第6話/通算26話 「元妻に再婚を報告する必要ありますか?」
第3部 再婚は恋愛より難しい
結婚することは、決まりました。
めでたし、めでたし。
……で、終わると思っていました。
「優。結婚したら、どこに住む?」
「……今の家では?」
「どっちの?」
「…………」
家をどうする。
家事をどう分ける。
お金をどうする。
親への挨拶は?
結婚式は?
名字は?
そして、再婚するなら避けて通れない。
元妻のことは、どうする?
恋人だったときは、「好き」で乗り越えられた。
でも結婚しようとすると、二人の人生そのものをすり合わせなければならない。
しかも優にとっては二度目。
喜咲にとっては初めて。
過去のある男と、これからを始めたい女。
二人が選んだのは、
「失敗しない結婚」ではありません。
失敗したときも、黙らずに話せる二人になること。
けれど、その答えにたどり着くまでには。
「結婚って、こんなに面倒なの?」
「……婚活より面倒かもしれません」
恋人から夫婦へ。
40代の二人の、やたら現実的で、ちょっと面倒で、それでも笑える再婚準備が始まります。
第3部「再婚は恋愛より難しい」
結婚を決めた二人に待っていたのは、
恋愛よりずっと厄介な「現実」でした。
「次、美和さんにも報告する?」
「必要ないでしょう」
即答した。
今日一番速かったと思う。
駅へ向かっていた喜咲が、俺の顔を横から見る。
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、なんでそんな顔してるの?」
「どんな顔?」
「病院で検査結果を見る直前みたいな顔」
「してない」
「してる」
怖い。
最近、この人は俺の表情を読む精度が上がりすぎている。
「美和とは、もう離婚してる」
「うん」
「子どももいない。財産関係の整理も終わってる。普段から連絡を取ってるわけでもない」
「うん」
「だったら、再婚を報告する必要はない」
「そうだね」
全部肯定された。
なのに、喜咲はまだ俺を見ている。
「……何?」
「私、報告しろとは言ってないよ」
俺は黙った。
「必要があるかじゃなくて」
喜咲が少しだけ歩調を落とす。
「優は、どうしたいの?」
答えようとして。
言葉が止まった。
必要があるか。
義務があるか。
普通はどうするのか。
そう聞かれれば答えられる。
でも。
俺がどうしたいか。
それは、想定質問に入っていなかった。
「……分からない」
昨日、喜咲に言われた。
困ったら黙らない。
今日、喜咲の父親にも言った。
分からなかったら、分からないと言う。
まさか、その実践問題が数十分後に出るとは思わなかった。
しかも相手が元妻。
難易度設定がおかしい。
喜咲は少し笑った。
「じゃあ、分からないところから考えればいいんじゃない?」
信号が赤になる。
俺は立ち止まった。
美和。
結婚して。
一緒に暮らして。
そして離婚した。
今では、ほとんど連絡を取らない。
嫌いだからではない。
会いたいわけでもない。
ただ。
美和と結婚していた時間だけを、人生から切り取って捨てることはできない。
あの結婚が終わったからこそ、俺は自分が何を言わなかったのかを考えるようになった。
仕事が忙しくても。
家に帰れなくても。
会話が減っても。
俺は何度も言った。
大丈夫。
そして最後には、大丈夫ではなくなった。
「……報告する」
喜咲が瞬いた。
「するの?」
「うん」
「私が言ったから?」
「違う」
信号が青になる。
「美和に許可をもらうわけじゃない。祝ってほしいわけでもない」
「うん」
「でも、俺がもう一度結婚するなら、一度目の結婚をなかったことにはしたくない」
それ以上は、うまく説明できなかった。
喜咲も聞かなかった。
「じゃあ、伝えよう」
「簡単に言うね」
「十八個も想定質問を作るより簡単でしょ」
「それはもう忘れて」
◇
駅前のカフェで、俺は美和とのメッセージ画面を開いた。
最後のやり取りは八か月前。
『郵便物がそっちに届いてない?』
『届いてません』
『了解』
元夫婦とは思えない。
宅配便の問い合わせより短い。
「書けた?」
「一応」
『お久しぶりです。突然の連絡で申し訳ありません。私事ではありますが、このたび再婚することになりましたので、ご報告させていただきます』
喜咲が三秒読む。
「会社?」
「やっぱり?」
「人事異動のお知らせみたい」
削除した。
結局、残ったのは短かった。
『久しぶり。突然だけど、再婚することになりました。伝えておこうと思って連絡しました』
「これでいい?」
「私に許可を取らない」
「はい」
送信。
スマートフォンを伏せる。
三秒後。
また見る。
「早い」
「見てない」
「見てる」
その直後、画面が震えた。
美和。
俺は開く。
一行だけだった。
『おめでとう』
「……それだけ?」
喜咲が聞く。
「それだけ」
「よかったじゃん」
「うん」
怒っていない。
嫌味もない。
質問もない。
ただ五文字。
俺が何十分も考えていた問題は、それで終わった。
なのに。
胸の奥に、妙な空白ができた。
「優?」
「何?」
「なんで、あなたの方が動揺してるの?」
「……分からない」
本日二回目だった。
もっと何か言われると思っていたのかもしれない。
驚かれる。
聞かれる。
少しくらい過去の話になる。
勝手にそんなものを想像していた。
でも、美和の返事は。
『おめでとう』
それだけだった。
あの結婚が、本当に過去になった。
今さらそんなことを確認した気がした。
もう一度、スマートフォンが震える。
『もし彼女が嫌じゃなければ、今度三人で会う?』
俺は固まった。
喜咲が画面を見る。
「三人?」
「俺、美和、喜咲」
「それは分かる」
「会う?」
「私に聞かれても」
さらに一通。
『変な意味じゃなくて。挨拶くらい』
喜咲は少し考えた。
「会ってみようか」
今度は俺が固まった。
「本気?」
「うん」
「嫌じゃない?」
「嫌かどうか、まだ分からない」
喜咲は肩をすくめる。
「だから会ってみる」
最近、この人は俺より「分からない」の扱いがうまい。
◇
三日後。
俺は、人生で最も説明しにくい食事会に参加していた。
現在の婚約者。
元妻。
俺。
誰がこの席順を考えた。
「久しぶり」
「久しぶり」
美和は髪が少し短くなったくらいで、ほとんど変わっていなかった。
「初めまして。美和です」
「東海林喜咲です。初めまして」
二人が頭を下げる。
俺もなぜか頭を下げそうになった。
「優」
喜咲が小声で言う。
「なんであなたまで挨拶しようとしてるの」
「雰囲気で」
美和が笑った。
「変わってないね」
その一言に、俺の背筋が少し固くなる。
三人で座った。
最初の十分は、驚くほど普通だった。
仕事。
最近の生活。
店の料理。
美和は喜咲に過去を聞かせようとしない。
喜咲も美和との結婚生活を聞かない。
俺だけが勝手に緊張していた。
「優」
美和が言う。
「何?」
「さっきから水飲みすぎ」
見る。
グラスが空だった。
「緊張してるから」
「でしょうね」
「分かる?」
「何年一緒にいたと思ってるの」
一瞬だけ、空気が止まった。
少なくとも俺の中では。
でも喜咲は普通に言った。
「私も最近、分かるようになってきました」
美和が喜咲を見る。
「何が?」
「緊張すると急に敬語が増えます」
「分かる」
「あと、考えすぎると質問リスト作ります」
「作る」
「昨日、十八個作ってました」
「十八個?」
美和が俺を見る。
「結婚の挨拶で」
「面接じゃないんだから」
同じことを言われた。
俺は黙って水を注いだ。
美和が少し笑ってから、喜咲を見る。
「改めて。結婚、おめでとう」
「ありがとうございます」
「再婚するって聞いて、少し驚いた」
俺は顔を上げた。
「そうなの?」
「この人、もう結婚しないと思ってたから」
俺も、少し前まではそう思っていた。
婚活を始めて。
条件を並べて。
合う相手を探して。
その結果、条件が全部合ったわけでもない喜咲と結婚しようとしている。
人生は比較表どおりには進まないらしい。
「でも」
美和が言った。
「ちょっと安心した」
「安心?」
「一人で全部決めるの、少しはやめたのかなって」
言葉が止まる。
責める口調ではなかった。
昔のことを、ただ確認するような声だった。
「優って、相談してるようで相談してないこと多かったから」
「……そうだった?」
「そうだった」
即答。
横を見る。
喜咲が俺を見ている。
「何?」
「別に」
絶対に別にではない。
「仕事が大変なときも」
美和が続ける。
嫌な予感がした。
「美和」
「何?」
「その話は」
「大丈夫って言ってた」
遅かった。
喜咲の目が細くなる。
「へえ」
「喜咲」
「何も言ってないよ」
「顔が言ってる」
美和は少しだけ笑った。
そして、喜咲に言う。
「この人、我慢してるときほど『大丈夫』って言うから」
胸の奥を、昔の自分に指で押された気がした。
大丈夫。
何度言っただろう。
仕事も。
家のことも。
夫婦のことも。
本当は大丈夫ではなかったのに。
言えば相手を心配させる。
自分で何とかすればいい。
そのうち落ち着く。
そうやって黙って。
最後には、何を話せばいいのかさえ分からなくなった。
第25話で、俺は喜咲の父親に言った。
失敗したときに、黙らないようにします。
なのに。
癖というものは、宣言した翌日に消えてくれるほど親切ではないらしい。
喜咲が俺を見る。
「優」
「何?」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
言った瞬間。
二人が同時に俺を見た。
しまった。
喜咲が笑う。
「はい、今のアウト」
美和も吹き出した。
「まだやってるんだ」
「今のは反射です」
「反射で出るから問題なんでしょう」
「改善中です」
「本当に?」
「善処しています」
「政治家みたいな返事やめて」
また言われた。
美和がさらに笑う。
「そこも変わってない」
元妻と婚約者が意気投合する。
普通なら安心する場面なのかもしれない。
俺には圧倒的に不利だった。
でも。
悪くないと思った。
少なくとも今は。
大丈夫ではないときに、「大丈夫」と言ったことを笑って指摘してくれる人がいる。
それなら、前とは少し違う。
◇
食事を終え、店の前で美和と別れる。
「じゃあ、二人とも元気で」
「うん」
「今日はありがとうございました」
喜咲が頭を下げる。
美和は一歩歩き出して。
「あ」
振り返った。
「何?」
「一個だけ」
嫌な予感がした。
美和は喜咲を見る。
「婚前契約とか、ちゃんと話した?」
沈黙。
喜咲が瞬く。
俺も瞬く。
「……婚前契約?」
「財産とか、もし離婚した場合とか。再婚なら、なおさら」
「美和」
「大事でしょ」
「今、再婚のお祝いをした直後なんだけど」
「だから今でしょ」
美和はそれだけ言うと、軽く手を上げた。
「じゃあね」
そのまま駅へ向かって歩いていく。
残された俺たち。
十秒。
喜咲がゆっくり俺を見る。
「優」
「はい」
「婚前契約について、考えたことある?」
すぐに「ない」と言えばよかった。
その方が、きっと簡単だった。
でも。
今日、俺は何度も言った。
分からないなら、分からないと言う。
困ったら、黙らない。
だから。
今度はごまかさなかった。
「……考えたことはある」
喜咲の表情から、笑みが消えた。
結婚する話をしていたはずなのに。
次に話すのは。
結婚が終わるときの話らしい。
第3部 第6話(通算26話) 完
次回 第3部 第7話(通算27話)
「結婚する前から離婚の話をするんですか?」
「婚前契約とか、ちゃんと話した?」
美和が残した一言から始まった、結婚前にはあまりしたくない話。
財産。
生活。
そして、もし離婚したら。
喜咲は聞く。
「結婚するのに、別れる準備するの?」
一度離婚を経験している優には、笑って済ませられない。
だが話していくうちに、優自身も気づく。
婚前契約を考えていた本当の理由。
それは喜咲を疑っているからではない。
二度目の離婚が、怖いから。
そして喜咲は言う。
「離婚しない約束はできないよ」
でも。
「離婚したくなったときに黙らない約束ならできる」
二人が結婚前に決める、本当に必要な約束とは。
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
note:momokun https://note.com/momokun1
Momokun Official https://momokun.jp/




