第8話/通算18話 小鳥遊家に東海林がやってきた
第2部「付き合ったら婚活より面倒でした」
前書き
付き合ったら、昨日より他人行儀になった。
「喜咲さん、おはようございます」
「……なんで敬語なの?」
婚活アプリで出会った、四十二歳の東海林喜咲と、四十五歳の小鳥遊優。
条件を比べて。
喧嘩して。
嫉妬して。
一度は相手を手放そうとして。
それでも二人は、ようやく「好きな人」を選びました。
だから優は思っていました。
付き合ってしまえば、もう婚活より簡単だろう。
ところが。
呼び方ひとつで緊張する。
手をつなぐにも迷う。
連絡の頻度すら分からない。
そして、この先には。
初めての旅行。
初めて一緒に迎える夜。
生活習慣。
元妻。
子どものこと。
再婚。
婚活では、プロフィールを見れば分かることがありました。
年齢。
職業。
趣味。
結婚歴。
希望条件。
でも。
「この人と一緒に生きていけるか」は、プロフィールのどこにも書いていない。
好きだから、全部合うわけじゃない。
恋人になったから、不安が消えるわけでもない。
四十二歳と四十五歳。
二人には、それぞれ四十年以上生きてきた時間があります。
仕事もある。
過去もある。
譲れないものもある。
そして優には、一度結婚に失敗した記憶がある。
だから第2部で二人が探すのは、
「自分にぴったり合う相手」ではありません。
違ったときに、話せるか。
傷ついたときに、黙らずにいられるか。
面倒になったとき、それでも隣にいたいと思えるか。
恋人になった二人の、本当の答え合わせが始まります。
第2部、
「付き合ったら婚活より面倒でした」
婚活は終わった。
恋愛が始まった。
そして二人は、まだ知らない。
好きになるより、好きな人と生きていくほうが、ずっと難しい。
喧嘩した翌日に、彼女を実家へ連れていく
恋人と大喧嘩した翌日に、その恋人を実家へ連れていく。
冷静に考えれば、かなりおかしい。
「小鳥遊さん」
「はい」
「確認していいですか?」
「どうぞ」
「私たち、昨日、喧嘩しましたよね?」
「しましたね」
「呼び方まで名字に戻りましたよね?」
「戻りましたね」
「なのに」
喜咲は目の前の家を見上げた。
「なんで今日、あなたの実家に来てるんですか?」
優も見上げた。
四十五年間、何度も見てきた実家である。
今日はラスボスの城に見える。
「約束してたから」
「律儀!」
「キャンセルするのも変かなと思って」
「昨日の喧嘩より変なことある?」
「今日ですかね」
「それ!」
昨日。
駅の改札で、喜咲は優を「小鳥遊さん」と呼んだ。
優も「東海林さん」と返した。
たった呼び方ひとつで、恋人になる前まで戻ってしまった。
その夜、連絡はしなかった。
朝になって優が送ったのは、
『今日、どうしますか?』
喜咲から返ってきたのは、
『行きます』
業務連絡だった。
結果。
大喧嘩した男女が、敬語で実家の前に立っている。
「帰ります?」
優が聞いた。
「小鳥遊さんは、帰ってほしいですか?」
「……帰ってほしくはないです」
「じゃあ行きます」
「はい」
喜咲が人差し指を立てた。
「ただし、今日、結婚の話は禁止」
「分かりました」
「子どもの話も禁止」
「はい」
「昨日の喧嘩も禁止」
「はい」
「私たちの関係について聞かれたら?」
二人とも黙った。
喜咲が横目で見る。
優は少し考えて答えた。
「付き合ってます、でいいんじゃないですか」
「付き合ってるんですか?」
「え?」
「昨日あれだけ喧嘩したので、一応確認です」
「別れたつもりはないです」
「私もです」
「じゃあ、付き合ってます」
「はい」
おかしな確認だった。
でも。
少しだけ安心した。
優はインターホンを押した。
小鳥遊さんと東海林さん
玄関が開いた。
「いらっしゃい!」
母親が満面の笑顔で現れた。
喜咲の背筋が一瞬で伸びる。
「はじめまして。東海林喜咲と申します。本日はお招きいただきまして」
「そんなに固くならなくていいのよ!」
「はい!」
さらに固くなった。
「母さん。東海林さん」
言ってから、優は気づいた。
喜咲も優を見た。
東海林さん。
まだ、その呼び方だった。
母親だけが気づかない。
「しょうじさん?」
「はい。東の海の林で、東海林です」
「しょうじって読むのね。難しいわねえ」
母親は息子を見る。
「でも、小鳥遊も大概よね」
「まあ」
「たかなし、ですよね」
喜咲が答えた。
「そうそう」
母親は二人を交互に見て、首をかしげた。
「小鳥遊さんと東海林さん」
「はい」
「はい」
「どうして二人とも一発で読めないの?」
「俺たちに言われても」
喜咲が吹き出した。
優も笑った。
昨日から初めて。
二人が、同じタイミングで笑った。
母親という最強の情報源
リビングのテーブルには、明らかに三人では食べ切れない料理が並んでいた。
「母さん、多くない?」
「普通よ」
「六人前くらいあるけど」
「余ったら持って帰ればいいでしょう」
母親が喜咲を見る。
「東海林さん、料理する?」
「します」
「じゃあ優の分も持って帰って」
「なんで東海林さんが俺の食事管理することになってるんだよ」
「付き合ってるんでしょう?」
空気が止まった。
喜咲が湯飲みを持ったまま固まる。
優も箸を止めた。
母親が二人を見る。
「……付き合ってるのよね?」
「はい」
二人同時だった。
目が合った。
昨日あれだけ喧嘩したのに。
そこだけは、同じだった。
「よかった」
母親が笑う。
「優が急に女の人を連れてくるって言うから、何事かと思った」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないわよ。この子、そういう話を全然しないんだから」
「母さん」
「離婚してから特に」
優の声が低くなる。
「その話はいいだろ」
喜咲は黙った。
聞きたい。
でも、今は聞いていいのか分からない。
母親はそんな喜咲を見て、少しだけ声を柔らかくした。
「ごめんなさいね。余計なことだったわね」
「いえ」
「ただ、この子、離婚してから長かったから」
優は何も言わない。
「付き合ってる人がいるって聞いたこともないし、誰か紹介してって言ったこともないし」
「母さん」
「心配してたのよ」
そして母親は、本当に何でもないことのように言った。
「優が女の人を家に連れてきたの、初めてよ」
喜咲の手が止まった。
初めて
「……初めて?」
「そう。離婚してからは、一人もいない」
喜咲がゆっくり優を見る。
「小鳥遊さん」
「はい」
「初めてなんですか?」
「……そうみたいです」
「そうみたいって、自分のことでしょう」
「数えたことがないので」
「ゼロは数えなくても分かります」
母親が笑った。
「面白い人ねえ、東海林さん」
「よく言われます」
「優と付き合ってて疲れない?」
「母さん」
「疲れます」
「東海林さん?」
即答だった。
「確認が多いし、考えすぎるし、言いたいことを飲み込むし」
優は黙る。
昨日なら、その言葉は胸に刺さった。
けれど喜咲は続けた。
「でも、ちゃんと考えてくれる人です」
優が顔を上げる。
喜咲は母親を見たままだった。
「私が言ったことも、すぐ答えられなくても、たぶんずっと考えてる」
「……東海林さん」
「だから面倒です」
「最後で落とす必要あります?」
「重要です」
母親が笑った。
「分かるわ」
「母さんまで?」
「優、小さいころからそうだったもの」
喜咲の目が光った。
「どんな子だったんですか?」
嫌な予感がした。
「この子ね、小学生のとき、好きな女の子に消しゴム貸して」
「母さん」
「返してって言えなくて」
「やめろ」
「三か月、消しゴムなしで生活してたの」
喜咲がテーブルに突っ伏した。
肩が震えている。
「笑うところじゃないでしょう」
「だって……」
喜咲が顔を上げる。
「四十五歳になっても変わってないじゃないですか」
「変わってます」
「嫌なこと言えない」
「それは」
「返してって言えない」
「小学生の話です」
「三か月」
「そこ強調しなくていいです」
「あとね、中学のとき」
「まだあるの?」
「バレンタインに」
「母さん!」
その日。
優は自分の実家で、人生最大級の撤退戦を強いられた。
そして喜咲は、味方ではなかった。
私の知らない優
その後も、母親の暴露は続いた。
好きだった食べ物。
学生時代。
医師を目指したころ。
喜咲が知らない優が、次々と出てくる。
昨日。
二人は未来の話をして、壊れかけた。
結婚。
子ども。
年齢。
時間。
まだ答えのないことばかりだった。
今日は、優の過去を聞いている。
もう変えられないことばかりなのに。
不思議だった。
昨日より。
優が近く感じる。
そして何より。
母親の言葉が、喜咲の胸に残っていた。
優が女の人を家に連れてきたの、初めてよ。
昨日。
喜咲は思った。
この人は、私との未来を考えていないんじゃないか。
私はただの恋人で。
結婚するかどうかを判断されるまでの、試用期間なんじゃないか。
でも。
それなら。
どうして優は、自分をここへ連れてきたのだろう。
結婚すると言えない男が。
自分の過去が全部詰まった場所へ。
答えは、まだない
帰るころには、外は少し暗くなっていた。
母親は大量の料理を喜咲に持たせた。
「また来てね」
「はい。ありがとうございます」
「優もちゃんとしなさいよ」
「何を?」
「全部」
「範囲が広すぎる」
玄関を出る。
二人は並んで駅へ向かった。
手はつながない。
でも。
昨日より、少しだけ距離が近い。
「小鳥遊さん」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「楽しかったです」
「俺は全然楽しくなかったです」
「消しゴム三か月」
「忘れてください」
「一生無理です」
喜咲が笑う。
優も笑った。
少し歩いて。
喜咲が前を向いたまま言った。
「私、知らなかったです」
「何を?」
「私が初めてだって」
優は黙った。
「どうして言わなかったんですか?」
「言う必要があると思わなかったから」
「そういうところです」
「……はい」
喜咲は少し笑ってから、小さな声で言った。
「でも、嬉しかったです」
優が彼女を見る。
「昨日、分からなくなってたから」
「何が?」
「小鳥遊さんが、私をどう思ってるのか」
胸が痛んだ。
「でも今日、少しだけ分かりました」
「何が?」
「答えを出してないだけで」
喜咲が優を見る。
「何もしてないわけじゃなかったんだなって」
実家へ連れていった。
優にとっては、それだけだった。
でも。
喜咲にとっては、違った。
優が立ち止まる。
「昨日のこと」
喜咲も止まった。
「結婚の答えは、まだ出せません」
「……はい」
「今日、急に答えが出たわけでもないです」
喜咲の表情が少しだけ曇る。
それでも優は続けた。
昨日、二人で決めたから。
大丈夫じゃないときに、大丈夫と言わない。
なら。
分からないときも、分かったふりをしない。
「でも、考えます」
「何を?」
「俺が、あなたとどう生きたいのか」
喜咲の目が揺れた。
「結婚するかしないかだけじゃなくて。その先も」
少し沈黙して。
喜咲が困ったように笑った。
「それ、時間かかります?」
「分かりません」
「そこは『すぐ考えます』って言うところじゃないですか?」
「嘘になるので」
「そういうところ、本当に面倒」
「すみません」
「謝らなくていいです」
喜咲は一歩、歩き出した。
「私も考えます」
「何を?」
「私が欲しいのが、結婚なのか」
そして。
「小鳥遊さんとの未来なのか」
優は何も言えなかった。
答えはまだない。
昨日の喧嘩も、なかったことにはならない。
それでも。
二人は昨日より少しだけ、同じ方向を向いていた。
「喜咲」
駅が見えてきた。
昨日。
ここで二人は名前を失った。
「優」が「小鳥遊さん」になった。
「喜咲」が「東海林さん」になった。
たった呼び方だけで、あんなに遠くなった。
「では、小鳥遊さん」
喜咲が言った。
「今日はここで」
「はい」
「また連絡します」
昨日と同じ言葉。
喜咲が歩き出す。
優は、その背中を見る。
昨日と同じにするのか。
また何も言えないまま、帰すのか。
違う。
「……喜咲」
彼女の足が止まった。
優自身も驚いた。
考えて出した言葉じゃない。
ただ。
そう呼びたかった。
喜咲が、ゆっくり振り返る。
「今」
「はい」
「なんて?」
優は、もう一度言った。
「喜咲」
彼女の目が少しだけ潤む。
でも。
笑った。
「はい」
昨日引かれた線が、少しだけ消えた。
喜咲が一歩戻ってくる。
「優」
たった二文字。
今度は、優も笑えた。
結婚の答えは、まだ出ていない。
喧嘩だって、完全に終わったわけじゃない。
それでも。
二人はもう一度、名前を呼んだ。
好きになった。
付き合った。
その次をどうするのか。
答えはまだ分からない。
でも。
優には、一つだけ分かってしまった。
喜咲が改札へ向かう。
その背中を見ながら。
昨日とは違う言葉が、胸に浮かんだ。
この人を、失いたくない。
結婚したいのか。
まだ、そこまでは分からない。
けれど。
失いたくない相手との未来を。
いつまでも「まだ付き合ったばかりだから」で止めておくことはできない。
優は初めて。
結婚から逃げるためではなく。
喜咲との未来を選ぶために、考え始めた。
第8話(通算18話) 完
次回 第9話(通算19話)
「プロポーズしようとしたら全部バレていた」
優は決めた。
問題は、その次だった。
「指輪のサイズは?」
「知りません」
「好きなブランドは?」
「知りません」
「何なら知ってる?」
「血液型」
「医者をやめろ」
四十五歳、医師。
離婚歴あり。
恋愛能力は、たぶん中学生以下。
完璧なプロポーズを準備するはずだった。
なのに。
不自然な質問を始めた時点で、喜咲にはほとんど全部バレていた。
そして当日。
優は用意した言葉を、全部忘れる。
次回、
「プロポーズしようとしたら全部バレていた」
結婚を決めても。
やっぱり、恋愛は面倒でした。
ラ
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