49日目の夜・楠並木にて
虫の声、遠くで微かに車の通り過ぎる音。 並木道はすっかり夜の帳に包まれていた。
足元を照らすのは、歩道にぽつりぽつりと灯る街灯。 9月中旬とは思えないほど、空気はひんやりとしていた。
「……母に、紹介しようと思って」
本郷が小さく首を傾げる。
「え?」
「位牌に、だけど。生前、言われてたの。“彼ができたら、ちゃんと連れて来なさい”って」
本郷は笑顔を見せる。 けれどその心の奥底にあったのは、別の声だった。
(——まずい。これは“距離が深くなる予兆”だ)
あの、数珠をぶつけてくるような先輩(=ゆず)との関係も気に障っていた。 そして彼女(玲)は、確かに“事件の核心に近づきすぎている”。
——“観測される前に、観測を終わらせるべきだ”。
本郷の心が、静かに“選択”の準備に入っていく。
しかしその時、玲がふと足を止めた。
「……あれ、やっぱりこの辺……」
小さな声。 本郷が視線を向けると、そこには一本の楠の大樹。 根元は苔に覆われ、わずかに湿った匂いが残っていた。
「……懐かしい気がするんだ。よく、小さいころ通ってた道で」
玲はそこで笑う。 けれど、顔の奥には“遠くを見るような目”があった。
その直後、玲の耳元に——「……ィイイィ……」という かすかなノイズが入り込む。
思わずこめかみを押さえた玲に、 本郷が何食わぬ顔で覗き込む。
「……大丈夫?」
玲は一拍遅れて頷く。
「うん……ただの、気圧のせいかも」
彼女の表情は、どこか懐かしさと哀しさが入り混じっていた。 記録は、そこに静かにたたずんでいた。
その横顔を見ながら、本郷が静かに口を開く。
「……ごめん」
「え?」
その一言の直後だった。
首筋に、冷たい硬さと圧迫感。
玲の身体が一瞬跳ねたが、次の瞬間には喉が塞がれた。
「……っ……⁉︎」
息が、できない。 視界がぐらぐらと揺れる。
けれど、目の奥では波形が再生され始めていた。
翠の記録——“同じ位置”“同じ手の形”“同じ空気の密度”が、玲の中に走った。
これは、“再演”ではない。 “未再生の記録”が、いま再起動した——
ガクン、と地面に崩れた玲の手が、泥をかすかに掴んだ。
その泥の冷たさだけが、“あの夜の記録”と完全に一致していた。
本郷は、その表情を最後まで確認しようとはせず、 ただそのまま——
……そして、その直後。 楠の根本から、ふっと小さく風が吹いた。




