第二十三話 弟の料理修行は、まず卵を割るところから始まりました
朝。
見慣れない天井だった。
一瞬どこだか分からなかったが、枕元に置かれた新聞を見て思い出した。
ここは陽だまり亭の客間だ。昨夜は二階の端にある部屋を借りた。
リディアの部屋とは廊下を挟んで反対側。
念のため、扉には鍵もかけておいた。
枕元には、いつもの分厚い朝刊が置いてある。
こんな遠い町まで律儀に届くらしい。
いったいどういう流通経路を使っているのか、一度聞いてみたいものだ。
俺は寝ぼけ眼で新聞を広げ、どうせいつものどうでもいい内容の記事なのだろうが、一面に目を通した。
『宿屋の娘 恋人を実家に連れてくる』
「…………」
もう一度見る。
『報道によると誤報の可能性もあるが たぶん恋人だろう』
「……あ、これ、どうでもよくないやつだわ」
それにしても、この記事、責任感がゼロだ。
誤報の可能性があるなら載せるな。たぶんで書くな。せめて裏を取ってから記事にしてほしい。
王都の鳩がパンを奪ったという記事のほうが、まだ平和だった。
俺は新聞を閉じて深呼吸し、折り込みチラシの束をめくった。気持ちを切り替えよう。
【スーパー・マル得 たまご祭り大特売!】
━━━━━━━━━━━━━━
卵10個入りパック 150円
白だし500ml 298円
卵焼き器 1,280円
辛子明太子切れ子100g 398円
大根一本 198円
スライスチーズ7枚入り 258円
━━━━━━━━━━━━━━
「……来た」
卵の特売だった。
しかも明太子に大根、チーズまで揃っている。
卵焼きの具材としても申し分ない。
ロイの料理修行にぴったりだ。
まずは基本の卵焼きから始めて、慣れてきたら具材を加えてみよう。
卵料理は単純に見えて、火加減や巻くタイミングで仕上がりが大きく変わる。
最初に覚える料理としては、ちょうどいいはずだ。
俺は必要なものを購入し、専用冷蔵庫から取り出した。
そのとき、荷物の底で携帯ゲーム機が小さく震えた。
『オトクくぅん……朝ごはんはぁ……???』
「毎朝その挨拶ですね」
昨日のうちに買っておいたおにぎりを五つ、ゲーム機の画面の前に置く。
淡い光に包まれ、あっという間に消えた。
『……ツナマヨぉ……!』
幸せそうな声が頭に響く。
これで少しは静かにしてくれるだろう。
俺はゲーム機を荷物に戻し、部屋を出た。
階段を降りて食堂へ入ると、不思議な光景が広がっていた。
テーブルには朝食が並んでいる。
焼きたてらしいパンと、湯気の立つ豆のスープ。
いつでも食べられるように準備されているのに、肝心の家族の姿が見当たらない。
いや、いた。
家族全員が壁際の小さな棚の前に膝をついていた。
父のガイゼル。母のマリエ。弟のロイ。妹のミーナ。
そしてリディアまで、同じように手を組んでいる。
棚の上には、素朴な木彫りの女神像があった。
金色の長い髪に、慈愛に満ちた微笑み。
両手にはパンの籠を抱えている。
……大神殿にある像と同じくらい美化されていた。
「豊穣と食文化の女神ブレディア様」
ガイゼルの低い声が食堂に響く。
「今日の糧に感謝を捧げます。どうか今日も、お客様が笑顔で食事を楽しめますように」
「「「「感謝を捧げます」」」」
家族の声が揃った。
誰も茶化さない。誰も急かさない。毎朝繰り返してきた、静かで丁寧な祈りだった。
そのとき。
『オトクくぅん……おにぎり……おかわりぃ……』
頭の中に声が響いた。
俺は無言で壁にもたれた。
目の前では一家全員が真剣に祈りを捧げている。その祈りを一身に受けている女神様は、今まさに明太子おにぎりを平らげて六つ目を要求していた。
『まだ足りませぇん……梅も食べたいですぅ……』
「……」
俺は何も聞こえなかったことにした。
「おや。コータくん。起きていたのか」
祈りを終えたガイゼルが振り返って笑う。
「ブレディア様に毎朝祈るのが我が家の決まりでね。君も一緒にどうだい」
「あ、はい。ぜひ」
俺は棚の前に進み、家族に倣って両手を合わせた。
目を閉じ、心の中で伝える。
祈りの最中にご飯をねだらないでください。
『えー? だってぇ』
だってじゃない。
朝食は硬いパンと豆のスープだった。
パンをちぎってスープに浸し、一口食べる。
「……おいしいです」
「ほ、本当ですか?」
向かいに座っていたロイが、身を乗り出した。
「ハーブを少し足してみたんです。それと、豆を煮る前に一度炒めてみて」
「それで香ばしさが出てるんですね」
「分かりますか!」
ロイの目がきらきらと輝く。
この子は本当に独学でここまで来たのだと分かる。豆を炒めて香りを引き出すという工夫も、ハーブの使い方も、ただ思いつきで試したわけではないのだろう。
限られた材料の中で、少しでもおいしくしようと考えた跡が見える。
「いい出発点ですよ」
「えへへ」
少年は照れて頭をかいた。
その笑い方は、どこかリディアに似ていた。
朝食を終えると、俺たちは陽だまり亭の厨房を借りることにした。
調理台に並べたのは、卵十個入りのパックが三つ。
白だし。大根。明太子。チーズ。そして新品の卵焼き器。
「卵が、こんなに」
ロイが絶句している。
「一個でも貴重なのに。十個入りって……」
「俺には伝手がありまして」
「また伝手ですか」
「はい」
便利な言葉だ。
「今日作るのは卵焼きです。卵と出汁だけで作れる基本の料理ですが、意外と腕の差が出ます」
「はい!先生!」
「先生はやめてください」
「教えてくれるのだから先生じゃないか?」
横から声がした。
振り返ると、エプロンを着けたリディアが腕まくりをして立っていた。
「リディアさんも習うんですか?」
「ああ。私も習う。いつか役に立つかもしれないからな」
「姉ちゃん、卵握りつぶすじゃん」
「握りつぶさない!」
「前に握りつぶした」
「あれは昔の話だ!」
最近の話だった。
俺は何も言わずに卵を一つ手に取った。
「まず卵を割ります。調理台の平らなところに軽くコンと当てて、できたひびに親指を入れて開くんです」
コン。
ぱかり。
殻の中から黄身と白身が、とろりとボウルに落ちる。
「おおお」
「やってみてください」
ロイが卵を持つ。両手で包み込むように持ち、慎重に調理台へ当てた。
コン。
割れない。
もう一度。
コン、コン。
「割れない……!」
「力は入れすぎなくていいんですよ。軽く当てるだけで大丈夫です」
三回目でようやくひびが入った。
ロイは慎重に親指を入れ、殻を左右に開こうとする。
ぐしゃっ。
殻ごと卵がボウルに落ちた。
「あっ」
「大丈夫です。殻は取れますから」
「ご、ごめんなさい!!」
「最初はみんなそうです。焦らずやっていきましょう」
一方でリディアは。
「割る。割るだけだ。落ち着け」
卵を両手で握りしめ、深く息を吸っていた。
「リディアさん。そんなに力まなくていいですよ」
バキッ。
殻と黄身と白身がまとめて指の間から溢れ出た。
「…………」
「…………」
「ほら」
「……不可抗力だ」
妹のミーナが厨房の入口から顔を出して爆笑していた。
「お姉ちゃん、まだ握ってる!」
「ミーナ!」
厨房に笑い声が響いた。
そこからが本番だった。
割った卵に白だしと少しの水を混ぜる。
泡立てないように、箸で白身を切るように溶いていく。
卵焼き器を火にかけ、温まったところで油を薄く引く。
「卵液は三回に分けて流し込みます。最初の一回目を焼いて、表面が半熟のうちに奥から手前へ巻く。巻いたものを奥へ戻して、また卵液を流し込むんです」
「む……難しそうです」
「見ていてください」
卵液を流し込む。
じゅわっ。
熱せられた卵焼き器の上で、卵液が薄く広がった。
端から少しずつ固まり始め、表面が半熟になったところで、箸を使ってそっと手前へ巻いていく。
くるり。
「おお」
二回目。三回目。
巻いた卵を奥へ戻し、空いた部分に油を薄く引いてから、残りの卵液を流し込む。
先に焼いた卵の下にも卵液を行き渡らせ、固まり始めたところで再び巻く。
同じ作業を繰り返すうちに、黄金色の卵焼きが少しずつ分厚くなっていった。
最後に形を整え、皿へ移す。
包丁を入れると、断面からふわりと湯気が上がった。
「どうぞ」
ロイが震える手で一切れを口に入れる。
「…………」
動きが止まった。
「……ふわふわだ」
「出汁の味が染みているでしょう」
「甘くないのに、おいしい。卵ってこんな味がするんですね」
言葉の途中で、声がかすれた。
普段食べている卵料理とは違う味だったのだろう。
出汁の旨味を吸った卵が、口の中で柔らかくほどけていく。
「次はロイくんの番です」
「はい!」
ロイは卵焼き器の前に立ち、慎重に卵液を流し込んだ。
最初の一枚目。
巻こうとして、ぐしゃりと崩れた。
「ああっ」
「大丈夫。少し焼きすぎです。もう少し早めに巻いてみましょう」
二枚目。
今度は固まる前に巻いてしまい、崩れてしまった。
三枚目。
形はそれらしくなったが、今度は火が強すぎて焦げてしまった。
「…………」
ロイが唇を噛んだ。
「ロイくん」
「はい」
「失敗した卵焼きは、ミーナちゃんがおいしく食べてくれます」
「おいしい!」
いつの間にか調理台の脇に陣取った妹が、崩れた卵焼きを頬張っていた。
「ぜんぜんおいしいよ?ふわふわ!」
「ミーナ……」
ロイは小さく笑い、卵焼き器を握り直した。
四枚目。
卵液を流す。表面が固まりかけた一瞬を見極めて巻く。奥へ戻す。もう一度、卵液を流し込む。
慎重に。慎重に。
くるり。
「…………できた」
目の前には少し歪んではいるが、綺麗に巻かれた黄金色の卵焼きがあった。
包丁を入れると、断面には細かな層が見える。
「できてる!先生、できてます!」
「できてますね」
ロイは卵焼きを見つめたまま動かなかった。
その目から、涙がぽろりとこぼれた。
「うわ、ちょっと、泣かないでください」
「すみません……うれしくて……」
慌てて袖で目をこする。
厨房の入口では、ガイゼルとマリエがいつの間にか並んで見ていた。
二人とも何も言わない。ただ、マリエが目元を押さえ、ガイゼルがその肩にそっと手を置いている。
ロイがどれだけ料理を覚えたがっていたのか。二人もよく知っているのだろう。
「さて」
俺は手を叩いた。
「ここからはご褒美です。基本ができたので、変わり種にも挑戦しましょう」
「変わり種?」
「中に具材を入れたり、上に何かを載せたりして、いろんな味を楽しむんです」
まずは明太子。
薄皮を取り除いて細長く伸ばし、卵液を流して巻く途中で芯のように置く。そのままくるりと巻けば、断面にピンク色の明太子が顔を出す。
次は大根おろし。
大根をすりおろして水気を軽く切り、出来上がった卵焼きの横にこんもりと添える。醤油を数滴垂らせば完成だ。
最後はチーズ。
スライスチーズを二つに折り、同じように卵で巻き込む。
包丁を入れると、中からとろりとチーズが溶け出した。
「うわあ」
「何これ!」
ミーナが飛びついた。
「チーズが伸びる!」
「あつっ!あつい!でもおいしい!」
「慌てなくていいですから」
俺が笑っていると、背後から強い視線を感じた。
振り返ると、リディアが調理台の前で卵焼きの皿をじっと見つめている。
「……リディアさん」
「食べていいか?」
「どうぞ」
リディアは明太子入りを一つ取って口に入れた。
「…………!」
目が大きく見開かれる。
「ぴりっとして……塩気があって……卵と……!」
続いてチーズ入り。
「とろけて……ふわふわで……!」
最後に大根おろしを添えた卵焼きを食べて、静かに目を閉じた。
「……さっぱりして、うまい」
三種類すべてを食べ終えたあと、真顔で言った。
「全部おかわりだ!」
「全部ですか?」
「全部だ!!」
「姉ちゃん、おれの分は??」
「作れ」
「えええ!!」
ロイが慌てて卵焼き器を握った。
そのときだった。
調理台の脇に置いた俺の荷物から、ぽわっと光が漏れた。
「あ…………」
嫌な予感がした。
ゲーム機だ。
荷物の口からのぞいた画面が、勝手に点灯している。
『オトクくぅん!!!卵焼きのいい匂いがしますぅぅぅ!!!』
「待ってください。今は……」
遅かった。
画面いっぱいにブレディアの顔が映った。
口元にはご飯粒がついている。
厨房が静まり返った。
ガイゼルが固まっている。
マリエが固まっている。
ロイもミーナも固まっている。
そして次の瞬間。
「ぶ、ブレディア様ぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
ガイゼルが床に額を打ちつけた。
「ブレディア様!?」
「本物!?」
マリエとミーナがそれに続いて崩れ落ちる。
ロイは卵焼き器を握ったまま直立不動でぶるぶる震えていたが、すぐに膝をついた。
「お、おれ、毎日祈ってました……!」
「ブレディア様の御前だぞ」
リディアまで深々と頭を下げている。
一家全員が厨房の床にひれ伏した。
俺は卵焼きの皿を持ったまま立ち尽くしていた。
画面の中でブレディアが目をぱちくりさせる。
『あれ?えっと……あ、どうもぉ……あたし、豊穣と食文化の女神ブレディアでぇす……』
急に取り繕った。
『いつも祈りをありがとうございますぅ。陽だまり亭のみなさんの朝のお祈りは、いつもしっかり届いていますよぉ』
「ははーっ!!」
一家全員が声を揃えた。
『さてぇ!ところでぇ!』
女神様は急に目を輝かせた。
『さっきからずっと、いい匂いがするんですけどぉ!卵焼き!明太子!チーズ!全種類の卵焼きを要求しまぁす!!』
「…………」
厨房がしんと静まり返った。
床にひれ伏したままの一家が、おそるおそる顔を上げて俺を見る。
「コータ殿……」
ガイゼルが震える声で言った。
「ブレディア様が、お召し上がりになりたいと」
「はい。そうみたいですね」
「急いで!早く!」
「ロイ!卵焼き器を!」
「は、はいぃぃぃ!!!」
父と母と弟が一斉に動き出す。
ミーナは泣きながら皿を並べ、リディアは静かに卵焼きを切り分けている。
俺は小さくため息をついて、できたての卵焼きを画面の前に置いた。
「……どうぞ、お供えです」
卵焼きが淡い光に包まれて消える。
『うんまぁぁぁぁぁい!!!明太子ぉぉぉ!!チーズぅぅぅ!!!おにぎりも、ついでにおかわりぃぃぃ!!!』
女神の威厳は今日も絶好調で消え去っていた。
だがしかし、一家が感激のあまり泣いているのを見て俺は遠い目で天井を見上げた。
この人たちの信仰心が壊れる日は、来ないらしい。
次回予告
第二十四話 陽だまり亭の一家が、コータに驚きのお願いをしてきました
女神の乱入騒動が落ち着いた陽だまり亭の厨房。
「コータ殿。折り入って頼みがある」
ガイゼルの真剣な顔に、コータは思わず身構える。
――料理教室は、まだ終わらない。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
今回は、ロイの料理修行が始まるお話でした。
朝刊の無責任な見出しに始まり、一家の朝の祈りとブレディア様の温度差。そして、卵を割るだけで大騒ぎの料理教室。リディアが卵を握りつぶすのは、もはやお約束ですね。
最初は失敗続きだったロイも、何度も挑戦して自分の卵焼きを完成させることができました。
料理の楽しさを知る、いい一歩になったと思います。
最後はブレディア様の乱入で、一家全員がひれ伏すオチでした。
ブレディア様の信徒たちは信仰心が篤すぎて毎回コータだけ置いていかれています。
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※ブレディア様へのお供え物は任意です。
……明太子入りの卵焼きは、特に喜ばれるそうです。




