第5話/通算25話 「42歳で「娘さんをください」は言わないで」
第3部 再婚は恋愛より難しい
結婚することは、決まりました。
めでたし、めでたし。
……で、終わると思っていました。
「優。結婚したら、どこに住む?」
「……今の家では?」
「どっちの?」
「…………」
家をどうする。
家事をどう分ける。
お金をどうする。
親への挨拶は?
結婚式は?
名字は?
そして、再婚するなら避けて通れない。
元妻のことは、どうする?
恋人だったときは、「好き」で乗り越えられた。
でも結婚しようとすると、二人の人生そのものをすり合わせなければならない。
しかも優にとっては二度目。
喜咲にとっては初めて。
過去のある男と、これからを始めたい女。
二人が選んだのは、
「失敗しない結婚」ではありません。
失敗したときも、黙らずに話せる二人になること。
けれど、その答えにたどり着くまでには。
「結婚って、こんなに面倒なの?」
「……婚活より面倒かもしれません」
恋人から夫婦へ。
40代の二人の、やたら現実的で、ちょっと面倒で、それでも笑える再婚準備が始まります。
第3部「再婚は恋愛より難しい」
結婚を決めた二人に待っていたのは、
恋愛よりずっと厄介な「現実」でした。
「娘さんを僕にください」
「絶対に言わないで」
即答だった。
俺はスマートフォンのメモから、その一文を削除した。
「……本当に書いてたの?」
「一応」
「一応で用意しないで」
「定番かと思って」
「いつの時代の定番よ」
「では、『喜咲さんと結婚させていただきたいと思っています』」
「私の許可はもう取ったでしょうが」
「確かに」
「なんで私との結婚を、お父さんに許可してもらうのよ」
俺は二行目も消した。
喜咲が深いため息をつく。
「優。まさか今日、それ見ながら話すつもり?」
「その予定だった」
「やめて」
「想定質問も作ったんだけど」
「何個?」
「十八個」
「面接じゃないから」
四十五歳。医師。離婚歴あり。
社会人としては、それなりに場数を踏んできたはずだ。
なのに今日は、駅から喜咲の実家までの十五分がやけに短い。
「手土産、大丈夫かな」
「三回目」
「何が?」
「その質問。家を出たとき、電車の中、今」
「確認は大事だから」
「うちの親、菓子折りの銘柄で結婚反対しないよ」
「そういう心配じゃない」
「じゃあ何が心配なの?」
俺は少し考えた。
「全部」
「範囲が広い」
正解が分からないのだ。
仕事のこと。住む場所。結婚式。これからの生活。
そして、俺の離婚歴。
親なら気になる。
俺だって、娘がいたら気になると思う。
「優」
喜咲が足を止めた。
「今日は、私のお父さんとお母さんに会うの」
「うん」
「私と結婚したいって、それを話しに行くの」
「うん」
「だったら、十八個も答えを用意しなくていい」
簡単に言う。
でも、それだけだから難しい。
俺はスマートフォンをポケットにしまった。
「分かった」
「本当に?」
「善処します」
「政治家みたいな返事やめて」
◇
喜咲の実家は、ごく普通の一戸建てだった。
門の前で、俺はネクタイに手を伸ばした。
「曲がってない」
「念のため」
「今日何回目?」
「数えてない」
喜咲がインターホンを押す。
門が開く。
俺だけ動けない。
「優?」
「ちょっと待って」
「何?」
「心拍数が」
「スマートウォッチ見ない」
手首をつかまれた。
「行くよ」
四十五歳、医師。
女性に手を引かれて結婚の挨拶へ向かう。
なかなか情けない。
玄関では、喜咲によく似た母親が笑顔で迎えてくれた。
「初めまして。小鳥遊優と申します。本日はお時間をいただきまして」
「あら、そんなに固くならなくていいのよ」
リビングでは父親が立ち上がった。
「初めまして」
「初めまして。小鳥遊です」
お互いに頭を下げる。
一瞬だけタイミングがずれた。
開始五秒で想定外だった。
母親がお茶を運んでくる。
俺は紙袋を差し出した。
「つまらないものですが」
「あら、ありがとう」
隣で喜咲が小声で言う。
「本当に言う人いるんだ」
「黙ってて」
父親が少し笑った。
開始三十秒で、想定問答はほぼ役に立たなくなった。
◇
最初は普通の話だった。
仕事。住まい。二人が知り合った頃のこと。
母親はよく話し、父親は聞く方が多かった。
「お医者さんって大変でしょう?」
「忙しい時期はあります」
「喜咲、ちゃんと支えられるの?」
「なんで私が一方的に支える前提なの」
喜咲が即座に返す。
「優も私を支えるんだから」
父親が俺を見た。
「大変ですね」
「お父さん?」
「何でもない」
俺も少し笑った。
思っていたより普通だ。
もっとこう、「娘はやらん」くらいから始まるのかと。
「優」
「何?」
「今、『娘はやらんって言わないんだ』って顔してた」
「してない」
「してた」
怖い。
なぜ分かる。
そのときだった。
「小鳥遊さん」
父親の声が少し変わった。
俺は背筋を伸ばした。
「はい」
「娘から、だいたいのことは聞いています。仕事のことも、これから住む家を探していることも」
「はい」
「それから、以前結婚されていたことも」
来た。
頭の中で、想定質問七番が開く。
『過去の経験を生かし、同じ失敗を繰り返さないよう努力します』
用意していた模範回答。
でも、喜咲に言われた。
ここは面接じゃない。
「はい。離婚しています」
父親は責めるような顔をしていなかった。
だからこそ、ごまかしたくなかった。
「一度、結婚に失敗しているんですよね」
部屋が静かになる。
「はい」
「失礼な聞き方だったら申し訳ない。でも娘の父親なので、聞いておきたいんです」
「当然だと思います」
父親は少し間を置いた。
「今度は、大丈夫ですか?」
その質問で、用意していた答えが全部止まった。
『同じ失敗を繰り返しません』
違う。
『喜咲さんを必ず幸せにします』
それも違う。
『今度こそ失敗しません』
もっと言えない。
最初の結婚だって、失敗するつもりで始めたわけではなかった。
続くと思っていた。
自分なりに努力しているつもりだった。
それでも終わった。
だったら今ここで「絶対に大丈夫です」と言うのは、約束ではない。
ただの願望だ。
「分かりません」
喜咲がこちらを見た。
母親も。
父親だけは表情を変えなかった。
「今度は絶対に失敗しない、とは言えません」
自分でも、結婚の挨拶としてはかなり危険な答えだと思う。
それでも続けた。
「結婚したら、意見が合わないこともあると思います。喧嘩もするでしょうし、相手の考えていることが分からなくなることもあると思います」
家。
家事。
金。
親。
結婚する前から、すでにこれだけ話している。
結婚したら、きっともっと増える。
昨日の喜咲の言葉が浮かんだ。
お金のことで困ったら、黙らない。
『大丈夫』って言って、一人で抱えないこと。
俺は一度、息を吸った。
「だから、失敗したときに、黙らないようにします」
喜咲の目がわずかに動いた。
「何も問題が起きない夫婦になれるとは思っていません。でも問題が起きたとき、一人で勝手に答えを出さないようにします」
俺は隣の喜咲を見る。
「分からなかったら、分からないと言います。困ったら、困ったと言います。喜咲と話します」
それが、一度失敗した俺に言える唯一のことだった。
父親はしばらく黙っていた。
やがて湯飲みを持ち上げる。
「そうですか」
「はい」
「お茶、冷めましたね」
「……はい」
「さっきから全然飲んでない」
見られていた。
「緊張してまして」
正直に言った。
父親が初めて、はっきり笑った。
「それなら安心しました」
「え?」
「緊張もしない男だったら、そっちの方が心配です」
空気がほどけた。
そこで喜咲が言った。
「優、ここに来るまで想定質問十八個作ってたよ」
「喜咲」
「十八個?」
父親が俺を見る。
「はい」
「回答も?」
母親が聞く。
「一応」
二人が笑った。
「ところで」
父親が少し楽しそうに言う。
「本当は最初に何て言う予定だったんです?」
嫌な予感がした。
喜咲が俺を見る。
笑っている。
「優。正直に」
「……『娘さんを僕にください』」
一秒。
父親が吹き出した。
母親も笑った。
喜咲だけが頭を抱えた。
「だから絶対言わないでって言ったでしょう!」
「言ってない。今まで言ってない」
「今、本人に言った!」
「質問されたから」
父親はまだ笑っている。
「いやあ、それは困ったな」
「ですよね」
「四十二年間育てましたけど、私の所有物だったことは一度もないので」
「お父さん、そこ真面目に返さなくていいから」
ようやく俺も笑った。
胸の奥にあった固いものが、少しずつほどけていった。
◇
帰り際、父親に玄関で呼び止められた。
「小鳥遊さん」
「はい」
「さっきは嫌なことを聞いて、すみませんでした」
「いえ。聞いていただいてよかったです」
父親は少し離れたところにいる喜咲を見る。
「喜咲は、言いたいことを言うでしょう」
「はい」
「かなり」
「はい」
「遠慮なく」
「お父さん?」
聞こえていたらしい。
父親は咳払いした。
「だから、小鳥遊さんも言ってください」
昨日の喜咲と同じだった。
困ったら、黙らない。
「はい」
俺は答えた。
「そうします」
◇
駅へ向かう道で、俺はようやくネクタイを緩めた。
「終わった……」
「お疲れさまでした」
「手術一本終わったくらい疲れた」
「結婚の挨拶を手術と比較しないで」
「体感として」
「患者さんに失礼」
それはそうだ。
少し歩いて、喜咲が言った。
「でも、ありがとう」
「何が?」
「ちゃんと答えてくれて」
「あれでよかったのかな」
「私はよかったと思う」
「本当に?」
「うん。『絶対幸せにします』って言われたら、たぶん私が止めてた」
「なぜ?」
「私の幸せを一人で背負わないで、って」
確かに。
喜咲なら言う。
「じゃあ、二人で幸せになります」
「ちょっと広告っぽい」
「難しいな」
「だから、言葉にしなくていいんじゃない?」
そう言って、喜咲は少し笑った。
結婚の挨拶は終わった。
家はまだ決まっていない。
家事分担も仮。
家計も仮。
名字も結婚式も決まっていない。
それでも、一つ進んだ。
完璧な答えを決めてから進むのではなく。
話しながら。
直しながら。
二人で。
「ねえ、優」
「何?」
「次なんだけど」
嫌な予感がした。
最近、喜咲が「次」と言うたびに新しい案件が出てくる。
家。
家事。
金。
親。
今日はもう十分だ。
「次、美和さんにも報告する?」
俺は止まった。
美和。
元妻。
「……なぜ?」
「再婚するから」
「それは分かる。でも、報告する必要ある?」
「必要があるかどうかも含めて」
「必要ないでしょう」
即答した。
今日一番速かったと思う。
喜咲は俺の顔をじっと見た。
「本当に?」
俺は答えようとして。
やめた。
昨日、「大丈夫」と言って一人で抱えないと約束した。
今日、自分でも「分からなかったら分からないと言う」と宣言した。
なのに。
よりによって次の相手が、元妻。
「優?」
今日一番、答えの分からない質問だった。
第3部 第5話(通算25話) 完
次回 第3部 第6話(通算26話)
「元妻に再婚を報告する必要ありますか?」
「必要ないでしょう」
優はそう言った。
けれど、美和との離婚は過去でも、その過去が今の優を作っている。
そして優は、自分の意思で元妻へ再婚を伝えることになる。
返ってきた言葉は、驚くほど短かった。
「おめでとう」
動揺したのは、美和ではなく優だった。
さらに美和は喜咲へ言う。
「この人、我慢してるときほど『大丈夫』って言うから」
そして、もう一つ。
「婚前契約とか、ちゃんと話した?」
結婚する前から、離婚したときの話をするんですか?
この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。
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