第3話/通算13話「夜の相性、本当に確認することになりました」
第2部「付き合ったら婚活より面倒でした」
前書き
付き合ったら、昨日より他人行儀になった。
「喜咲さん、おはようございます」
「……なんで敬語なの?」
婚活アプリで出会った、四十二歳の東海林喜咲と、四十五歳の小鳥遊優。
条件を比べて。
喧嘩して。
嫉妬して。
一度は相手を手放そうとして。
それでも二人は、ようやく「好きな人」を選びました。
だから優は思っていました。
付き合ってしまえば、もう婚活より簡単だろう。
ところが。
呼び方ひとつで緊張する。
手をつなぐにも迷う。
連絡の頻度すら分からない。
そして、この先には。
初めての旅行。
初めて一緒に迎える夜。
生活習慣。
元妻。
子どものこと。
再婚。
婚活では、プロフィールを見れば分かることがありました。
年齢。
職業。
趣味。
結婚歴。
希望条件。
でも。
「この人と一緒に生きていけるか」は、プロフィールのどこにも書いていない。
好きだから、全部合うわけじゃない。
恋人になったから、不安が消えるわけでもない。
四十二歳と四十五歳。
二人には、それぞれ四十年以上生きてきた時間があります。
仕事もある。
過去もある。
譲れないものもある。
そして優には、一度結婚に失敗した記憶がある。
だから第2部で二人が探すのは、
「自分にぴったり合う相手」ではありません。
違ったときに、話せるか。
傷ついたときに、黙らずにいられるか。
面倒になったとき、それでも隣にいたいと思えるか。
恋人になった二人の、本当の答え合わせが始まります。
第2部、
「付き合ったら婚活より面倒でした」
婚活は終わった。
恋愛が始まった。
そして二人は、まだ知らない。
好きになるより、好きな人と生きていくほうが、ずっと難しい。
「今日じゃなくなくても、いいけど」
言った。
言ってしまった。
しかも、二重否定で。
「……」
優が止まった。
「……」
喜咲も止まった。
温泉旅館の和室。
午後九時二十分。
並んだ二組の布団。
浴衣姿の四十五歳と四十二歳。
そして、回収不能になった日本語。
「今の」
優が口を開く。
「意味を確認していい?」
「するな!」
「でも」
「忘れて!」
喜咲は両手で顔を覆った。
帰りたい。
いや、帰りたくない。
むしろ帰ったら後悔する。
でも今だけは畳の下に潜りたい。
「つまり、今日じゃなくてもいいけど、今日でも」
「言語化するな!」
「はい」
優が黙る。
妙に素直だ。
喜咲は指の隙間から彼を見る。
耳まで赤い。
それを見た瞬間、恥ずかしさが少しだけ薄れた。
なんだ。
この人も同じなのだ。
余裕なんてない。
大人だから、恋愛の正解を知っているわけでもない。
「……座って」
「どこに?」
「そこから確認するの?」
「距離が近いと嫌かなと思って」
「面接じゃないんだから適当に座って」
優は少し迷って、喜咲の隣に座った。
ただし。
遠い。
「遠い」
優が少し寄る。
「もうちょっと」
さらに寄る。
「そこ」
「はい」
「患者さんの位置調整みたいになってる」
「緊張すると仕事に逃げるらしい」
「知ってる」
二人とも笑った。
その笑いで、部屋の空気がようやく動き始めた。
「嫌だったら言って」
少しして、優が言った。
「喜咲」
「うん」
「一つだけ」
声が真面目だった。
「何?」
「何か嫌だったら言って」
「うん」
「途中でも」
「うん」
「少しでも違和感があったら」
「優」
「何?」
「確認が多い」
「重要事項なので」
「同意書みたいに言うな」
優が黙る。
「大事なのは分かるよ」
喜咲は笑った。
「でも、もうちょっと彼氏っぽくできない?」
「彼氏っぽく……」
考え込む。
「そこで考えるな」
「難しい」
「難しくしてるのは優だから」
優はしばらく黙ってから言った。
「じゃあ」
喜咲を見る。
「無理しないで」
それだけだった。
でも。
さっきまでより、ずっとよかった。
「うん」
喜咲も短く答えた。
畳の上。
二人の手が近い。
あと数センチ。
付き合う前なら、その距離を埋めるだけで何分もかかった。
喜咲は小指を動かした。
優の指に触れる。
優がこちらを見る。
「何?」
「喜咲から触ってきたから」
「悪い?」
「嬉しい」
まただ。
この男は、ときどき前触れなく核心を投げてくる。
「……今そういうこと言う?」
「駄目だった?」
「駄目じゃないから困ってるの」
喜咲は、そのまま優の手を握った。
少し汗ばんでいた。
自分だけではない。
それが分かるだけで、怖さが少し減った。
医者なのに、恋愛には役に立たない
「ねえ」
「うん」
「優って、もうちょっと慣れてると思ってた」
「何に?」
「こういうの」
優は少し困った顔をする。
「医者だから?」
「それもある」
「医者は恋愛の専門家じゃない」
「知ってる」
「今日、かなり痛感してる」
「何を?」
「医学知識がほとんど役に立たない」
「当たり前でしょ」
「心拍数は二人とも高そうだけど」
「測るな」
喜咲は吹き出した。
優も笑う。
さっきまで大きな壁に見えていた「今夜」が、少しずつ小さくなっていく。
これは試験ではない。
成功か失敗かを決めるものでもない。
目の前にいるのは。
好きな人だ。
それだけ。
婚活をしていた頃。
喜咲は「夜の相性」も条件だと思っていた。
食事。
仕事。
金銭感覚。
結婚観。
生活リズム。
そして、夜。
合うか。
合わないか。
確認するものだと思っていた。
でも。
目の前の男は、その答えを持っていない。
自分も持っていない。
だったら。
一緒に探せばいい。
「優」
「うん」
「私も、嫌だったら言うから」
「うん」
「優も言ってね」
「俺も?」
「当たり前でしょ」
「男も?」
喜咲は眉をひそめた。
「男だから我慢しろとか、一番嫌い」
優が少し驚いた顔をした。
「そっか」
「何、その顔」
「安心した」
「何が?」
「俺も緊張してていいんだなと思って」
喜咲は一瞬、言葉を失った。
この人はたぶん。
ずっと「ちゃんとした夫」でいようとしてきた。
困らせない。
嫌な顔をしない。
我慢する。
正解を選ぶ。
そして、それだけではうまくいかなかった。
「緊張していいよ」
「うん」
「失敗してもいいし」
「失敗前提?」
「そういう意味じゃない」
優が少し笑う。
「でも」
喜咲も笑った。
「完璧じゃなくていい」
優はしばらく黙った。
「それ、かなり助かる」
「四十五歳が初夜みたいな顔するな」
「初めてだから」
「何が?」
「喜咲とは」
「……」
反則だ。
そういう言い方は。
完璧じゃない夜
その夜。
何もかもが完璧だったわけではない。
むしろ。
かなり格好悪かった。
優は途中で枕を落とした。
喜咲は浴衣の帯に手間取った。
一度、二人の額がぶつかった。
「痛っ」
「ごめん!」
「大丈夫」
「赤くなってない?」
「医者になるな」
「いや、これは普通に心配で」
「鏡見るから」
二人で笑った。
笑ったら、緊張がほどけた。
もう一度近づいた。
今度は額をぶつけなかった。
それだけで妙に嬉しかった。
途中。
喜咲が言った。
「ちょっと待って」
優はすぐに止まった。
「うん」
それだけだった。
「……何も聞かないの?」
「聞いたほうがいい?」
「今は聞かないで」
「分かった」
喜咲は息を吐いた。
止められる。
待ってくれる。
そう分かったから。
自分からまた近づけた。
完璧ではない。
映画みたいでもない。
大人っぽくもない。
でも。
嫌ではなかった。
失敗して笑えることも。
止まりたいときに止まれることも。
また近づきたいと思えることも。
全部ひっくるめて。
安心した。
しばらくして。
二人は並んで横になった。
薄暗い部屋。
喜咲は天井を見ながら言った。
「ねえ」
「うん」
「こんなもん?」
「何が?」
「こういうの」
「比較対象が難しい」
「真面目に答えなくていい」
「ごめん」
喜咲は横を向く。
優もこちらを向いている。
近い。
でも、もう逃げたくなかった。
「私さ」
「うん」
「プロフィールに『夜の相性も大切です』って書いたじゃん」
「書いてた」
「今思うと、すごいよね」
「かなり攻めてた」
「マッチした人が言うな」
二人で笑った。
「でも」
喜咲は小さく言う。
「相性って、もっと分かりやすいものだと思ってた」
「合うか、合わないか?」
「うん」
少し考える。
「でも、変なことになっても笑えるとか」
「うん」
「嫌なら嫌って言えるとか」
「うん」
「恥ずかしくても逃げないとか」
喜咲は優を見る。
「そういうのも相性なのかも」
優は黙っていた。
「何?」
「考えてた」
「採点しないでよ」
「してない」
「絶対してる顔」
「違う」
「じゃあ何」
優は少し迷ってから言った。
「俺、喜咲とは相性いいと思う」
心臓が跳ねた。
「……今言う?」
「駄目?」
「駄目じゃないけど」
喜咲は布団を鼻まで引き上げた。
「恥ずかしい」
「ごめん」
「謝るな」
暗闇の中で、優が笑った。
喜咲も笑った。
翌朝、採点する女
朝。
喜咲が目を覚ますと。
隣の布団は空だった。
「……え?」
一瞬だけ、昨夜が全部夢だったのかと思う。
その直後。
窓際に優を見つけた。
本を読んでいる。
「何してるの?」
「おはよう」
「何時に起きた?」
「六時十分」
喜咲は時計を見る。
午前八時四十三分。
「二時間半も何してたの?」
「本読んでた」
「起こせばいいじゃん」
「寝てたから」
「彼女と泊まった翌朝だよ?」
「うん」
「なんで健康的な入院患者みたいな朝なの」
「習慣だから」
昨夜。
かなり距離が縮まった。
と思ったのに。
この男は翌朝六時十分に起きて、静かに読書をしている。
喜咲は布団の上に座った。
「優」
「うん」
「ちょっとこっち来て」
優が近づく。
「一つ聞いていい?」
「うん」
喜咲は、できるだけ平然とした顔を作った。
「相性、どうだった?」
優が止まった。
「……」
五秒。
「何その沈黙」
「考えてた」
「考えるな!」
「相性って一言で言われても」
「採点するな!」
「してない」
「じゃあ何」
優は少し困ったように笑った。
「どう言えばいいか考えてた」
「だから何を」
優が喜咲を見る。
そして。
また突然、直球を投げた。
「また一緒に寝たい」
喜咲は固まった。
「……」
「これじゃ駄目?」
「……百点」
「え?」
「今のだけ百点」
「今のだけ?」
「昨日までの減点は残ってる」
「まだ採点制度あるの?」
「ある」
喜咲は布団を頭までかぶった。
顔が熱い。
婚活歴五年。
相手を条件で見て。
減点して。
「夜の相性も大切です」なんてプロフィールに書いた。
けれど。
一番嬉しかった答えは、
何点だったとか。
上手だったとか。
合っていたとか。
そんな言葉ではなかった。
また一緒に寝たい。
それだけだった。
布団の外から、優の声がする。
「喜咲」
「何」
「朝食、九時からだけど」
「今それ言う?」
「あと十五分」
「昨日より現実的なのやめて!」
「朝だから」
喜咲は布団から顔を出した。
優が笑っている。
腹が立つ。
でも。
自分も笑っていた。
相性は、最初から決まっているものではないのかもしれない。
失敗して。
話して。
笑って。
少しずつ二人で作っていく。
そんな気がした。
そして喜咲はまだ知らなかった。
この旅行で本当に問題になるのは。
夜の相性ではない。
生活の相性だった。
第13話 完
次回 第14話
「いびきは離婚理由になりますか?」
午前二時十四分。
喜咲は目を開けた。
隣から聞こえる。
規則正しい。
しかし。
かなり大きな音。
「……優」
返事はない。
「優」
返事はない。
「……うるさい」
昨夜、確かめたのは夜の相性。
だが、一緒に生きるなら。
もっと重大な相性があるらしい。
次回
恋人の幻想、深夜二時に崩壊。
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