目撃(殺害から“あの日”へ)
夜風は湿っていた。 パートの帰り道、翠は鞄を肩にかけて、いつもの帰路を歩いていた。
コンビニの灯りも遠く、足音だけが舗装路に淡く響く。
——その時、遠くで女性の悲鳴が聞こえた。
翠は思わず立ち止まり、耳を澄ます。 もう一度、短く、鋭く。
「……っ!」
脇道の奥、街灯の届かない暗がり。
もみ合う影——そして、無理やり押し倒される女性と、覆いかぶさる男の姿。
翠は、反射的に口元を押さえた。 その小さな息が、暗闇に溶けた直後——
男が、こちらを見た。
「……チッ……クソッ…」
低く、冷たい声。 女性の身体は既に動かなかった。
男は、それを河川敷に担ぎ上げると、ためらいもなく川に投げ込んだ。
翠は、次の瞬間には走り出していた。
逃げないと……早く……!
携帯はバッグの底。 通報の余裕はない。 心臓が裂けそうなほど高鳴る。
だが、背後には靴音。 確実に、距離が詰まってくる。
どれだけ走っただろう… 楠の根元まで走ると地面に伏して翠は動けなくなった、 そして男の手が翠の肩をつかむ。
グッ——
翠は首を絞められたまま、もがいた。
相手の腕を両手で掴み、何とか剥がそうと力を込める。 爪が食い込み、泥が指先を滑る。
しかし、体格差は明白だった。 呼吸が、奪われていく。 視界が滲み、空の星が遠ざかる。
最後に意識の底に残ったのは、 あの楠の匂いと、 娘に何かを“託したい”という想いだった。
男は翠の身体をその場に放置せず、 向かいの公園へ向かう。
遊具の裏、目につきにくい斜面—— そこに、そっと遺体を横たえた。
——誰にも見られていないと思っていた。
だが、記録は既に刻まれていた。そこに…。




