも、それだけじゃなくて」
「はい」
「こういう時間がいい」
俺は頷いた。
彼女はコーヒーカップを持ったまま続ける。
「結婚すると、デートしなくなる夫婦って多いのかな」
「どうでしょう」
「毎日会えるから、わざわざ出かけなくてもいいって思っちゃうのかな」
俺は少し考えた。
「俺たちも、そうなりかけていたかもしれませんね」
「……そうだね」
家に帰れば、喜咲がいる。
一緒に食事をする。
洗濯物を畳む。
ゴミを出す。
明日の予定を話す。
それも幸せだ。
だが、気がつけば会話の大部分が生活の相談になっている。
「優、洗剤買った?」
「優、明日何時に帰る?」
「優、ゴミ出してくれた?」
どれも大切な会話だ。
でも。
恋人だった頃は、それだけではなかった。
「……喜咲」
「何?」
「今日は、家事の話をしないことにしましょう」
彼女が笑った。
「いいね」
「仕事の話も?」
「できれば」
「では、何を話しますか?」
喜咲が俺を見た。
そして。
「私のこと」
と言った。
俺は瞬きをした。
「喜咲のことですか?」
「うん」
「毎日話していますが」
「妻としてじゃなくて」
彼女が少し照れたように笑った。
「好きな女として、話してよ」
俺は返事ができなかった。
四十五歳。
バツイチ。
一度結婚に失敗した男。
そんな俺が、今さらデートで何を話せばいいのか分からなくなっている。
「……優?」
「はい」
「固まった?」
「少し」
「医者なのに?」
「医師にも苦手分野があります」
「恋愛?」
「かなり」
喜咲が吹き出した。
「知ってる!」
俺も笑った。
そして、ようやく言った。
「……今日の服、似合っていますね」
喜咲が目を丸くした。
「え?」
「素敵です」
「……本当に?」
「はい」
「何その急な褒め言葉」
「好きな女性に言う言葉を考えました」
喜咲は少し黙った。
そして、頬を赤くした。
「……そういうの」
「はい」
「もっと早く言ってよ」
「すみません」
「謝らなくていい!」
喜咲が笑った。
俺も笑った。
ほんの少しだけ。
結婚前に戻った気がした。
いや。
違う。
戻ったのではない。
夫婦になった今、もう一度、恋人として向き合っている。
それが、思っていた以上に嬉しかった。
* * *
二時間しかない。でも、二時間もある
午前九時二十五分。
俺たちはカフェを出た。
喜咲がスマートフォンを確認する。
「優」
「はい」
「あと五分」
「何がです?」
「手をつなぐ予定」
俺は時計を見た。
「予定を早めても問題ありません」
「……え?」
俺は手を差し出した。
「今からでも」
喜咲が少し驚いた。
それから、笑った。
「……優、成長したね」
「四十五歳ですが」
「恋愛に年齢は関係ありません」
「そうですね」
彼女が俺の手を握った。
温かかった。
二人で歩く。
何か特別なことを話すわけではない。
ただ、歩く。
時々、喜咲が店のショーウインドーを覗き込む。
俺は足を止める。
彼女が「これ、かわいい」と言う。
俺は「そうですね」と答える。
それだけだ。
なのに。
楽しかった。
「……ねえ、優」
「はい」
「二時間のデートって、短いと思ってた」
「俺もです」
「でも、結構いいね」
「そうですね」
「一時間でもいいのかも」
「可能です」
「三十分でも?」
「内容によります」
「十五分は?」
「短いですね」
「五分は?」
「……それは挨拶では?」
喜咲が吹き出した。
「じゃあ、五分でも会いたい日は?」
俺は考えた。
そして答えた。
「会いに行きます」
喜咲が立ち止まった。
「……優」
「はい」
「それ、反則」
「何がです?」
「好きになっちゃうでしょ」
「もう結婚していますが」
「何回好きになってもいいじゃん」
俺は少し笑った。
「……そうですね」
喜咲が俺の手を強く握った。
「じゃあ、今朝も好き」
俺は彼女を見る。
「俺もです」
「ちゃんと言って」
俺は少し照れた。
それでも、言った。
「今日も喜咲が好きです」
彼女は嬉しそうに笑った。
「……うん」
午前十時。
予定どおり、散歩は終わった。
でも。
デートが終わったからといって、喜咲への気持ちが終わるわけではない。
一日一緒にいられなくても。
一緒に過ごした二時間は、なくならない。
* * *
仕事を優先する日は、愛情が減る日ですか?
別れ際。
喜咲が言った。
「優、今日ありがとう」
「こちらこそ」
「仕事で予定変えちゃって、ごめんね」
俺は首を振った。
「謝らなくていいです」
「でも」
「残念だったのは本当です」
「……うん」
「ただ、今日のデートは楽しかったです」
喜咲が笑った。
「私も」
俺は彼女を見る。
「なので、次からも予定が変わることはあると思いますが」
「うん」
「そのときは、一人で決めないでほしいです」
喜咲が少し驚いた。
「……一人で?」
「はい」
「私の仕事なのに?」
「仕事の判断は、喜咲がするものです」
「うん」
「でも、二人の約束が変わるなら、二人で相談したい」
喜咲は黙った。
俺は続けた。
「俺も同じです。病院の勤務が変わることもあります」
「うん」
「そのとき、仕事だから仕方ないと勝手に決めるのではなく」
俺は彼女の手を握り直した。
「喜咲がどう思うか、ちゃんと聞きたいです」
彼女はしばらく俺を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「……それ、先週の家事の話と同じだね」
「そうですね」
「言われる前に、二人で考える」
「はい」
「予定も家事も、夫婦の共同作業か」
「そういうことですね」
喜咲が笑った。
「また分担表作る?」
「作れますが」
「いらない!」
俺たちは笑った。
そして、彼女が言った。
「私ね、今日、仕事に行きたいんだ」
「はい」
「でも、優とのデートもしたかった」
「はい」
「だから、午前中だけでも一緒にいられてよかった」
俺は頷いた。
「俺もです」
彼女は少し照れたように笑った。
「……どっちも大事にしていいんだね」
「ええ」
「欲張りかな?」
「いいんじゃないですか」
「本当に?」
俺は答えた。
「両方欲しいなら、両方大切にする方法を考えましょう」
喜咲が小さく笑った。
「簡単に言うね」
「簡単ではありません」
「でしょ?」
「ですが」
俺は彼女を見る。
「どちらかを諦めることを、最初から正解にしたくありません」
喜咲は黙った。
そして。
「……ありがとう、優」
と言った。
俺は笑った。
「どういたしまして」
彼女は手を振って、仕事へ向かった。
その背中を見送りながら、俺は思った。
仕事を優先する日があってもいい。
夫婦の時間を優先する日があってもいい。
大切なのは、どちらを選ぶかだけではない。
選ばれなかった側の気持ちを、なかったことにしないことだ。
それが、今日の俺たちの答えだった。
* * *
予定表には書けないもの
その夜。
喜咲は少し疲れた顔で帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「疲れた……」
「お茶を入れます」
「ありがとう」
ソファに座った彼女は、スマートフォンを取り出した。
「優」
「はい」
「今日ね、仕事、行ってよかった」
「そうですか」
「うん。店頭で見ないと分からないことが、結構あった」
彼女は楽しそうに話し始めた。
商品の並び方。
買い物客の反応。
企画したときには気づかなかったこと。
俺には専門外の話だ。
でも。
喜咲が嬉しそうなのは、分かった。
「……優?」
「はい」
「退屈じゃない?」
「いいえ」
「医者には関係ない話でしょ」
俺は首を振った。
「喜咲に関係のある話ですから」
彼女が黙った。
「……そういうところ」
「はい」
「本当にずるい」
「何がです?」
「また好きになっちゃう」
「今日三回目ですね」
「数えるな!」
俺たちは笑った。
しばらくして、喜咲がカレンダーを開いた。
《日曜日 デート》
予定は、まだ残っている。
「これ、消さなくていいよね」
「ええ」
「午前中だけだったけど」
「ちゃんとデートしましたから」
喜咲が笑った。
「……そうだね」
そして、新しい予定を入れた。
《次の休日 デート候補》
俺は画面を見た。
「候補ですか?」
「うん。まだ仕事がどうなるか分からないから」
「なるほど」
「でも、先に書いておきたいの」
「なぜです?」
喜咲が俺を見る。
「優との時間、ちゃんと取りたいから」
俺は少し笑った。
「……ありがとうございます」
彼女が首を振った。
「お礼じゃないでしょ」
「では?」
「優も取りたいんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、二人の予定」
俺は頷いた。
「そうですね」
そして、予定の説明欄に書き加えた。
《変更するときは、二人で相談》
喜咲が画面を見て吹き出した。
「……規則にした!」
「重要事項です」
「夫婦のデートに規則が増えていく」
「必要な規則だけです」
「そのうち就業規則みたいになりそう」
「休日については、特に重要です」
「会社じゃないんだから!」
俺たちは笑った。
でも。
その夜、眠る前に。
喜咲は俺の腕に頭を寄せて、小さく言った。
「ねえ、優」
「はい」
「これからも、ちゃんと話そうね」
「もちろんです」
「我慢してることがあったら、言ってね」
「はい」
「私も言うから」
俺は彼女の髪に触れた。
「分かりました」
喜咲が目を閉じる。
「……約束ね」
「はい」
俺たちは、また一つ約束を増やした。
それが守れなくなる日が、こんなに早く来るとは思っていなかった。
* * *
今度は、俺の番でした
翌朝。
出勤前。
スマートフォンに、病院から連絡が届いた。
《勤務調整のお願い》
俺は内容を確認した。
次の休日。
勤務の変更をお願いできないか、という相談だった。
まだ確定ではない。
事情を確認し、調整の可否を返答する必要がある。
俺は共有カレンダーを開いた。
《次の休日 デート候補》
昨日、喜咲と一緒に入れた予定。
そして。
《変更するときは、二人で相談》
俺は少し笑った。
「……なるほど」
昨日、喜咲に言ったばかりだ。
予定が変わるなら、二人で相談する。
今度は、俺の番だ。
そのとき。
寝室から出てきた喜咲が言った。
「優、ちょっといい?」
「はい」
「次の休みなんだけど」
俺は顔を上げた。
「何かありましたか?」
「仕事で、また調整が必要になりそうなの」
俺はスマートフォンを見た。
病院からの勤務変更依頼。
喜咲の仕事の相談。
二人で決めたデート候補。
三つの予定が、同じ日を指していた。
「……喜咲」
「何?」
「俺からも相談があります」
彼女がこちらを見る。
「……まさか」
「はい」
「仕事?」
「……仕事です」
喜咲は少し黙った。
そして、小さく笑った。
「また?」
「またですね」
「私たち、いつデートできるんだろう」
「調整しましょう」
俺はそう答えた。
昨日と同じように。
相手の事情を聞いて、予定を整理して、二人が納得できる方法を探す。
それでいい。
そう思っていた。
「優の仕事、外せないの?」
喜咲が聞いた。
俺は連絡を見直した。
「まだ確定していませんが、病院から依頼されています」
「断ることは?」
「事情を確認しないと分かりません。ただ、簡単ではないと思います」
「……そっか」
喜咲が頷いた。
俺は続けた。
「喜咲の仕事は、調整できそうですか?」
その瞬間。
彼女の表情が変わった。
「……私の?」
「はい」
「どうして?」
俺は戸惑った。
「お互いの予定を確認しようと思いまして」
「優の仕事は簡単に断れなくて、私の仕事は調整できるか聞くんだ?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味?」
俺は言葉を探した。
医師の仕事には、患者さんへの責任がある。
病院の勤務は、個人だけで決められるものではない。
だが。
喜咲の仕事にも責任がある。
俺には分からない事情がある。
昨日、そのことを話したばかりだ。
「……喜咲」
「何?」
「まず、どちらの仕事も調整できるか確認して、それから相談しましょう」
喜咲は俺を見た。
「うん」
「病院にも事情を確認します」
「……うん」
「まだ決まったわけではありませんから」
「そうだね」
俺は少し安心した。
ちゃんと話せている。
昨日の約束を守れている。
そう思った。
だから、言ってしまった。
「どうしても両方外せないなら、今回は仕事を優先するしかないかもしれませんね」
喜咲が黙った。
俺は続けた。
「その場合は、デートを別の日に」
「……優」
「はい」
「それ、もう決めてない?」
俺は止まった。
「……決めているつもりはありません」
「でも、仕事を優先するしかないって言ったよね」
「可能性の話です」
「私、まだ自分の仕事の内容もちゃんと話してないよ」
「……そうですね」
喜咲は少し視線を落とした。
「昨日はさ」
「はい」
「予定を変えるときは、二人で相談しようって言ったよね」
「言いました」
「私の仕事のときは、優が残念だってちゃんと言ってくれた」
「はい」
「だから私も、二人の時間を守ろうって思った」
「……はい」
「でも、今日は?」
俺は答えられなかった。
喜咲が俺を見る。
「優、自分の仕事の予定を聞いて、最初からデートを諦めてない?」
「……そんなつもりは」
「うん。分かってる」
彼女は少し笑った。
「優は悪気がないんだよね」
俺は胸の奥に、小さな違和感を覚えた。
それは、いつもの笑い方ではなかった。
「……喜咲」
「何?」
「俺は、二人で相談したいと思っています」
「うん」
「勝手に決めるつもりはありません」
「分かってる」
「だから、まず仕事の事情を確認してから」
「……分かった」
喜咲はそう言った。
そして、スマートフォンを伏せた。
俺も、それ以上は何も言わなかった。
話し合った。
お互いの仕事の事情を確認することにした。
まだ何も決めていない。
それなのに。
どうして、こんなにも空気が重いのだろう。
喜咲はキッチンへ向かった。
俺は共有カレンダーを見た。
《次の休日 デート候補》
《変更するときは、二人で相談》
俺たちは確かに、相談した。
でも。
俺は、自分の考えを説明することに夢中で、喜咲が何を言いたかったのかを最後まで聞いていなかったのかもしれない。
話し合うことと。
分かり合うことは、同じではない。
「……喜咲」
俺が声をかけると、彼女は振り向いた。
「何?」
「さっきの話ですが」
「うん」
「怒っていますか?」
彼女は少しだけ考えた。
そして、いつもより静かな声で言った。
「……分かったって言ったでしょ」
俺は黙った。
彼女も、それ以上は何も言わなかった。
優先順位を決めたかったわけではない。
どちらの仕事が大切かを証明したかったわけでもない。
ただ、二人の時間を守りたかった。
それなのに。
昨日まであんなに嬉しかった共有カレンダーが、今はひどく冷たいものに見えた。
喜咲の「分かった」は、俺が知っている「分かった」ではなかった。
第38話 完
次回予告
次回 第4部 第9話/通算第39話
「夫婦喧嘩は、勝ったほうが負けですか?」
結婚してから、何度も話し合ってきた。
不満があれば言おう。
寂しいなら、寂しいと言おう。
我慢する前に相談しよう。
そう約束してきた。
それなのに。
「優、私の話、ちゃんと聞いてる?」
「聞いています」
「じゃあ、なんで分かってくれないの?」
「……喜咲こそ、俺の話を聞いていますか?」
正しいことを言っているつもりなのに、相手を傷つける。
謝りたいのに、謝れない。
好きなのに、腹が立つ。
話し合えば分かり合える。
そう信じていた二人が、初めて気づく。
話し合う言葉そのものが、相手を傷つけることもある。
次回。
結婚してから最大の夫婦喧嘩。
二人は、もう一度向き合えるのか。
作品案内
四十代。恋は面倒だ。
結婚したら、もっと面倒だった。
それでも今日も、この人を選び直す。
優と喜咲の「夫婦になってからの恋」を、これからも追いかけていただけたら嬉しいです。
作者より
結婚すると、一緒に過ごす時間が自然に増える。
そんなふうに思っていたのに、現実には仕事や予定の調整ばかり。
今回の第38話では、**「仕事を優先することは、相手を大切にしていないことなのか?」**をテーマにしました。
優と喜咲は、短い時間でもデートを楽しむ方法を見つけました。
でも、相手を思いやることと、相手の本音を理解することは、必ずしも同じではありません。
次回は、これまで二人が大切にしてきた「話し合う」という約束そのものが試されます。
あなたなら、パートナーとの約束と仕事が重なったとき、どうしますか?
感想・コメント・メッセージで教えていただけると嬉しいです。
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524
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