第3話「白衣の天使だけが見せる顔(秘密の夜・距離の崩壊)」
蒼爽の返事は、結局すぐには出なかった。
「……結婚?」
その言葉だけが、病室の中で浮いていた。
朝の光がカーテン越しに差し込む。
白い床、白いベッド、白い空気。
そのすべてが、現実味を薄くしている。
帆乃香は、いつも通りの声で繰り返した。
「そう。私と結婚しよう」
感情のない提案。
医療説明の延長のような口調。
だが蒼爽は、その“異常さ”に気づいていた。
⸻
「……理由、聞いてもいいですか」
少し間を置いて、蒼爽はそう言った。
帆乃香は一秒も迷わない。
「あなたに帰る場所がないから」
「病気が進行する前に、誰かが責任を持つ必要があるから」
それは“正論”だった。
正しすぎるほどの理由。
だが、蒼爽は静かに笑った。
「それ、医師としての理由ですよね」
その一言で、空気がわずかに揺れた。
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帆乃香の目が、ほんの一瞬だけ止まる。
だがすぐに元に戻る。
「それで十分だ」
「十分じゃない気がします」
沈黙。
病室の時計の音だけが、やけに大きく響く。
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やがて帆乃香は、視線を外さずに言った。
「あなたは選べる立場じゃない」
冷たい言葉。
それは正しい。
そして残酷だった。
蒼爽は一瞬だけ目を伏せる。
だが次の瞬間、いつもの“壊れない笑顔”に戻る。
「……わかりました」
その返事は、諦めに近かった。
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その日の午後。
婚姻の手続きは静かに進められた。
病院関係者の誰もが知らないところで。
“患者と医師”という関係のまま。
しかし書類の上では、確実に変わっていく。
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夜。
病院は静かだった。
消灯時間を過ぎ、廊下の灯りは間引かれている。
4人部屋の一角。
他の患者はすでに眠っていた。
蒼爽だけが、天井を見ていた。
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足音がした。
静かすぎるほどの足音。
扉が開く。
そこに立っていたのは、白衣を脱いだ帆乃香だった。
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白衣がない彼女は、少しだけ違って見えた。
それでも表情は変わらない。
感情は見えない。
だが――どこか“仕事を終えた人間の顔”ではなかった。
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「まだ起きていたの?」
「眠れなくて」
短い会話。
それだけで終わるはずだった。
だが帆乃香は、病室の中に入ってきた。
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椅子に座る。
ベッドの横。
距離は近い。
けれど、どちらもその距離を意識していないふりをしている。
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「今日の話……本気なんですか」
蒼爽が静かに聞く。
帆乃香は一瞬だけ視線を落とす。
そして答える。
「本気よ」
迷いがない声。
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「先生って、結婚ってそんなに簡単に決めるんですね」
少し冗談めかした声。
だが帆乃香は笑わない。
むしろ、少しだけ沈黙が長くなる。
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「簡単じゃない」
そう言ってから、少し間を置く。
「でも、迷う時間がない」
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その言葉は、どこか“医療判断”ではなかった。
もっと個人的な、切実な響きがあった。
蒼爽はその違和感に気づく。
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「僕、そんなに長くないんですか」
その問いは静かだった。
恐怖ではなく、確認。
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帆乃香は一瞬だけ息を止める。
そして、短く答えた。
「そんなことは言っていない」
だが否定は、肯定よりも弱かった。
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沈黙。
病室の空気が、少しだけ重くなる。
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そのときだった。
蒼爽が小さく笑った。
「じゃあ、なんでそこまで急ぐんですか」
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帆乃香は答えない。
答えられないのではなく、選んでいるようだった。
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そして――
彼女は立ち上がる。
「少しだけ、外に出る」
そう言って、病室を出ていった。
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夜の廊下。
蛍光灯が淡く揺れている。
帆乃香は壁に背をつけて、初めて小さく息を吐いた。
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(私は、何をしている?)
医師として正しい。
倫理的には議論が必要。
社会的には異常。
全部わかっている。
それでも――
止まらない。
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そのとき、胸の奥に“理由にならない理由”が浮かぶ。
蒼爽の笑顔。
火事の話をするときの静かな目。
壊れそうで、壊れない人間。
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(あの人は……一人で終わるには、綺麗すぎる)
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その思考に気づいた瞬間。
帆乃香は、自分がもう医師として考えていないことを理解した。
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一方、病室。
蒼爽は天井を見ていた。
そして小さく呟く。
「結婚って……治療なんだ」
誰にも届かない声。
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数分後。
帆乃香は戻ってきた。
今度は少しだけ、距離が近い。
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「明日、手続きを進める」
「もう決まってるんですね」
「ええ」
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蒼爽は少しだけ笑った。
「先生って、本当に怖い人ですね」
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帆乃香は、ほんの一瞬だけ止まる。
そして、静かに言った。
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「あなたにだけは、そう見せていないつもりだった」
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その瞬間。
空気が変わった。
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蒼爽の笑顔が、少しだけ崩れそうになる。
帆乃香の視線が、ほんの少し揺れる。
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“医師と患者”だった距離が、音もなく崩れ始めていた。
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夜は深くなる。
誰も知らないまま。
この結婚は、契約ではなくなっていく。
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