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第1話/通算11話「付き合った初日に敬語をやめられません」

第2部「付き合ったら婚活より面倒でした」

前書き


付き合ったら、昨日より他人行儀になった。


「喜咲さん、おはようございます」


「……なんで敬語なの?」


婚活アプリで出会った、四十二歳の東海林喜咲と、四十五歳の小鳥遊優。


条件を比べて。


喧嘩して。


嫉妬して。


一度は相手を手放そうとして。


それでも二人は、ようやく「好きな人」を選びました。


だから優は思っていました。


付き合ってしまえば、もう婚活より簡単だろう。


ところが。


呼び方ひとつで緊張する。


手をつなぐにも迷う。


連絡の頻度すら分からない。


そして、この先には。


初めての旅行。


初めて一緒に迎える夜。


生活習慣。


元妻。


子どものこと。


再婚。


婚活では、プロフィールを見れば分かることがありました。


年齢。


職業。


趣味。


結婚歴。


希望条件。


でも。


「この人と一緒に生きていけるか」は、プロフィールのどこにも書いていない。


好きだから、全部合うわけじゃない。


恋人になったから、不安が消えるわけでもない。


四十二歳と四十五歳。


二人には、それぞれ四十年以上生きてきた時間があります。


仕事もある。


過去もある。


譲れないものもある。


そして優には、一度結婚に失敗した記憶がある。


だから第2部で二人が探すのは、


「自分にぴったり合う相手」ではありません。


違ったときに、話せるか。


傷ついたときに、黙らずにいられるか。


面倒になったとき、それでも隣にいたいと思えるか。


恋人になった二人の、本当の答え合わせが始まります。


第2部、


「付き合ったら婚活より面倒でした」


婚活は終わった。


恋愛が始まった。


そして二人は、まだ知らない。


好きになるより、好きな人と生きていくほうが、ずっと難しい。

恋人になった翌朝、二人の距離は近づくどころか、なぜか遠くなった。


「喜咲さん、おはようございます」


『おはよう……ございます』


日曜日、午前八時十二分。


小鳥遊優は、自宅のリビングでスマホを見つめた。


昨日、東海林喜咲と付き合うことになった。


告白した。気持ちを確かめた。手もつないだ。


つまり、客観的に見ても恋人である。


なのに。


『よく眠れましたか?』


患者への問診みたいなメッセージが届いた。


優は反射的に返す。


『はい。よく眠れました。喜咲さんはいかがですか?』


送信。


数秒後。


『私たち、付き合ってるんだよね?』


『その認識です』


『なんで昨日より距離あるの?』


優は固まった。


確かに。


昨日までのほうが、まだ普通にしゃべっていた。


恋人になった途端、二人そろって取引先みたいになっている。


『敬語、やめますか』


送ってから気づく。


敬語をやめる提案まで敬語だった。


『そうしよう』


『分かった』


たった四文字なのに、妙に緊張した。


すると喜咲から、


『今日、会う?』


優の指が止まる。


昨日までも何度も会っている。


食事もした。喧嘩もした。告白もした。


なのに「恋人として会う」と考えた瞬間、難易度が跳ね上がった。


『会いたいです』


『敬語』


「あ」


『会いたい』


少し間があって、


『私も』


優はスマホを伏せた。


すぐにもう一度持ち上げた。


『私も』


二文字を見ただけで、頬が緩む。


四十五歳。


恋人になって最初の朝から、かなり重症だった。


恋人の待ち合わせは、婚活より難しい


午後一時。


駅前の待ち合わせ場所に、優は十八分前から立っていた。


十二時五十八分。


スマホを見る。


「何してるんだ、俺は」


自分でも分からない。


「優さん」


顔を上げる。


白いブラウスに淡い色のスカート。


喜咲が立っていた。


何度も会っている。


見慣れているはずなのに、昨日までと違って見えた。


恋人だからだ。


「こんにちは」


「こんにちは」


「……」


「……」


喜咲が眉を寄せた。


「昨日、私たち付き合ったよね?」


「はい」


「なんでお見合い初日みたいになってるの?」


「俺にも分かりません」


「あ、また敬語」


「……分からない」


「よろしい」


二人は歩き出した。


三十秒後、優は隣を歩く喜咲の左手を見た。


昨日はつないだ。


今日は?


恋人なら、つなぐのか。


毎回?


それとも本人同士の合意があれば随時?


「優さん」


「うん」


「また手、見てる」


「……見てた」


「つなぎたいなら、つなげば?」


優は一瞬迷った。


「つないでもいい?」


喜咲が立ち止まる。


「ねえ」


「うん」


「付き合う前より面倒になってない?」


「否定できない」


喜咲はため息をつき、左手を差し出した。


「はい」


優がその手を取る。


昨日と同じ温度のはずなのに、昨日より緊張した。


「硬い」


「緊張してる」


「なんで?」


「恋人だから」


「普通、逆じゃない?」


「俺もそう思ってた」


喜咲が笑う。


優もつられて笑った。


それだけで、少し肩の力が抜けた。


「安心はしてるんだけど」


「じゃあ、なんで緊張するの?」


優は考えた。


昨日までなら、うまくごまかしたかもしれない。


でも、もう同じことはしたくなかった。


嫌なことも、怖いことも、黙って相手に合わせる。


それで前の結婚は、少しずつ会話を失った。


だから今度は、格好悪くても言葉にする。


「失いたくないものになったから、かもしれない」


喜咲が足を止めた。


優も止まる。


「……今の、かなり恥ずかしいな」


「うん」


「忘れて」


「無理」


「即答?」


「永久保存」


喜咲は前を向いた。


耳が少し赤い。


けれど、手は離さなかった。


「喜咲」と呼ぶだけなのに


昼食は、小さなイタリアンに入った。


向かい合ってメニューを開く。


「喜咲さん、何にする?」


「惜しい」


「何が?」


喜咲はメニューから顔を上げた。


「その『さん』」


優は嫌な予感がした。


「付き合ったんだから、そろそろ名前だけで呼ばない?」


「……喜咲」


「今、すごく覚悟した顔したね」


「難易度が高い」


「名前呼んだだけで?」


「患者さんの名前を呼ぶのとは違う」


「何が?」


「恋愛感情がある」


言ってから気づいた。


また余計なことを言った。


喜咲がメニューで口元を隠す。


「そういうの、急に混ぜるのずるい」


「何が?」


「分かってないならいい」


耳が赤い。


優は少し嬉しくなった。


「喜咲」


「何?」


「もう一回言ってみた」


「練習台にするな」


「慣れようかと」


「診察手技じゃないのよ」


喜咲が笑った。


「じゃあ、私も」


「何を?」


「優って呼ぶ」


優の背筋が伸びた。


「どうぞ」


「なんで面接みたいになるの」


喜咲が小さく息を吸う。


「……優」


優は動かなかった。


「優?」


「聞いてる」


「じゃあ返事しなさいよ」


「想定より破壊力が高くて」


「名前に破壊力ってある?」


「あった」


喜咲が吹き出す。


「じゃあ、もう一回。優」


「うん」


「優」


「うん」


「優」


「何回言うんですか」


喜咲がにやりとした。


「三回目で敬語に戻った」


「……喜咲さん」


「しかも初期設定に戻った!」


近くの店員が笑いをこらえている。


優は気づかないふりをした。


四十五歳。


恋人の名前を呼ぶだけで、この有様である。


恋人だから、言わなければならないこと


食事のあと、二人は本屋に寄った。


特別なことは何もしていない。


昨日までと違うのは、手をつないでいること。


そして、ときどき名前を呼ぶこと。


付き合えば、もっと自然になると思っていた。


実際は逆だった。


何と呼ぶか。


どれくらい連絡するか。


どこまで相手の時間に入っていいのか。


距離が近づいたぶん、話さなければならないことが増えた。


「何考えてるの?」


喜咲が聞いた。


優は一瞬、いつものように「別に」と答えかけた。


やめた。


「付き合うって、思ったより面倒だなって」


喜咲の眉がぴくっと動く。


「へえ」


「違う。嫌だって意味じゃない」


「じゃあ、どういう意味?」


優は言葉を探した。


正しい答えではなく、自分の答えを。


「面倒でも、喜咲となら話していきたい」


喜咲が黙った。


数秒後。


「今の」


「うん」


「ちゃんと言ったね」


「何を?」


「考えてること」


優は気づいた。


以前の自分なら、相手が嫌な顔をした瞬間に引っ込めていた。


波風を立てないことを、優しさだと思っていた。


でも、黙れば伝わらない。


「……練習中だから」


「恋人の?」


「話すことの」


喜咲の表情が少しだけ柔らかくなった。


「じゃあ私も、ちゃんと言う」


「何を?」


「今の、ちょっと嬉しかった」


優は黙った。


「何?」


「それも破壊力が高い」


「四十五歳、弱すぎない?」


「喜咲限定で防御力が低い」


「それ、プラス五点」


「減点制度、まだ続いてるの?」


「一生」


「今日の持ち点は?」


「七点」


「昨日より増えてる」


「手をつなぐのに許可を取ったからマイナス三点」


「そこ減点なんだ」


「でも『失いたくない』でプラス十点」


「それは忘れて」


「永久保存」


「削除申請は?」


「却下」


二人で笑った。


恋人になった初日。


敬語はまだ抜けない。


名前を呼ぶだけで緊張する。


手をつなぐにも迷う。


でも昨日までと、一つだけ違う。


分からないなら聞けばいい。


怖いなら言えばいい。


間違えたら、話せばいい。


それなら、この面倒な関係も悪くない。


たった二文字で眠れない


夕方。


駅の改札前で、二人は立ち止まった。


「今日は楽しかった」


喜咲が言う。


「俺も」


「お。今の自然」


「少し慣れた」


「まだ研修医レベルだけどね」


「恋愛に専門医制度がなくてよかった」


「受からないもんね」


「否定できない」


笑ったあと、少しだけ沈黙した。


手はまだつながっている。


別れるなら離さなければならない。


でも、どちらもすぐには離さなかった。


「毎日、無理に連絡しなくていいからね」


喜咲が言った。


「うん」


「恋人っぽくしなきゃって頑張りすぎると、たぶん疲れるし」


「俺もそう思う」


「でも」


喜咲が優を見る。


「嫌なことがあったら、ちゃんと言う」


優の笑みが少し消えた。


前の結婚のことを思い出す。


嫌なことも。


寂しいことも。


相手を傷つけたくないという理由で、全部飲み込んだ。


その結果、何も話せなくなった。


同じ失敗はしたくない。


「……努力する」


「『分かった』じゃないんだ」


「簡単に約束して、また黙ったら嫌だから」


喜咲はしばらく優を見つめた。


「じゃあ、それでいい」


「いいの?」


「うん。私も言うから」


「それは心配してない」


「どういう意味?」


「喜咲は、かなり言う」


「減点二十」


「多い」


「今のでマイナス十三点」


「借金生活になった」


「返済頑張って」


二人は笑った。


優が手を離す。


「じゃあ、また」


「うん。またね」


喜咲が改札を通る。


三歩。


四歩。


五歩。


優はその背中を見送った。


これでいい。


一日で全部変わらなくていい。


敬語だって、そのうち抜ける。


呼び方だって、そのうち自然になる。


そう思ったとき。


人の流れの向こうで、喜咲が振り返った。


そして。


「優!」


優の時間が止まった。


練習じゃない。


ふざけてもいない。


何の前置きもなく。


ただ自然に。


「またね!」


喜咲は手を振り、そのまま人混みの向こうへ消えていった。


優は返事すらできなかった。


姿が見えなくなってから、ようやく息を吐く。


「……反則だろ」


帰宅後。


ベッドに入る。


目を閉じる。


『優!』


目を開ける。


もう一度閉じる。


『優』


また目を開ける。


午後十一時四十七分。


眠れない。


四十五歳にもなって、名前を二文字呼ばれただけで。


「重症だな……」


スマホが震えた。


喜咲からだった。


『おやすみ、優』


優は天井を見つめた。


完全に眠れなくなった。


婚活は、条件を確認すればよかった。


恋愛は。


たった二文字で、眠れなくなる。


第11話 完

次回 第12話

「お泊まりデートに医者を連れてくるな」


初めての一泊旅行。


温泉。浴衣。同じ部屋。


どう考えても意識する喜咲に対して、優が気にしているのは温泉の成分、水分補給、睡眠、飲酒量。


「私、彼氏と旅行に来たんだけど」


「うん」


「なんで医者も同行してるの?」


恋人になって初めての旅行。


そして二人は、付き合ってから初めて迎える「夜」を意識する。



この物語の続き・ほかの作品は、note「momokun」と Momokun Official で公開しています。

note:momokun https://note.com/momokun1

Momokun Official https://momokun.jp/

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