第二十九話 ロイが気を使って、二人きりにしてくれました
土曜日の朝。
台所から、卵を割る音が聞こえていた。ロイが朝ごはんの仕上げをしている。
今日は飢えた獅子の四人が来ない日だ。
そう思いながら紅茶を飲んでいると、ロイが皿を運んできた。
「そういえば、コータさん。今日、姉ちゃんが来ます」
「え?」
「手紙を書いたんです。新しい味付けの卵焼きを、姉ちゃんにも食べてほしくて」
「手紙はどうやって届けたんだ?」
「昨日の夕方、フィーナさんに預けました。ちょうど市場でお会いしたので」
「……フィーナさんに」
「はい」
特に怪しいところはない。ない、はずだ。
「それなら、俺も一緒に食べさせてもらうよ」
「あっ、それなんですけど、おれは今日部屋でブレディア様にお供えをしますので!」
「え?お供えなら居間でもできるけど?」
「そのあと一緒にゲームをする約束もあるんです!」
ロイは妙に早口で言って、皿を並べて台所へ引っ込んだ。
どうも落ち着かない。まあ、十四歳なら新しい町で緊張することもあるだろう。
俺は深く考えないことにした。
昼前に、玄関の戸が控えめに鳴った。
こん、こん。
俺が開けるより早く、ロイが廊下を駆けてきた。
「姉ちゃん、いらっしゃい!」
「ロイ。手紙を読んだぞ。卵焼きの試食と聞いたが?」
玄関に立っていたのは、いつもの鎧姿のリディアだった。
ただし、一つだけ違うところがあった。金色の髪に、小さなリボンが結ばれている。
目が合った。
俺の視線が髪へ動いたのを、リディアは見逃さなかった。
「……こ、これは、フィーナが勝手に付けたのだ」
「似合ってますよ?」
「そ、そうか?」
耳が赤くなった。
その間に、ロイは携帯ゲーム機を抱えて自分の部屋へ向かおうとしていた。
「それじゃあ、おれはブレディア様にお供えしてきますね!」
「もう行くのか?」
ロイは台所から大きなボウルとコーラのペットボトルを抱えてきた。
ボウルには、白く弾けたポップコーンが山盛りになっている。
「ブレディア様のお好きなポップコーンとコーラも用意しました!」
「……ずいぶんと庶民的なお供えだな」
「一緒にゲームをするなら、こういったお供えが必要なんですよ!」
ロイは嬉しそうに笑い、両手いっぱいの荷物を抱えて自分の部屋へ向かった。
「あっ、そうだ!」
廊下の途中で振り返る。
「姉ちゃん、今日は夕方まで部屋から出てこないから!」
「は?待てロイ、試食はどうした?」
「あっ、そうでした!コータさん、卵焼きの試食をお願いします!」
「いや、作ったのはロイだろ?」
「だからこそ、コータさんに味を見てもらいたいんです!お願いします!」
「……分かったよ」
「ありがとうございます!それじゃ!」
ロイは満面の笑みで手を振ると、自分の部屋へ駆けていった。
駆けていく足音が、あっという間に遠ざかる。
玄関に残されたのは、鎧姿のリディアと俺の二人だけだった。
「…………」
「…………」
風が吹いて、庭の木が揺れた。
「……とりあえず、お茶にしますか」
「ああ。頼む」
居間のソファに並んで座ると、時計の針の音だけが聞こえた。
お茶を出して、向かい合う。いや、向かい合うほど距離がなかったので、斜めに座った。
「いい天気ですね」
「そうだな」
「…………」
「…………」
九日ぶりに来たときと同じ空気だ。だが、あのときとは違う。
俺は夕日の道で、ロイに本音を言ってしまった。リディアはリディアで、窓の下で父親との会話を聞いてしまっている。
二人とも、相手が何を知っているか知らない。
だから話しづらい。
「あの」
「あの」
声が重なった。
「お先にどうぞ」
「いや、コータが先に」
「……とりあえず、ロイくんの卵焼きを食べましょうか」
俺はテーブルに置いてあった皿を引き寄せた。
そこには、ロイが朝から作っておいた卵焼きが並んでいる。焼き色も形もきれいで、切り口からは出汁の香りが漂っていた。
「これがロイの作ったものか?」
「はい。最近は味付けも自分で工夫しているんですよ」
俺たちはそれぞれ一切れずつ箸でつまんだ。
「いただきます」
リディアが口に運ぶ。
「……うまい」
「でしょう?出汁の加減もよくなっています」
「ふわふわしているな。以前よりずっと上手くなった」
リディアはもう一切れ口に運び、嬉しそうに頷いた。
「弟がこんな料理を作れるようになるとはな」
「毎日頑張っていますからね」
「そうか……」
リディアは皿の上の卵焼きを見つめていたが、やがて俺に視線を戻した。
「フィーナから聞いた。毎朝、きれいに巻けているそうだな」
「はい。四回目にはもう巻けていました」
「…………」
リディアは湯のみを置いた。
「私にも、教えてくれないか?」
「卵焼きを、ですか?」
「弟に負けたままでは、姉として恥ずかしい」
真剣な顔だった。
俺は思わず笑いそうになった。
「分かりました。台所へ行きましょう」
エプロンを着けたリディアは、いつもより一回り小さく見えた。
鎧を脱いだからだろう。手には卵が一つ。握りしめる前の、危うい顔をしている。
「まず、卵を割ります」
「うむ」
「調理台に軽く当てて、ひびを入れます」
「うむ」
「力は、いりません」
バキッ。
殻と中身が、まとめて指の間から溢れ出た。
「…………」
「…………」
「……また、やった」
リディアは卵まみれの手を見つめて、肩を落とした。
「大丈夫です。誰でも最初は失敗しますから」
「私は何度目だと思っている」
「三度目くらいでしょうか」
「……五度目だ」
数えていたのか。
俺は新しい卵を渡して、少し考えた。
口で説明しても、リディアにはなかなか伝わらないかもしれない。
力の入れ具合というのは、体で覚えるものだ。
「ちょっと、手を貸してください」
「手?」
リディアの右手の上から、俺の手を重ねた。
硬い。剣だこが指の付け根にいくつもある。王都の夕暮れで、俺が見たことのある手だ。
「…………!」
リディアの肩がびくりと跳ねた。
「こ、コータ!」
「力を抜いてください。握らずに、卵を包むだけです」
「ち、近いぞ!」
「近くないと教えられません」
「そ、そうだが!」
顔が真っ赤になっている。きっと俺も同じだ。
二人で卵を調理台に軽く当てた。
コン。
ぱかり。
綺麗に割れた。黄身が崩れることもなく、とろりとボウルに落ちる。
「……割れた」
「割れましたね」
「割れたぞ!」
リディアの顔がぱっと輝いた。
子供のような笑顔だった。
俺は慌てて手を離した。
「あ、ええと、次は自分でどうぞ」
「う、うむ」
二つ目の卵は、リディア一人で割れた。三つ目も、四つ目も。
そのたびに俺を振り返って、「見たか!」と言うように目を輝かせる。
正直、すごく可愛かった。
焼き上がった卵焼きは、少し形が歪んでいた。
だが、ちゃんと巻けていた。
居間のテーブルに並べて、二人で向かい合う。
「いただきます」
「いただきます」
リディアは自分の作った卵焼きを、そっと口へ運んだ。
数秒の沈黙。
「……うまい」
「でしょう?」
「自分で作ったからか、余計にうまい」
リディアは目を細めて笑った。
頬が緩んで、目元まで幸せそうに下がっている。
俺は箸を止めて、その顔を見ていた。
「……何だ、コータ?」
「あ、いえ」
「顔に何かついているか?」
「ついていません。ただ、笑った顔が」
言いかけて、やめた。
リディアも箸を止めていた。
沈黙が落ちる。
今度の沈黙は、さっきまでとは違った。
逃げたくなるような静けさではない。続きを待つような静けさだった。
「……コータ」
「はい」
「聞きたいことがある」
「何でしょう?」
「あの、ビデオの……」
心臓が跳ねた。
「あの日、私は毒に当たっていた。何を言ったのか、全部は覚えていない」
「……はい」
「だが、お前が言ったことは覚えている」
真っ赤な顔のまま、リディアは俺をまっすぐ見た。
「あれは、その、本心か?」
俺は箸を置いた。
夕日の道で、ロイの前で言えたことだ。本人の前で言えないはずがない。
だが、言うなら全部を言いたかった。
気持ちだけを勢いで渡して、あとは知らないというのは違う気がした。
俺は息を吸った。
「リディアさん。あれは、本心です!」
リディアの息が止まった。
「大好きです。嘘じゃありません!」
「…………!」
「ただ、聞いてください。今はまだお付き合いや結婚は考えてません。リディアさんや、飢えた獅子のことだってありますし」
「……私や、飢えた獅子の」
「リディアさんはみんなを率いるリーダーです。冒険者として危険な依頼を受けることもあるし、魔物と戦うことだってある。仲間の命を預かる立場ですよね?」
「それは、そうだ」
「俺は料理番として一緒にいるだけで、みんなと同じように戦えるわけじゃありません。それに、リディアさんたちが危険な場所へ向かうとき、俺は送り出すことしかできない」
自分の気持ちだけを優先して、彼女の隣に立ちたいと言うのは簡単だ。
でも、リディアにはリディアの仕事がある。仲間たちと積み重ねてきた信頼も、冒険者として果たすべき責任もある。
「もし俺たちが付き合うことになったら、依頼の選び方や戦い方にも影響するかもしれません。俺のことを気にして、リディアさんが無理をしたり、逆に判断をためらったりするようなことがあったら困るんです」
「私はそんなことはしない!」
「分かっています。でも、リディアさんがそう思っていても、俺が心配してしまうかもしれない。仲間のみんなだって、気を使うようになるかもしれません」
「…………」
「俺は、リディアさんが冒険者として頑張っている姿も好きです。飢えた獅子のみんなと一緒にいる時間も大切にしたい。だから、今の関係を壊すようなことはしたくないんです」
「……そうか」
リディアは膝の上で手を握った。
「なので、今はまだ」
俺は一度息を吸い、彼女の目を見た。
「お付き合いの予約ってことじゃ、ダメでしょうか?」
沈黙が落ちた。
リディアは目を丸くしたまま、動かなかった。
予約。自分で言っておいて、変な言葉だと思う。だが、今の俺が出せる一番正直な答えだった。
「……あの時、窓を開けて、聞いていた」
リディアが小さく言った。
「父さんにお前が言ったことだ。幸せにします、と」
「……あ、やっぱり、聞こえていたんですね」
「あんなに大きな声で話していたら、聞こえるに決まっている!」
「そうでしたね」
「あのときも嬉しかった。今も、嬉しい」
リディアは両手で湯のみを包んで、うつむいた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
耳まで真っ赤だ。だが、目は逃げていなかった。
「予約、受け付けた!」
「ありがとうございます!」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「今度から、リディアさんではなく、リディアと呼んでくれ。それが条件だ!」
「…………」
「どうした?できないのか?」
「いえ。できます」
俺は背筋を伸ばした。
意外と、緊張する。
「はい、リディア。大好きです」
その瞬間だった。
リディアが立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出した。
あっと思う間もなかった。
唇に、温かいものが触れた。
短かった。ほんの一瞬だった。それなのに、時間が止まったように長く感じた。
離れたリディアは、顔中を真っ赤にして、胸を張った。
「予約料は、前払いだ!」
「…………」
「…………」
俺は動けなかった。
リディアも、自分でやっておいて動けなくなっていた。
二人とも顔を真っ赤にして、ただ見つめ合う。
居間の時計の針の音が、やけに大きく聞こえた。
そのとき、玄関から聞き慣れた声がした。
「こんにちはー!コータくん、いるー?」
俺は飛び上がった。
「は、はい!今行きます!」
足がふわふわする。壁に手をつきながら玄関へ向かい、扉を開けた。
フィーナとセレスティアとカイルが立っていた。
三人とも、いつもと変わらない顔だった。何も聞いていない顔だ。たぶん。
「今日は約束の日じゃないですよ?」
「えー?だってー、今日もリディア来てるじゃない!」
フィーナがにこにこと言った。
「宿の人が教えてくれたのよ?朝からコータくんの家に向かったって」
「リディアは別です。お帰りください」
即答した。
自分でも驚くほど自然に、その名前が口から出た。
「…………」
「…………」
フィーナとセレスティアが、同時に固まった。
「リディア!?」
「コータくんが、リディアのこと呼び捨てに……」
しまった。
俺は口を押さえた。後ろの居間から、がたん、と何かが倒れる音がした。
セレスティアが記録用紙を取り出した。
「……何があったか、聞こうじゃないの」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「カイル、扉を押さえて」
「……すまない、コータ」
カイルが静かに扉を押さえた。
「俺は何も聞いていないが、巻き込まれる予感がする」
「その予想、合ってると思います!」
廊下の奥から、ロイが顔を出した。
「あれ、皆さんいらっしゃい。あ、おれ、お茶淹れますね!」
「ロイくん!」
居間のテレビが、ひとりでに光った。
『あーっ!みなさん揃ってますねぇ?あたしも聞きますぅ!』
「ブレディアさんまで!」
『だってぇ、オトクくんが「リディア」って呼ぶ声が聞こえたんですものぉ。これは聞かなきゃ損ですぅ!』
「聞こえていたんですか!」
『ビデオ通話ですからぁ!』
居間の奥では、リディアが顔を両手で覆ってソファに沈んでいた。
「…………穴があったら入りたい」
俺の平穏なスローライフは、また遠くへ行ってしまったらしい。
次回予告
第三十話 お付き合いの予約を、飢えた獅子とブレディア様が夜通し尋問してきました
夕方になっても帰ってくれない三人と、一柱。
「さあ、座ってもらおうかな。最初から全部、聞かせてね」
「記録の準備はできているわ」
「……俺は聞き役に徹する」
『はいはーい!ポップコーンはここにありますぅ!』
――尋問は、夜通し続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
今回は、ロイの作戦でリディアが一人でコータの家を訪れ二人が「お付き合いの予約」をするお話でした。
鎧にリボンという組み合わせ、卵を握りつぶしてしまうリディア、手を重ねて教える卵の割り方。
そして、真剣な告白と前払いの予約料です。
そこへ何も知らずに現れた三人と、うっかり名前を呼び捨てにしてしまったコータ。
この先どうなるのかは、次回の尋問をお楽しみに。
十四歳の策士の働きも、実は大きかったようです。
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※ブレディア様へのお供え物は任意です。
……ポップコーンのお供えは、塩味とキャラメル味の両方が必要だそうです。




