第十九話 最初の家畜は、荷馬車いっぱいの雛鳥でした
水路の復旧が終わったのは十二日後の昼だった。
最後の石を積んだのはカイルと俺だ。
上流の取水口に腰まで水に浸かって組み上げた石垣は、なかなか見事な出来だった。
「いくぞ」
ホルスの合図で堰板が上がる。
ごぼり。
最初は泥混じりの細い流れだった。
それが見る間に太くなり、水路を駆け下りていく。
村の人たちはその後ろを走った。子供も老人も全員が走った。
水が流れてくるのを、誰もが自分の目で確かめたかったのだ。
水の先頭が畑の端に届いたとき、誰かが声を上げた。それがすぐに歓声へと変わった。
ひび割れた土が黒く染まっていく。
乾ききった地面が水を吸い込む音は、思っていたよりずっと大きかった。
「……水だ」
ホルスは水路の縁に膝をついたまま動かなかった。肩が小さく揺れている。
水は、彼の目の前を流れていく。
十二日間、村人たちが力を合わせて直した水路を通り、ずっと待ち望んでいた畑へと向かっていく。
誰も声をかけなかった。
今はただ、この光景を見守るのが一番いい。俺にはそう思えた。
翌朝。
山道の向こうから荷馬車が上ってきた。一台や二台ではない。五台だ。先頭の御者台にはガルドが座り、後ろにはフレイヤの馬車も続いている。
「約束の品だ。王都近郊の牧場から雛を百羽。それに麦と豆の種と藁もある」
ガルドが御者台から飛び降りた。
荷台には木箱がずらりと積まれている。蓋の隙間から、ぴよぴよと小さな声が漏れていた。
箱の数を見ただけでも、かなりの数が運ばれてきたことが分かる。
百羽分の鳴き声が村の朝に響き渡る。
家の陰から顔を出した子供たちの目が、少しずつ丸くなっていった。
「……なに、あれ」
少女が木箱をのぞき込み、不思議そうに首をかしげた。
「ひよこだ」
黄色い小さな体が、箱の中でもぞもぞと動いている。よちよちと歩き回るたびに、か細い鳴き声が重なった。
少女は目を丸くしたまま、隣に立つ弟の袖を引っ張った。
「ねえ、見て。ひよこだよ」
弟もおそるおそる箱の中をのぞき込む。小さな命が動くたびに、その視線が追いかけていた。
「世話をする係が必要だろう」
ガルドが子供たちを見回した。
「毎日の餌と水、それに小屋の掃除だ。大人は畑と水路で手が足りん。子供たちに任せたい。どうだ」
突然の申し出に、子供たちは顔を見合わせた。
「ぼくたちが?」
「そうだ。毎日きちんと世話をするんだ。できるか?」
ガルドが尋ねると、何人かの子供がうなずいた。けれど、すぐに返事をする子ばかりではない。箱の中で動くひよこを見つめながら、どうしたらいいのかわからない様子で立ち尽くしている子もいた。
「でも、あんな小さな命を……」
ホルスが言いかけて口をつぐんだ。
畑も家畜も失い、食べるものさえなくなった村だ。
子供たちに新しい仕事を任せることが、本当にできるのか。そんな不安が表情ににじんでいた。
「だからこそ、だ」
ガルドは箱の中のひよこに目を落とした。
「この子たちは、村の未来になる。大人だけでなく、村のみんなで育てていけばいい」
その言葉に、ホルスは黙ってうなずいた。
子供たちは、もう一度ひよこたちに目を向けた。
最初に動いたのは、先ほど弟の袖を引っ張っていた少女だった。
彼女は箱のそばにしゃがみ込み、指先を伸ばしかけて、触れていいものか迷うように手を止めた。
「……さわってもいい?」
「驚かせないようにな」
ガルドが答えると、少女はそっと手を引っ込めた。
弟も隣にしゃがみ込む。
ほかの子供たちも、少しずつ箱の周りに集まってきた。
さっきまで遠巻きに眺めていた子供たちの目に、いつしか好奇心と期待が浮かんでいた。
まだ小さな命だ。自分たちの手で守り、育てていかなければならない。
そのことを、子供たちは少しずつ理解し始めているようだった。
「大丈夫ですよ」
俺はホルスに言った。
「毎日続けられる人が要ります。あの目なら続きます」
箱の中から聞こえる鳴き声に、子供たちはすっかり夢中だった。
怖がっているというより、どう触れればいいのか分からない。そんな様子だ。
ホルスはしばらく黙ってから、小さくうなずいた。
鶏小屋は三棟とも掃除が済んでいた。
柵は直り、床には新しい藁が敷かれている。
水桶もホルスたちが修理して、井戸の水がたっぷり入っていた。
「箱ごと小屋の中へ運んでください」
俺は集まった全員に声をかけた。
「蓋を開けるのは小屋の中でです。外で開けると逃げますから」
「任せろ!」
リディアが真っ先に木箱を持ち上げた。
大剣を軽々と振り回す腕が、今日はやけに慎重に動く。
箱を胸の前で抱え、一歩一歩を確かめるように歩いていた。
「リディアさん。そんなに緊張しなくても」
「動くな。揺れるな。中で何かが動いているんだ」
「ひよこです」
「分かっている。だから怖いんだ」
以前、卵を握りつぶしてしまったことがある。その記憶がよみがえっているのか、リディアの顔は大剣を構えるときよりも真剣だった。
俺は笑いをこらえながら、木箱を持つ彼女の後ろについていった。
そのとき、先ほどのきょうだいの弟のほうが箱の蓋にそっと手をかけているのに気づいた。
「あっ、まだ開けちゃ――」
遅かった。
「ちょっとだけ見るだけ」
ぽん。
蓋が外れ、黄色い小さな体が箱の縁から次々と飛び出した。
一羽。二羽。三羽。四羽。
箱から溢れ出た雛たちが、地面にぽとぽとと落ちて一斉に走り出す。
「「「「ぴよぴよぴよぴよ!」」」」
「うわあああ!」
「にげた!にげたー!」
子供たちの悲鳴が上がった。
小さな体のどこにそんな力があるのか。雛たちは村の広場を縦横無尽に駆け回った。
「カイルさん!出口を塞いでください!」
「了解だ!」
カイルが大盾を地面に突き立てた。その壁に追い詰められた二羽が、盾の下をするりと抜けていく。
「なっ……!」
「盾の下は隙間があるんですよ!」
「そこは盾の設計思想の問題だ!」
本人も何を言っているのか分かっていないらしい。
フィーナが弓を背負ったまま地面に滑り込んだ。
「矢は使えないから素手で捕まえるよ!」
「当たり前です!」
「《氷鎖》は……だめよね」
杖を構えかけたセレスティアが首を振った。
「凍らせたら雛が死んでしまうわ。観察は後にして捕獲に専念しましょう」
「記録用紙を置いてください!」
「置いたわ!」
珍しく素直だった。
逃げ出した雛はまだ数羽。残りの箱は小屋の中へ運び込まれていたが、騒ぎを聞きつけて集まった子供たちが、次々に箱をのぞき込んでいる。
俺はそちらを気にしながら、まず広場を走り回る雛を捕まえることにした。
広場の端では、ガルドが太い腕を広げて雛を追い詰めていた。
「こら、待たんか。わしは本部長だぞ」
雛に肩書きは通じない。
一羽が老人の肩を駆け上がり、そのまま白い髭の中に潜り込んだ。
「む……!」
「本部長。髭に一羽います」
「動かすな。今、動かせば逃げる」
「逃げた雛をもう一度追いかけるのは楽でしょう」
「そういう問題ではない!」
その横を、フレイヤが静かに歩いていた。
いつの間にか籠を手に持ち、落ち着いた足取りで雛の進路に先回りしていく。
「こちらです」
一羽。また一羽。
籠の中へ雛たちが勝手に入っていった。
「どうしてあんなに簡単に……」
「女官の嗜みです」
理由になっていない。だが成果は圧倒的だった。
子供たちも負けていなかった。
少女が低い姿勢で雛の背後に回り込み、両手でそっと包み込む。さっきまで立っているのもつらそうだった子が、今は必死に走っていた。
「つかまえた!」
「ぼくも!ぼくもつかまえた!」
「おばあちゃん、そっち!」
老婆まで腰をかがめて雛を追っている。村の人たちの笑い声が広場にあふれた。
そしてリディアは。
「動くな。動くなよ」
両手を前に突き出した姿勢で、石像のように固まっていた。
髪の上で何かがもぞもぞと動いている。
「リディアさん」
「何も言うな。頭に乗った。確実に乗っている」
「ひよこですね」
「首を回せない。この状態で息をしていいのか」
金色の髪の中で、黄色い雛が丸くなっていた。
俺は両手を広げ、そっと近づいて雛をすくい上げた。
「はい。取れました」
「…………助かった」
リディアは全身の力が抜けたように、その場へへたり込んだ。
ようやく、広場を走り回っていた雛たちをすべて捕まえ、残りの箱も小屋の中で開け終えた。
数え直すと九十九羽。
「一羽足りない」
「どこだ」
広場の隅から隅までを全員で探した。井戸の陰。荷馬車の下。畑の溝。
見つけたのは先ほどひよこの箱を開けてしまった弟だった。
「いた」
少年が指さした先には、リディアの大剣があった。鍔の上で黄色い雛がぐっすり眠っている。
「…………」
「…………」
「……私の剣は、寝床ではない」
そう言いながらも、リディアは雛を起こさないように大剣を静かに抱え上げた。そのまま小屋まで運んで、そっと藁の上へ降ろす。
百羽。
全員が揃った小屋の中で、雛たちは身を寄せ合ってぴよぴよと鳴いた。
村の鶏小屋に、一年ぶりの声が戻った。
ホルスは小屋の入口に立ったまま、じっと中を眺めていた。
「……聞こえるな」
「聞こえます」
「小せえ声だが」
「大きくなりますよ」
ホルスは何も言わず、ただ深くうなずいた。
日が傾き始めた。
俺は小屋の裏に回って専用冷蔵庫を展開した。リディアとカイルが村人の視線を遮り、フィーナとセレスティアが周囲に目を配る。もう阿吽の呼吸だ。
今朝のチラシは王都の宿で目を通してある。
【スーパー・マル得あったか鍋フェア大特売!】
━━━━━━━━━━━━━━
豚バラ薄切り100g128円
白菜四分の一カット98円
長ねぎ三本入り128円
木綿豆腐三個パック98円
えのき茸100g58円
しいたけ一パック158円
鍋つゆ味噌味258円
鍋つゆ塩味258円
鍋つゆ醤油味258円
鍋つゆキムチ味278円
冷凍うどん五食入り198円
━━━━━━━━━━━━━━
寄せ鍋の特集だった。
村の人数は七十五人。
それに視察組と俺たちを合わせれば八十人は超える。
それでも全部まとめて買って、この世界の卵一個の十分の一にもならない。
俺は迷わず購入した。
「ホルスさん。大鍋は残っていますか」
「祭りで使ってたのが四つある。もう何年も出してねえが」
「それを広場に出してください。今夜は雛鳥が来たお祝いです」
「施しはもうしねえんじゃなかったのか」
「施しではありません。お祝いは別腹です」
ホルスは少し困った顔をしたが、やがて小さく笑った。
「……分かった。祭りだな」
広場に四つの大鍋が並んだ。
一つ目は味噌。二つ目は塩。三つ目は醤油。四つ目は真っ赤なキムチ。
豚バラと白菜とねぎ。豆腐にきのこ。具材を次々に鍋へ放り込んでいくと、湯気が広場いっぱいに立ちのぼった。
「……何だ、この匂いは」
「腹が鳴る」
村の人たちが少しずつ集まってくる。もう誰も遠巻きに眺めたりしなかった。
鍋から立ちのぼる湯気と、食欲をそそる匂い。子供たちは待ちきれない様子で鍋を見つめ、大人たちも自然とその周りに集まってきた。
ガルドは広場の端の岩に腰を下ろし、その様子を見ていた。
「その食材は、どこで仕入れたのかね」
「伝手がありまして」
「そうか」
ガルドはそれ以上聞かなかった。
「うまい飯の出どころを詮索するほど、わしも野暮ではない」
助かる。本当に助かる。
俺は荷物からブレディアの肖像画が入った写真立てを取り出した。周囲に誰もいないことを確かめてから、広場の隅にある平らな岩の上にそっと置く。
写真立ての前に、味噌鍋を少しよそった小さな鉢を供えた。
「……こっそり、ですからね」
頭の中に声が響いた。
『あたし、ここにいていいんでしょうか?豊穣の女神なのに、何もできなかったんですよ…………』
「ブレディアさんも、この村の鍋のお客様です」
鉢が淡い光に包まれ、静かに消えた。
少し離れた席で、フレイヤが一瞬だけこちらを見た。
何かを見たはずなのに、何食わぬ顔で視線を鍋へ戻す。口元が小さく緩んでいた。
『……あったかい』
頭の中で、小さな声がそう言った。
『みんなで同じものを食べるのって、いいですね』
「そうでしょう」
『卵、早く産まないかなぁ』
「結局そこですか」
『ち、違いますよぉ!?』
いつもの声に戻っていた。
鍋はまず子供たちに配った。
少女は椀を両手で抱え、白菜をひと口かじった。
「……あったかい」
「だろう」
「おいしい」
「それはよかった」
弟は豚バラを頬張ったまま、何も言えずに涙をこぼしている。
少女は弟の顔を見てから、自分の椀に視線を落とした。
温かい鍋を口に運ぶ。そのたびに、こわばっていた表情が少しずつほどけていった。
村の人たちにも一杯ずつ行き渡った。誰も急いで食べなかった。
何度も椀の中を見つめて、ゆっくりと口へ運んでいた。
明日からも、畑仕事や水路の整備は続く。
村が元の暮らしを取り戻すまでには、まだ長い時間が必要だ。
けれど今夜だけは、先の心配を少し脇に置いて、温かい食事を楽しんでもいいはずだった。
俺は少しだけ離れて、その様子を眺めた。
すると、突然雰囲気をぶち壊すような叫び声が聞こえた。
「コータ!これは何だ!」
キムチ鍋の前でリディアが涙目になっていた。
「辛い!辛いぞ!しかしうまい!うまいが辛い!うまい!」
「どっちですか」
「両方だ!」
箸の代わりにスプーンで白菜をすくいながら、汗だくで二杯目をよそっている。
「塩鍋はしみる」
カイルは静かに言った。
「醤油鍋って、少し甘いのね。醤油ってコータくんと出会ってはじめて知ったけれど、豚バラとの相性がいいわね」
フィーナは両手で椀を包んでいる。
「そうね、味噌もコータと出会って初めて知った調味料だけれど、味噌と豚バラの組み合わせは必然ね。コクと脂の関係を後で詳しく記録したいのだけれど、先に食べるわ」
セレスティアは珍しく筆を置いていた。
フレイヤは味噌鍋を丁寧に食べながら、遠くを見るような目をしていた。ガルドは四つの鍋を順番に食べ比べて、四つ目で「うまい!」と叫んだ。
最後に冷凍うどんを鍋に入れる。
味噌のうどん。塩のうどん。醤油のうどん。キムチのうどん。
「これは何だ」
「〆です」
「しめ」
「鍋の最後に入れるんです。出汁が全部溶け込んでいるので」
「……いくらでも入るな」
リディアが三杯目に突入した。
誰かが笑った。誰かがそれにつられて笑った。やがて広場全体が、久しぶりの笑い声で満たされた。
一人の老婆が椀を抱えたまま泣いていた。
「ああ、おいしいねえ。おいしいねえ」
何度もそう繰り返す声が、夜空に溶けていく。
ホルスが椀を持ち上げた。
「今夜は、鶏の声が聞こえる」
小屋の中から、ぴよぴよと小さな鳴き声が応えた。
「牛の声は、まだ先だ。だが必ず戻ってくる」
「はい。豚も牛も、いずれ必ず」
村人たちが椀を掲げた。
焚き火の火が星空へ昇っていく。
翌朝、俺たちは馬車に乗り込んだ。
ガルドとフレイヤは、昨夜のうちに次の手配を進めるため王都へ戻っていた。
次の準備はもう始まっている。豚の手配に農政院との交渉。ここから先はあの二人の仕事だ。
村の入口には全員が見送りに出ていた。
子供たちの手には、藁で編んだ小さな鳥の飾りが握られている。
「これ、あげる」
少女が俺に飾りを差し出した。
「へたくそだけど」
「ありがとう。大事にする」
少女は少しだけ得意そうな顔をして、それから真剣な目で言った。
「また、へたくそ見に来て」
「上手になってるか見に来るよ」
「……うん」
馬車が動き出した。
ホルスが門の前で深く頭を下げている。その後ろでは村の人たちが手を振っていた。
小さな子供たちが、荷台の後ろを追いかけて走る。
「コータ」
隣に座ったリディアが小さく言った。
「はい」
「いい村になるな」
「そうですね」
振り返ると、小屋の脇に積み木の塔が高く積み上がっていた。
こうして、モウ村での日々は終わった。
そして俺は、まだ知らなかった。
あの穏やかな帰り道が、俺のスローライフでいちばん静かな時間だったということを。
次回予告
第二十話 緊急事態だと、飢えた獅子が家に駆け込んできました
モウ村の件から数日。穏やかな午後の静けさは、乱暴に叩かれた玄関の音で破られた。
「コータ!緊急事態だ!」
顔色を失った仲間たち。その腕に抱えられたリディアは、ぐったりとして動かない。
「……食べてしまったんだ」
「食べた?何をです?」
「毒だ」
――料理番の家に、かつてない危機が訪れる。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
今回は、モウ村編の最終話でした。水路が直り、雛鳥が届き、村に久しぶりの笑い声が戻りました。
脱走する雛たちに振り回される飢えた獅子の面々。大剣を持つリディアも、小さな雛の前では形無しでした。
そして最後は、みんなで囲む四種類のお鍋。ブレディア様もこっそり参加です。
モウ村の物語はここでひと区切り。次回からはいつもの賑やかな日常に戻ります。
……戻る、はずなのですが。
よろしければブックマークや評価、感想などで応援していただけるとうれしいです!
※ブレディア様へのお供え物は任意です。
……〆のうどんまでが鍋の一式だそうです。




