第2話/通算22話 「新婚なのに別居婚から始まりそうです」
第3部 再婚は恋愛より難しい
結婚することは、決まりました。
めでたし、めでたし。
……で、終わると思っていました。
「優。結婚したら、どこに住む?」
「……今の家では?」
「どっちの?」
「…………」
家をどうする。
家事をどう分ける。
お金をどうする。
親への挨拶は?
結婚式は?
名字は?
そして、再婚するなら避けて通れない。
元妻のことは、どうする?
恋人だったときは、「好き」で乗り越えられた。
でも結婚しようとすると、二人の人生そのものをすり合わせなければならない。
しかも優にとっては二度目。
喜咲にとっては初めて。
過去のある男と、これからを始めたい女。
二人が選んだのは、
「失敗しない結婚」ではありません。
失敗したときも、黙らずに話せる二人になること。
けれど、その答えにたどり着くまでには。
「結婚って、こんなに面倒なの?」
「……婚活より面倒かもしれません」
恋人から夫婦へ。
40代の二人の、やたら現実的で、ちょっと面倒で、それでも笑える再婚準備が始まります。
第3部「再婚は恋愛より難しい」
結婚を決めた二人に待っていたのは、
恋愛よりずっと厄介な「現実」でした。
「新婚なのに、別居婚から始まりそうなんだけど」
不動産屋のカウンターで、喜咲が言った。
目の前には二枚の希望条件票。
俺の紙と、喜咲の紙。
共通している条件を探してみた。
駅に近い。……距離が違う。
日当たり。……優先順位が違う。
静かな場所。……俺はそこまで気にしていない。
収納。……喜咲は多め。俺は最低限。
つまり。
「一個も合ってないわけじゃないよ」
「優」
「はい」
「そういうときに無理やり前向きな言い方するの、医者っぽいよ」
「医者は関係ないでしょう」
「じゃあ聞くけど、共通してる条件は?」
俺は二枚の紙を見比べた。
「二人で住める」
「物件の条件じゃない」
開始五分。
新居探しは、早くも難航していた。
どちらの家に住む?
担当の女性が、営業スマイルを崩さずに聞いた。
「現在のお住まいは、お二人とも賃貸ですか?」
「はい」
「そうです」
「では、どちらかのお部屋にお二人で住まれるという選択肢もありますが」
俺と喜咲が同時に答えた。
「あります」
「ないです」
担当者が止まった。
俺も止まった。
喜咲を見る。
「ないの?」
「あるの?」
「俺の家、二人でも住めるよ」
「広さだけならね」
「駅からも近いし、職場にも近い」
「優の職場にはね」
「あ」
言った瞬間に分かった。
喜咲が眉を上げる。
「私の通勤時間、増えるんだけど」
「……そうだね」
「スーパーも遠い」
「八分だよ」
「毎日の八分を甘く見ないで」
「往復十六分」
「計算しないで」
危ない。
俺は数字で解決しようとすると、だいたい怒られる。
担当者が助け舟を出した。
「では、奥様のお部屋は?」
奥様。
その言葉に、俺と喜咲は一瞬だけ黙った。
まだ婚姻届も出していない。
なのに、その呼び方だけが先に未来から届いたみたいだった。
喜咲が少し照れながら答える。
「私のところも、二人で住めなくはないです」
「じゃあ、喜咲の家でもいいんじゃない?」
「優」
「はい」
「今、かなり軽く言ったよね?」
「……言いました」
「私の家に優が来るのはいいの?」
「別に」
「じゃあ私が優の家に行くのも、同じ?」
「同じじゃない?」
喜咲が黙った。
さっきまでの軽い空気が、少しだけ変わった。
「私があなたの家に入る、ってこと?」
「え?」
「優の家具があって、優の生活があって、優のやり方がもう出来上がってるところに、私が入るんでしょう?」
「それは……」
言い返しかけて、やめた。
確かにそうだ。
俺の家には、俺の暮らしがある。
朝起きて。
コーヒーを淹れて。
決まった場所に鍵を置く。
冷蔵庫の右上には飲み物。
洗剤は洗面台の下。
タオルは同じ色。
四十五年生きてきた人間の生活は、思っている以上に固まっている。
そこへ喜咲が来る。
俺はたぶん、悪気なく言う。
「それ、そこじゃないよ」
……最悪だ。
「ごめん」
「え?」
「今、分かった」
喜咲が俺を見る。
「俺、自分の家を『二人の家』にするつもりだったんじゃない」
言葉にすると、少し痛かった。
「喜咲に、俺の生活に入ってもらおうとしてた」
喜咲は何も言わなかった。
担当者も、何も言わない。
プロだ。
こういうときにパンフレットを整理する技術まで、不動産屋には必要らしい。
やがて喜咲が小さく息を吐いた。
「……私も同じかも」
「え?」
「私の家ならいいって思ってた」
「うん」
「収納もあるし、スーパー近いし、住みやすいし」
「駅も近い」
「そう。でも、それって全部、私にとって住みやすい、なんだよね」
今度は俺が黙った。
どちらが正しいわけでもなかった。
俺は俺の生活を捨てたくない。
喜咲も喜咲の生活を捨てたくない。
四十代まで一人で暮らせるようになった二人が結婚する。
それは、空っぽの部屋に二人で家具を置くことじゃない。
すでに家具も、習慣も、人生もある二人が、そこから場所を作ることなのだ。
「結婚って面倒だね」
喜咲が言った。
「婚活より?」
「今のところ互角」
「まだ二日目だけど」
「先が思いやられるね」
でも、喜咲は笑っていた。
俺も笑った。
揉めているのに。
不思議と、昨日より結婚に近づいている気がした。
「二人の家」を探す
「じゃあ、やっぱり新しく探しますか?」
担当者が尋ねた。
俺と喜咲は顔を見合わせる。
昨日、カフェで一度出した答え。
二人の家を探す。
言葉にするのは簡単だった。
でも今日、ようやく意味が分かった気がする。
「はい」
俺が答える。
喜咲もうなずいた。
「どっちかの家じゃなくて」
俺は続けた。
「二人が帰りたくなる家を探したいです」
喜咲がこちらを見る。
「それ、昨日も言ってたね」
「昨日より意味が分かって言ってます」
「進歩した?」
「たぶん」
「じゃあ進捗率は?」
「その単語は禁止じゃなかった?」
喜咲が吹き出した。
担当者も少し笑った。
ようやく、不動産屋らしい話が始まった。
「では、絶対に譲れない条件を、お一人三つずつにしてみましょうか」
三つ。
それならいける。
俺は書いた。
通勤三十分以内。駅徒歩十分以内。二人で無理なく払える家賃。
喜咲も書く。
スーパー徒歩五分以内。収納。日当たり。
見せ合う。
「やっぱり一個も同じじゃないね」
「大丈夫。六個全部満たせばいい」
「家賃上がるよ?」
「……四つにしない?」
「減らすの早っ」
担当者が物件を検索する。
一件目。
駅徒歩四分。スーパー徒歩三分。日当たり良好。
「いいじゃん」
「俺の職場まで五十二分」
「却下」
二件目。
俺の職場まで二十八分。駅徒歩七分。
「これ」
「収納が靴箱しかない」
「靴を減らす?」
「優を減らすよ?」
「住む人が減った」
三件目。
条件はかなり近い。
家賃も予算内。
「お」
「いいかも」
二人で画面を覗き込む。
そして同時に気づいた。
一LDK。
「……狭い?」
「優、一人になりたいときどうする?」
「トイレ?」
「新婚生活をトイレに避難して乗り切る気?」
却下。
少しずつ譲れば届く場所
四件目。
二LDK。
駅徒歩八分。
スーパー徒歩六分。
日当たり良好。
収納もある。
通勤は俺が三十二分、喜咲が三十五分。
二人とも少しずつ譲れば届く。
「これ……」
喜咲が画面を見たまま言う。
「見てみたい」
俺も同じことを思った。
「うん」
担当者が笑顔になる。
「では、次のお休みに内見を入れましょうか」
内見。
たった二文字なのに、急に現実味が出た。
そこに二人で帰るかもしれない。
そこで朝を迎えるかもしれない。
喧嘩をするかもしれない。
仲直りもするかもしれない。
まだ写真でしか知らない部屋なのに、少しだけ未来に見えた。
「喜咲」
「何?」
「楽しみになってきた」
喜咲は一瞬驚いて、それから笑った。
「私も」
テーブルの下で、手が触れた。
どちらからともなく、そのまま指を絡める。
若い頃みたいに、好きだけで未来へ飛び込むわけじゃない。
条件を確認して。
揉めて。
譲れないものを知って。
それでも一緒に帰る場所を探す。
たぶん、俺たちの結婚はこういう形なのだ。
家が決まる前に、次の戦争
不動産屋を出たあと、近くのカフェに入った。
「内見までに、何か決めとく?」
喜咲が聞く。
俺はコーヒーを飲みながら考える。
「家具?」
「それもあるね」
「冷蔵庫、どっちの使う?」
「私の方が新しい」
「じゃあ俺のは処分かな」
「洗濯機は?」
「俺の方が大きい」
「じゃあ優の」
意外と順調だ。
「ベッド」
「……」
「……」
前回の寝具領土問題が再燃しかけたので、二人とも黙った。
「それは後日にしよう」
「賛成」
危険物は触らない。
大人には撤退する知恵がある。
喜咲がスマートフォンにメモを作る。
「あと、生活始めるなら決めなきゃね」
「何を?」
「家事」
俺は即答した。
「半分ずつでいいんじゃない?」
喜咲の指が止まった。
顔を上げる。
嫌な予感がした。
「優」
「はい」
「その『半分』って、誰が数えるの?」
「……え?」
「料理一回と洗濯一回は同じ一回?」
「そこから?」
「ゴミ出しは?」
「一回」
「ゴミ袋を替えるのは?」
「……」
「洗剤がなくなったのに気づいて買うのは?」
「……」
「冷蔵庫の牛乳がなくなりそうなのを覚えておくのは?」
俺はコーヒーカップを置いた。
新居は、まだ決まっていない。
なのに。
どうやら俺たちは、もう次の夫婦喧嘩を始めようとしていた。
第3部第2話/通算22話 完
次回 第3部 第3話(通算23話)
「家事を半分にしたら、喧嘩が二倍になりました」
料理、洗濯、掃除を五十%ずつ。それなら公平だと思っていた優。
けれど喜咲が突きつけたのは、数字にはならない「名前のない家事」だった。
夫婦の家事は、本当に半分にできるのか。
新居より先に決めることになったのは、二人の生活を誰が支えるかでした。
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