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第6話/通算第36話 「妻の昇進を、素直に喜べない夫です」

第4部『夫婦になっても恋人でいられますか?』




前書き




婚姻届を出した。




名字を決めた。




夫婦になった。




これで婚活は終わり。




めでたし、めでたし。




……になるはずでした。




でも、結婚した翌日から始まるのは、




「夫婦として一緒に暮らす」という、もっと面倒な毎日です。




元妻との思い出を、どこに置くのか。




家の中に、誰の居場所を作るのか。




仕事と夫婦の時間を、どう両立するのか。




家事は、どちらがやるのか。




記念日を忘れたら、どうするのか。




そして。




夫婦になったあとも、




「今日もこの人がいい」と思えるのか。




優には、一度結婚して、離婚した過去があります。




喜咲にとっては、初めての結婚です。




同じ「夫婦」になっても、




二人が立っている場所は、少し違う。




だから第4部では、




結婚したから分かり合える二人ではなく、




結婚しても分からないから、何度でも話す二人




を描きます。




恋人から夫婦へ。




でも、




夫婦になったからといって、




恋人であることまで終わる必要はない。




第4部のテーマは、




「夫婦になったあとも、今日この人を選び直す」




です。




付き合ったら、婚活より面倒だった。




では、




結婚したら?




たぶん。




もっと面倒です。




それでも二人は、




一緒にいたいと思えるのでしょうか。




第4部




『夫婦になっても恋人でいられますか?』




始まります。

「大丈夫です」


そう言いかけて。


俺は止まった。


喜咲が俺を見る。


「今、言おうとしたでしょ」


「……何をです?」


「大丈夫です、って」


逃げ道を塞がれた。


テーブルの上。


喜咲のスマートフォンには、まだメールが表示されている。


《東海林喜咲様 新企画責任者候補について》


今日。


親戚の誰からも呼ばれなかった名前。


東海林喜咲。


喜咲が仕事をして。


積み上げて。


評価されてきた名前だ。


「優」


「はい」


「私ね」


喜咲が画面を見る。


「やりたい」


その声は。


少しだけ弾んでいた。


「この仕事」


「はい」


「まだ正式に決まったわけじゃないけど。もし本当に声をかけてもらえるなら」


喜咲が俺を見る。


「挑戦してみたい」


答えは。


決まっているはずだった。


「受ければいいと思います」


「うん」


「喜咲がやりたいなら」


「うん」


「俺は応援します」


完璧な答えだと思った。


妻の仕事を応援する夫。


百点。


なのに。


喜咲は笑わなかった。


「それだけ?」


「え?」


「優の答え、それだけ?」


「……何か足りませんか?」


「足りない」


即答だった。


* * *


正しい夫の答え


「何が足りないんでしょう」


「自分で考えて」


「難易度が急に上がりました」


「さっきまで考えてたでしょ」


「考えていました」


「何を?」


俺は黙った。


喜咲が俺を見る。


「ほら」


「はい」


「今、隠した」


「……」


「優」


「はい」


「嫌なら、嫌って言って」


「嫌ではありません」


これは。


本当だ。


喜咲が評価された。


嬉しい。


新しい仕事に挑戦したい。


応援したい。


それも。


本当だ。


「じゃあ、何?」


喜咲が聞く。


「出張?」


俺は黙る。


「残業?」


黙る。


「帰りが遅くなること?」


黙る。


喜咲が最後に。


俺を見る。


「私と一緒にいる時間が減ること?」


俺は。


答えられなかった。


「全部じゃん」


「全部ではありません」


「じゃあ何割?」


「割合の問題ですか?」


「医者なんだから数字にして」


「医師を万能な計測器だと思わないでください」


「じゃあ夫として答えて」


そっちのほうが。


ずっと難しかった。


俺は息を吐く。


「……寂しいとは思います」


言った。


思っていたより。


簡単な言葉だった。


喜咲が少し目を見開く。


「今、何て?」


「聞こえていましたよね」


「もう一回」


「嫌です」


「そこは嫌って言えるんだ」


「言えと言ったのは喜咲です」


喜咲が笑った。


俺も少し笑う。


でも。


今度は逃げなかった。


「寂しいと思います」


もう一度。


ちゃんと言った。


「帰りが遅くなるのも」


「うん」


「出張が増えるのも」


「うん」


「一緒に食事をする時間が減るのも」


「うん」


「たぶん、嫌です」


喜咲は黙って聞いていた。


「でも」


俺は続ける。


「だから、やめてほしいとは思っていません」


「……うん」


「応援したいです」


「うん」


「それも本当です」


喜咲が少し考える。


「じゃあ、どっちが本音?」


俺も考えた。


そして。


気づいた。


「両方です」


「両方?」


「応援したいのも本当です」


「うん」


「寂しいのも本当です」


喜咲が黙る。


「両方あってはいけませんか?」


少しして。


喜咲が笑った。


「いいんじゃない?」


「いいんですか」


「人間だし」


「夫として不適切かと思いました」


「何、その夫婦倫理規定」


「応援するなら、全面的に応援するべきかと」


「全面的って何?」


「百パーセント」


「残りゼロ?」


「はい」


「怖いよ」


「そうですか?」


「百パーセント応援して、一ミリも寂しくありませんって言われたら」


喜咲が肩をすくめる。


「私、いなくてもよくない?」


「それは困ります」


「じゃあ寂しがれ」


「命令なんですね」


「適度に」


「基準を教えてください」


「自分で考えろ」


夫婦の資格試験は。


今日も難しい。


* * *


それ、美和さんのときと同じじゃない?


喜咲がソファに座った。


俺も隣に座る。


スマートフォンの画面は。


もう消えていた。


「優」


「はい」


「さっき、私が『やりたい』って言ったとき」


「はい」


「すぐ『受ければいい』って言ったでしょ」


「言いました」


「あれ、本当にそう思った?」


「思いました」


「本当に?」


俺は。


少し考える。


「……思おうとしました」


「違うじゃん」


「完全な嘘ではありません」


「じゃあ何?」


俺は答えを探した。


そして。


一番近い言葉を見つけた。


「正しい夫の回答をした、という感じでしょうか」


「正しい夫?」


「妻の仕事を応援する夫です」


喜咲の眉が上がる。


「誰にとって正しいの?」


答えられなかった。


「私、仕事続けたい」


「はい」


「この企画もやってみたい」


「はい」


「応援してほしい」


「はい」


「でも」


喜咲が俺を見る。


「応援してるふりは、してほしくない」


胸に刺さった。


ふり。


その言葉で。


一人の顔を思い出した。


美和。


元妻。


俺は。


いい夫でいようとした。


嫌なことがあっても。


大丈夫。


寂しくても。


大丈夫。


腹が立っても。


大丈夫。


揉めないように。


相手を困らせないように。


そうやって。


本音を隠した。


最後には。


何を考えているのか分からない夫になった。


「優?」


「はい」


「今、誰か思い出した?」


「……美和です」


喜咲は驚かなかった。


「やっぱり」


「分かりましたか」


「顔に書いてある」


「そんなにですか」


「『過去の失敗を思い出しています』って」


「長文ですね」


「フォント小さめ」


俺は息を吐いた。


「同じことをしようとしていました」


「うん」


「喜咲が仕事をしたいなら、何も言わず応援するのが正しいと思っていました」


「うん」


「寂しいとか、嫌だとか言えば」


言葉が止まる。


「言えば?」


「喜咲の邪魔になると思いました」


喜咲が黙る。


「仕事を諦めさせるかもしれない」


「うん」


「罪悪感を持たせるかもしれない」


「うん」


「だから、言わないほうがいいと」


「それ」


喜咲が言った。


「美和さんのときと同じじゃない?」


痛かった。


でも。


否定できなかった。


「そうですね」


「優しいつもりで黙る」


「はい」


「相手に決めさせてるようで」


「はい」


「自分だけ本音を出してない」


「はい」


「ずるいね」


「はい」


「そこは否定しないんだ」


「できません」


喜咲が笑った。


俺も。


少しだけ笑った。


以前なら。


ここでまた。


大丈夫です。


と言っていた。


たぶん。


俺はこれからも。


同じことを言いそうになる。


完全には変われない。


でも。


前より少しだけ早く。


自分が黙ろうとしていることに。


気づけるようにはなった。


* * *


二つとも、本音


「じゃあ」


喜咲が言った。


「私、この仕事どうしよう」


俺は答えようとして。


止まった。


昨日。


親戚の前で学んだばかりだ。


代わりに答えない。


代わりに決めない。


でも。


一人にはしない。


「それは、喜咲が決めることです」


喜咲が笑う。


「ちゃんと覚えてる」


「復習しました」


「偉い」


「ありがとうございます」


「でも」


「はい」


「夫の意見は聞きたい」


昨日は。


代わりに答えるなと言われた。


今日は。


意見を言えと言われる。


「夫婦の試験範囲が広すぎませんか?」


「実技試験だから」


「筆記にしてください」


「カンニングするでしょ」


「しません」


「ChatGPTに聞くでしょ」


「それは少し考えます」


「失格」


「まだ聞いていません」


喜咲が笑った。


俺も笑う。


そして。


ちゃんと考えた。


「やってほしいです」


喜咲が俺を見る。


「本当に?」


「はい」


「無理してない?」


「少ししています」


「してるんだ」


「正直に言えと言われましたから」


喜咲が吹き出した。


「喜咲がやりたい仕事なら、挑戦してほしいです」


「うん」


「ただ」


「うん」


「俺との時間が減るのは嫌です」


「うん」


「帰ってこない日が増えたら寂しいです」


「うん」


「食事の約束が仕事でなくなったら残念です」


「うん」


「出張が続いたら」


少し考える。


「かなり寂しいと思います」


喜咲の口元が緩んだ。


「かなり?」


「かなりです」


「どれくらい?」


「定量化は難しいです」


「医者なのに?」


「またですか」


喜咲が笑う。


俺も笑った。


そして。


今度こそ。


言った。


「応援してます」


「うん」


「でも」


喜咲を見る。


「寂しくないとは言いません」


喜咲が黙った。


少しして。


「うん」


と頷く。


「それなら信用できる」


その一言が。


思った以上に。


嬉しかった。


* * *


喜咲にも、二つある


「私も言っていい?」


「もちろんです」


「怖い」


意外だった。


「何がです?」


「仕事」


「やりたいと言っていましたよね」


「やりたいよ」


喜咲はすぐ答えた。


「でも、やりたいのと怖くないのは別でしょ」


俺は。


少し笑った。


「同じですね」


「何が?」


「俺たちです」


「どういうこと?」


「俺は、応援したい。でも寂しい」


「うん」


「喜咲は、やりたい。でも怖い」


喜咲が。


少しだけ目を見開く。


「本当だ」


「どちらか一つにする必要はないんですね」


「たぶんね」


喜咲がスマートフォンを見る。


「責任も増える」


「はい」


「失敗したらどうしようって思う」


「はい」


「今までみたいにできないかもしれない」


「はい」


「優との時間も減る」


「はい」


「家のことも、今まで通りできないかもしれない」


「それは俺もです」


「優も?」


「俺も働いています」


「あ」


「忘れていました?」


「夫を家電みたいに考えてた」


「常時稼働ではありません」


「充電必要?」


「睡眠が必要です」


「面倒」


「人間なので」


喜咲が笑った。


「じゃあ」


俺は言う。


「全部、今まで通りにするのをやめませんか」


「全部?」


「仕事が変われば」


「うん」


「生活も変わるでしょう」


「うん」


「二人の時間も変わる」


「うん」


「家事も変わるかもしれません」


喜咲が少し考える。


「仕事か家庭か、どっちか選ぶんじゃなくて?」


「はい」


「両方?」


「両方を完璧に、ではありません」


「そこ大事だね」


「二人で調整する、です」


喜咲が黙った。


そして。


「それ」


と言った。


「はい」


「覚えててね」


「何をです?」


「私が本当に忙しくなって、優が本当に寂しくなったとき」


「はい」


「今みたいに格好いいこと言えなくなるかもしれないから」


「俺がですか?」


「私も」


喜咲が笑う。


「たぶん二人とも」


それは。


十分ありそうだった。


* * *


東海林喜咲として


翌朝。


喜咲は会社へ向かう前。


玄関で立ち止まった。


「優」


「はい」


「返事する」


「昨日のメールですか?」


「うん」


俺は。


胸の奥が少しざわつくのを感じた。


今度は。


隠さなかった。


「挑戦しますか?」


「うん」


喜咲が頷く。


「やってみたい」


「そうですか」


「嫌?」


「少し」


「少しなんだ」


「昨日より整理できました」


「医者みたい」


「医師です」


「忘れてた」


「昨日から二回目です」


喜咲が笑う。


「でも」


俺は言った。


「嬉しいです」


「うん」


「喜咲が評価されたこと」


「うん」


「やりたい仕事を見つけたこと」


「うん」


「それは、本当に嬉しいです」


喜咲が。


少し照れたように目を逸らした。


「ありがとう」


「ただ」


「はいはい」


「寂しくなったら言います」


「どうぞ」


「嫌なときも言います」


「どうぞ」


「帰ってきてほしいときも」


「言って」


「仕事より俺を優先してほしいときも」


喜咲が止まる。


「それは内容による」


「交渉制なんですね」


「当然です」


「夫なのに?」


「夫だから何でも最優先されると思うな」


「厳しい」


「妻だから仕事を諦めると思うな」


「思っていません」


「よろしい」


喜咲が靴を履く。


ドアを開ける。


そして。


振り返った。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


今日。


会社へ向かうのは。


俺の妻だ。


法的には。


小鳥遊喜咲。


そして。


仕事では。


東海林喜咲。


どちらも。


喜咲だ。


俺も。


「応援する夫」だけでいる必要はない。


嬉しいなら。


嬉しい。


寂しいなら。


寂しい。


それを言ったうえで。


相手の選択を尊重する。


たぶん。


夫婦になるというのは。


相手と同じ人生を生きることではない。


違う人生のまま。


隣で。


何度でも話すことなのだと思う。


* * *


三日後


「ただいま」


玄関から。


喜咲の声がした。


時計を見る。


午後十時十二分。


「おかえりなさい」


「疲れた」


「お疲れさまです」


喜咲がリビングへ入ってくる。


俺も。


疲れていた。


今日は帰宅が遅かった。


テーブルには。


朝使ったカップ。


流しには。


食器。


ソファの端には。


洗濯物。


ゴミ箱は。


かなり。


いっぱいだった。


喜咲が部屋を見る。


俺も見る。


二人で。


見る。


沈黙。


「優」


「はい」


「一個聞いていい?」


「どうぞ」


喜咲が。


洗濯物を見る。


食器を見る。


最後に。


ゴミ箱を見る。


そして。


俺を見る。


「……家事、誰の番?」


俺は。


答える前に。


スマートフォンを取り出した。


「確認します」


第36話 完


次回 第4部 第7話/通算第37話


「夫婦の家事は、愛では片づきません」


「得意なほうがやる」


そう決めたはずだった。


でも。


二人とも忙しくなったら。


得意な人が。


ずっとやる人になる。


洗濯。


食器。


ゴミ。


買い物。


そして。


目には見えない。


「気づく仕事」。


「優」


「はい」


「ゴミ袋、いっぱいなの気づいてた?」


「……はい」


「じゃあ、なんで捨ててないの?」


夫婦喧嘩は。


ときどき。


世界一小さなゴミ袋から始まる。



四十代。恋は面倒だ。


結婚したら、もっと面倒だった。


それでも今日も、この人を選び直す。


優と喜咲の「夫婦になってからの恋」を、これからも追いかけていただけたら嬉しいです。


「応援している。でも、寂しくないとは言わない」


あなたなら、パートナーの大きな仕事のチャンスを前に、どこまで本音を伝えますか?


優と喜咲の答えをどう感じたか、感想・コメント・メッセージで教えていただけると嬉しいです。

この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。

Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524

Momokun Official https://momokun.jp/

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