第5話/通算15話 「元妻と今カノを会わせてはいけない」
第2部「付き合ったら婚活より面倒でした」
前書き
付き合ったら、昨日より他人行儀になった。
「喜咲さん、おはようございます」
「……なんで敬語なの?」
婚活アプリで出会った、四十二歳の東海林喜咲と、四十五歳の小鳥遊優。
条件を比べて。
喧嘩して。
嫉妬して。
一度は相手を手放そうとして。
それでも二人は、ようやく「好きな人」を選びました。
だから優は思っていました。
付き合ってしまえば、もう婚活より簡単だろう。
ところが。
呼び方ひとつで緊張する。
手をつなぐにも迷う。
連絡の頻度すら分からない。
そして、この先には。
初めての旅行。
初めて一緒に迎える夜。
生活習慣。
元妻。
子どものこと。
再婚。
婚活では、プロフィールを見れば分かることがありました。
年齢。
職業。
趣味。
結婚歴。
希望条件。
でも。
「この人と一緒に生きていけるか」は、プロフィールのどこにも書いていない。
好きだから、全部合うわけじゃない。
恋人になったから、不安が消えるわけでもない。
四十二歳と四十五歳。
二人には、それぞれ四十年以上生きてきた時間があります。
仕事もある。
過去もある。
譲れないものもある。
そして優には、一度結婚に失敗した記憶がある。
だから第2部で二人が探すのは、
「自分にぴったり合う相手」ではありません。
違ったときに、話せるか。
傷ついたときに、黙らずにいられるか。
面倒になったとき、それでも隣にいたいと思えるか。
恋人になった二人の、本当の答え合わせが始まります。
第2部、
「付き合ったら婚活より面倒でした」
婚活は終わった。
恋愛が始まった。
そして二人は、まだ知らない。
好きになるより、好きな人と生きていくほうが、ずっと難しい。
元妻と今カノが、同時にいる
「……美和」
優の口から、その名前が落ちた。
改札前。旅行帰りの人々が行き交う中で、三人だけ時間が止まっていた。
小鳥遊優、四十五歳。バツイチ。現在、彼女あり。
そして今。元妻と今の彼女が、半径二メートル以内にいる。
人生には、絶対に同時に存在してはいけないものがある。
火とガソリン。上司と転職サイト。そして、元妻と今カノ。
「久しぶり」
美和が言った。
「……久しぶり」
優も答える。
喜咲は隣で黙っていた。笑っている。ものすごく普通に。
だから怖い。
「優」「はい」「なんで返事だけ診察室なの?」「緊張してる」「私もしてる」
笑顔のまま言われた。
美和が小さく首を傾げる。
「もしかして……彼女?」
優が答えるより早く、
「はい。東海林喜咲です」
喜咲が答えた。
「東海林さん」「……読めるんですか?」「しょうじさん、ですよね?」「はい!」
なぜか喜咲の顔が明るくなる。
「最近、一発で読まれたことないです」「私も珍しい名字の人と結婚してたので」
美和が優を見る。
「小鳥遊」「……俺のことですね」「あなた以外に誰がいるの」
二人が笑った。
優だけ笑えない。
待ってくれ。なぜ会話が成立している。
「喜咲。無理に話さなくていいから」「なんで?」「気まずいだろ」「優が?」「俺が」「でしょうね」
美和が吹き出した。
「変わってないね、優」
その一言で、優の表情がほんの少し固くなった。
喜咲は、それを見逃さなかった。
なぜ三人でお茶を飲んでいる
十分後。
「どうしてこうなった」
優は駅前のカフェでつぶやいた。
右に元妻。左に今カノ。正面に逃げ道。
帰りたい。
「偶然会ったんだし、少しくらいいいじゃない」「私は別に」「私も別に」「俺が別にじゃない」「優だけじゃん」「だから問題なんだよ」
美和と喜咲が顔を見合わせて笑った。
神様。もし俺が何か悪いことをしたのなら謝ります。ただ、罰として元妻と今カノを同じテーブルに座らせるのは重すぎませんか。
「旅行だったの?」「はい。一泊で」「温泉?」「はい」「優、朝六時に起きた?」「起きました!」
喜咲が食いついた。
「やっぱり?」「やっぱりって何」「この人、昔から休日でも早いの」「そうなんですよ!」
「ちょっと待って。なんで俺の取扱説明書の共有会になってるの?」
「だって同じことで困ってるから」「困ってるの?」「困ってる」
二人の声が重なった。
初対面から十五分。すでに共通の敵が完成していた。
俺である。
美和が笑いながら言った。
「でも、よかった」「何が?」「彼女できたんだ」「……うん」「離婚してから、全然そういう話聞かなかったから」
喜咲の視線が優へ向く。
「そうなの?」「まあ……」「何年?」「そこ聞く?」「聞く」
優は観念した。
「離婚してからは、ちゃんと付き合った人はいない」「本当に?」「本当」「婚活アプリは?」「君と会うために始めたようなもの」「そういう言い方ずるい」「事実だよ」
喜咲は少しだけ頬を緩めた。
美和はそのやり取りを、どこか懐かしそうに見ていた。
寂しそうではなかった。
その顔を見て、喜咲は少し安心した。
この人は、優を取り戻しに来たわけではない。ただ、今の優を見ている。
「喜咲さん」「はい」「優、面倒でしょ?」「かなり」「即答!?」
「付き合う前より、付き合ってからのほうが面倒でした」
美和が笑う。
「どういう意味?」「付き合う前は条件だけ見てればよかったから。年収とか、仕事とか、結婚歴とか」「ああ」「でも付き合ったら、いびきとかエアコンの温度とか、起きる時間とか」「細かいね」「細かいんです。でも毎日のことだから」
美和は少し黙った。
「そこまで話せてるなら、私たちよりいいかもね」
優の指が止まった。
喜咲も気づいた。
私たち。
その二文字だけ、急に重かった。
「優、ちゃんと嫌なこと言えてる?」
美和がカップを置いた。
「優」「何?」「ちゃんと嫌なこと言えてる?」
優の顔から、わずかに表情が消えた。
「嫌なこと?」
喜咲が聞く。
「うん。この人、言わないから」
今朝の会話が、喜咲の中によみがえる。
嫌なことがあったら、ちゃんと言ってね。
優は言った。
言うよ。我慢しない。
即答だった。だからこそ、喜咲は信用できなかった。
「美和。その話はいいだろ」「よくないでしょ。同じことしたら」
空気が変わった。
「同じことって?」
美和が口を開きかける。
「美和」
優が止めた。
その声で喜咲には分かった。
これは、自分が知らない話だ。しかも、優が知られたくない話。
「優。私、聞いちゃ駄目?」「……そういうわけじゃない」「じゃあ聞く」
逃げ道が消えた。
美和は優を見る。
「私から話していい?」
長い沈黙のあと、優は答えた。
「……うん」
優しかったから、離婚した
「優はね、優しかったの」
美和は静かに話し始めた。
「怒鳴らない。責めない。私が仕事で遅くなっても文句を言わない。家事ができなくても、自分でやる」
「……いい夫じゃないですか」
「そう思うでしょ? 私もそう思ってた」
美和は笑った。
「でも、何も言わないの」「何も?」「嫌なことも。寂しいことも。困ってることも」
喜咲の視線が優へ向く。
「私の帰りが遅くても『大丈夫』。休日に仕事が入っても『仕方ないよ』。私が疲れて話を聞けなくても『気にしなくていい』」
美和はカップの縁を指でなぞった。
「全部、大丈夫だった。だから私、本当に大丈夫なんだと思ってた」
優は何も言わない。
「ある日、優に言われたの。もう疲れたって」
喜咲の胸がざわついた。
「突然?」「私には突然だった。でも優にとっては違った」
美和が優を見る。
「ずっと我慢してたんだよね」「……うん」
小さな返事だった。
「だったら言ってよって思った。私、超能力者じゃないから」
責める声ではなかった。だから余計に痛かった。
「嫌なら嫌って言ってほしかった。寂しいなら寂しいって言ってほしかった。怒ってほしかった」
美和は少し笑った。
「私たち、喧嘩しなかったよね」「……しなかった」「それを仲がいいって思ってた」「俺も」「違ったね」「……うん」
その会話には、元夫婦にしか入れない場所があった。
喜咲の胸が少し痛んだ。
美和が優を知っているからではない。
結婚して、一緒に暮らして、それでも分からなかった優がいる。
なら。
自分は、分かるのだろうか。
今カノだから、知りたい
「ごめんね。初対面でこんな話」
美和が言った。
「いえ。聞けてよかったです」
優が顔を上げる。
「喜咲」「だって知らなかったから」「話そうとは思ってた」「いつ?」
優が止まる。
その一秒で十分だった。
「ほら。また言わない」「違う。付き合ったばかりで、いきなり離婚の細かい話をするのも違うと思って」「優って、本当に正しいこと言うよね」「え?」「そういうところ」
優が黙る。
美和は二人を見てから、喜咲に言った。
「一個だけ、覚えておいて」「何ですか?」「優は嘘はつかない」
優が美和を見る。
「でも、言わないことはある」
喜咲の胸に、その言葉が刺さった。
嘘はつかない。でも、言わない。
優にとっては違うのかもしれない。
でも、言われなかった側からすれば。
その沈黙は、いつか壁になる。
今度はちゃんと喧嘩しなよ
店を出たところで、美和が立ち止まった。
「じゃあ、私はこっちだから」「うん」「今日はごめん。急に」「別に。会えてよかった」
美和は喜咲を見る。
「喜咲さん」「はい」「大変だと思うけど」「何がですか?」
美和は優を指さした。
「これ」「人を家電みたいに言うな」
喜咲は笑った。
「もう大変です」「おい」
美和も笑う。
そして最後に、優を見た。
「今度はちゃんと喧嘩しなよ」
優はすぐには返事をしなかった。
やがて、小さく頷く。
「……分かった」
美和は手を振り、人混みへ消えていった。
喜咲はその背中を見送る。
「綺麗な人だね」「……うん」「そこ否定しないんだ」「え?」「何でもない」「今のはどう答えれば正解?」「知らない」
少しだけ、いつもの二人に戻った。
でも、完全には戻らなかった。
喜咲の中に残ったのは、元妻への嫉妬ではない。
優が今も同じことをするのではないか。
その怖さだった。
「私にも同じことする?」
帰りの電車。
二人は並んで座っていた。
肩と肩の間に、ほんの数センチの隙間がある。
昨日なら、触れるだけで緊張した距離。
今は、その数センチが遠い。
「喜咲」「うん」「怒ってる?」「分からない」「ごめん」「何に謝ってるの?」
優が止まる。
「……美和のこと、ちゃんと話してなかったこと」「それだけ?」
また止まる。
喜咲は窓の外を見る。
「優。今朝、私が言ったこと覚えてる?」「嫌なことがあったら、ちゃんと言ってって?」「うん」「覚えてる」「言うって言ったよね」「言うよ」
また、迷わず答える。
喜咲は優を見た。
「私にも同じことする?」
優の顔が止まった。
「同じこと?」「美和さんにしたこと」
優は何も言わない。
「嫌なことがあっても、大丈夫って言う?」「……」「寂しくても平気なふりする?」「……」「私が何かしてもずっと我慢して、ある日突然『もう疲れた』って言う?」
「それは……」
言葉が止まった。
喜咲の胸が痛んだ。
しない。君には言う。
そう言ってほしかった。
でも。
優は長く息を吐いた。
「……分からない」
「分からない?」
「同じことをしないって、今ここで言うのは簡単だ。でも俺、一回それで失敗してる」
喜咲は黙って聞いた。
「だから『絶対しない』って言って安心させるより、言えなくなったときに、言えなくなってるって認めたい」
「何それ」
「ごめん。自分でも面倒くさいと思う」
喜咲は少しだけ笑った。
「そこは知ってる」
数センチあった距離が、少しだけ縮まった。
問題は解決していない。
優が急に、本音を何でも言える男になったわけでもない。
でも。
分からないことを「大丈夫」で隠さなかった。
それだけは、昨日までの優と少し違った。
喜咲は小さく息を吐く。
「じゃあ、一個約束して」「何?」「大丈夫じゃないときに、大丈夫って言わない」「……努力します」「そこは即答しないんだ」「さっき即答するなって学んだ」「学習が早い」
二人は笑った。
電車が走る。
いびきなら笑える。室温なら二十六度で妥協できる。
でも。
もっと大きな違いがあったら?
結婚。仕事。家族。これからの人生。
そのときも、二人は話せるのだろうか。
婚活なら、条件が合わなければ次へ行けた。
でも今は。
次なんて考えたくない。
この人がいい。
だからこそ。
この人と違ったとき、どうするのかを考えなければならない。
付き合ったら。
婚活より面倒だった。
そして二人は、まだ知らない。
次に向き合うのが、いびきでも元妻でもなく。
四十二歳の喜咲と、四十五歳の優。
二人の未来そのものに関わる問いだということを。
第5話 完
次回 第6話(通算16話)
「42歳の彼女に子どもの話をする」
「優は、子ども欲しい?」
何気ないはずの質問に、優は答えられなかった。
四十二歳。妊娠。出産。結婚。そして、二人に残された時間。
知っているからこそ、簡単には言えない優。黙られるほど、不安になる喜咲。
「四十二歳だから、言えないの?」
好きだけでは答えられない未来の話が始まる。
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