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第10話/通算30話 「付き合ったら、婚活より面倒でした」

第3部 再婚は恋愛より難しい




結婚することは、決まりました。




めでたし、めでたし。




……で、終わると思っていました。




「優。結婚したら、どこに住む?」




「……今の家では?」




「どっちの?」




「…………」




家をどうする。




家事をどう分ける。




お金をどうする。




親への挨拶は?




結婚式は?




名字は?




そして、再婚するなら避けて通れない。




元妻のことは、どうする?




恋人だったときは、「好き」で乗り越えられた。




でも結婚しようとすると、二人の人生そのものをすり合わせなければならない。




しかも優にとっては二度目。




喜咲にとっては初めて。




過去のある男と、これからを始めたい女。




二人が選んだのは、




「失敗しない結婚」ではありません。




失敗したときも、黙らずに話せる二人になること。




けれど、その答えにたどり着くまでには。




「結婚って、こんなに面倒なの?」




「……婚活より面倒かもしれません」




恋人から夫婦へ。




40代の二人の、やたら現実的で、ちょっと面倒で、それでも笑える再婚準備が始まります。




第3部「再婚は恋愛より難しい」




結婚を決めた二人に待っていたのは、




恋愛よりずっと厄介な「現実」でした。

「名字、どっちにする?」


喜咲が婚姻届を指さした。


《婚姻後の夫婦の氏》


夫の氏。


妻の氏。


二つの選択肢。


俺は喜咲を見る。


喜咲も俺を見る。


「……考えてませんでした」


「でしょうね」


即答だった。


「何で分かったんです?」


「今の顔」


「どんな顔でした?」


「患者さんに想定外の質問された医者」


「患者さんには、もう少し対応できます」


「じゃあ私以下じゃん」


反論できない。


家を決めた。


家事も決めた。


お金のことも話した。


親にも会った。


元妻にも報告した。


婚前契約についても話した。


結婚式も決めた。


指輪も選んだ。


あとは婚姻届を出すだけ。


そのはずだった。


「小鳥遊喜咲」


俺が言う。


喜咲が眉を寄せる。


「……誰?」


「喜咲です」


「そういう意味じゃない」


「では、東海林優」


「どう?」


「違和感があります」


「全国の東海林さんに謝って」


「名字が悪いわけではありません」


「分かってる」


喜咲が笑う。


「でも、私も同じなんだよね」


「何がです?」


「四十二年間、東海林喜咲だったの」


「ああ」


「明日から急に小鳥遊喜咲って言われても、たぶん振り向かない」


「俺も東海林先生と呼ばれたら、しばらく気づかないと思います」


「でしょ?」


名字。


たった数文字。


でも。


そこには、それまで生きてきた時間がくっついている。


俺にとっての小鳥遊も。


喜咲にとっての東海林も。


ただの記号ではない。


「仕事は?」


俺は聞いた。


「何が?」


「名字が変わった場合」


喜咲は少し考えた。


「会社では東海林を使いたいかな」


「理由は?」


「仕事してきた名前だから」


答えは早かった。


「企画書も、取引先も、社内も、全部東海林で通ってるし」


「はい」


「それに」


喜咲が婚姻届を見る。


「私、東海林って結構好きなんだよね」


「難読ですが」


「お前が言うな、小鳥遊」


「確かに」


最初のデートを思い出した。


俺は東海林を読めなかった。


喜咲も小鳥遊で一瞬止まった。


あの頃は、名字しか知らなかった。


小鳥遊さん。


東海林さん。


それが、


優さん。


喜咲さん。


優。


喜咲。


喧嘩したときには、また名字に戻った。


たかが名字。


でも、俺たちにとっては距離そのものだった。


「じゃあ」


俺は言った。


「仕事では東海林を使えばいいと思います」


「うん」


「それで」


言いかけて、止まった。


喜咲が俺を見る。


「何?」


「いえ」


いつもの言葉が出かかった。


どちらでもいい。


好きな方でいい。


喜咲が決めればいい。


「優」


「はい」


「今、『どちらでもいい』って言おうとした?」


「……はい」


「アウト」


「まだ言ってません」


「未遂でもアウト」


厳しい。


でも、正しい。


どちらでもいい。


それは相手を尊重しているようで、俺の場合は違う。


自分の希望を言わず、決める責任まで相手に渡す。


美和との結婚でも、俺はそうしていた。


「優」


「はい」


「私は、優がどうしたいか聞いてる」


「……はい」


「私がどうしたいかは、そのあと話す」


逃げられない。


いや。


逃げなくていい。


俺は婚姻届を見る。


夫の氏。


妻の氏。


「俺は」


少しだけ怖かった。


こんなことで、と思う。


でも、自分の希望を口にすることは、俺にとって簡単ではない。


「小鳥遊のままでいたいです」


喜咲は何も言わない。


だから続けた。


「四十五年間使ってきた名前です」


「うん」


「仕事でも使っています」


「うん」


「変えたくない、というほど強いものではありません」


「うん」


「でも」


一度、息を吸った。


「できれば、残したいです」


喜咲が、ふっと笑った。


「言えるじゃん」


「はい」


「最初からそれ言えばいいのに」


「すみません」


「謝らなくていい」


喜咲がペンを持つ。


「私も東海林は残したい」


「はい」


「仕事では」


「はい」


「でも」


ペン先が《夫の氏》の横で止まる。


「こっちは、小鳥遊にする」


俺は喜咲を見る。


「いいんですか?」


「またそれ」


「何がです?」


「私が決めたの」


「……はい」


「優が小鳥遊でいたいって言った」


「はい」


「私は仕事では東海林でいたいって言った」


「はい」


「二人とも言った」


喜咲が笑う。


「だから決めた」


ペン先が動いた。


《夫の氏》


そこへチェックが入った。


「小鳥遊喜咲」


俺が言う。


「まだ変」


「俺も慣れません」


「優まで?」


「俺の中では、ずっと東海林喜咲だったので」


「何年で慣れるかな」


「確認します」


「何を?」


「名字が変わった人が平均何年で慣れるか」


「調べなくていい」


怒られた。


でも、喜咲は笑っていた。


◇


名字が決まった。


これで終わり。


ではなかった。


「住所」


「はい」


「確認した?」


「しました」


「本籍」


「確認しました」


「証人欄」


俺は止まった。


喜咲も止まった。


「優」


「はい」


「証人、誰に頼んだ?」


「神崎です」


「もう一人は?」


「……」


「優」


「はい」


「二人必要なの知ってる?」


「今、知りました」


「医者!」


「職業は関係ありません」


「こういうときだけ正論!」


すぐに神崎へ電話した。


三コール。


『どうした?』


「婚姻届の証人なんですが」


『任せろ』


「もう一人必要でした」


沈黙。


『……そうなの?』


俺は電話を切ろうとした。


『待て! 今の間で俺を見限るな!』


隣で喜咲が笑っている。


結局、神崎と真由美さんに頼むことになった。


電話の向こうで、


『あなた、証人が何人必要かも知らずに何を任されたの?』


真由美さんの声。


『いや、気持ちの問題だから』


『書類よ』


『愛があれば』


『書類よ』


俺は電話を切った。


「似てるね」


喜咲が言った。


「誰と誰がです?」


「優と神崎さん」


「不本意です」


◇


証人欄も埋まった。


婚姻届を俺は確認する。


もう一度。


もう一度。


「優」


「はい」


「何回目?」


「四回目です」


「もういいでしょう」


「不備があったら困ります」


「そのとき直せばいいじゃん」


「今日、夫婦になれません」


言ってから、気づいた。


喜咲が俺を見る。


「……今日?」


「はい」


「今日、夫婦になりたいの?」


いつもの俺なら、


書類だから。


予定を合わせたから。


何度も来るのが面倒だから。


そんな理由を並べたかもしれない。


でも今日は。


「はい」


それだけ言った。


喜咲が少しだけ笑った。


「じゃあ」


婚姻届を俺へ戻す。


「もう一回確認していいよ」


「五回目です」


「自分で数えてるじゃん」


◇


婚姻届を提出した。


驚くほど普通だった。


鐘が鳴るわけでもない。


拍手されるわけでもない。


書類を渡して。


確認されて。


受理された。


それだけだった。


役所を出る。


昨日までと同じ空。


昨日までと同じ道。


そして、昨日までと同じ喜咲が隣にいる。


「終わった?」


喜咲が聞いた。


「はい」


「本当に?」


「受理されました」


画像

「そうじゃなくて」


喜咲が俺を見る。


「私たち」


少し間を置く。


「夫婦?」


「はい」


「……そっか」


「はい」


「夫婦か」


「はい」


「何か変わった?」


考える。


「今のところは」


「うん」


「特に」


「そこは何か言え」


「事実として」


「新婚初日から現実的すぎる」


笑われた。


でも、少し歩いてから喜咲が聞いた。


「ねえ、優」


「はい」


「これで終わり?」


「何がです?」


「婚活」


俺は考えた。


「それは、もう終わったんじゃないですか?」


「じゃあ」


喜咲が俺を見る。


「これから?」


答えは意外と簡単だった。


「結婚生活でしょうね」


「……」


喜咲が嫌そうな顔をした。


「婚活より面倒そう」


俺はここまでのことを思い返す。


家。


家事。


お金。


親。


元妻。


婚前契約。


結婚式。


指輪。


名字。


住所。


証人。


婚姻届。


「たぶん」


「何?」


「もう婚活より面倒ですね」


喜咲が吹き出した。


「付き合ったら、婚活より面倒だったね」


「結婚したら、もっと面倒になる可能性があります」


「今言う?」


「可能性として」


「ほんと、そういうところ変わらない」


「すみません」


「褒めてないから」


そう言いながら、喜咲が手を出した。


俺はその手を握った。


夫婦になったからではない。


昨日までと同じ。


握りたかったから。


◇


新居へ着いた。


まだ段ボールだらけだった。


「新婚初日がこれ?」


「引っ越し途中ですから」


「ロマンがない」


「生活感はあります」


「初日からいらない」


一箱ずつ開けていく。


食器。


本。


服。


仕事の資料。


俺のもの。


喜咲のもの。


これから少しずつ、二人のものになっていく。


そう思っていた。


「優」


「はい」


声が変わった。


振り返る。


喜咲が一つの段ボールを開けていた。


中に、


古い写真。


旅行土産。


ペアの食器。


喜咲が一枚の写真を持ち上げる。


写真の中で、


俺の隣にいる女性。


美和。


喜咲が俺を見る。


「優」


「……はい」


そして、静かに聞いた。


「これ、何?」




第3部 第10話/通算30話 完

第3部『再婚は恋愛より難しい』完



次回 第4部『夫婦になっても恋人でいられますか?』

第1話/通算31話

「元妻との思い出を、新居に持ち込まないでください」

婚姻届を提出し、ようやく始まった新婚生活。


ところが最初に開けた段ボールから出てきたのは、


古い写真。


旅行土産。


ペアの食器。


そして、優の隣で笑う元妻・美和。


過去は消さなくていい。


でも、その過去を新しい夫婦はどこに置けばいい?


夫婦になった二人に、最初の「話し合うこと」がやってくる。




「結婚した相手の過去の思い出。あなたなら、残してほしいですか? それとも片づけてほしいですか?」


感想やコメントで教えてください。

この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。


note:momokun https://note.com/momokun1


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