第7話/通算17話 「結婚しないなら、何のために付き合ってるの?」
第2部「付き合ったら婚活より面倒でした」
前書き
付き合ったら、昨日より他人行儀になった。
「喜咲さん、おはようございます」
「……なんで敬語なの?」
婚活アプリで出会った、四十二歳の東海林喜咲と、四十五歳の小鳥遊優。
条件を比べて。
喧嘩して。
嫉妬して。
一度は相手を手放そうとして。
それでも二人は、ようやく「好きな人」を選びました。
だから優は思っていました。
付き合ってしまえば、もう婚活より簡単だろう。
ところが。
呼び方ひとつで緊張する。
手をつなぐにも迷う。
連絡の頻度すら分からない。
そして、この先には。
初めての旅行。
初めて一緒に迎える夜。
生活習慣。
元妻。
子どものこと。
再婚。
婚活では、プロフィールを見れば分かることがありました。
年齢。
職業。
趣味。
結婚歴。
希望条件。
でも。
「この人と一緒に生きていけるか」は、プロフィールのどこにも書いていない。
好きだから、全部合うわけじゃない。
恋人になったから、不安が消えるわけでもない。
四十二歳と四十五歳。
二人には、それぞれ四十年以上生きてきた時間があります。
仕事もある。
過去もある。
譲れないものもある。
そして優には、一度結婚に失敗した記憶がある。
だから第2部で二人が探すのは、
「自分にぴったり合う相手」ではありません。
違ったときに、話せるか。
傷ついたときに、黙らずにいられるか。
面倒になったとき、それでも隣にいたいと思えるか。
恋人になった二人の、本当の答え合わせが始まります。
第2部、
「付き合ったら婚活より面倒でした」
婚活は終わった。
恋愛が始まった。
そして二人は、まだ知らない。
好きになるより、好きな人と生きていくほうが、ずっと難しい。
「じゃあ、結婚は?」
駅へ向かう道の途中。喜咲は、優の手を握ったまま聞いた。
優の足が止まった。
「……」
「優?」
「はい」
「また止まった」
「いや」
「大丈夫?」
昨日までなら、「大丈夫」と答えていた。でも、今日は違う。
「大丈夫じゃない。ものすごく緊張してる」
喜咲が吹き出した。優も笑った。
そこまではよかった。
問題は、そのあとだった。
喜咲は待った。優も何か言おうとした。
けれど、言葉が出てこない。
たぶん十秒。
四十二歳の喜咲には、その十秒が少し長すぎた。
まだ付き合ったばかりだから
「……結婚、考えてない?」
「いや、そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
昨日、美和と会って、二人は約束した。
大丈夫じゃないときに、大丈夫と言わない。
だから、今度は逃げない。
「まだ、付き合ったばかりだから」
喜咲が黙った。
「俺たち、まだ付き合ってそんなに経ってないだろ。だから、今すぐ結婚するかどうかを決めなくてもいいと思ってる」
言えた。
自分の考えを、ちゃんと。
そのはずだった。
喜咲の手が、優の手から離れた。
「そっか」
「喜咲?」
「まだ付き合ったばっかりだもんね。急ぐ必要、ないよね」
「……うん」
答えた瞬間、優は間違えた気がした。
私には、時間が無限にあるわけじゃない
「優は、いいよね」
「え?」
「急がなくていいもんね」
「どういう意味?」
「四十五歳の男の人って、結婚相談所でも普通にいるから」
「それと俺たちの話は違うだろ」
「違わないよ」
喜咲の声が強くなった。
「私は四十二歳」
「分かってる」
「分かってない」
昼のカフェでも言われた言葉だった。
「優は『まだ付き合ったばかり』って言える。一年付き合ってから考えようって言える」
「一年とは言ってない」
「じゃあ半年?」
「そういう話じゃなくて」
「私には、その時間も年齢に入るんだよ」
優は黙った。
「私には、優みたいに時間が無限にあるわけじゃない」
その言葉が、胸に刺さった。
婚活を五年してきた
「私、五年婚活してたの」
「知ってる」
「知ってるだけでしょ」
三十七歳から始めた。
三十八歳。三十九歳。四十歳。
年齢だけで断られたこともある。子どもを希望する人から、最初から対象外にされたこともある。
「だから私、焦ってた。失敗したくなかった。次があるって思えなかったから」
年収。職業。結婚歴。生活。子ども。夜の相性。
条件を並べて、減点して、切って、また探した。
「それで、やっと条件じゃなくて、好きな人と付き合おうって思った」
喜咲が優を見る。
「優と付き合った」
嬉しいはずの言葉なのに、今は喜べなかった。
「私はもう婚活してない。でもね、人生まで止まったわけじゃないんだよ」
優にも、怖いものがある
「俺だって、何も考えてないわけじゃない」
喜咲が止まった。
「じゃあ、何を考えてるの?」
「結婚したことがある。失敗したこともある」
「知ってる」
「だったら分かるだろ。怖いんだよ」
言ってから、優自身が驚いた。
「俺は一回失敗してる。好きで結婚した。好きなら何とかなると思ってた。でも、ならなかった」
嫌なことを言えなかった。寂しいと言えなかった。
小さな我慢を積み上げて、最後には何も言えなくなった。
「だから今度は、ちゃんと知りたい。喜咲のことを。生活も、考え方も、嫌なことも、俺と違うところも」
「それから?」
「結婚を考えたい」
逃げずに言った。
なのに。
喜咲の顔から、笑顔が消えた。
私は、試用期間なの?
「それって、私、試されてるってこと?」
「違う」
「生活が合うか確認して、考え方が合うか確認して、全部合格したら結婚を考えてもらえるの?」
「そんなこと言ってない」
「同じじゃん」
「違う!」
初めて、優の声も大きくなった。
「俺は失敗したくないんだ」
「私だって失敗したくないよ!」
喜咲も返した。
「でも、失敗したくないからって、いつまで確認するの?」
「期間の問題じゃない」
「私には期間の問題でもあるの!」
優は言葉を失った。
「子どものことだって、今すぐ答えは出ない。でも、考えるなら時間は関係ある。結婚だって同じ」
喜咲の声が震えた。
「私は五年婚活して、やっと好きな人ができた。その人に『まず付き合ってから考えます』って言われて、私はあと何年待てばいいの?」
正しいから、腹が立つ
優には、喜咲の言っていることが分かった。
分かるからこそ、苦しかった。
「でも、結婚を急いで決めることが正解なの?」
喜咲の目が変わった。
「私が焦ってるから結婚したいと思ってるってこと?」
「そうじゃない。俺が言いたいのは――」
「分かってるよ」
喜咲が遮った。
「優の言ってること、正しいよ。付き合ったばかりで結婚を決める必要なんてない。一回離婚してるなら慎重になるのも当たり前」
全部、優が言いたかったことだった。
「全部、正しい。だから腹が立つの」
「え?」
「私が聞いてるのは、正解じゃない」
何のために付き合ってるの?
「じゃあ聞くけど。優は、私と結婚する可能性はあるの?」
「ある」
即答した。
「じゃあ、結婚したい?」
「それは……」
止まった。
喜咲が笑った。
「ほら」
「今決められないだけだ」
「どうして?」
「まだ付き合ったばかりだから」
言ってから気づいた。
最初に戻ってしまった。
「結局、それなんだ」
「喜咲」
「じゃあさ」
喜咲が優を見る。
「結婚しないなら、何のために付き合ってるの?」
優の中で、何かが切れた。
「それは違うだろ。結婚するためだけに付き合ってるわけじゃない」
「私はそんなこと言ってない!」
「今、言ったじゃないか」
「違う!」
「じゃあ何なんだよ」
「私は……好きな人と、未来を作りたいの!」
「俺だってそうだよ」
「じゃあ、なんで逃げるの?」
「逃げてない」
「逃げてるよ」
「だから今は答えられないって言ってるだろ!」
初めてだった。
優が喜咲に、こんな声を出したのは。
結婚を約束しないと、意味がないの?
沈黙。
喜咲の顔が、一瞬だけ傷ついた。
「ごめん」
「今は謝らないで」
喜咲が顔をそらした。
「私も言いすぎてるから」
少し間を置いて、喜咲は言った。
「分かってる。普通なら、こんな話を急ぐ時期じゃないって。でも、私は普通にできない」
四十二歳だから。
その言葉を、喜咲は口にしなかった。
言わなくても分かった。
そして優は、最悪の言葉を選んだ。
「結婚を約束しないと、付き合う意味がないの?」
喜咲の顔が止まった。
言った瞬間、優にも分かった。
これは、聞きたいことじゃない。
「喜咲、今のは――」
「そう聞こえてるんだ」
「違う」
「私が結婚を迫ってるように見えてるんだ」
「そうじゃない」
「重い?」
「違う!」
「面倒?」
「そんなこと一度も」
「じゃあ何?」
答えられなかった。
答えられないこと自体が、もう答えになってしまった。
好きだけじゃ、未来は決まらない
「私ね、優のこと好きだよ」
「俺も」
「分かってる。だから困ってる」
好きだから付き合った。
条件じゃない。減点じゃない。
第1部で、二人が選んだ答えだった。
「でも、付き合ったら、その先があるんだね」
どこに住むのか。結婚するのか。子どもはどうするのか。いつ決めるのか。
好きという気持ちの上に、生活が乗る。
年齢が乗る。過去が乗る。未来が乗る。
「婚活より」
喜咲が小さく笑った。
「面倒だね」
優は笑えなかった。
「小鳥遊さん」
駅の改札が見えた。
「喜咲。今日は、いったん帰ろう」
「……うん」
「また落ち着いて話そう。俺もちゃんと考えるから」
「分かった」
喜咲が改札へ向かう。
このまま帰したくない。
でも、何を言えばいいのか分からない。
「喜咲」
彼女が振り返った。
「何?」
好きだ。
そう言えばいい。
嘘じゃない。
でも今、それだけを言うのは違う。
「……いや」
言えなかった。
喜咲は数秒、優を見た。
そして。
「じゃあ、今日は帰ります」
「喜咲?」
彼女は少しだけ頭を下げた。
「小鳥遊さん」
時間が止まった。
優。
たった二文字。
呼ばれるだけで眠れなくなった夜もあった。
それが、消えた。
「……何?」
「また、連絡します」
「……うん」
喜咲が改札へ向かう。
優は呼び止めようとして。
「東海林さん」
言ってから、自分で息を止めた。
喜咲の足も止まった。
でも、振り返らない。
「……はい」
改札が鳴る。
喜咲が向こう側へ消えた。
昨日、二人は約束した。
大丈夫じゃないときに、大丈夫と言わない。
今日、二人はちゃんと本音を言った。
だから、傷ついた。
だから、離れた。
本音を言えば、全部うまくいくわけじゃない。
好きだから付き合った。
それだけなら、簡単だった。
でも。
好きな人と、どう生きるのか。
そこから先は。
婚活より、ずっと面倒だった。
第7話 完
次回 第8話(通算18話)
「小鳥遊家に東海林がやってきた」
喧嘩した。距離もできた。呼び方まで名字に戻った。
そんな二人が、なぜか次に向かう場所は優の実家。
「小鳥遊さん?」
「はい」
「東海林さん?」
「はい」
優の母親が二人を見る。
「……あなたたち、付き合ってるのよね?」
そして、母親の何気ない一言が、喜咲の知らなかった優を教える。
「優が女の人を家に連れてきたの、初めてよ」
まだ、結婚の答えは出ていない。
でも。
逃げるのだけは、もうやめる。
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