第5話/通算第35話 「結婚したら、親戚まで増えるんですか?」
第4部『夫婦になっても恋人でいられますか?』
前書き
婚姻届を出した。
名字を決めた。
夫婦になった。
これで婚活は終わり。
めでたし、めでたし。
……になるはずでした。
でも、結婚した翌日から始まるのは、
「夫婦として一緒に暮らす」という、もっと面倒な毎日です。
元妻との思い出を、どこに置くのか。
家の中に、誰の居場所を作るのか。
仕事と夫婦の時間を、どう両立するのか。
家事は、どちらがやるのか。
記念日を忘れたら、どうするのか。
そして。
夫婦になったあとも、
「今日もこの人がいい」と思えるのか。
優には、一度結婚して、離婚した過去があります。
喜咲にとっては、初めての結婚です。
同じ「夫婦」になっても、
二人が立っている場所は、少し違う。
だから第4部では、
結婚したから分かり合える二人ではなく、
結婚しても分からないから、何度でも話す二人
を描きます。
恋人から夫婦へ。
でも、
夫婦になったからといって、
恋人であることまで終わる必要はない。
第4部のテーマは、
「夫婦になったあとも、今日この人を選び直す」
です。
付き合ったら、婚活より面倒だった。
では、
結婚したら?
たぶん。
もっと面倒です。
それでも二人は、
一緒にいたいと思えるのでしょうか。
第4部
『夫婦になっても恋人でいられますか?』
始まります。
「優」
「はい」
「結婚したら、親戚まで増えるんですか?」
「増えますね」
「減らせますか?」
「たぶん無理です」
「ですよね」
喜咲が深く息を吐いた。
今日は、小鳥遊家の親戚の集まりだった。
結婚後、喜咲が参加するのは初めてだ。
俺にとっては昔から知っている人たちでも、喜咲にとっては、ほぼ全員が初対面。
「大丈夫ですか?」
聞いた瞬間。
俺も。
喜咲も。
止まった。
「今の」
「アウトですね」
「夫婦の『大丈夫禁止検定』、不合格」
「失礼しました」
「再試験」
俺は言い直す。
「行きたくないですか?」
喜咲は少し考えた。
「行きたくない、とまでは言わない」
「はい」
「緊張はする」
「はい」
「面倒そうとも思ってる」
「正直ですね」
「言っていいルールでしょ?」
「そうでした」
第34話で、俺たちは決めた。
仕方ないことと。
大丈夫なことは。
同じではない。
嫌なら、嫌と言っていい。
寂しいなら、寂しいと言っていい。
「じゃあ行く」
「はい」
「でも」
「はい」
「途中で私が目で助けを求めたら、助けて」
「分かりました」
「分かる?」
「何がです?」
「私の『助けて』の目」
「確認したことがありません」
「夫失格」
「厳しいですね」
「今日覚えて」
「努力します」
「そこは、はいって言え」
「はい」
そうして。
俺たちは家を出た。
「奥さん」
会場に着いて十分。
喜咲はすでに五回、
「奥さん」
と呼ばれていた。
「優くんの奥さん?」
「はい」
「まあ、きれいな奥さん」
「ありがとうございます」
「新婚さんなのよね?」
「はい」
「いいわねえ」
次は、
「お嫁さん、こっち座って」
だった。
その次は、
「小鳥遊さん、お茶どうぞ」
間違ってはいない。
喜咲は結婚して、法的には小鳥遊喜咲になった。
誰も間違っていない。
悪意もない。
むしろ、みんな親切だった。
「優くん、こんな美人と結婚したの?」
「はい」
「よかったわねえ」
「ありがとうございます」
「優くん、昔から真面目すぎたから。ねえ、奥さん?」
「私に振らないでください」
喜咲が笑う。
周囲も笑う。
俺も笑った。
いつもの喜咲だ。
そう思っていた。
「お料理はするの?」
叔母が聞いた。
「しますよ」
「やっぱり奥さんが作るの?」
「いえ、優もします」
「あら」
叔母が俺を見る。
「優くん、料理するの?」
「します」
「偉いわねえ」
その瞬間。
喜咲の眉が、ほんの少し動いた。
俺は気づいた。
ただ。
何に気づいたのかまでは、まだ分からなかった。
夫が料理すると「偉い」
昼食が始まった。
「お仕事は?」
喜咲の隣に座った親戚の女性が聞く。
「食品メーカーで企画の仕事をしています」
「へえ、すごい」
「ありがとうございます」
「結婚しても続けるの?」
「はい。そのつもりです」
「大変ねえ」
「まあ、それなりに」
「優くん、お医者さんでしょ?」
「はい」
「だったら無理して働かなくてもいいんじゃない?」
喜咲が一瞬、黙った。
「仕事、好きなので」
「そうなの?」
「はい」
「でも子どもができたら大変でしょう?」
今度は、俺が止まった。
喜咲を見る。
笑っている。
でも。
コップを持つ指に、少しだけ力が入った。
「それは、まだ分かりません」
「早いほうがいいわよ」
「そうですね」
「優くん、お医者さんなんだから詳しいでしょう?」
話が俺へ来た。
「専門ではありません」
「でも医者でしょ?」
「医師ですが」
そこまで言って。
止まった。
違う。
これは医学の話ではない。
喜咲の年齢。
喜咲の身体。
喜咲の仕事。
喜咲の人生。
俺が医師だからといって。
夫だからといって。
俺が説明することではない。
そして。
ようやく分かった。
これが。
家を出る前に言っていた。
喜咲の「助けて」の目だ。
気づくのが遅い。
かなり遅い。
「子どものことは、二人で話しています」
俺は言った。
「あら、そうなの」
「はい。ただ」
そこで一度、止まる。
俺が答えていいのは。
ここまでだ。
「それ以上は、喜咲が話したければ、喜咲が話すことなので」
叔母が少し驚いた顔をした。
「あら、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったのよ」
「分かっています」
喜咲が答えた。
「お気遣いありがとうございます」
空気は悪くならなかった。
誰も怒っていない。
誰も喜咲を傷つけようとしていない。
だからこそ。
難しい。
悪意がないから、言いにくい
少しして。
俺と喜咲は飲み物を取りに席を立った。
「優」
「はい」
「今の」
「はい」
「合格」
「ありがとうございます」
「ギリギリ」
「厳しいですね」
「最初、医者として答えようとしたでしょ」
「しました」
「危なかったね」
「反省しています」
喜咲が笑った。
ただ。
その笑顔には、少し疲れが混じっていた。
「疲れましたか?」
「まだ一時間」
「時間の問題ではありません」
「成長したね」
「前回の反省がありますから」
喜咲は紙コップにお茶を注いだ。
「みんな、いい人なんだよね」
「はい」
「嫌なこと言おうとしてないのも分かる」
「はい」
「歓迎してくれてる」
「そうですね」
「だから、嫌だって言いづらい」
俺は黙った。
「奥さんって呼ばれるのも間違ってない」
「はい」
「お嫁さんも、まあ間違ってない」
「はい」
「小鳥遊さんも間違ってない」
「はい」
「料理するの? 仕事続けるの? 子どもは? っていうのも」
喜咲が少し止まる。
「たぶん、会話なんだよね」
「そうだと思います」
「でもさ」
喜咲が俺を見る。
「今日、まだ一回も『東海林さん』って呼ばれてない」
俺は答えられなかった。
ここは小鳥遊家の親戚の集まりだ。
仕事上の喜咲を知っている人はいない。
みんな、俺との関係から喜咲を知った。
優の奥さん。
小鳥遊家のお嫁さん。
小鳥遊さん。
全部。
俺と結婚したことで増えた名前だ。
「変だよね」
喜咲が言う。
「何がです?」
「自分で小鳥遊にしたのに」
「はい」
「優に無理やり変えられたわけでもないし」
「はい」
「ちゃんと二人で決めたのに」
「はい」
「なのに」
喜咲は笑った。
「東海林喜咲が、ちょっとずつ薄くなってる気がする」
その言葉が。
胸に残った。
俺は、何が変わった?
席へ戻る途中。
俺は考えた。
結婚して。
俺は何が変わった?
名字。
変わっていない。
仕事。
変わっていない。
職場で呼ばれる名前。
変わっていない。
結婚前と結婚後で、俺の外側はほとんど変わっていない。
でも。
喜咲には。
新しい名前が増えた。
妻。
嫁。
奥さん。
小鳥遊さん。
同じ結婚をしたのに。
俺と喜咲に起きた変化の量は、同じではなかった。
「優?」
「はい」
「考え込んでる」
「考えています」
「何を?」
「俺は結婚しても、あまり変わっていないなと」
喜咲が俺を見る。
「今さら?」
「今さらです」
「遅い」
「すみません」
「何が変わってないと思った?」
「名字も仕事も、周囲からの呼ばれ方も」
「うん」
「生活は変わりました」
「私がいるからね」
「はい」
「迷惑?」
「逆です」
「そこは即答なんだ」
「重要事項なので」
喜咲が少し笑った。
「俺は、喜咲と結婚したことで、喜咲が俺の妻になったと考えていました」
「間違ってないよ」
「でも」
「うん」
「喜咲は、妻になる前から喜咲だったんですよね」
「哲学?」
「違います」
「急に深そうな顔したから」
「真面目な話です」
「はいはい」
俺は続ける。
「東海林喜咲として仕事をしてきた時間も、一人で生きてきた時間も、結婚したからなくなるわけではない」
喜咲が黙る。
「妻になっても、喜咲は喜咲でしょう」
喜咲が俺を見る。
「それ」
「はい」
「親戚の前でも言える?」
「言えます」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ」
喜咲が少しだけ口角を上げた。
「次の質問、任せた」
「何が来るか分からないんですが」
「実戦試験です」
「難易度が高いですね」
「夫婦の資格、更新制だから」
「初耳です」
「奥さんは、どうするの?」
実戦試験は、すぐ来た。
「優くん」
叔父が声をかけてきた。
「はい」
「仕事忙しいんだろ?」
「それなりに」
「医者は大変だな」
「そうですね」
「奥さんは?」
叔父が喜咲を見る。
「仕事、続けるの?」
さっきも聞かれた質問だ。
俺は。
答えなかった。
喜咲を見る。
それだけにした。
「続けます」
喜咲が答えた。
「そうなの?」
「はい。仕事、好きなので」
「家庭との両立、大変じゃない?」
喜咲は少し考えた。
「大変だと思います」
「じゃあ」
「でも」
喜咲が言った。
「大変かどうかも含めて、自分で決めたいです」
叔父が少し黙った。
俺は何も言わない。
助け舟も出さない。
説明もしない。
喜咲は自分で答えられる。
だから。
俺が守るべきなのは。
答えではない。
喜咲が自分で答える権利だ。
「そうか」
叔父は笑った。
「まあ、二人で決めればいいな」
「はい」
それで。
終わった。
拍子抜けするくらい。
簡単に。
「守らなくていい」
帰り道。
喜咲が言った。
「今日さ」
「はい」
「ありがとう」
「何がです?」
「途中から、私の代わりに答えなかったでしょ」
「答えないほうがいいと思いました」
「うん」
「間違っていましたか?」
「正解」
「よかったです」
「最初はね」
喜咲が歩きながら言う。
「優が全部止めてくれたら楽なのにって思った」
「できますよ」
「やらなくていい」
「なぜです?」
「私、別に守られたいわけじゃないから」
「はい」
「自分で答えられる」
「はい」
「ただ」
喜咲が俺を見る。
「私が答えていいって、隣で思っててほしい」
俺は少し考えた。
代わりに答えない。
代わりに決めない。
でも。
一人にはしない。
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ次もよろしく」
「次があるんですね」
「夫婦の資格更新制だから」
「更新頻度が高すぎませんか?」
「結婚生活だからね」
「婚活より面倒ですね」
「今さらタイトル回収するな」
喜咲が笑った。
俺も笑った。
手をつなぐ。
妻になっても。
喜咲は喜咲だ。
俺がその名前を守る必要はない。
喜咲自身が持っているものだから。
俺がすべきなのは。
その隣にいることだ。
東海林喜咲様
帰宅すると。
喜咲は玄関で大きく息を吐いた。
「疲れた」
「俺もです」
「優は知ってる人ばっかりだったでしょ」
「気疲れしました」
「何に?」
「喜咲の『助けて』の目を見逃さないように」
「何点?」
「自己採点ですか?」
「うん」
「七十点」
「高い」
「後半は改善しました」
「医者っぽい自己評価」
喜咲がバッグを置いた。
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
「あ」
「仕事ですか?」
「メール」
喜咲が画面を見る。
そして。
動きが止まった。
「どうしました?」
「ちょっと待って」
画面を読む。
もう一度。
最初から読み直す。
「喜咲?」
「会社から」
声が少し違った。
「新しい企画の話」
「はい」
「まだ正式決定じゃないんだけど」
「はい」
「責任者候補に」
喜咲が俺を見る。
「私の名前が入ってる」
スマートフォンの画面には。
今日、親戚の誰からも呼ばれなかった名前が表示されていた。
《東海林喜咲様 新企画責任者候補について》
妻でもない。
嫁でもない。
小鳥遊さんでもない。
喜咲が自分で積み上げてきた名前。
東海林喜咲。
「すごいじゃないですか」
「うん」
喜咲は嬉しそうに笑った。
でも。
すぐに表情が変わる。
「これ」
「はい」
「受けたら、たぶん今より忙しくなる」
「そうですか」
「出張とかも増えるかもしれない」
「はい」
「帰りも遅くなると思う」
「はい」
「優との時間も、減るかもしれない」
俺は。
答えようとした。
受ければいい。
喜咲がやりたいなら。
応援する。
そう言えばいい。
夫なら。
喜ぶべきだ。
今日だって。
俺は分かったばかりだ。
喜咲の人生を。
俺が代わりに決めてはいけない。
だから。
答えは簡単なはずだった。
「優?」
喜咲が俺を見る。
「はい」
俺は。
口を開いた。
でも。
「受ければいい」
その一言が。
すぐには出てこなかった。
仕事を頑張る喜咲は好きだ。
評価されたことも嬉しい。
なのに。
出張。
残業。
休日出勤。
二人の時間。
そんな言葉が。
頭の中に浮かんでしまう。
「優?」
「はい」
「どうしたの?」
俺は笑おうとした。
大丈夫です。
そう言えば。
きっと簡単だった。
でも。
それは。
もう使わないと決めた言葉だった。
喜ぶべきなのに。
俺は、その一言をすぐには言えなかった。
第35話 完
次回 第4部 第6話/通算第36話
「妻の昇進を、素直に喜べない夫です」
喜咲に訪れた、大きな仕事のチャンス。
応援したい。
喜んでいる。
それは嘘じゃない。
でも。
勤務時間。
出張。
減っていく二人の時間。
「嫌なら、嫌って言って」
そう言われた俺は。
また。
「大丈夫です」
と言いかける。
応援することと。
寂しくないことは。
同じなのだろうか。
四十代。恋は面倒だ。
結婚したら、もっと面倒だった。
それでも今日も、この人を選び直す。
優と喜咲の「夫婦になってからの恋」を、これからも追いかけていただけたら嬉しいです。
今回の「私が答えていいって、隣で思っててほしい」という喜咲の言葉を、どう感じましたか?
優の対応は正解だったと思うか、それとも別の答えがあったと思うか。
感想・コメント・メッセージで教えていただけると嬉しいです。
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
Note:momokun https://note.com/momokun1 https://note.com/dreamy_bonobo524
Momokun Official https://momokun.jp/




