第2話「0日婚の宣言」
翌朝の大学病院は、いつも通り冷たく整っていた。
白い廊下。
規則正しく並ぶ扉。
無機質なアラーム音と、淡々と流れる医師たちの足音。
そのすべてが、“感情を持たない世界”のように見える。
白鷺帆乃香は、その中心にいた。
完璧に整えられた白衣。
乱れのない髪。
感情の揺れを一切感じさせない表情。
誰もが思う。
――あの人は人間じゃないのではないか、と。
だが、その“人間ではない医師”の頭の中には、昨日から消えない影があった。
夜神蒼爽。
壊れた家族。
火事の記憶。
そして、異様なほど穏やかな笑顔。
⸻
「本日の回診、夜神蒼爽さんからお願いします」
看護師の声に、帆乃香は短く頷いた。
「分かっている」
それだけ言って歩き出す。
だが、心の奥で何かが小さく引っかかっていた。
(なぜ私は、あの患者を“患者以上”として認識している?)
医師としては異常な思考だった。
彼はただの症例。
治療不能の神経疾患を抱えた若年患者。
それ以上でも以下でもない。
――そのはずだった。
⸻
病室の扉を開ける。
そこには、いつものように蒼爽がいた。
白いベッドの上で、ゆっくりと体を起こしながら、静かに笑っている。
「おはようございます、先生」
その声は柔らかい。
昨日と同じ。
何も壊れていないような声。
だが帆乃香は気づいていた。
その笑顔が“作られた安定”であることに。
⸻
診察は淡々と進んだ。
聴診、反応確認、歩行テスト。
わずかなふらつき。
ほんの微細な筋緊張の異常。
記録は冷静に積み重ねられていく。
そして最後に、帆乃香は告げた。
「症状は進行している。今後はリハビリと神経内科の継続管理に移行する」
「……そうですか」
蒼爽は、やはり同じ返事をした。
恐怖も、焦りもない。
ただ“受け入れている”。
⸻
診察が終わり、帆乃香は踵を返した。
その時だった。
「先生」
背後から声がした。
振り返ると、蒼爽がこちらを見ていた。
いつも通りの笑顔。
だが、少しだけ違った。
“試すような目”だった。
⸻
「先生って……ずっと、そうやって誰のことも冷静に見てるんですか?」
「それが仕事だ」
即答だった。
間がない。
感情もない。
だが蒼爽は、少しだけ視線を細めた。
「じゃあ、僕のことも“患者の一人”ですか?」
その問いは、妙に静かだった。
⸻
帆乃香は一瞬、言葉に詰まりかけた。
だがすぐに答える。
「そうだ」
嘘ではない。
医師としては正しい答え。
しかし――
その瞬間、病室の空気がわずかに変わった。
⸻
蒼爽は小さく息を吐いた。
そして、まるで独り言のように言った。
「そっか……」
その声には、わずかな“寂しさ”が混ざっていた。
それを聞いた瞬間。
帆乃香の胸の奥で、説明できない違和感が再び動いた。
⸻
その日の午後。
会議室。
カンファレンスが終わり、医師たちが散っていく中で、帆乃香は一人残っていた。
資料を閉じる。
思考は乱れていないはずだった。
しかし――
ふと、脳裏に蒼爽の顔が浮かぶ。
(なぜあの患者は、あんなにも“ひとりで完結している”?)
通常、あのような喪失を経験した患者は崩壊する。
怒り。
悲しみ。
依存。
拒絶。
どれかが現れる。
だが彼には、それがない。
ただ“静かに存在している”。
⸻
その時だった。
会議室の扉が開いた。
「白鷺先生」
振り向くと、病院長だった。
そしてその後ろに、もう一人の男性医師。
「少し話がある」
その言葉に、帆乃香は無表情のまま立ち上がる。
⸻
数分後。
別室。
そこで告げられた言葉は、医学的議題ではなかった。
「夜神蒼爽患者についてだが……家族の支援が完全に消失している」
「長期療養の受け皿もない」
「このままでは退院後の生活が成立しない」
そして――
病院長は言った。
「誰かが“法的に支える立場”になる必要がある」
⸻
その瞬間。
空気が静止した。
普通なら、福祉制度や施設の話になる。
だが今回は違った。
“制度では救えない個人”として扱われていた。
⸻
帆乃香は短く言った。
「養護施設では不十分ですか」
「年齢的にも精神状態的にも適さない」
沈黙。
その時だった。
彼女の中で、何かが“音もなく切り替わった”。
⸻
「……なら」
そう言って、帆乃香は一度だけ目を伏せた。
そして次に顔を上げたとき。
その表情は、医師ではなかった。
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「私が引き取ります」
一瞬、空気が止まる。
病院長が眉を動かす。
「引き取る……?」
帆乃香は淡々と続けた。
「法的に管理できる形でなら問題ないでしょう」
「たとえば――婚姻関係」
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沈黙。
数秒後、別の医師が思わず声を上げる。
「……冗談だろ?」
しかし帆乃香は動かない。
表情も崩れない。
ただ静かに言う。
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「私と結婚すればいい」
⸻
その言葉は、あまりにも自然だった。
狂気でも感情でもない。
まるで医療処置の一つのように。
⸻
病院長が呟く。
「白鷺先生……それは倫理的に――」
だが帆乃香は遮った。
「彼には帰る場所がない」
「治療もない」
「支援もない」
「なら、残る方法は一つです」
⸻
そして、最後に言った。
「私の側に置く」
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その瞬間。
“医師の判断”は終わった。
そこにあったのは、理屈ではなく決断だった。
⸻
夜。
蒼爽の病室。
帆乃香は一人で立っていた。
照明は落ちている。
静かな呼吸音だけが響く。
蒼爽は眠っている。
その横顔を見ながら、帆乃香は小さく息を吐いた。
⸻
「……あなたは、すぐ壊れる」
誰に向けた言葉でもない。
しかしその声は、どこか優しかった。
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そして。
彼女は静かに決める。
(なら、壊れる前に繋ぎ止める)
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翌朝。
蒼爽は呼び出される。
病室ではない。
小さな面談室。
そこにいたのは、白鷺帆乃香。
いつも通り冷たい顔。
いつも通り正確な声。
そして――
その口から出た言葉は。
⸻
「私と結婚しよう」
⸻
蒼爽は、一瞬だけ理解できなかった。
そして数秒後、ようやく言葉を返す。
「……え?」
⸻
白鷺帆乃香は、まっすぐ彼を見る。
その目には一切の迷いがなかった。
⸻
「あなたを、ひとりにしないために」
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その瞬間。
蒼爽の世界は、音を立てずに崩れ始めた。
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